旅の10~12日目(サラ(山の麓の村の少女))
私が幼い頃、山を臨む、自然豊かなこの村は明るさで満ちていた。山の恵みを得て、生活は何不自由なく、街との往来も盛んだった。
そして、力強く、村を若頭としてまとめ上げる父に、美しい上、刺繍や薬草栽培、様々な学問に通じ、博識な母は、私の誇りだった。自慢の両親だった。
そんな楽しい生活の変化は数年前だった。
始まりは、村の相談事を気軽に受けてくれた憲兵さんが、村からいなくなったことからだった。
その後、異変が次々に起こった。これまで街に売っていた薬草や干し肉などは安く買い叩かれるようになった。薬や税金の支払いに村の多くの人が困り、街から金貸しを名乗る人間がよく村に来るようになった。彼らは、甘い言葉で金を貸したが、やがて厳しい取り立てをするようになった。
生活は苦しくなり、明るかった村の人達の表情は暗くなり、村は重苦しい雰囲気に覆われていた。
何故、こんなことになったのかもどうすればいいのかも分からない。正体が分からない、『何か大きくて見えざる力』が働いて、村に暗い影を落としたようだった。
とうとう借金どころか利息さえ払えなくなったある日、父が街の憲兵に相談に行くと言った。これまでも何度も相談はしていたが、民事の取引に介入しないと取り合ってくれなかった。それでも、父は、最後に掛け合ってみるとのこと。
金貸しの取り立てはどの家も厳しいが、特に我が家の母は美しかったので、金貸しは、母に借金のカタに、金貸しが紹介する仕事をするよう何度も言ってきていた。そして、支払いができないなら、無理やりにでも連れて行く、とも。
母を奪われたくないという気持ちで、私も最後の望みをかけ、父と一緒に街に出ることにした。母に教えてもらい、少しずつ作っていた刺繍を売ってお金を作れれば、利息だけでも払えるのではないかと考えてのことだった。
街で父が憲兵の詰所に向かう間、必死な気持ちで街角に立ち、刺繍をしたハンカチ、スカーフ、巾着袋、リボンを路上に敷いた敷布の上に並べ、客を待った。モチーフは様々だが、どれにも隅に、母から教えてもらった幸せを運ぶ青い鳥を刺している。
そして、緊張して客待ちをしていると、そこで出会ったのは、フードを被っていても隠せない、迫力のある真っ黒な髪に真っ黒な瞳を持った、凛々しくて綺麗な女の人だった。名前はベラさんといい、休暇でこの土地に来たという。
迫力に圧倒されていると、興味を持ってくれたベラさんが店先で売っている物の値段を聞いてきた。手の込んだ刺繍は刺しているものの、売っているものはどれも、金貸しが満足する利息が払える値段に設定したので高い。祈るような気持ちで値段を告げると、ベラさんは少し驚いたみたいだが、持って来たもの全部を買ってくれた上、「綺麗だ」と褒めてくれた。
ベラさんから受け取ったお金は大金だったので、少し怖くなったが、お金を払った後も、ベラさんやその仲間は店先に留まり、あれこれと私が住む村のことを質問した。緊張しながら私がそれに答えると、時に美しい美貌の顔立ちを崩して笑いながら、興味深そうに村のことを色々聞いてくれた。
やがて父が来ると、ベラさん達は明るい笑顔で去って行った。父が来るまで私と一緒にいてくれたのだと、その時になってようやく気付いた。
父が相談に行った憲兵はやはり取り合ってくれなかったが、私の刺繍が売れたことで、翌日の金貸しへの支払いは何とかなった。
しかし、もう払えないと思っていたその日に、私達が利息だけでも支払え、金貸しは母を連れていけなかった。これが、金貸しにとっては悔しかったのだろう。金貸しは、余裕があるのなら、二日後に来るから、借金を全て返せなどと言ってきた。
急な話に、私の家の隣にある教会に、村の皆が集まり、話し合いが持たれた。村の宝である聖杯を売って私の母を助けようという意見、そんな一時しのぎをしても意味がないという意見、どうせなら、力に訴えてでも、一矢報いようという意見まであった。
隣の建物で、喧々諤々の議論が繰り広げられるのを途方に暮れる思いで聞きながら、思い浮かんだのは、街で出会った、珍しい黒髪と強い意思を感じさせる黒目に、暗雲を薙ぎ払う太陽みたいな明るい笑顔のベラさんだった。
一度会っただけで、おかしいと思う。でも、ベラさんなら何とかしてくれるのではないか。
そんなことを思い、翌朝、父に願い出て、もう一度、あの旅の女性を探したいと掛け合った。父も、刺繡にあれだけの額を出せるのであれば、金を持っているのだろうと納得してくれた。二人で一生懸命、街を探して、ベラさんとその仲間を何とか見つけることができ、村に来てもらった。
出会ったばかりの相手に話すことではなかったが、事情を話さないと急にお金がいるというも不審に思われるだろうと、父が、村の人間が多額の借金を負っていて、母が借金のカタに連れ去られるという話をした。すると、ベラさん達は我が事のように怒って、一緒にどうするかを考えてくれた。
そんな展開になるとは思わず、私達が戸惑っているうちに、ベラさん達が立てた作戦は、とんでもないものだった。ベラさんの仲間が母のフリをして、誘拐されたフリをして、犯人を捕まえてきてくれるという。
私も皆も信じられない気持ちだったが、ベラさんもベラさんの仲間も、本気だった。
一番危険を伴う、母の身代わりを誰がするかについて、押し付け合ったっておかしくないのに、ベラさんの仲間達は競い合うように役割を果たそうとしてくれていた。
突然の話に驚いたものの、私達のために何かしようとしてくれたベラさん達の気持ちが嬉しかった。
そんな人達が、私達のために傷つかないで欲しい。そう思ったのは私だけでなかったようで、村の大人達はこの人達に何かあれば、どんな手段を使ってでも、金貸し達から母の身代わりをしてくれるベラさんの仲間を奪い返すと、覚悟を決めたみたいだった。
翌日、予告通り、金貸しが来た。そして、母に扮したベラさんの仲間であるジェーンさんを攫って行った。
ベラさん達が考えた計画通りとはいえ、事態に青褪める私達に、ベラさん達は「ちょっと待っていてね」なんて軽やかに言うと、街へ出て行った。
そして、更に翌日、ベラさん達は、悪徳業者を誘拐犯として摘発した、と村の人間に知らせてくれた。耳を疑い、村の人間全員がぽかんとした。
ベラさん達に村に取り立てに来た人と捕まえた人が合っているか確認することを求められ、父と私は憲兵の本部に来た。そして、母に借金のカタに街で働くよう言ってきた金貸しが、本当に捕まっているのを見た。
更に、誘拐以外にも、金貸しは法律に反し、高過ぎる利率で金を貸したことなど、余罪がありそうなので、今は憲兵さん達が捜査してくれているらしい。
村に帰ってきて、父が村の皆にこのことを報告した。皆はしばしの戸惑いの後、沸き立った。
私は、ふわふわと浮足立ったように、それをぼんやりと見ていた。ずっと現実感がなかった。
夜、寝る前、母が私の部屋に来た。
「ねえ、サラ。ベラさん達に何かお礼を作りたいのだけど、手伝ってくれる?」
「え……」
「刺繍を、気に入ってくれていたのよね。ベラさん達は、旅をするみたいだから、普段から使えて、でもふんだんに刺繍を刺せるもの……。ストールとか、薬瓶のカバーとか。薬瓶には村で作った秘薬を詰めるのもいいわね。ああ、ベラさんは綺麗な黒髪をしているから、髪を彩る長いリボンも素敵ね」
母の言葉に戸惑った。どれも満足いくまで刺そうとすると、どれだけ急いでも、数日かかるようなものばかりだった。
「でも、どれもいっぱい刺繍を刺すには、時間がかかるわ……」
「ええ。でも、しばらく、ベラさんは、憲兵さん達と話すために、この土地にいてくれると言っていたのでしょう?」
「そうじゃなくて。お母さんが……」
「私が?」
問われて、ようやく気付いた。もう母を奪おうとする人はない。
母と、明日だけでなく、その先の未来を描くことができるのだ。
「そっか……。これからは、お母さんと、明日より、もっと先の話が、できるんだね」
笑おうとして、でもうまくできなくて、代わりに決壊したみたいに涙が溢れた。私の傍に来て、肩を抱く、母の体も震えていた。
思うまま泣いて、気持ちが少し収まってくると、私達を助けてくれた人たちの姿が浮かんだ。
出会ったばかりの私達に寄り添って、凛々しく笑うベラさんと、頼もしいお仲間さん達――
瞼の裏に浮かぶその姿に、ふと、閃いて言った。
「ねえ、お母さん。女神様って、黒い髪に黒い目をしているんだね」
母は目を潤ませ、笑って、私に同意してくれた。
心からの母の笑顔を見るのは、本当に久し振りだった。