10歳(ローガン 9歳)
日々弱りゆく母の見舞いに行った帰りに、かつて、俺達の街に住んでいたイザベラに、声を掛けられた。
彼女は、よく整えられた馬車を背に、上質なドレスを身に纏い、美しく髪を結っていた。
俺達がいるスラムで、イザベラは浮いた存在だった。身なりこそ、ぼろ布を纏っていたが、背筋は伸び、まっすぐに視線を向け、綺麗な言葉で話す。そんな彼女を見るたび、苛立った気持ちになった。
こんな貧しい街で、そんなに気高くいたって意味がない。早くこちら側に堕ちてきたらいいのに、と何度も突っかかっていた。
しかし、久し振りに会ったイザベラが、令嬢らしい姿をしているのを見て、彼女の母の死と同時にスラムからいなくなった彼女は、どういう経緯か、本当に良家のお嬢様になったのだと分かった。
対する俺は、相変わらずぼろ布を纏い、臭く不衛生な救護院から出たところだった。何故、こんな時に、彼女と再会したのか、と恥ずかしく思った。
そんなこちらの気持ちを知らないイザベラに、俺が何をしていたのかを問われ、救護院に母がいることを伝えた。
すると、彼女は顔を強張らせ、救護院にズカズカ乗り込んで行った。掃除が行き届いていないから臭いのに。
上質なドレスのまま、救護院に乗り込んだイザベラは、不衛生な様子を確認すると、袖をまくり上げ、掃除を始めた。
正真正銘のお嬢様になった彼女に、そんなことをさせてはいけないと思い、止めようとすると、「私は、おば様にできることがあるなら何でもしたい。後悔はしたくない」と手を止めないまま言われて、ハッとした。イザベラの母は死んでしまい、彼女は自分の母にはもう何もできないのだ。
イザベラに提案されるまま、スラムの友人達を呼び出し、救護院の掃除をした。また、間もなく、彼女の家から物資が届けられた。
そうして、病室を整えると、救護院は見違えるようにきれいになり、母は喜びで、静かに涙を流した。
救護院の休息日の宿直当番は、俺達が何かをしていることに気付いたはずだが、一度も事務室から出てこなかった。イザベラは憤っていたが、いつものことだった。
夕方になって、イザベラが、母の面会に来た俺の父親を見つけ、話し掛けた。そして、彼女と父は、今後のことを相談し始めたようだった。父は神妙な顔で、彼女の話を聞き、頷いていた。
しばらくして、これまでのことが嘘のように、救護院は衛生的になり、物資も充実した。イザベラの家から大量の物資が送られ、その管理が父に一任されたため、患者の家族も、救護院の運営に物申せるようになった。
救護院の改善と共に、病から回復した母が言った。
「イザベラ、いえ、イザベラ様のお母様に頼まれたの。イザベラ様は領主である侯爵様が引き取ってくれるはずだから、侯爵様に手紙を届けて、イザベラ様のことを知らせてほしいって。すごくびっくりしたけれど、あの話は本当だったのね」
裕福な家に引き取られたのは身なりを見れば分かったけど、この土地で一番高貴な家に引き取られていると知り、流石に驚いた。
しかし、昔、俺達の街にいたときから、彼女は何か変わっていただろうか?
その答えはすぐに出た。身なりこそ、上質なドレスを纏って、綺麗に髪を結い、変わっていたけれど、背筋を伸ばして、綺麗な言葉を使い、俺の父母に敬意を持って接する姿は、俺達の街にいた時から何も変わっていなかった。
薄汚れた街で、綺麗に生きているイザベラを見る度、腹が立って、突っかかっていた。
でも、彼女にとって居場所は関係なかった。薄汚れた街にいたって、領主の家に引き取られたって、彼女はどこにいたって高潔なのだ。
「格好いいな……」
救護院に向かう準備をしている親父に気付き、思い切って、声を掛けた。
「親父、俺も何かできないかな」
家の仕事に興味も持たず、スラムの子供達を連れ歩いては粋がっていた俺が、そんなことを言い出したことに、親父は驚いた顔をした。
そんな反応に気恥ずかしさを感じるが、それでもいい。
少しでも、彼女に、近付きたかった。