プロローグ
プロローグが一番暗いです。次からはもうちょっと明るくなります。
幼い頃、私は母と二人で、下町の中でも特に治安の悪い、スラムともいえる場所に住んでいた。
母は美しい黄金の髪に紫の瞳をしていたが、私は異国風の真っ黒な髪に黒い瞳をしていた。この国では非常に珍しく、隣国によく見られる色だった。
『母は隣国の男と恋に落ち、私を妊娠したのだろう』、『異国の人間とは結婚まで考えられなかった男に、母と私は捨てられたのだろう』、『私という娘を産んだことで、母の実家からは勘当されたのだろう』というのが周りから見られていた身の上だった。
母が、私の本当の出自を教えてくれることは、最期までなかった。
我が家は、母の針仕事で生計を立てていたが、大した収入があったわけではなかった。貧しく、私は常にお腹を空かせていた。
貧しい暮らしであったにも関わらず、母の気位は非常に高かった。母は、私に、格調高い話し方を教え込み、美しい立ち振る舞いを徹底的に身につけさせた。当然、こんなスラムでは、浮いた存在の母娘だった。
物珍しいというだけで、私は、この吹き溜まりのようなこの街の子供達の目をひいた。
嫌でも目立つ存在であった私が、近所のガキ大将を始めとする下町の子供達にからかわれ、泣いて帰っても、母が教育方針を曲げることはなかった。
そんな暮らしがずっと続いたが、私が八歳になった時、母が病に倒れた。
子供の目から見ても、母も私も痩せこけていた。もっと栄養のあるものが食べられれば、何とかなるのではと考え、誰かに泣きつこうとしたが、みっともないことはするなと許してもらえなかった。
やがて母はますます弱って、立つのも困難になった。
大切な人間が死ぬからなのか、一人で残される自分の身の上を恐れているのか、その両方なのか、今でも何に怯えていたのか分からない。
ただ、母が死ぬかもしれないことへの恐ろしさの余りだろうか。母の死の前は「怖い」という感覚しか覚えていない。
母の死の直前に、母から、見たこともない美しい宝石がふんだんに散りばめられた首飾りを渡され、母が死んだら使うように言い渡された。
『そんなの嫌だ』、『死なないでほしい』と泣き叫んだが、まもなく母は事切れた。
どれほど呆然としていたのかも分からないが、見慣れない立派な馬車が家の前に乗り付け、私は、驚くほど豪華な屋敷へと連れられた。後で知ったところによると、母は、近所の親切な女性に、母が死んだ後の対応を頼んでいたらしい。
連れていかれたところは、領主であるアームストロング侯爵家の屋敷だった。
屋敷では、銀の髪に赤目の無口な少女が、手際よく、私の湯あみを手伝い、私に美しく煌びやかなドレスを着せてくれた。それは、一撫でしただけで、母が内職で作っていたドレスよりもずっと上質だと分かる、柔らかな布地を使ったドレスだった。
身なりを整えられた後、私は領主の前に連れていかれた。茶色の髪に、深緑色の瞳をしたその男は、私の父だと名乗った。
彼は、私を値踏みするような視線で一通り見た後、溜め息を大きく一つ吐き、隣にいる屋敷の使用人と思わしき人物に何か指示した。
私は、その男性に連れられ、屋敷の食堂に行った。そこには、豪華でたくさんの食事が並んでいた。
見たこともない豪華な食事を見て、私は猛烈に腹が立った。
これだけしっかりした食事が一度だって摂れていたなら、母は死ななかったのではないか。母の痩せこけた体から、栄養不足は明らかだった。何故、同じ世界にありながら、あの時、この食べ物を手にすることができなかったのか。
母は、こんな伝手があったのに、頼らずに私を置いて逝ってしまったのか。置いていかないで欲しかった。プライドなんか捨てて、泥水を啜ってでも、私と一緒に生きてほしかった。
意味の分からない吐き気と涙が湧き上がってきたが、食事をした。泣きながら、お腹が満たされるまで、ずっと食べた。
食事が終わると、身なりを整えてくれた少女が、再び私の元にやって来て、私を、屋敷の中の豪奢な個室に案内した。
「おくつろぎください」という一言と共にドアが閉められ、一人になると、私はその場にへたり込んだ。腸が煮えくり返る思いで、しばらく動けなかった。
その状態でどれほど経ったのか、ようやく顔を上げると、眼前の姿見に映る一人の少女が目に入った。
身なりを整えられ、上質なワインレッドのドレスを纏い、こんなときでも背筋が伸びた姿は、我が身ながら、美しかった。だというのに、恨みの籠った光のない黒い目は、吊り上がった状態で、引きつったように動かず、真っ黒で艶やかに波打つ黒い髪はおどろおどろしく、気味の悪さを感じさせるものになっていた。
怨念の化身であるようなその姿を見た時、はっと前世の記憶を思い出した。そして、私が悪役令嬢と呼ばれる存在になることも。