20歳
爽やかな朝、ダラダラと寝台に転がる元・悪役令嬢イザベラ・アームストロングでっす……。
暇を持て余していると、夫婦の寝室に備え付けられた浴室のドアが開き、公務に向かうため、朝の湯あみを済ませたエリックが出てきた。サラサラの金糸の髪に、朝の青空のような瞳が朝日によく映え、清廉な雰囲気を纏っていた。
「もう、公務に出発?」
「そうだよ」
「お忙しそうですね。私は、今日も予定がないのだけど……?」
寝台に転がる私を満足そうに見て、エリックが機嫌よく言った。
「イザベラは、それでいい。では、また後でね」
私は、公務に行くエリックを見送った。
結婚式から一か月と少し、私は、この生を受けてから、一番のんびりした毎日を過ごしていた。
エリックが公務に行ったら、朝寝をして、起きたら昼食を食べる。昼食後は紅茶を飲んだり、本を読んだり、エマやソフィア様に手紙を書いたり、学者の先生から話を聞いたりする。時間があれば、屋上のテラスで王都の街を眺める。夜になれば、晩餐を取り(時には畏れ多くも国王陛下と)、王太子宮に戻った後は湯あみをして、寝室に行く。しばらくすると、夜食と湯あみを済ませたエリックが帰ってくる。
これが一日のルーチンだ。
王太子妃としての仕事は、エリックが止めているらしく、ほとんど回ってこない。その裏で、私の分もエリックがこなしているらしい。
一見穏やかな日々だが、私は焦っていた。
本当に何もしないうちに、時間が過ぎていく。
それ自体に不満はない。けれど、人の機微に聡いわけではない私でも、流石にエリックの様子が変だというのは分かる。
私を外に行かせないようにしているのも、仕事を任せないのも、何故だろう。私は、エリックを何か不安にさせているのだろうか? 告白されたとき、『何か』を知っていることを認めてしまったから? それとも、はっきりした答えを求められていないことをいいことに、きちんと思いを返していないから?
エリックの様子がおかしいのに、どうすればいいかずっと考えている。でも、答えが見つからなかった。
前世の記憶があるということを伝えれば、エリックは安心するのだろうか。でも、告白されたとき、『何か』を知っていて、繋がっていないことは、もう言ってある。
エリックのことはすごく大切だと思っている。でも、この気持ちをエリックと同じ『好き』と呼んでいいのだろうか。そんな迷うような気持ちで、エリックは救われるのだろうか。
考え込んでいると、夜になっていた。もうすぐエリックが帰ってくるのに、今日も考えを纏められなかったと、気分が沈んだ。
気持ちを切り替えるように、腕を上げ、背筋を伸ばしながら、ふと窓を見ると、大きな月が見えた。月明かりの綺麗な夜だった。
こんな夜の日に、エリックとエマとお月見をしたり、エリックに物語を話したりしたことがあった、と懐かしくなった。
月に誘われるがまま、バルコニーに出て、夜空を眺めた。
そういえば、世界が全然違うのに、前世と一緒でここでも空に浮かぶのは『月』なんだと思うと、なんだか面白くなった。
月の裏側に、前の世界があったりしないだろうかなんて思いついて、何とはなしに真上にあった月に手を伸ばしてみた。
「イザベラ!!」
突如、焦ったような声を掛けられ、息を荒くして、駆けて帰ってきたエリックに、伸ばした手を掴まれた。
「……エリック、おかえり?」
はあはあと荒い息を吐き、じわりと汗をかき、切羽詰まったような顔をしたエリックに戸惑っていると、エリックは縋るように言った。
「誰も来ていない? イザベラは消えない?」
「……どういうこと?」
「…………幼い頃に聞いた、月に帰る姫の話みたいに、イザベラが何処かへ行ってしまうかと思った」
「ええ?」
突拍子もないことを真面目な顔で言うのに驚いていると、エリックも自分の言ったことのおかしさに気付いたようで、肩を落として笑った。
「……そんなわけないか」
私は、気になっていたことを聞いてみることにした。
「エリックは、私がいなくなるかもしれないって不安なの?」
「ああ」
「ここから、外に出さないようにしているのも、そのせいなの?」
「そんなことも知らなかったの?」
少し躊躇しながらも、更に疑問を口にした。
「それは、その、私のことが好きだから……?」
私を見て、エリックは顔を歪めると、自嘲するように言った。
「そうだよ……」
そして、長い足を投げ出し、座り込み、俯いて、やるせなく続けた。
「勝手だって分かっている。でも、もう嫌だ。イザベラを好きになってから、ずっと苦しいよ。イザベラが一緒にいる別の人間に嫉妬して、除け者にされて寂しくなって、遠くに行ってしまわないか焦って。いっそ、憎いくらいだ」
泣き出しそうなエリックの声を聞いて、一度伝えたとか、気持ちが同じなのかとか、これまで気にしていたこと全てが、どうでもよくなった。
正解など分からない。私が持っているもの全部、明け渡して、エリックが必要なものだけ、受け取ってくれればいい。
「エリック、私、前世の記憶があるの。こことは全然違う世界」
私の言葉に、エリックがゆっくりと顔を上げた。
「前の世界の物語が、この世界と繋がっていた。だから、ここで起こることを少しだけ知っていた。でも、それだけ。どこにも行けない。どこにも行かない」
目を見開いてこちらを見るエリックの頭を、子供の頃みたいに、胸に抱きしめると、エリックは私の体を恐る恐る抱き返してきた。
体はしっかり大人の男の人のものなのに、幼い子供に縋られているような、そんな気持ちになった。
エリックが、私に聞いた。
「私を安心させるために、秘密を話してくれたの?」
「うん」
「ここに、いてくれるの?」
「うん」
私の肯定に、エリックは嬉しくてたまらないといった表情を浮かべた。
「嬉しい。大事にする」
作り物みたいに綺麗な顔全面に喜色を浮かばせ、エリックは私を見た。その間近にある色気にどきりとした。
エリックの手が、ゆっくりと私の頬に触れた時、胸にじんとくるものを感じて、口から言葉が零れた。
「エリックが好きだよ」
私の言葉に、エリックはピタリと動きを止めた。
ほんの少し間を空けた後、エリックの額を私の額にコツンと当ててから、エリックから返ってきたのは、先程の嬉しそうな声ではなく、苦笑したような声だった。
「……うん。まあ、有難いけれど。私の『好き』とイザベラの『好き』は別物でしょう」
そして、「傍にいてくれるだけで十分だから、そういう無理はしなくていい」とも言い添えられた。
言葉を受け取ってもらえなかったのには軽い衝撃を受けたが、エリックは、私のことをよく分かってくれているんだな、とも思った。
私もずっと迷っていた。
エリックのことは世界で一番大事だけど、それはエマのこともだし。
幸せにしたいと思っているけど、それは弟だった時からだった。
エリックが言うような苦しくなるような気持ちはなくて、エリックを想って感じるのは、いつも温かい気持ちだけ。
エリックは特別な存在ではあったけど、それをエリックと同じ『好き』と呼んでいいのか、判断ができなかった。
でも、エリックを苦しさから助けられるなら、私の持っているもの全部をあげたくなった。
エリックに嬉しそうに見つめられると、胸が高鳴り、触れられると、愛しくなった。
エリックの言う通り、同じではないのかもしれない。
それでも、私にとって、これ以上、特別な『好き』なんて、きっとない。
「確かにエリックの『好き』とはちょっと違うかもしれないけど」
私の気持ちを侮っているエリックに、ニヤリと笑った顔で言う。
「でも、今、気付いた。胸を張って言える。私はエリックが好き」
そして、エリックの頬に手を添え、目を閉じて、私から、私の唇をエリックの唇に合わせた。
この気持ちが、ちゃんとエリックに届きますように――
ドキドキしながら目を開けると、エリックは信じられないように、私を見ていた。気恥ずかしさから、頬は熱く、目は潤んでいく中、言葉を続ける。
「ほら、好きじゃなきゃ、こんなことできない。私のこと、全部、エリックにあげる」
私の言葉を、今度こそ、受け取ってくれたのだろう。
エリックは噛みつくような口付けを降らせると、私を横抱きにして、寝台へと連れて行った。




