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11歳(エリック 10歳)


生まれて初めて、王都から出た。そして、その先で出会ったのは、太陽のような人だった。






王都を出発し、何日も馬車に乗り、アームストロング侯爵家の屋敷にやってきた。屋敷に、恐る恐る足を踏み入れると、そこには、これから僕の義父となるアームストロング侯爵と、義姉となる少女がいた。


義父が、義姉になる『イザベラ』という名の少女に、僕を紹介すると、彼女は、迫力ある黒くうねった髪に、黒い目を吊り上がらせ、口を一文字に結び、驚いたように僕を見た。

彼女と僕の歳は一歳しか違わないと、事前に聞いて、知っていた。なのに、その迫力に圧倒された。


実情はさておき、彼女から見れば、僕は、突然やって来た、侯爵家の後継者のライバルだ。彼女の立場を脅かす存在に警戒する心情は理解する。


とはいっても、厳しいと知っている義父に、きっと敵愾心を露わにするであろう義姉。陰鬱な実家から離れたというのに、今度はこんな人達と一緒に生活をするのか、と憂鬱な気持ちになった。




しかし、それは一瞬のことだった。


義姉は、ハッと我に返ると、ぱっと目を輝かせて、興奮を抑えられないように顔を紅潮させ、嬉しさを隠しきれない表情になった。


すぐに分かったのだが、義姉が怖そうに見えるのは、口を開いていない時だけで、実際は、いつも、誰の前でも、屈託なく笑っていた。


そして、何の躊躇もなく、その明るい笑顔で、僕を大切な家族として、受け入れてくれた。






いつも誰にも明るい笑顔を向けていた義姉だったが、唯一の例外が義父だった。でも、義姉は委縮していたわけではなく、義父に頻繁に突っかかっていた。


厳しい義父に、幼い義姉が反抗するというと、屋敷が重苦しい雰囲気になりそうだが、義姉の令嬢らしからぬ気安い言い方で、屋敷で一番とっつきにくい義父に「怖い顔ばかりしていると屋敷の雰囲気が悪くなる」、「王都に行ったのに土産もないなんて気が利かない」などあれこれ文句言う姿は、却って屋敷の雰囲気を明るいものにしていた。


義姉は、「街に行きたい」とか「屋敷でパーティーがしたい」とか、子供らしい要求をし、義父は、それをすげなく却下したり、たまに呆れたように許可したりしていた。そんな二人は、ごく普通の親子に見えた。




物心のついた頃から、周りにいたのは、自分より強いものにおもねり、弱いものを虐げる、そんな人間ばかりだった。


なのに、義姉は、養子の僕や使用人といった立場の弱い人間にこそ、明るい笑顔を見せ、屋敷で最も権力がある義父に、好き勝手を言う。そして、それを気負うことなく、当たり前に行える。


そんな人間に会ったのは初めてで、僕は衝撃を受けた。






更に、しばらくして、僕と一歳しか変わらないのに、領内の福祉事業を一手に引き受けているのを知って、驚いた。

経験豊富な大人達に囲まれて、馬鹿にされたり、足元を見られて騙されたりすることが、怖くないのだろうか?






果ては、義姉が、救護院の監査に行くというので、ついて行くと、お世辞にも治安がよさそうでも綺麗でもない街だったので、僕は足がすくんでしまった。しかし、義姉は、気にせず、ずかずかと歩いて行き、その街の子供達と気安く言葉を交わしていた。


こんな街に物怖じしないのと街の子供達と親しそうなのは何故か、言葉を選びつつ、義姉に問うと、「私、数年前まで、この街で暮らしていたの」と言われ、絶句してしまった。






ある日の夕暮れ時、二人きりになる機会があったので、義姉に思い切って聞いてみた。


「義姉様は、怖くないのですか? 全部、曝け出して、人の前に出て、中傷されたり、侮られたりするのが」

「別に、全部、曝け出しているつもりはないけれど……? とはいえ、私がスラムで生まれ育ったこととか、経験が足りなく失敗しちゃうこととかなら、否定しようのない事実だし」


そして、いつもの笑顔で、さらりと言った。


「でも、そんな私でも、今は、侯爵家令嬢だから。侯爵家令嬢でいれるうちに、それを利用して、できることがあるなら、まあ、利用したり利用されたりはしてみようかな、と思って」


その一言で、義姉は、人に対して何も隠すことなく、自らの人生を受け入れていることが分かった。


日が更に傾き、義姉の後ろから光が差した。黄金の陽光に、義姉の黒髪と優しく微笑む顔が照らされた。その姿が、神々しく美しかった。






与えられた環境で、粛々とすべきことを義姉がしている一方、僕がアームストロング侯爵家にいるのは、すべきことを放棄して、実家から逃げ出してきてしまったからだ。


そんな僕を知ったら、義姉はどう思うだろう? 嫌われたらどうしよう、と怖くて、塞ぎ込んでしまったことがあった。






そんなある日の夜、自室をノックする音がした。そっとドアを開けると、そこには義姉がいた。


「エリックが寝るまで、一緒にいてもいい?」


義姉が僕を心配してくれることが分かって、嬉しくて、でも、そんなことしてもらう価値が僕にはなくて、苦しかった。

少しの葛藤の末、結局、甘えが勝って、義姉に部屋に入ってもらった。


僕を布団に入れて、義姉はベッドの傍で僕の手を握ろうとしたが、冷える夜だったので、一生懸命説得して、一緒にベッドに入ってもらった。


一緒にベッドに入ると、義姉の体温を感じてホッとして、肩から力が抜けていった。義姉の温かさが嬉しくて、自分の不甲斐なさが悔しくて、ぽろぽろと涙が出た。義姉は理由も聞かず、背中を優しく撫でてくれた。僕はますます泣いた。




優しくされて、ずっと抱えていた弱音が決壊したように溢れ出た。


「僕は義姉様に優しくされる価値なんて、ない人間なんです」


具体的なことを言えなかったので、意味も分からないだろうに、義姉は静かに話を聞いてくれた。


「果たすべき役割を放棄して、逃げ出してきてしまった。人の目に怯えて、戦うこともできなかった」


なおも泣きながら訳の分からないことを言う僕を、義姉は優しく抱きしめ続けてくれた。




やがて、僕が泣き疲れてきた頃、義姉がポツリと言った。


「逃げていいと思う」


僕は義姉に抱きしめられ、義姉の胸元に顔を埋めていたので、義姉がどんな顔をしていたのかは分からない。ただ、いつもの天真爛漫な様子とはかけ離れた、静かな月のような声で、義姉は話した。


「私の母は、何かから逃げないで死んでしまった」


義姉の発言に、驚きで、涙がぴたりと止まった。


「意地だったのか見栄だったのか、母が立ち向かったものが何なのか、私には分からない。でも、私は、逃げてもいいから、母に生きてほしかった」


いつも明るく笑顔なので、つい忘れていたが、義姉は、母の死によって、アームストロング侯爵家に引き取られている。義姉はまだその傷が癒えていないのだと、この時になってようやく気付いた。

何と言えばいいか、必死で言葉を探していると、義姉は続けた。


「私も、ここに来たばかりの頃は、状況を受け入れられなくて、気持ちが落ち込んで、動けなくなってしまったことがあったわ。この家にもこの家の教育にも馴染めないし、未来にいいことがあるとも思えなかった」


そして、義姉は僕を抱きしめる手を緩め、顔を覗き込みながら、僕に聞いた。


「エマが助けてくれて、何とか今の私がいるけど。ねえ、そんな弱い姉は嫌かしら?」




いつも強いと思っていた義姉に、そんな弱った時があったと知って驚いた。でも、敬愛の感情に何ら変わりはない。義姉の質問に全力で首を横に振った。


弱い弱い僕だけど、義姉が辛かった時、傍にいて、できることを探したかった。そんな辛い思いをしても、今、こうして誰にでも優しくあれる義姉はすごいと思う。


考えていることはあっても、胸がいっぱいで言葉にならない。ただ、せめて気持ちを伝えたくて、首を横に振り続ける僕の様子から、義姉は気持ちを察してくれたのだと思う。

僕の頭をそっと撫で、首を振るのをやめた僕の額に、義姉は額をくっつけた。そして、間近で目が合った。


「ありがとう。私はエリックが生きていればいい。エリックに会えて嬉しいし、私がエリックに会えたのが、エリックが逃げたからだというのなら、逃げてくれて良かったと思うわ」


柔らかな義姉の表情と言葉から、何もない僕をただ受け入れてくれていることを理解した。そして、尽きたと思った涙が再び溢れ出した。




「っ……、ごめんなさいっ……。ぼくもっ……ねえさまに会えて、うれしいですっ……」


何とかそれだけ言葉を紡ぎ出してから、義姉の胸の中で、泣き続けた。




泣き続けて、疲れた僕は、義姉の胸の中で朝まで寝た。






すごく久し振りの、何にも苛まれない、ただ温かさだけを感じる夜だった。


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