11歳(エマ・ウィズダム 11歳)
私に『普通の幸せ』が訪れる日が来るなんて、思わなかった。
私が八歳のときに、イザベラお嬢様は屋敷にやってきた。
生い立ちについては調査され、侯爵家の『影』の中心である父と私には知らされていた。貧しい環境で育ち、母を亡くし、失意にあったイザベラ様。
さぞ、落胆されているだろうと思ったが、屋敷に着いた少女の目に宿っていたのは、真っ赤に燃える怒りの眼差しだった。
幼い頃から、毎日、父の元で腕を磨く毎日だった。物心つく頃から『影』として、いつも冷静でいることを求められた結果、その頃には、何かに心を動かされることはなくなっていた。
なのに、イザベラ様の怒りに燃える眼差しから目を離せなかった。そして、目を離せず、心を揺さぶられている自分自身にびっくりした。
しかし、屋敷での厳しい教育が始まると、イザベラ様の怒りに暗く燃える瞳から、徐々に炎が消えていくようだった。
このままではいけないと突き動かされるような気持ちになって、気付けば、屋敷の外に出ることを提案していた。
私がお誘いしたものの、街に出て、知り合いを見つけたというイザベラ様が、救護院に乗り込まれ、掃除を始められたときは驚いた。
救護院の窮状を知ると、偽造文書を作って、侯爵家の名で食糧や物資を送り込み、患者の家族と共に、救護院の院長に圧力を掛けた時も驚いた。
でも、その後、救護院を改善したというイザベラ様の噂を聞きつけ、領地中の救護院、孤児院などからどんどんやってくる依頼を何の疑問もなく全部受けて、領地中のどこにだって乗り込んで、現場で手を動かす姿にはもっと驚いた。
「汚過ぎる!」「ぼろ過ぎる!」「全然、食事が足りていない!」と文句を言いながら、手を動かし、侯爵家からお金と物資を送って、領地中を変えていく。
この世界のあちこちに横たわる理不尽を、仕方ないものと捉えるのではなく、あってはいけないことだと一つずつ否定していく。
イザベラ様に出会った皆が、自分達のために怒ってくれる人がいるという事実に、どれだけ励まされたか分からない。
先般、義理の弟としてエリック様をお迎えになった時、イザベラ様は、それはお喜びになった。
一瞬、もう私は用無しかとこっそり寂しく思ったが、エリック様を迎えても、イザベラ様の私への扱いは何も変わらなかった。
やがて、主従関係でいながら図々しいが、一番の友と言える存在でいさせていただいていると感じるようになった。
そんなわけで、私は今日も、イザベラ様とエリック様と共に屋敷で学び、領地を回り、屋敷の裏の森を駆ける。
明日が来るのが楽しみなんて、イザベラ様に出会うまで知らなかった。
私には浮かべることができない、イザベラ様の屈託のない笑顔が大好きだった。この笑顔を見るためなら何でもできると思った。
イザベラ様に会う前の私は、どうやって生きていたのだろう?
思い出せない。
でも、イザベラ様に会う前の自分を、思い出したいとは思わなかった。