15歳(エリック 14歳)
夢を見た。
真っ暗な暗闇に浮かび上がるのは、いつもの光景だ。
王都の中心に位置する豪華絢爛な王宮、多忙な国王、王子の出産後に体調を崩し、儚くなってしまった王妃、自分の派閥を広げようと腹を探り合う貴族達。そして――
僕はハッと目を覚まし、飛び起きた。
周囲を見回して、貴族の家としては簡素な自室を見て、王宮から離れ、アームストロング侯爵家にやってきているのだと確認する。あの場所から逃げ出してきて、もう何年も経つというのに、まだあんなに鮮明な夢をみる。
夢の最後に出てくるのは、いつも決まっている。夢の中の登場人物でも一番嫌いな、人の顔色を窺うしかできない、頼りない王子。幼かった僕だ。
いつも貼り付けたような笑みを浮かべて、皆の顔色を窺うから、どの貴族の派閥からもいいように使われて、昔からの家臣からはヘラヘラ笑ってばかりと蔑まれ、母を亡くした父からは顧みられない。
寄る辺のなさに堪え切れなくなったのであろう、ある日、僕は表情が変えられなくなった。
このことに気付いた父と重臣で話し合いが持たれ、対外的には、王子は、病に罹り、王宮で闘病中ということにし、実際は、一度、王都から離れ、自然豊かな地で療養することになった。療養先は、王家の機密事項の黙秘に最も信頼があり、『王家の影』の役割を果たす、アームストロング侯爵家が選ばれた。
そして、僕は豊かな自然に囲まれ、華美ではないアームストロング侯爵家の屋敷に来て、王宮のしきたりではない実学的な学問を学び、侯爵家の騎士団から体を動かすことを覚えた。厳しくも実直な侯爵と、忠実に主を守ろうとするエマの父やエマといった『王家の影』の人間、朗らかな屋敷の人達や領民達、そして何より、まっすぐに愛情を向けてくれるイザベラと共に暮らすことになった。
僕は、王宮での生活と比べると、信じられないくらい、幸せな日々を過ごしてきた。
でも、最近、この幸せな日々では満足できない自分を感じている。
「おはようございます、義姉様」
「おはよう、エリック!」
この間まで王都に行っていたイザベラが、ちゃんとアームストロング家の屋敷にいるか確認したくて、僕は、朝起きたら真っ先にイザベラの部屋に向かってしまう。イザベラは、まだ傷が癒えていないので、ベッドの中で療養中だ。正直、あれこれ出歩くと、何をしでかすか心配でたまらないので、このままずっと大人しくしてくれないかな、なんて思ってしまう。
幼い頃から規格外だったイザベラだけど、大きくなっても全く変わらず、いつも無茶ばかりしている。
僕自身には危険がないか、イザベラ自らすごく気を配ったり、エマや家令に護衛が付いているかしつこく確認したりしているくせに、自分自身のことになると、とことん頓着しない。僕の正体は伝えていないから、可愛い弟が心配なんだろうと思うけれど、僕自身が傷付けられるより、イザベラが傷付く方が苦しくなることを、全然、分かっていない。
僕の安全を屋敷中に頼んで、僕を置いて王都に行ったくせに、イザベラ自身は、見ず知らずの人間を守って、意識不明の重体になった。
イザベラが意識不明の重体になったという第一報が入った時、最悪の事態を思い浮かべてしまい、目の前の景色から色が消えた。早くイザベラの元に行きたくて、侯爵の乗る馬車に無理やり同乗した。行き先が、幼い頃の苦い思い出がある王都だなんていうことも、全く気にならなかった。
ようやく辿り着いた、王都にある侯爵家のタウンハウスで、ベッドの上で包帯を巻き、あっけらかんと「こんなに大ごとになるとは思わなかった」なんてはにかむイザベラが憎らしかったし、エマから怪我を負った時に着ていたというドレスに広がる血痕と刀で斬られた跡を見せてもらった時は、気が遠くなる思いだった。
二年前、イザベラが母を思って一人で静かに泣いているのに気が付いた。それから注意すると、救護院で人が亡くなった時、財団が商談で騙されて大損害を被った時、騎士団や村人との話し合いがうまくいかなかった時、イザベラは密かに泣いていた。
でも、僕はいつも隣にいなかった。僕が近付くと、姉の仮面を被ってしまうから、遠くから見つめるだけ。いつだって、イザベラの力になりたいのに。
イザベラは悲しいことや辛いことがあっても、一人でやり過ごすのがほとんどで、ごく稀にエマかソフィア様と気持ちを分け合うことがあるくらい。
イザベラが、僕に分けてくれるのは、楽しいことだけだ。
守られるべき弟や信奉者の一人では、もう満足できなくなっていた。ここから抜け出して、喜びだけでなく、悲しみや辛さも共有してもらえる存在になりたい。生涯、イザベラを傍で守りたい。
そのためであれば、居心地の良いこの場から踏み出し、どこであろうと戦っていくと、覚悟ができた。
いつか、生涯を共にする相手として、イザベラの理想の姿で迎えに行こう、と密かに決意して、緊張しながら、ベッドで療養中のイザベラに聞いてみた。
「義姉様は、結婚などはどう考えられているのですか?」
一瞬、びっくりした顔をした後、イザベラは、嬉しそうに言った。
「エリックもそんなお年頃なのねえ! 気になるご令嬢でもできたの?」
僕のことは意識していないことを改めて突き付けられるようで、その回答にはがっかりしたが、想定の範囲内だ、と切り替えて質問を続けた。
「私のことではなくて、義姉様のことが聞きたいのです」
「ああ。後継ぎにはエリックがいるから、私も家を出ないといけないのに、父は、全然、私の結婚の話を持ってこないものね」
僕はアームストロング侯爵家の後継ぎではないし、義父も後継ぎにはイザベラしか考えていないだろうけれど、そのことは伏せ、黙っていると、イザベラは、話を続けた。
「一応、王都でお茶会とかには出たけれど、全然、そういう出会いはなかったよ。黒髪も黒目も嫌厭されたし、結婚とか難しそうだなと思った」
苦笑しながら言うイザベラに、ぽっと出の人間とそういう出会いがあってたまるか、と内心で毒づく。
すると、イザベラは、周囲の気配を窺いながら、完全にイザベラと僕の二人きりであることを確認して、声を落とした。
「だから、内緒なんだけど……」
その様子に嫌な予感があったが、何も言わず、イザベラの言葉を待った。そして、あっさりした口調で言われた言葉に、頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。
「適当なタイミングで、侯爵家から出て行くのもいいかと思って」
イザベラは、規格外だと言っても、貴族の女性だ。嫁いで家を出て行くか、婿を取って家を継ぐ以外の選択を考えたことがなかった。
「簡単に、市井には下れませんよ……。僕だって、許しませんし……」
僕の声が震えているのに、イザベラが申し訳なさそうに笑った。そんな考えは冗談だと言ってほしいのに、全く否定してくれない。
「私も、ものすごくこの家から出たいというわけではないんだけど、ほら、悪事を働くかもしれないし。嫉妬に狂ってとか……」
「そんな義姉様の姿は想像できませんが……」
歯切れ悪く、意味の分からないことを言う。こんなありのままで生きているイザベラが、嫉妬から悪事を働く? それこそ考えられない。
「えーと、うん。私自身、悪事を働くつもりはないんだけど、働かなくても、陥れられて、身分剥奪とか国外追放とか、されちゃうかもしれないし。えーと、私って、目立つと言えば、目立つし。悪いことをしそうな見た目をしているし……」
「そんなこと、絶対に僕がさせません!」
あまりの発言をするイザベラに、思わず声を荒げてしまった。
確かに、イザベラは脇が甘いところがある。迅速に物事を動かすためには仕方ないものと思っていたが、イザベラも自分で感じているとは思わなかった。いや、感じているのに、行動を変えず、領土のために動いているのか? 保身も考えず?
混乱する僕を置いて、終始、イザベラは穏やかだった。
「ありがとう。でも、もともと市井の生まれだし、貴族社会から放逐されても、生きていれば、まあいいかって思って。だから、もし、ある日、ここからいなくなっても、私はそんな悲観的には考えていないから、エリックも気にしないでね」
そう言って満足したのか、イザベラはすやすやと眠りに落ちた。その顔は穏やかで、僕を絶望の淵に追い込むようなことを言ったくせに、と腹立たしかった。
言われてみると、イザベラが何かの問題に巻き込まれたとき、「まあいいか」なんて言いながら、一人で泥を被って、貴族社会から去る姿はすごく鮮明に思い浮かべることができた。忌々しいが、イザベラならやりかねない。
エマが手厚くイザベラの身の回りの世話をしているが、幼い頃を市井で過ごしたイザベラは、身支度を自分ですることができる。また、侯爵が『王家の影』としてイザベラに施している教育は、市井での生活にも役立つだろう。
僕にとってイザベラの存在が傍にあるかどうかは死活問題なのに、イザベラにとってはそうではない。赦せないと思った。
眠るイザベラの赤い小ぶりな唇に、人差し指を当てた。
イザベラの言葉を反芻していて、幼い頃、イザベラが僕に「生きていればいい」と言ってくれたことを思い出した。
「生きていればいい」という言葉で救われたのに、今度は絶望を感じる。
僕の目の届かないところに行ったこの人が、何処かで泣いたり、傷付いたりしていても、僕は知ることすらできない?
僕じゃない人間と、愛し合って、悲しみや喜びを分け合うことに、思いを馳せることしかできない?
生きていたって、そんな人生は絶対に嫌だ。
イザベラを傷付ける全てから守りたいし、悲しんでいるときは一番傍で寄り添いたい。
いつか彼女が恋をして、特別に人を愛すなら、その相手は僕以外、許せない。
僕がその相手になれないというのなら、生涯、彼女は恋なんて知らないままでいい。
自覚してしまった凶悪な感情が、胸の中で荒れ狂う。
その感情を落ち着けるよう、自分に言い聞かせる。
大事なものはまだ何も失っていない。失う前に、きっちり奪えばいいだけだ。
幸い僕には逃げられないようにする手段にも心当たりがある。
イザベラが目覚めるまで、僕はその道筋を立てながら、気持ちを落ち着かせた。
ちなみに、起床後、「所詮、悪役令嬢だし!」「結婚とかどうせできないし!」とかよく分からないことを言って、応じようとしないイザベラから、当初、質問予定だった理想の結婚相手について、無理やり聞き出した。
もう奪うことは決めたので、彼女が何を言っても、僕の行動は変わらないけれど、一応、聞いておこうと思ったのだ。
いつも強気な表情を一転させ、顔を赤くして、恥じらうように目を潤ませる姿は、年相応の恋に恋する女の子だった。ドキドキして言葉を待っていると、イザベラは「できれば、ありのままの私を愛してくれる人がいいなあ……」と言った。
それは、身分も貧富も能力も関係ない条件だった。でも、イザベラのことを知っているから、本心からそう思っているというのが、嫌というほど分かってしまった。
ありのままの自分で、色々な人間の心を奪っているくせに、どこまで対象を広げるんだろうと思うと、ものすごくイラッとした。顔は笑顔のままだったと思うけど、強い苛立ちを覚え、青筋が立ったのが自分で分かった。
ありのままのイザベラなら、出会った時からずっと愛している。人生を共にする相手の条件がそれなら、ますます僕で構わないだろう。
生まれてからずっと人の顔色を窺ってばかりだったから、イザベラは、本当に僕に人生で初めての体験をいっぱいさせてくれるな、と思った。