旅の16~18日目(公国からの旅人)
生まれて初めて公国から出た。
今は、隣国の辺境伯領で出会った女性に、隣国を案内してもらっている。女性はリリーという名で、ピンクブロンドに、大きな空色の瞳の、名前によく合う、愛らしい容姿をしている。
自らが住む公国では、隣国は、独裁的な国王と王太子が国を支配していて、更に、権威好きな王太子妃が王家に入り、状況が更に悪化した。民は虐げられ、国は荒れているというのが専らの評判だった。緊張して、隣国に来たが、そこで見た人々の様子は、公国で聞いたものとは、どうも様子が違う。
どこに行っても、街は明るい雰囲気で、彼女が紹介してくれるこの国の人々も活き活きとしている。王家への不満もほとんど耳にしない。
考えてみれば、そこまで民が苦境に追いやられていれば、公国への難民の流入や、国境沿いの治安の悪化がありそうなものだが、そのような事態も起きていない。
だとすると、公国でのこの国の評判は誰が流しているというのだろう? そんなことをして、メリットがあるのは――
乗り合い馬車は、あと少しで、最後の目的地である王都に着くところだった。
幼い頃からの癖で、古い刺繍の施されたお守りに触れながら、考えに耽る。考えに耽るあまり、無言で険しい顔をしていたのだろう。リリーが問うた。
「そろそろ、何故、この国に来たのか教えていただけませんか? 私も何かお手伝いできるかもしれませんよ?」
考えを止め、笑顔を作り、彼女に向き直って言った。
「旅の初めに話したとおり、私は公国の商人で、商売のため、隣のこの国を知りたかっただけだよ」
彼女はニッコリ笑いながら、鈴を転がすような声で、穏やかだが、見透かすように言った。
「嘘。どう考えても商人にしては商魂がなさ過ぎです。食堂の娘だから分かりますよ。それに、街に着く度、人の多いところに目をやっては、誰かを探していましたよね」
図星を突かれ、苦笑した。おっとりした見た目をしていて、人のことはよく見ているようだ。
彼女とこの国を一緒に回って、信頼に足る人物であることは分かった。この国の人間もよく知っている。それに一人で探すことの限界も感じていた。
彼女になら、本当のことを話してもいいかもしれない。
「実は、私は隣の公国の神殿で、神官として働いているんだ」
「神官様でしたか」
私が神殿で働いていると聞いて、彼女の背筋がピンと伸びた。
「聞いたからと言って、畏まらないでくれよ。この国に来たのは、神殿からの使いのためだ。そして、あわよくば、行き別れた姉を見つけられないかと思って来たんだ」
「そうだったんですか……。お姉さんはどんな人なんですか」
「私と同じ、淡い菫色の髪に濃い紫色の瞳で、美しく博識だった。そんな女性を見たことはないか?」
聞くと、残念そうに首を振った。
「姉は、私の養育費と引き換えに、公国の王家の官吏になると言って、出て行った。それから、音沙汰がない。公国中を探したが、見つからなかった。万が一だが、隣接するこの国にいないかと藁にもすがる気持ちで来た」
「公国はどんなところなんですか?」
「人々は信心深く、穏やかで、良い国だと思う。ただ、神殿が人心を集めているから、王家は面白くないのだろう。どんな手を使ってでも、神殿から権力を奪おうと腐心している。王家の官吏になると連れて行かれた姉も、今は何処で何をしているのか……」
目の前の彼女に、そこまで話すつもりはないが、本当は、王家が立てた極秘の養成所に連れていかれたところまでは追えた。まだ幼い子供達を集めているその養成所では、王家の諜報員を育てていた。
行方が追えないということは、諜報員としてどこかに遣わされているのか、養成所から逃げたのか――
この世界のどこにいるか分からない姉と再会できるなんて、普通ではあり得ない。理解しつつ、万が一の可能性に賭けて、公国から出てきたが、姉はやはり見つからなかった。
それでも、この世界のどこかで生きているのであれば、この国で見た人々みたいに、笑顔で暮らしていてほしいなと思った。
さて、私情はさておき、仕事に戻ろう。
「王都に着いたら、王宮まで案内してくれないか?」
公国の王家は、この国の王家の横暴を訴える、この国の公爵家の子息から助けを求められたということで、出兵の準備を進めている。
しかし、王家の言い分に疑問を抱いた神殿から、実態の調査を命じられ、この国へ来た。場合によってはこの国の人間と協力し、争いが起こる前に、公国王家の企みを潰すように、とも。
神殿の人間が考えた通り、公国で話されているような、この国の王家の横暴に関する話はなかった。この国の公爵家の子息と結び、神殿から権力を奪うため、公国王家は争いを起こそうとしているのだろう。
これまでずっと朗らかだったので、王宮への案内を快諾してくれるかと思っていた彼女から返事がなかなかない。彼女は、無言で、私を訝しむように見ていた。公国の神官だと自称はしているものの、私の言葉を信じて、国の中枢である王宮にまで連れて行っていいのか迷っているのだと分かった。
神殿から預かっている親書もあるし、彼女が案内してくれなくても、この国の王宮に辿り着くことはできるだろう。
それでも、警戒を顕わにするその様子を、微笑ましく思った。この国の案内を受けた時々で、彼女がうっとりとした目で、この国の王太子妃殿下のことを口にすることがあった。
「王太子殿下や妃殿下に、私が危害を加えないか心配しているのですか。慕われているのですね」
そう指摘すると、可憐な花を思わせるような表情で、彼女が赤面した。
「王太子殿下とも妃殿下とも、王立学院で同級だったの。お話する機会は少なかったのだけれど、特に妃殿下は、身分とか関係なく、明るく接してくださって、憧れだった」
こんなに可愛らしい彼女が憧れる女性とは、どんな人間なのだろう。彼女は、はにかみながら、なおも続けた。
「それに、つい最近も、同級だっただけの私を覚えてくださったことも分かったの。その時、妃殿下からリボンもいただいたの。とっても綺麗な刺繍が入っているのよ」
彼女が箱から大事そうにリボンを取り出した。そこに施された刺繍に見覚えがあった。
握りしめたお守りの刺繍と見比べ、驚きながら聞いた。
「それをどこで……? 公国の……、いや、姉さんの刺繍だ……」




