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その唇からはいつもシトラス系の香りがした。
薄い皮膚まで滑らかで、微かに溢れる吐息までが甘やかで。
伏せられた瞳の、深い藍色を思い描きながら、私はそっと自らの唇を寄せる。冷たくなった彼の、その身体と心に命を吹き込むかのように。けれど、決して自分の秘めたる思いは吹き込まぬように。
重ねた唇を何度も喰みながら、この時間が永遠に続けばいいのにと不埒な思いに身を焦がす。そこに彼自身の熱量が戻ってくるのを残念に思いながら、惜しむように唇を離す。
青白く苦しげだった彼の頬が緩み、閉じられた瞳がうっすらと開き。
「……ユーファ」
色の戻った唇が紡ぐのは、本来なら決して呼ぶことなどあり得ぬ私の名。
けれどそれが、今このときだけのことだと知っている私は、微笑み返すこともできず。名残惜しさを微塵も感じさせぬように、彼から距離をとる。やがて意識のはっきりした彼から繰り出されるであろう、冷たい眼差しと沈黙から逃れるために、振り返ることもなく、そっと部屋を後にする。
「終わりましたか」
「カイエン様」
殿下の居室の外、使用人たちが詰める控え部屋にいたのは、カーティス王太子殿下のご学友、カイエン・バルト様だった。王立学院在学中ながら、国王陛下の執務の手伝いもされている王太子殿下の右腕的存在。バルト家は伯爵家で、彼自身は分家の出身でありながら、その優秀さから本家に養子に入ったと聞いている。バルト伯爵ご自身は王妃宮で筆頭事務官を務める高官であり、その縁から王太子殿下の側近に推薦され、学院でも行動をともにされている方だ。
末端の落ちぶれた子爵家の私からすれば十分に雲の上の人。私はすぐさま礼をとった。
「恙なく業務を終了いたしました」
「ご苦労様です。カーティス殿下の意識は?」
「うっすらと戻りかけておられます。いつもの通り、最後までお側にはおらぬ方がよいかと思い、退室いたしました」
「結構な心がけです。殿下もそれを強くお望みですからね」
そしてバルト様は殿下の居室に入るべく、その扉をノックしようとした。が、その直前、私の方を再度振り返り、眼鏡の位置を正しながら告げた。
「言うまでもありませんが、次期王太子殿下に対し、不埒な思いなど抱かぬよう。本来ならあなたなど、殿下に声をかけていただくことすら叶わぬ身。あなたは、その能力の無さだけを王家に買われ、高貴なるカーティス殿下の側にいることを許されているのです。ゆめゆめはき違えることなどないよう、心に刻みなさい」
「しかと心に銘じております」
王太子宮の豪奢な廊下の片隅で繰り広げられるのは、もう幾度も告げられ、返す会話。一見冷たく響くこの言葉は、私自身の立ち位置を忘れぬようにというカイエン様の優しさなのだと思うことにしている。すべての令嬢の憧れであるカーティス王太子殿下、その人に対し、物理的に最も近い位置にいる、落ちぶれた子爵家の令嬢。その不釣り合いを、当事者である私が忘れてしまえば、それはそれは滑稽な三文芝居が繰り広げられるだけ。
深く首を垂れる私の頭上で、殿下の居室の扉が開き、そして閉まる音が響いた。私の仕事はここまでだ。顔を上げ、控え部屋を出て隣接する自室に引き上げた。