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大人の交換日記3  作者: 安藤 強
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成就しない大人の恋愛物語

安泰の生活は人それぞれ価値観次第で大きく違う。又、それにより持たされる幸せもまちまちだ。

一見すると不逞な行為も、受け取る人間によっては、大切な事にさえなるのだ。この物語もそういう

価値観を描いた物だ。


事後に成り明子は祐樹の背中に縋り着き、

別れたくない事、如何にかして仕事を続ける言い訳が無いかを祐樹に相談した。そして、

最後に、サクラが冗談で話した二重生活の事を切り出した。

「御免なさい、勝手な提案です、祐樹さんがこの提案を飲むとは思ってないの。でも、何れ別れると解っていても、今直ぐは嫌!もう少しで良いから、貴方と一緒に居たいの」

 祐樹は天井を見上げ考えた、明子の提案を飲むべきか。自分でも昨夜色々考えていたので、明子の気持ちも理解出来たからだ。

自分が立場をわきまえて、行動すれば何とかなるか、いや、でもそれで、自分は納得するのか、我慢出来るのかと。

「明子さんに限らず、私も一緒にいたい、こうしてずっと居られたら、どんなに幸せか、でも、それは、貴方の家庭を壊さずに見守る事が前提です」

「そうよね、そんな事祐樹さんには辛過ぎる事ですね。それを求める私は本当に酷い女ですね、最低です、御免なさい」

 明子は自重して祐樹に頭を擦り付けて謝った。

「前は」

 祐樹が何かを切り出した。

「え?」

「前に体の関係の時は、私は自分の思いの丈を言えなくて苦しんでいました、でも・・」

「でも?」

「でも今はあの時とは違います、明子さんには解って貰った、それに明子さんも私を好いてくれている」

 祐樹は明子の頭を何時もの様に抱き寄せてその香りを嗅いだ。

「そして今日曲がりなりにも噛ませて貰いました・・・」

「はい、それが」

「あの時とは違うなと、状況が。気持ちは苦しく成りませんよ、きっと、だって、明子さんは私の事も、旦那さんと同様に愛してくれている、その事を感じられる、私はそれだけで充分だ。そうしましょう、私は影の存在ですからね、明子さんをこうして抱けるだけでも、私は充分満足です、あの頃の苦しさも今は無い、そうしましょう」

 淡い期待が叶って明子は祐樹に乗りかかり、喜びを露わにする。

「本当に!良いの?こんな理不尽な事を納得してくれるの?」

「私も正直言って、今直ぐには離れたくない、何より子供達の事が気になります。責めて浩二君が大学を出る迄は見届けたいと思いますから、渡りに船です」

 明子は祐樹の胸に顔を乗せる、その視線は目を捉えて離さない。

「有難う、心底嬉しい、感謝します私の我が儘を聴いてくれて」

 明子はキツク祐樹を抱きしめた。

「となれば、言い訳ですね、働く言い訳が無いといけません」

「そう、それが問題で。サクラとも色々話したけど、良い考えがなくて」

 祐樹は考えた、何か理由は無い物かと。天井を見ていた目を、あれこれ他の物に視線を移してヒントは無いかと物色した。その時に

浩二の演奏会後で、楽器屋の店主とした話を思い出した。

「バイオリン、そうか、バイオリンだ!」

「バイオリン?」

「そうです、バイオリンです」

「バイオリンが何か?」

「嫌だな、明子さん音楽家でしょ、浩二君の今使っている品、あれ練習用ですよね」

「はいそうですけど」

「大学でもあれでコンクール出るのですか」

 ここ迄言われて、明子もその事に気が付いた、そうだ、大学では買い替えを予定していたのだ。

「銀座の主人が話した通り、浩二君将来は有望です。それなら、尚更よい品は必要です、内の息子でさえ、それなりの品を用意した位です。

浩二君クラスなら今からでもプロ用を用意しても良いのでは無いですか」

「そうか、その為の資金が必要ね」

「プロ用となれば、安くとも1000万はします、どうですか、これを理由にすれば、働く必要有りますよね」

 音楽に明るい身で在りながら、恥ずかしい事だ、バイオリンの事までは神経が行って無かった。明子も祐樹の提案に二つ返事で賛同した。


 自宅に帰り明子は祐樹の提案を元に、話の筋を組み立てていた、子供達が帰って来ても

その事ばかり考えていた。夕食も済、明子は先に風呂に入ってゆっくりと考える時間にした。

浴槽に浸かりホッとして、あれこれ、話しの持って行き方を試してみた。

「最初はアレを話して、それから」

と反芻して自分の頭に叩き込んだ。その時明子は何気に体に手で湯を手繰らせ撫でる、その視線に今日祐樹に付けられた胸の歯形が目に入って来た。それを認めると笑みが零れてしまう。

「歯形を見るだけで、こんなにも嬉しくなるなんて、新発見ね!」

 明子は今まで考えていた事は飛んでしまい。

今日の祐樹との情事を思い出してしまう。

「あの人、今日は嬉しそうにしていたな、ここを噛めて。正直痛かったけど、私も嬉しかったな。でも、今日だけね」

 等と歯形に向かって言い聞かせる。そっと撫でてみた、少しだけ噛まれた感覚を感じた。{これか、これが祐樹さんの愛の形なのね}視認出来る事が明子を尚一層幸せにした。

その時だった。春奈が前触れも無く突然脱衣所に入って来た。勢いよくドアを開ける音がした、ガラス戸越しに姿が認められる。

「お母さん、私明日早いから、お父さんが帰って来る前に先に入りたいの。一緒に入るよ!お湯足しといて」

 急な申し出に明子は困惑した。拙い、歯形を見られると。

「何?急に、何時も最後じゃない」

「だから明日早いの!」

「後で良いでしょ、私の後でも」

「もう脱いでいるの、何よ!何時も一緒に入っても、何も言わないでしょう。何か都合が悪いの?」

「そんな事、兎に角今日は・・」

 言いかけた時には既に、春奈はガラス戸を開け勝手に入って来ていた。

慌てた明子はタオルを胸に当てて隠す。その仕草を見逃さず春奈は狭い浴槽に強引に入って、明子が隠したタオルに手を掛けた。

「何?今何を隠したの?見せてよ」

「止めなさい、いいから」

 明子が制するよりも早く、春奈はタオルに手を掛ける。それを止めようと明子は必死で抵抗するが、春奈は強引にタオルを引っ張って、明子の乳房を露わにした。

「わあ、やだ、何よ!これ」

 手で隠しても既に遅かった。

「ひっかいたの、痒くて」

「違う!これ?」

春奈は明子の手をどけて、乳房を手に乗せ見つめる。

「やだ、歯形じゃん、如何したの?」

 春奈の視線を見て居られず、明子は目が躍っていた。

「歯形?違うわよ、だから掻いたの」

 おどおどする明子をしり目に、春奈は確信をついて来た。

「あのね、お母さん、私だって経験有るからわかるよ、これは歯形です」

 明子は観念した。もう駄目だ、春奈にバレてしまった。言いつくろう事も出来ない。

「そう・・・歯形よ、噛まれたのよ」

「そうだよね、どうしたの?・・・・お母さんまさか?」

 明子は覚悟を決める、もう諦めていた。

「そうか!解った!」

 春奈の顔が少しだけ笑っていた。疑いの念を向けると思っていたので、その顔が以外だった。何か違う事を考えていそうだ。

「お父さんね!嫌だ、こんな性癖が有ったのか」

 思いもよらない救いの言葉だった。勝手に春奈が勘違いしてくれた、明子はその助けにのった。

「そうよ!お父さんよ。昨晩やけに興奮していて、それで。でも内緒よ、お父さん恥ずかしいから絶対に子供達には秘密にしておけと、

だから隠したの」

「そうか、へーお父さんがね、成程ね」

 春奈は食い入る様に歯形を眺めていた。

「そんなに見ないの、見世物では有りませんよ」

「うん、でもそうか、いいな、なんかホッコリするよ」

 春奈の顔が満面の笑みに成る。

「ホッコリって?何笑っているのよ、恥ずかしい」

「子供としては、嬉しい事だよ」

「嬉しい?何故よ」

 春奈は右手の上に明子の乳房を乗せ、左手でその歯形を撫で廻しながら、自分の気持ちを話して来た。

「だって、この年に成っても、お父さん、こんな歯形を付ける程、お母さんに興奮するなんて、それだけ愛しているって事でしょう。その年でそれだけ愛し合う夫婦って、少ないと思うよ、そう思うと娘としては嬉しいよ」

 春奈の言葉に明子は罪悪感に囚われてしまう。これは子供を騙している行為だからだ。黙って聴いていて、明子は春奈にすまないと思っていた。

「何?お母さん、暗い顔して、私にバレたのそんなに嫌なの」

「そうじゃない、こんな事って、年端もいかない若い子がするような事。お母さん達も未だ子供と思ってね」

「それは気にし過ぎだよ、良いじゃないの、偶には、夫婦円満なら何よりだよ」

 春奈は相も変わらず一人でニヤニヤしている、明子は後ろめたさを隠して笑って返した。


 春奈を残し、先に風呂から上がる。寝間着に着替えて、寝室の化粧台に向かい、ドライヤーで髪を乾かし、明子は溜息一つ付いた。

「ハー、そうだ、今までは子供達の為だったのに、これからは自分の為に・・・」

 そう思うと、今までの気持ちではいられない何かを感じていた。

先程の春奈の態度からそう気づいた。幾ら最後は浩二の為に成るとは言え、それは後付けの理由だからだ。明子は改めて、自分の行動に迷いが無いかを自問した。

「貴方は良いの、本当にそれで」

 鏡に映る自分に向かい問い詰めていた。

 目を瞑り時間が過ぎるのを待った。2分はそうしていただろう、明子は立ち上がる。

「何を迷っているの!明子、貴方はそうすると決めたでしょう、もう策は考えたじゃない、

これ以上はもう考えるな」

 強く自分に言い聞かせ、心を決めた。


 その夜文彦が遅くに帰宅した。夕食と風呂を済ませ、寝室に来た文彦に、明子は段取り通りに話を進めた。

仕事を続けたい件と、そしてその理由を、話が、浩二のバイオリンの金額に成り、文彦が驚嘆の声を上げる。

「1000万円だって!そんなにするのかプロ用は」

 狼狽する顔が驚きの大きさを語る。

「それは解った。でも浩二は来年大学生じゃないか、今からプロ用とか必要ないだろう、もっと安い物で充分じゃないか」

 思いもよらない金額を聞いた文彦は、他の選択肢も有るだろうと明子に提案して来た。

「貴方の考え解る、けど、大学生クラスでも

まともに戦える品になると、最低でも100万はするの、上位を狙う生徒さんとかになると2~300万の品で戦ってくるのよ」

「それで充分だろう、駄目なのかよ、それでは」

 文彦も言い返してくるが、知識の無い事であまり語気に力が無い。ここは押しの一手だと思った明子は畳みかける。

「貴方、浩二はね、学校の先生方も認める才能の持ち主なのよ、将来を嘱望されているの。先生にも言われたの、浩二君はその線で考えて次に購入する楽器は良い品を選んだほうが良いと」

「でもなあ、それにしても早すぎだろう」

 明子に押され、文彦は弱気に成って来た。ここが勝負と思った明子は最後の一押しの理由を述べた。

「貴方、良く考えて、今仮に2~300万の品を購入しても、卒業時にプロを目指すなら

その時に又1000万かかるのよ。だったらいっその事次に購入する品を1000万の物を買えば一回で済むの、その方が帰って安上がりになるのよ、違う?」

「そうだけど、それでは春奈が嫉妬しないかい、浩二にばかり金かけて、私は置き去りにしてと」

 ここ迄言い包めれば安心だ、春奈の事は先刻相談済みだったのだ。

「それも心配無いの、春奈はね、音楽は大学迄と決めたのよ」

「え!そうなのか、初耳だぞ」

「未だ私にしか話していないの。だから今貴方に話すけど、あの子はね自分よりも浩二に才能が有る事解っていたの。それに自分の限界もね。それで、もしこの先お金がかかるなら、自分よりも浩二にと話してくれてね。自分は卒業したら、音楽の評論関係に進みたいそうなの、来年からその資格を取る勉強も始めるそうよ」

「何だ、俺の知らない処で色々有ったのだな、知らないのは俺だけか」

 文彦は寂しそうな顔だ。

「だからね、春奈の分も浩二には頑張ってほしいの、あの子の夢を叶える事は私の夢を叶える事でも有るの。私はね子供の為なら何でもする覚悟は有るの、だから・・」

 明子が続けようとした時、文彦が割って入る。

「解る、お前は子供達の為になら何だってするよな、何たって子供一番だからな。それに浩二の夢の為、その言葉には負けるよ・・・解った、又お前を頼る事になるのか、俺は父親として頼り無いな」

 良かった作戦成功だ、納得してくれた。後は文彦の後ろめたさを払拭しよう。それさえ済めば明子も万々歳だ。

「何言っているのよ、二人の力でしょう、二人の子供なのだから」

「そうだけど・・・姉さんの言葉を思い出すよ。血が繋がっていない俺に、文彦の為なら何でもすると話してくれてね、あれが忘れられなくて。そう思うと、浩二はお前が生んだ子だ、姉さんが俺を思った以上に、浩二の為になら・・・そう思うと俺は何も反対は出来ないな」

「有難う、解ってくれて。私は浩二の為になら、浩二が夢を叶える事が出来るなら、もしそれが死と引き換えでも、きっとためらわないと思う」

「おいおい行き成り死とかは大げさだろう。

でもお前だったら、きっとそうするだろうな、

本当に」

「はい{笑う}これで何とか目途が見えた。今年一年で頭金を溜めれば、入学の時には

新しいバイオリンが手に入る。それさえ有れば浩二も今よりも、もっと頑張れる、間違いなくコンクールでも良い成績を残せる。残金は卒業までに私がローンを組んで払うから、それで全て解決するから、私に任せて」

 事は万事明子の思惑通りに進んだ。これで問題は無くなった。大手を振って今まで通り祐樹との時間を楽しめる。明子は暫くぶりに枕を高くして眠りに付いた。


 それから一年が過ぎて初春の季節を迎えていた。

今日、明子は家族4人で銀座の例の楽器店を訪れていた。高級店の造りに困惑気味の3人をしり目に、明子は主人に家族を紹介していた。

既に主人とは祐樹宅で面識が有った。事情も話して置いたので、家族に祐樹の事を詮索される心配も無い。


この日は主人が用意したバイオリンを購入に来ていたのだ。

「此方がご用意致しました品でございます」

 主人は手袋をした手で、うやうやしくバイオリンを浩二に手渡した。

「持っても良いですか」

「勿論ですとも、何ならこの場で弾いて下さい、良さが解ると思いますよ」

 浩二は手にしたバイオリンを慎重に弾いてみる。ウットリする様な音色だ、明子も春奈もその響きに感動する。

「わあ、素敵な音色、何て表現したら良いのか。学校で他の生徒さんが弾いているのを聴くけど、全然違う。ねえお母さん、そう思うでしょう」

 確かに、春奈の言う通りだ、普段聞き慣れている浩二の弾くバイオリンの音とは雲泥の差が有る。

「本当ね、こんなにも違う物なのですね。やはりビンテージ品は格が違いますね」

「はい、左様でございます、流石に音楽家で御座いますね。素人様にはこの違いが分かる人は多くおりませんが、その道の方にはやはりお分かり頂けますか」

「俺には何も分からないな、やっぱり俺は素人だな」 

 文彦は自虐的に自分を落として笑いを誘うと、他の皆は笑いだす。和やかな時間だ。

「浩二君はお気に入りになりましたか、それが重要です」

「はい、とっても!本当に良いの、父さん、母さん」

「はい、お父さんに礼を言いなさい」

「おいおい、これはお前だろう、母さんにだよ、俺じゃ無い」

「二人共、見せつけないでよ、浩二、二人にだよ、お礼を言いなさい」

 春奈が二人を浩二の前に押し出す。

浩二は黙って深々と頭を下げた、そしてじっと下を向いたまま、そのままの姿勢を崩さない。何時までもその姿勢で居るので、明子が頭を上げる様に急かした。

「浩二?どうしたの、もう良いから頭を上げなさい」

 明子が浩二を起こすと、浩二の目には涙がいっぱい溜まっていた。

「御免泣いちゃったよ、僕、こんなにも良い両親を持って。何て言ったらいいのか、でも本当に有難う、それしか言葉が思いつかなくて」

 明子も文彦も貰い泣きしてしまった。春奈もハンカチで目を拭う。店主は店の奥に控えていた、後継ぎを呼び出して、浩二を紹介する。

「おい、お前、ちょっと来なさい」

「はい何だいお父さん」

「この方、野口浩二君だ、将来有望の奏者様だ、私が見込んだ方だ、良く名前とお顔を覚えておきなさい」

「はい、宜しく」 

 後継ぎと握手を交わす浩二。

「私も、もう年ですから、此奴が次は浩二君をお相手すると思います。そして将来は是非店の奥のアレを、演奏する奏者になって下さい」

 店主が指した奥の壁には、厳重なショーケースが有った。中にはストラディバリウスが鎮座していた。

「あれは、もしかしてストラディバリウスですか」

 店主が大きく頷いた。浩二が溜息をついた。

「左様です、これは私のモットーですが、大金を積めば買えると思われては困ります。アレの値段は時価で3億ですが、アレに見合った腕で無ければ私は決して売りません。今日購入して頂いたこの品も、今の浩二君ならと思いましてのご用意で御座います。ですから何れアレを弾けるに相応しい演者に成って下さいね、それまでは、きっとアレはあそこに鎮座しています」

 店主はニコリとして浩二の頭を撫で廻す、

照れた浩二ははにかみ顔だ。その浩二をにこやかに家族は包んでいた。


 金曜日、明子は祐樹と二人ベッドに横たわり、先日のバイオリン購入時の経緯を説明していた。

「そうか、喜んでくれたか、良かった」

「本当に有難う、色々手配してくれて。息子がね、涙して感謝してくれて、あれには貰い泣きしたの、貴方にも見せたかった」

「泣いたのか、そうか」

 祐樹はその光景を想像した、瞳の裏に浩二の喜ぶ顔が想像出来た。

「その時の家族の姿を想像するだけで、本当に私も幸せです。・・・それにあのバイオリンは、実は縁が有りましてね」

「縁?」

 祐樹はあの時の事を思い出していた。そう、

飛行機が墜落したあの日の事を。

「アレは友則が気に入っていた品だったのです、ですが未だ早いと嫁に止められましてね。それで他の人の手に行っていた物が、訳あってつい最近戻って来た物なのです、だからアレを浩二君が弾くなんてね、友則も喜んでくれると思います」

 思いが有る事、その記念の品なのだと、付け加えた。

「まあ、そんな縁が、不思議ですね、このタイミングで戻って来るなんて」

「そう、だから主人から知らせが来た時は、

迷いなくアレを押さえました」

「そうだったのね、でも美鈴さんどうしてその時は止めたの?何か事情でも有って」

「高額ですし、当時の友則には未だ見合っていませんでした。それは店の主人も同意見でしたね」

「それでその時は別の物を?その時は幾ら位の物にしたの?」

「たしか、十分の一位の物でした、あの頃の友則にはそれで丁度良いと」

「十分の一?それってもしかして、リビングに有るあのバイオリンの事?」

「そう、あれですね、アレが遺品に成るとは、購入した時は思ってもいませんでした」

 明子はこの会話で頭の中がハテナに成る、確かリビングのあのバイオリンは300万と言っていた筈だ。

自分の記憶が間違い無いならそうだ、それが今回の品の十分の一に成る訳が無い、明子は祐樹を問い詰める。

「あの、確かリビングのバイオリンは300万したと聞いたけど、覚えている?」

「うん?そんな事言ったかな」

「うん、初めてここに来た時に、何気に聞いたの、覚えている、間違いない。それが十分の一って、どうゆう事?浩二の品は1000万よ、十分の一では100万よね、金額が合わない、ねえ何隠しているの?」

「何も隠していないさ、何も」

 祐樹は明らかに拙いという顔に成る。必死でその表情を取り繕うが、明子は更に追及の手を増して行く。祐樹の胸の上へ乗りかかり、両手で冗談めいて首を絞める仕草をして、祐樹を追い詰める。

「こら!近藤祐樹!本当の事を言いなさい!昨日のバイオリン、本当は幾らなの、正直に言いなさい」

 観念した祐樹は明子の両手を掴み、解ったと謝った。

「白状するよ。3000万だ」

 予想以上の金額に明子は驚愕の顔になる。

「え!3000万!だって昨日300万頭金入れて、残金のローンもちゃんと700万で組んだのに・・・さては祐樹さん!」

「2000万は俺が出したのだよ。だって、

それ位しても良いだろう。君だって、ちゃんと1000万払うのだから、問題無いだろう、な!」

 明子は底知れない祐樹の愛に、笑い半分嬉し泣き半分になってしまう。

「もう、どうして貴方はそうなの?どうしてそんなに優しいのよ、どうして?」

 明子は頬に涙を流した、祐樹は何も言わすにその涙を拭った。

「そんなに優しくされたら、困るじゃないのよ、もっともっと好きに成るじゃない。離れられなくなるじゃない、何度も言うけど、期間限定の間なのよ。別れる時辛いじゃない、こんな事もうしないでよ」

「解っている、解っているよ。でもね、アレは友則が弾いたかも知れないのだよ、そしたら、あの金は友則の為に出て行く金だ、それを浩二君の為に使っただけだよ。浩二君が友則の代わりに弾いてくれたら、是非それを聞きたいのだよ」

 それを聞いても明子は納得が行かない様子だった。

「でも、でもね、本当にもうこれ以上は・・・」

「私の我が儘許してくれよ、こうした事でも私は幸せなのだから」

 祐樹は胸上の明子を自分に引き寄せ頭を撫でる、何時もの香りを嗅いでいた。


 それから4カ月が経ち、夏を迎えていた、この日は浩二の出る音楽コンクールの日だ。祐樹は何時もの変装をして、遠くから明子家族を眺めていた。浩二の手にするバイオリンを認め{よしよし}と頷いた。

「友則の代わりに弾いてくれる。ありがとう浩二君!」

あれでの演奏が聴けると思うと、心がワクワクしていた。

一つ気に成った事は、春奈の姿が見えない事、きっと何か用事でも有るのだろう。今日は姿が見られずに残念と思う。

それともう一つ、文彦の腹周りが更に大きく成っている事が祐樹の目を捉えていた。

「あれれ、旦那さん又随分と腹が出て来たな、

余計なお世話かも知れないが、メタボを少し気にした方が良さそうだぞ」

そう一言呟き会場内に入った。


待っていた浩二の演奏が始まり、祐樹は聴き入った。

「これか、この音色なのか、友則がほれ込んだ音は。流石浩二君上手いものだな、きっと大成するぞ」

祐樹は納得していた。演奏が終わり結果発表を迎えた、浩二は何と金賞だった。割れんばかりの拍手に迎えられ浩二が照れ臭い顔で壇上に現れた。晴れの舞台で堂々の受賞だ、祐樹は満面の笑みを浮かべ痛く成るまで手を叩いていた。

「やったな、浩二君!でかしたぞ」

祐樹は見届けて会場を後にした。

「帰ったら、日記におめでとうを書かないとな」

 祐樹の心は弾んでいた。


 一日が終わり祐樹は今日の事を日記に記していた。

{明子さんおめでとうございます、浩二君見事に金賞受賞でしたね。浩二君の弛まぬ努力の御かげですね、流石に貴方の子です、才能に溢れプラス、何より頑張り屋さんですから、今後より一層注目度が上がりましたね。

明子さんも鼻高々と思います、私も同じ思いです、これからも楽しみにしています。

春奈ちゃん昨日はお目にかかれませんでしたが、何か別用でも有りましたか、お顔が見られずに残念でした。まあ彼女も今後の方針が決まったようですから、その方面の事で忙しいのでしょうね、次の機会にお目に出来る事を楽しみにしましょう。

そして気になったのですが、旦那さん又少し太りましたね、お腹周りが大分太くなった様子です。私と同じに明子さんが栄養管理されているのに、不思議です、油物が好みと聞いていますが、少し心配です。余計な事ですが、我が父親がメタボでした、それが原因での死でしたので、気になりました。ついでにと思い書かせて貰いました。

                  以上

                祐樹より

 書き終わって読み直しをしてみて、旦那さんの事までは、余計なお世話かなと思ったけども、近頃は年が近い社内の部下達と、体の彼方此方にガタが来ている事を良く話題にしていた。

同い年という事で気に成ってしまったのだ。まあ偶には良いだろう、少なくとも悪い気には成りはしない、祐樹は日記を閉じた。


 次の日に祐樹が明子からの返信を読むと、

前日の件についての返礼が書かれていた、読むと何時もの様に明子の気遣いに溢れた事が書かれていた。

そして、昨日祐樹が余計な事と思った旦那の事が少し愚痴り気味で書かれていた。

{ご指摘の通りに最近お腹が出だしたのですが、食事に関しては管理をしても油物が一品無いと、納得しない性格で。寧ろ油物だけでも良いと言う始末で、困っています。思うに貧しい時の反動で油物異存に成ってしまったらしく。そういうのって中々治らない物ですよね。祐樹さんに何か治る方法でも聞きたいくらいです。

と書かれてあった。そうか何か方法ね、そう言われても、普段自分の体のケアを怠らないタイプの祐樹には、まるで想像がつかない「俺では何も役に立ちそうにないな」

祐樹はそれでも何か役に立ちたいと色々ネットで検索したが、結局はダイエットして、食事制限するしか方法は無いと答えは行きつく。

「そうだよな、最後は自分の意志の強さで決まりだよな」

 祐樹は諦めて電源を切った。


 金曜日に成り明子が祐樹宅に出勤すると、

既に祐樹がリビングで待っていた、テーブルには幾つかのダイエット本が乗せてあった。

「なあに?このダイエット本」

「旦那さんの為にだよ。結局最後は自分の意志の強さしか、メタボ撃退の良法は無いと思ってね」

「気遣いは有りがたいのだけど、あの人はダイエットには無関心の人だから、どうかな」

「でも何とかしたいのだろ」

「そうだけど、でも無駄に成りそうよ。だって会社の健康診断では、ギリギリだけど全て数値はクリアしていて、私が何を言っても、

{俺はメタボの健康者だぞ}って、全く取り入ってくれないの」

「そうか、でもな、少し心配なのだよな」

「どうして?」

「私の親父の事、日記で少し触れたけど。親父が死んだのは丁度55の時だった、親父もメタボでね、旦那さんと同じ油物が大好きで、真面に運動もしなくて。

健康診断では問題無いと出たのだけど、たまに頭痛がすると言い始めたのだよ。それ迄は脳の診断はしていなくてね、この機会に脳の診断をとしつこく言っていたのだけど、何時まで経っても聞き入れずにいてね。

そうしたら案の定、脳梗塞で急に逝ってしまってね、その事が頭を過ったのだよ」

「そうだったの、それで気に成ったのね」

「余計な事とは思うけど、最近旦那さん、頭痛とか無い?頭痛いとか話す事ない」

「そう言えば最近、急に頭を押さえて、如何したのと聞くと、ちょっと眩暈がしたと言っていたな」

「眩暈か、それ心配だな、会社の健康診断では脳迄は見ないだろう」

「えぇそうね」

「だったら一度脳の方も診て貰ったほうが良いのでは無いかな?」

「そう、そこまでしなくても」

「気持ちは解るけど、親父もそう言って、ほったらかしで居たら急に逝ってしまったのだよ、用心してし過ぎも無いだろう」

「そう思うけど、だけどきっと旦那が嫌がると思うな」

「でも無理やりでも連れて行きな。私も旦那さんも来年50なんだからね」

「そうか、50歳か、もうそんな年になるのか」

 祐樹は頷いた、その手は明子の手をしっかり握っていた。


 その夜の明子はそれと無く文彦に体調の事を聞きだしていた。メタボの事、眩暈の件等についてだ。

祐樹の父親の事も友人の親の事として例に上げてみるが。文彦は何を話しても大丈夫だと言って全く受け付けてくれないでいた。

そうしたやり取りを明子は暇が有る度に続けていた。

その矢先に心配した事が起こる。

この日は家族で外出の予定でいた、中古だが文彦は愛車を購入して久しぶりに皆でドライブに出かける事に成っていた、出かける直前になり文彦の異変に明子が気づいた。

「貴方如何したの」

「いや、ちょっと頭痛がしてね、でも大丈夫、何時もの事だから」

「え?何時もの事?何時からなのよ」

「そうだな、半年前位かな、ちょっとズキンとするだけだ、暫くしたら収まるから」

「ちょっとヤダ、半年も前からなの、眩暈がしだした頃よね」

「そうだな、でも何時もの事なのだよ、頭痛薬を飲めば収まるから」

「そういう問題じゃないよ、話したよね、それと同じ症状の人の事」

「あぁ、でもその人は友人のお父さんだろう年寄りと一緒にするなよ」

「何言っているのよ、友人のお父さんだけどその方が亡くなったのは55の時よ、貴方来年で50でしょ、大して変わり無いのよ」

「でも、俺の方が若いじゃないか、問題無いと思うぞ」

「若いって、五つしか変わらないのよ、駄目

今すぐ病院行くから、ね」

「大げさだな、本当に大丈夫だから」

「駄目、駄目だってば」

 明子の説得空しく、子供達が楽しみにしていた事を言い出されて、この日は文彦に押されてしまう。

それ以来明子は事有る事に文彦に病院へ行く事を提案するも、何かにつけ言い訳をされてはぐらかされてしまっていた。

万策尽きた明子は何か良い策は無いかと、

祐樹に相談する事にした。


 祐樹が帰宅して、明子からの日記を読んでいる、そこには文彦の件で色々と書き記されていた。

万策尽きてしまい、何か良い考えが無いかと請われている、成程余程困っている事が伺えた。

「そうか、何を話しても聞く耳持たずか。今忙しいのかな。会社で何か特別なプロジェクトに携わるとかなのか、忙しいのだろうな。

そうか、良い考えね、そうだな・・」

 祐樹は自分の立場で考えてみた。もし病気の疑いが有りながら、自分はその事で意地になり、診察を受ける事を拒否して、その時に何を言われたら、それを快諾するかを。

「嫁にしつこく言われても、そうだな、何を言われても、言い訳するか」

 自分でもそう思ってしまう、きっとそうなるに違いない、この場合何を言われるかでは無いと気づく。

「嫁に何を言われてもなあ・・・・子供達か!そうだよな、子供達だ・・・・そうだ!」

 祐樹の頭の中に閃きが有った。何を言われるでは無い、誰に言われるかだ!

「子供達だよ、子供達に懇願させて、体の事心配だからと、子供達に言われたら流石に断れないだろう」

 思い立ったら早い、祐樹はその事を日記に

詳しく書き残した。


 祐樹にヒントを貰い、明子は早速実行に移した。翌日に明子は春奈と浩二にレクチャーしている。今日帰って来たら、文彦を追い詰めて、病院へ行く約束を取り付ける事を二人に指示していた。

「良いい!貴方達にかかっているの、二人の働き如何によって、お父さんの健康状態がハッキリするの。貴方達、お父さんに長生きして欲しいでしょう?」

「勿論よ、私は自分が編集長になる姿をお父さんに見てほしいよ」

「僕も、絶対世界の舞台に立つから、父さんには必ず見てほしいよ」

「だったら、今から健康でいないとね、だから今日は必ず言質を取るのよ。病院へ行って脳の診察を受けると。解った!」

「はい」 

 春奈と浩二は元気に返事をして居間で文彦の帰りを待った。


 文彦が帰宅すると居間のソファーには親子3人が正対する形で座っていた。3人に睨まれて文彦は狼狽する。

「何だ、3人して行き成り、何があったのだよ、俺が何かしたか?」

「貴方、いいから。座って」

 明子に促されて文彦は一人向かいに座る。

「貴方今日は二人からお願いが有るそうよ、

春奈から言いなさい」

 春奈はキリットした眼つきで文彦を見つめる、じっとみられ文彦は明らかに落ち着かない体だ。一拍おいて春奈が口を開ける。

「お父さん、お願いだから脳の診察を受けて下さい」

 何だ!そんな事かと、安堵の顔に成る。

「え?それか?そんな事かよ、驚かせるなよ、まったく、何が有ったかと不安だったのだぞ、俺が何か仕出かしたかと思って。何だよ、全く、そんな事かよ」

 拍子抜けした表情の文彦。

「それかじゃ無いよ!お父さん私の夢は話したよね」

「あぁ、何だかあれだろ、偉い物書きに成るのだよな」

「偉い物書きでは有りません、編集長です、来年就職する出版社の。でもその為には何年も時間が掛かるの、この意味解るでしょ」

「それはそうだろう、行き成り偉くは成れないよな」

「そう、だから・・・ここからは浩二貴方も話なさい」

 待ち構えていた浩二が話す。

「父さん僕の夢も知っているね」

「ああ、勿論、世界的なバイオリンの奏者になるのだよな」

「そう、でもその為には僕も何年も時間がかかるの、だから・・・」

 浩二が言いかけた時に、明子が割って入り、話しを纏めにかかる。

「此処からは私が話すから、子供達は貴方の事、体の事が心配なのよ。早逝されたら困るの、長生きして貰わないと困るのよ。だからね、こうしてお願いしたいと、二人が話すと言ってくれたの。ね、そうよね、二人とも」

 二人は頷いた、そうして息を合わせて二人は立ち上がり、文彦に対して一礼した。

「お願いです、脳の診察受けて下さい」

 二人のこの姿を見て、文彦は涙が目から零れ落ちていた。{すまない}と言テーブルに頭を垂れていた。

「解った、そんなに心配していたのか。お前達そこまで、そんなに俺の体を気遣ってくれていたのか。俺は本当に父親失格だな、もう何も言わないでくれ、解ったよ、受けるよ」

「本当に」

「あぁ、ただし、今のプロジェクトが終わる迄待ってくれ、それが終わったら診察でも、手術でも何でも受けるから、な!」

「今のプロジェクトって、何時終わるの?」

「半年先だ」

「半年も!」

「たった半年だ、今まで大した事無かったから心配ないよ」

「でも」

「頼む、それだけは譲れないのだ、何しろ今回のプロジェクトはやり遂げたら、社史に名を残せるのだ。俺は何かお前達に誇れる物を残したいのだ。姉さんの事から始まって、浩二のバイオリンの事も、明子にオンブに抱っこだったろう、せめて仕事だけでも、何か誇れる事を見せたいのだ。だから、今回だけは後半年待ってくれ、お願いだ」

 文彦からは強い決心が漂って来て、明子もそれを察した。本当は直ぐにでも受診して欲しい処だが、文彦の意見も解る。父親として立派な姿を見せたいのが感じられた。明子は渋々了承した。

「解ったから、その代わり半年後は問答無用よ、良いわよね」

「ああ、約束するよ」

 3人はやったと手をパン!と叩き合った、

文彦もその輪に入ると春奈と浩二を抱き寄せて、有難うと頭を撫でまわしていた。


 翌月曜日の夕方、祐樹は明子の日記を読んでいた。

「どうれ、どうなりましたか」

{祐樹さん、作戦上手く行きました。

「そうか、良かった」

 でも一つ不満なのは、直近のプロジェクトが終わってからとの事で半年先にとの事です、

「そうか、半年先に、でもまあ、それでもよかった」

 祐樹は安心した。明子からの日記に目を通し終わると、祐樹は文彦の気持ちも理解出来たので、返信を書くときにそれも盛り込んで明子に残した。

{明子さん、旦那さんの事、取り敢えず良かったでは有りませんか。半年先に不満と有りますが、私も男親でしたから、旦那さんのお気持ち解ります。私も親父が急死しなければ、社会人リーグでもう少しプレーを続けて、自分が活躍する姿を下の息子に見せてやりたいと思っていました。

男親と言うものはそういう者なのですよ、誇れる自分の姿を子供達の目に残したいのです。言い換えると、カッコイイ姿の思い出を残したいのです。雄の猫が縄張りにマーキングして、自分の強さを知らしめるのに似ていると思います。雄の本能ですかね、だから、半年は待ってあげましょう。

何より、今回の事、私の思い過ごしとも思います、親父の事が脳裏に有り、用心に越した事は無いと、危惧しすぎたかもしれません。

本当は単なる片頭痛持ちに過ぎないかもしれませんから、旦那さんが大丈夫と言うのなら信じて待って上げても良いと思います。

                  以上

                祐樹より

 祐樹も書いていて、自分の思いすぎだろうと感じていたから、こう書いて〆た。明子さんもこれで納得して、待って上げるだろう。

 

3ヶ月が経った寒い1月の下旬、朝からこの日は雨も降り、布団から出るのが大層億劫な日だった。

日曜日の事も有り、普段より寝坊して良い日なので、明子は目が覚めても直ぐに布団から出ないでいた。寒さが体に堪える年に成ったと感じるこの頃だ、余計に布団から出たく無かった。

文彦は未だ深い眠りに付いていた。このまま眠り続けるか、いっその事起きてしまおうか、迷う処だ。文彦に声を掛けて起きる様なら起きようと、明子は文彦を起こしてみた。

「貴方、起きて」

「うん、何だ、もうそんな時間か?」

 すんなり起きそうな気配だ、それなら起きるとするか、明子は気持ちを固めた。

「もう9時よ、そろそろ起きましょう」

「9時か、そうか、では起きるか」

 文彦が起きようとベッドの淵に座ると、頭を抱える。

「如何したの?行き成り」

「うん、今ちょっと、ズキンとしてね、今日は寒いだろう、寒暖差が有ると余計にズキンとくるんだ」

「大丈夫?」

「あぁ、ちょっとすれば収まる、その薬を取ってくれ」

「でも、こんな市販品で誤魔化して、やっぱり早く病院行こう」

「大丈夫だって、季節の制だ、寒いからだ、

温かい処では頭痛は起きないから、平気だ」

「でも」

「約束したろう、後3ヶ月だ、大丈夫だって、余計な心配はしないでくれ」

 文彦は市販薬を口に入れて飲み込んだ。部屋の暖房も入れて、温まると{ほら何でもない}と、自分を見せて明子を誤魔化した。

明子は一抹の不安を拭いきれずにいた。


 不安の気持ちを日記に残した。それを読んだ祐樹がネットでそれ関連の事例を検索していた、何か答えは無いかとアレコレいろんなページを見ていた。

「沢山ページを見ても、素人の目にはこれと言う答えは見つからないか」

でも、古傷を持つ身としては、旦那さんの言っている事象も理解出来た。自分自身も足首に古傷を持つ身だったからだ。学生時代に捻挫をして、それ以来、寒く成ると痛み出していた。現役時代は痛み止めの注射を打って誤魔化していた祐樹は今でも寒くなると確かに痛みを感じていたのだ。

そうだな、自分でもそういう事は有るのだからと。文彦の症状もそれに違いないと思えて来た。明子には過度に心配しないでも良いだろうと助言する事にする。

{明子さんも、手首に持病お持ちでしょう、過度に負担を掛けると痛みだすのですよね。だからそう思うと、旦那さんの事、それ程心配無いかと}

 ここ迄書いて手が止る、そうだ、之だけだと不安の解消には成らないかもしれない、ならば、と、祐樹は気休めかもしれないが、明子の不安を少しでも減らす策を伝授した。

{それと提案です、この残り3ヶ月は旦那さんに油物厳禁で通したら如何ですか?音を上げたその時は、有無も言わさずに病院へ行くと。どうですか、少なくとも、何もしないよりは、明子さんも少しは不安も晴れるでしょう、それで、もし旦那さんが我慢成らず、油物を口にしたら、直ぐに病院へ行ける口実になります。どうですか}

 これを実践すれば、明子も気休めには成るだろう、ヤキモキしている時だ必ず実行してくれる筈だ。


 その日の夜、明子は祐樹の提案を実行した。

夕食時のテーブルに、油物が無い事に不満を話す文彦。明子は正対して考えを話す、と、文彦は仰天していた。

「何だって!油物厳禁だと!」

「そう、この間の頭痛を見たら、もう我慢出来ません、お弁当も同様にヘルシーメニューで行きますから、油物を口にした時点で病院直行ですよ」

「それは、あんまりだぞ、いくら何でも」

 泣きそうな顔をして、{それだけは勘弁してくれ}と訴えるが明子は頑として受け付けない。さらに強い口調で言い返した。

「駄目です、どうせ貴方の事だから、隠れて食べるに決まっています。せめて私の作る食事は油物を抜かせて頂きます。序に言っておきますけど、隠れて食べてそれがもし発覚した時は、問答無用で直ぐに病院に行きますから、食べたい時はその事を思い出して下さいね。貴方にその勇気が有るのでしたら、どうぞ好きなだけ隠れて食して下さい」

 文彦の落胆した表情を見て明子はほんの少し可哀そうに思う。でも少なくとも以前よりは確実に、体重や体脂肪は減るだろう、その方が安心だ。


 3ヶ月が経ち、桜の花も散り、新緑が芽生える季節に成っていた。

春奈は無事に卒業して就職先の音楽出版社に勤め出していた。浩二も大学2年生に成り、新たな目標に向かって更に精進している。

この日は懸案だった文彦の検査日、ⅭTスキャンを受ける為に着替えた文彦。明子は検査室に入る文彦を見送り、控えの廊下で待っていた。

この日迄の3ヶ月間油物抜きの食事が功を奏し、文彦は10キロも体重が落ちていた。   

こんなにも効果が有るとは思ってもいなかった。それに気温も温かくなり文彦は頭痛を訴える事が殆ど無くなり、正直明子も安心していた。

後は用心の為に受けた検査の結果を聞くだけだ。それさえ済めば後は何も心配は無いだろう。明子は新学期を迎えて平穏な生活を送っていた。


 検査結果を聞く日。明子と文彦は診断室へと通された。主治医が待つその部屋は主治医以外に誰も居なく、中に入るとにこやかに迎えてくれた。

「担当の河野です」

「はい、野口文彦です、これは妻の明子です、どうぞよろしくお願いいたします」

「はい、では」

 主治医は目の前のスキャン画像を映した画面を眺めて、カルテを確認する、何度も視線を上下させて難しい顔をした。

「何と申し上げたら良いのか」

 主治医が言葉に詰まっていた、その表情からは良好な報告は聞けない雰囲気が漂って来た。

「あの、主人の具合どうなのですか」

 我慢出来ずに明子が口を出した。

「其れなのですがね」

「大丈夫です、私も男です、妻の前でうろたえたりしませんから、ハッキリ言って下さい」

「そうですか・・・・」

 主治医は言葉に詰まっている。話す切っ掛けを探している節が伺えた。暫し考えてから重そうに口を開けた。

「ご主人、食生活は何が好みでした?」

「そうですね、油物が大好きで、何でも良いから、一食に必ず何か食べていました。でもここ最近は妻の勧めで控えました。そのお陰でこれ、この通りに、3ヶ月で10キロもやせまして」

「そうですか、それは宜しい事です。ではその前は、ずっと油物中心の食生活をしていたのですね?何時位からその様な状態で?」

「はい、高校を出る頃からですね。それまでの反動で、余り好きな物を口に出来ない生活状態でしたので。それからはずっとそうでしたね」

「では約30年間は油物を多く摂っていたと言う事で間違いないのですね」

「そうですね」

「そうでしたか、うーん」

 主治医は如何にもと言った顔になる。眼つきからは険しい空気が感じられた。

「如何しましたか、体に問題でも?」

 随分と思案するので、文彦から声が出た。

主治医もこれ以上は待たせられないと、その重い口を開いた。

「それが原因と思いますが。そういう食生活をしている人に多く見られる症例なのですけど、ここです」

「はあ・これが何か」

 主治医はスキャンした文彦の脳の画像を指して、説明を始めた。

「ここの動脈に血栓と言いますか、脂肪といいますか。ようは詰まりがありましてね」

「詰まりですか?{少し不安気な顔になり}それ癌とかですか」

「癌では有りません」

 それを聞いて文彦は安堵の表情になる。しかし主治医の表情は硬かった。

「ですが、まあ腫瘍の類に成ると思って下さい、それでですね、それが大分大きいのです」

「大きい?どれ位に」

「カテーテルでは取り除く事は不可能です、それ位に大きいです」

「では手術になるのですか」

「それも、実は之ほど大きいと、実に言いにくい事ですが、手術でも取れるかどうか」

「では、薬か何かで散らすとかですか」

 主治医はそれも無いと大きく首を振った。

「この大きさでは望めません」

「では手立ては無いのですか、取れないとしたらどうなるのですか」

 主治医の顔からは気鬱な空気が流れて来ていた。次に何を言われるかが怖くて、僅かな時間でも耐え難い圧を感じた。明子は文彦の手を取り、力強く握りしめた。

「今のまま、この大きさの状態では、何時破裂してもおかしくありません」

「破裂?破裂したらそれはつまり」

 主治医は黙って頷いた。無言でもその意味は解った、つまり死だ。

 明子は二人のやり取りを見ているだけで、その意味を理解した。

「待って下さい、夫は、つまり」

「明子良いから、私が話すから、もう一度聞きます、手立ては無いのですか」

「正直申し上げます、ここまで大きくなった腫瘍の切除は成功例が有りません。手術をしても万に一つの確立です、しかし何か手立てと言えば方法はそれだけです」

 明子は頭をガツンと叩かれた、文彦も同じ思いの様だ。落胆した二人に主治医は更に追い打ちをかける事を話す。

「あと半年早ければ、多分切除も可能でしたでしょう、それが悔やまれます」

 主治医のこの発言に文彦は顔を覆ってしまった。明子は文彦に手を宛てる事しか出来ないでいた。下を向いた文彦が力を振り絞って主治医に聞いた。

「では、何もしないで後どれ位生きるのですか」

「そう、この大きさだと、今なのか、明日なのか、1ヶ月後なのか、何時破裂してもおかしくありません。でもどんなに長くても3ヶ月は持ちません」

「では、何時死ぬか分からないのですね」

 主治医は目の向きを合わせる。

「厳しい言い方をすれば、そうですね」

「では手術をしたら、万に一つの確立でも手術をしたら、生きられるかもしれないのですね」

 取りすがり聞く文彦。主治医もそれを受け止めるが、その顔からは、力強さは微塵も認められない。

「そうですね、その確率に縋るなら、それが生き残る唯一の方法ですね。でも期待しないで下さい。成功例は皆無です」

 死の宣告だった、明子はこの先如何するかを、必死で考えた。でも幾ら考えても何も答えは出なかった。

打ちひしがれて文彦は病院のロビーで項垂れていた、その横で明子は無言で文彦を撫でていた。

「御免、明子、俺やっぱり間違っていたな、お前達の言う事を聴いていたら、半年前なら助かったのだな」

「貴方、今それを言っても仕方ないよ」

「でもそうだろう、俺は自分の我を通して、

子供達に自分の誇れる姿を見せたくて。それでこの様だ!情けない、俺は男として父親として本当に情けないよ」

 文彦は泣き伏せる、明子も涙していた。

「貴方、そんなに責めないで、貴方の行動も解るの、男の人のプライドとかでしょう。カッコイイところ見せたいと思ったのでしょう」

「でもな、それで死んだらお終まいだ、子供達に何て言えば良いのだ」


 その夜、野口家では子供達を交えて、家族会議を開いた。

これが多分最後の家族会議になるだろう。子供達は泣いていた。文彦に万に一つでも良いから生きる可能性の有る方法を取って欲しいと懇願していた、そう手術をする事だ。文彦は泣きながらそれを聞き入れた。

「解ったよ、お父さん最後まで戦うよ、明子、子供達はこう言っている、お前も良いのだよな」

 明子は言葉に成らない返事をした、{うん}と小さく頷いたが、涙が止らず其れどころでは無かった。


 その夜は久しぶりに文彦と愛し合った。

これで最後かと思うと、明子は何時もの何倍も感じて見せた。文彦も明子の反応に対処してくれた。この日初めて明子は文彦から快楽を体験した。事後に文彦は意味有り気な事を発した。

「御免な、満足していないだろ」

「何を言っているのよ、今日は凄かったじゃないの、普段の何倍も感じていたよ」

「そうか、無理していないか、気を遣わんでも良いぞ、俺は覚悟が出来た身だ、もう何が来ても怖くは無いから」

「何が来るのよ、いったい」

「良いんだよ、もう何も無いよ」

 そう言って文彦は眠りに付いてしまった。

明子は何が言いたかったのか考えていた{まさか何か気づいているの?}と。


 翌日に成り、諸々を祐樹に報告して欲しいとサクラに託した。緊急の手術に成る事、そしてその間の休みの事を。

サクラからは了解の返事が来た、祐樹からの気遣いの言葉もサクラから聞いた。緊急事態だからしょうがない、今は何を置いても、文彦の事が最優先だ、明子は只それだけを思っていた。


入院日に明子は文彦に付き添い、病院に来ていた。入院の手続きを済ませ、必要品を購入して、最後になるかもしれないので、個室を指定して、万全を期して手術に臨もうとした。

手術前にうける諸事の検査の為に、文彦は坊主頭になり、やつれた顔も有り修行僧のような顔付きだった。

「貴方、子供達これから来るから、そのお顔見せて上げてね、結構イケてるかもよ」

 明子は少しでも元気づけようと冗談を言う。

「そうか、ここ最近急に痩せてやつれたからな、それにこの坊主頭だ、アイツら驚くぞ」

 文彦もカラ元気で返して来た。良かった、

カラ元気でも、出る元気が有る分マシだ、明子は少しだけ安心していた。子供達が来るまでに未だ時間が有った。その時だ、文彦が何やら意味深の顔つきで見つめて来た。

「明子、お願いが有る」

 さっきまでのカラ元気の時とは、打って変わっての顔付きだ。何だろう、明子も返答に屈してしまう。

お願いが何で有るのかを聞き返す事が出来ずに、その顔を見て固まった。空気を読んでか、文彦が続けて話をした。

「実は、これは迷っていたのだが、俺が長生き出来るので有れば、墓場まで持って行こうと思っていた事だ。だが、こういう状況に成ってしまったから。やはりお願いしようと思う」

 明子は不安を感じた、この間の夜の意味有り気な言葉の後だ。何を言われるか?覚悟は未だ出来ていない。

「明後日に、そう手術の前に近藤さんに会いたいのだ。会って話がしたいのだ、ここへ来るようにお願い出来無いか?」

 不安が的中した、祐樹の事だ。知っている、この目は確かにそうだ、知っている目をしていた。明子はその視線に耐えられず下を向いていた。無言の空気の中で明子は観念した。俯いてしまった顔を、勇気を振り絞って上げた。

「貴方知っていたの?二人の関係を。何時からなの、」

 文彦は黙って此方を見つめて居た。その目は明子を優しく捉えている。 

「そうあれは、5年前か、立川での演奏会の日だ」

 忘れもしないあの日だ、祐樹が鍵を忘れた日だ。

「あの日、俺がトイレで拾った鍵、お前が届けると言っていたろう。託したお前が走って行った先が、警備室と逆の方へ行ったから、心配で後を追ったのだ」

 そうか、あの時にと明子は思う。

「そしたら、仲良さげにした二人が居た。俺は何も出来ずに見ていた、話かける勇気が出なくてな」

 文彦は上を見ながら想いにふける。

「あの夜帰宅してから、お前の勤め先の事調べたよ、サクラさんの会社の事。表だっては普通の会社だ、何も怪しい事は無い、でも、

トップページのタイトルが気になってね」

「タイトル?」

「ブルーリボンの下で待っています、あれだよ。あの言い回しに何かヒントが有りそうで、

それで、ブルーリボンのロゴ下辺りを、クリックしてみたのだ、そしたらログインページに飛んで、そのページがログイン状態で保存され ていた」

 そうだった、最初にログインして保存状態のままにしていた。後で又ログインすると思い、そのままにしていたのだ。拙い事をしてしまったと明子は観念した。

「そしてその先に行くと、そこには・・・」

明子はここまで知れていたのかと、意気消沈してしまう。言い逃れは既に無理だ。

「アカネさん、それがお前の源氏名だな、そして派遣先の事も全てそれで知ったのだ」

 文彦は笑っていた。こんな状況で何故にと明子は思うが、一つも怒っている様子では無いのだ。

「貴方怒っているのでしょう、やめてその笑顔、最後に私を蔑みたいのでしょう」

「違うよ・・・だから俺の気持ちを知って欲しいから話をしたいのだ、今更お前を恨む気は無いよ」

「恨まない?嘘!嘘よ」

 病の文彦相手に取り乱してはいけないと思い、声を落として言い返した。

「嘘な物か、良いから明後日に、お願いだ、急ですまないが、ここへ近藤さんを連れて来てくれ」

 明子は了解した、もう何も反論も言い訳も出来ない。秘密のページを見られた以上、もう覚悟は出来ていた。


 その夜、明子はサクラから祐樹の連絡先を聞き出して、急ぎ祐樹に電話を入れる。

「もしもし、私」

「え?何?どうしたの。サクラさんから連絡先聞いたのかい。それで、急にどうしたの」

「そう、御免なさい、実は至急に連絡したかったの」

「そうか、何だい、旦那さんの事かい。サクラさんから概要は聞いているが、急変でもしたのかい」

「違うの、バレたの」

「バレた?何が」

「私達の事よ!」

 電話の向こうの祐樹は、事の詳細を理解し難い様だ。その分返答が来るのに時間が掛かった。

「何?旦那さんに?本当か、いつ言われたのかい」

「さっき、病室で言われたの」

「?それで、何時頃から私達の事を知っているのかい?」

「それが、当初から、そう貴方が立川で鍵を忘れた事が有ったでしょう、あれを見られていたの」

「何だって!それじゃあ、殆ど最初から知っていたのか」

「そうみたいなの」

 祐樹の声が途切れた、何かを考えている様子だ。

「でもそれなら何故今まで黙っていたのだい?それにどうして今に成ってそれを?」

「それが分からないの、でも兎に角貴方に会って話が有ると。急で申し訳ないけど、明後日に会いたいと言っているの」

「明後日か、解った、何とかしよう、でも・・・そうだな、何もかも知っている様子かい?」

「えぇ、あの様子だと、殆ど知っているみたいなの」

「そうか、それなら、言い訳は無用だな、こんな時に何て事だ。誠心誠意謝るしか無い。

明子さん動揺しているね」

「うん、している、冷静で居られない」

「この事、子供達は知っているのかい?」

「それが、子供達にあの人、何も言わないのよ、私にも黙っていろと言いつけて、それにね・・・」

「それに?」

「怒っていないのよ。普通怒る事でしょう、

其れなのに私に少しも怒りを露わにしないのよ」

「どうして?」

 この点に付いては明子も理解しかねている、

文彦が何を考えているのか、予測不能だ。明子もそれが怖かった。

「解らないの、だから余計不安なの、きっと貴方に怒りをぶつける気だと思う」

「それはしょうがない事だ、私も覚悟しているよ」

 二人は当日落ち合う時間を決めた。話す内容も言い訳は無で行く事に成った。


 当日に成り、二人は病院前にて落ち合った。祐樹の手には見舞いの花束が握られていた。こんな物で文彦の気が収まる訳が無いと解っていても、手ぶらでは流石に伺う勇気が出なかった。二人は受付ロビーの席に着き、少しの間、打ち合わせをした。

「確認だけど、立川のあの会館の駐車場での二人を見られたのが最初だね」

「えぇそう」

「その他の事は・・・そう、具体的にはどうなのかな」

「具体的には解らない、でもあの様子からして、多分貴方の素性も知っていると思うの」

「私の素性も?どうして言えるの、確認したのかい?」

「していない、でも解るの。長年連れ添った人よ、何を考えているか、何を知っているかは、感じるのよ」

「そうか、では、それを踏まえてお会いしよう。誠心誠意、心を込めて謝るよ」

「待って!貴方は謝る事無い。謝るのは私よ、貴方は私のお客さんでしょ、貴方は被害者で通して。この件は私の一存でした事だから、あの人にはそう説明するから」

「そんな事、私が納得する訳が無いだろう。

理由が何にせよ、他人様の嫁と情事を繰り返していたのだ、お怒りは最もだと思う。だから、私に任せてくれ」

 祐樹は心を決めて、明子を連れ立って文彦の待つ病室に向かう。

 病室前に着くと、明子の手はドアノブを持つ前に、既にガタガタ震えていた。

「大丈夫、私が開けるよ」

「御免なさい」

 明子は祐樹にその役割を譲ると、ドアを開けた祐樹に背中を押されて部屋へ入って行く。

 文彦は起きていた、起きて此方を向いて待っていた様だった。明子はすまなそうに首を垂れる。

「貴方、お待たせしました、近藤さんです」

 明子の後ろから祐樹が病室に入って行く。祐樹はサット床に伏して、花束を明子に渡してから、土下座をした。

「今回は大変申し訳ございませんでした。私が近藤祐樹と申します。何も申し上げません。

只!許しを請うためにこうして伺いました」

 大きな声が室内に木霊した、その姿を文彦はニコリとして見ていた。怒りの顔をするものと決め付けていた明子は、その表情を見て驚く。

「貴方、何故に笑っているの」

「だって、可笑しいだろう」

「可笑しいの?何故よ」

「近藤さん、何か勘違いされている様だ、どうぞ頭を上げて下さい」 

 穏やかに話す文彦に呆気にとられ、祐樹は頭を上げる。

「お怒りでないのですか?」

「まあ座って下さい、今日ここへお越し頂いたのは、謝って欲しいからではありません」

 文彦の意外な発言に二人は顔を見合わせていた。

「そう拍子抜けされても困ります、実は二人に知って貰いたい事が有りましてね」

「知って欲しい事ですか」

 祐樹はこの状況で何を知って欲しいのか、訝し気に聞いた。

「まあ先ず座って、私の話を聞いて下さい」

 漸く落ち着きを取り戻した二人を座らせて、 

文彦は、何かを思い出しながら話を始めた。

「実はです、最初ですね、二人の関係を知った時は正直ショックでしてね。一時は何もかも如何でも良く成りかけました」

「貴方、御免それは・・・」

「最もです、私も同じに思います」

「いいのです、その事は一時の心情ですから。まあ続きが有るから、聞いて下さい」

文彦は明子を見つめて話した。

「その時に俺は気づいたのだ、母親の愛情を、何をしても、愛する子供達の為を思うお前の心をね」

「私の心?」

「そう、これを説明するには私の出生を話さないといけない、まあ時間も有るから少しの間付き合って下さい」

 二人は頷いた。

「明子、お前が知っている通りに俺は姉さんに育てられた、それに至る経緯も知っているな」

「はい」

「でも、お前の知っている事だけが真実では無いのだ、大切な事が抜けていてね」

「大切な事って未だ何か話していない事が有るの?」

 明子の目は、文彦に注がれた。

「義父と母が再婚した時、俺は8歳で義姉は21歳だった。随分と年が離れていたから、義姉は俺の事を弟と言うよりは、自分の子供の様に可愛がってくれてね」

「そうね、お姉さんと随分年が離れていたはね」

「当時義父はチェーンで飲食店を展開していてね、随分と羽振りが良かったよ。ロールスロイスを乗回していてね、俺も何でも買って貰ったよ」

「まあそんなにお金持ちだったの」

「そうだったな。・・・それで、義父は店を増やすのに銀行からは勿論、親戚筋からも多額の借金をしていてね。でもな、当初は商売が上手く行っていたおかげで、リターンも多く払っていたせいで、親戚筋からは彼方の方から金を融資して来てね。義父も調子に乗って本当に早いペースで拡大していたのだ。

でもな、有る事をきっかけにして、店はどんどん傾いて行った」

「ある事とは何?」

 明子の問いに、目を見据えて答える。

「バイトテロだ、待遇に不満の有るバイトが食品庫でネズミの死骸を見つけてね、それを

彼方此方で吹聴して回ったのだ」

「そいつは、拙い事ですね、私も商売をしていますから理解出来ます。それは重大な事です」

 祐樹が頷いた。

「それが切っ掛けで、徐々に店は潰れて行った。本当にあっと言う間に全てが閉店に追い込まれた。最後には多額の借金だけが残された」

 文彦は当時の事を思い出したようだ。

「あれが事の始まりだった。義父は実の子の姉をも残してトンズラした」

「逃げたのですね、行方不明ですか?」

 文彦は大きく頷いた、その表情は怒りに満ちていた。

「そうです、残された私達の元へは借金取りが毎日の様に来ては、大声で怒鳴り散らかして。母はノイローゼでしたよ、連帯保証人ですからね。逃げる訳にも行かずに、追い詰められていました」

「まあ酷い義父さんね、信じられないは」

「俺も恨んだよ、義父の事を、今でも殺してやりたいくらいだ」

「それでお母さんが、亡くなりになったのね」

「そう、せめて生命保険充ててくれと、書置きを残してね」

 文彦は目を落とした。当時の事を思い出している様だ、余程悔しかったのだろう。

「何と言えば良いのか、お悔やみの言葉もありませんね」

 祐樹はいつの間にか文彦の話に引き込まれていた。

「残された義姉は借金を遺産相続の時にチャラにする処置をとってくれた。これで俺達子供達は借金からは逃れられる筈だった」

「筈だったとは、出来なかったのですか」

 文彦は思い出している様だ、その当時に起こった全てを。じっと目を瞑り、その事を語り続けた。

「はい、銀行は諦めてくれました。でも、親戚筋はそうは行かない。法律が何だ!相続放棄で逃げる気かと、融資をしていた親戚連中全員が押しかけましてね、決して許してはくれませんでした。身内って奴はこういう時に厄介ですね」

「親戚が何をして来たのですか、法的には何も出来ない筈ですよ、子供達には」

 祐樹は子供が絡むと黙って居られない。語気に少しだけ怒りが込められていた。

「義父の親戚筋は素性が余り良くなくて、その筋の方が居たのです、それもとびっきり厄介な組織の方が」

 明子は口を押えていた、その後の展開を予想する事が怖いのだ。

「その人が借金取り立ての代表になり、親戚連中を纏めました。そして相談したそうです。出した答えは・・・・・俺と姉に保険金をかけて何処かへ沈めると言うのです。私は当時未だ11歳でしたから、話は後から姉に聞きました」

「何ですって!保険金を掛けて沈めるですって!幾らその筋の人でも、大の大人のする事では無い!酷い!酷すぎる。思い付いたその人は本当に親戚ですか?」

 祐樹の語気は明らかに怒りが籠っていた。

「えぇ、正真正銘の身内です。義父も解っていたのでしょう、アノ人に何をされるかを。それが怖くて一人で逃げたのですよ、情けない親ですね」

「それで、その後は?如何にして、死から逃れる事が出来たのですか?」

 文彦の顔は暗い、此処から先の内容は間違いなく悲しむべき事だろう。

「それで、姉が如何したら許してくれるかと懇願した処。闇金で金を借りて、それで借金を返済しろと迫られたらしいです。本当に最低な連中です」

「何ですって!そんな事を本当に?最低だ!酷い人たちだ」

 祐樹は文彦の心情を察して思わず手の力が入ってしまう。

「そう成って当然です、取り纏めの代表がその筋の人ですから。仕方なく義姉はそれを了承しました。事実上の奴隷契約です。それで姉が借金返済の為に出来る、高額の収入を得る仕事と言えば。泡嬢です、姉はそれいらい、身をそこへ沈めました」

 返す言葉が無かった。

「でも姉は俺の事を{アンタは私が必ず守る}と言ってくれて、決して離したりしませんでした。親戚が邪魔だろうからと施設へいれろと言っても、私が育てると言って。それ以来私はずっと姉に育てて貰ったのです」

「貴方それで、あんなにもお姉さんの事を大事にしていたのね。そうか、それで親戚の方達は私達の結婚式もお姉さんの葬儀にも顔を出さなかったのね。事情を知らなくて言いたい事を言ってしまって御免なさい」

「良いのだよ、何も知らせていないのだからそれはしょうがない事だ。でもな、俺は本当に姉さんに申し訳が無くて。

実は姉さんには婚約者が居たが、それも破棄した、就職先も辞めた、好きな仕事先だった。何よりも幸せな家庭を築けたのに、それも全て捨てたのだよ、その事を俺が謝ると、姉さんは何時もこう言うのだ。

{アンタの母さんを殺したのは、私の父だから、アンタは気にしないで良い、何よりもアンタの為なら何でもする}と、そう俺の為にはあの人は本当に何でもしてくれたのだ」

 文彦は我慢出来ずに嗚咽を始めた。

「姉さんは俺が中学を出たら働く、働いて借金返済を助けると言っても決して受け付けてくれなくて。

{アンタは学費気にしないで大学まで行きなさい}と啖呵を切ってくれて、それで大学迄行かせてくれた。その後社会人に成ってからも俺が金を持って行っても、受け取らずに、結局40歳近くに成るまで、泡嬢を続けて、実際に借りた何倍もの借金を完済してくれたのだ」

 壮絶過ぎる義姉の人生を聞かされて、祐樹も明子も言葉が見つからない。返す言葉が何も思い浮かばないでいた。

「だからな、俺はその時に決めたのだ、姉に何かが有った時は俺が助けると、そして最後を迎えたら、その時は何もかも投げうってでも、俺の気の済むまでやり切ろうと。

姉が子宮癌に成った時は、心底そう思ったよ、だってそうだろう、若い時から子宮を酷使した仕事をして来た、その影響で子宮に負担が溜まって、姉さんは癌に成ったのだ。俺はな、姉さんの為には全てを犠牲にしても良いとその時思った。そう子供達の事よりも姉を優先しようと」 

 文彦は項垂れた。

「その為に俺は子供達をないがしろにした、こんな俺は父親失格だな」

 本音を吐露した文彦を、明子は責められないでいた。むしろすまないと思っている。

「貴方そんな事は・・・」

「いいんだよ、それが事実だから、だから、

今日来て貰ったのは、二人を責める為では無いのだ、姉さんが俺の為にしてくれた様に、

明子は子供達の為にしてくれた、その心意気は姉さんが俺にしてくれた事と何も変わらない」

 二人はじっと聞き入った。

「明子、お前が子供達の為にした事を、否定する事何て出来ない、それはイコール姉さんが俺の為にしてくれた事を否定する事だからだ。姉さんが俺の為にした事を、否定なんか出来る訳が無い。だったら、明子、お前のした事を否定する処か、俺は感謝している」

 明子は涙が止めどなく流れて来た、文彦の

言葉に打たれていた。

「貴方・・・」

「だから、今日は二人には、お礼が言いたくて来て貰ったのだ、不甲斐ない俺の代りに、

俺の我が儘の為に、危うく犠牲に成る処だった、子供達の夢を叶えてくれた。・・・そのお礼が言いたくてね」

「文彦さん、お礼だなんて、とんでもない、

私はそんなに偉い事していませんよ」

 手を握り、その手を振る、

「そう私も、私は貴方を騙したのよ」

「二人とも、もう何も言わないで欲しい、俺は知っています」

 文彦は祐樹の手を握り返した。

「すまない気持ちが有りながら、近藤さんの事少し調べさせて貰いましたよ。ご家族を亡くして、さぞ苦しんだ事でしょう。でも、私の子供達にその分手を掛けて下さいましたね、本当に有難うございます。親として感謝の言葉しかありません」

「出過ぎた事をしでかしました。申し訳無いです」

「近藤さん、本心から俺は話しています。本当に感謝しているのです。でもね、実は少しばかり嫉妬心と言うか、悔しい気持ちもありました。男親ですからね」

 文彦と祐樹は男同士見つめ合った。

「それはそうでしょう、私も、そう思いますよ、文彦さんに限らずですよ」

「だからです、今回、意地を張ってしまった、半年前に検診を受けろと言われて、そうしなかったのは、あの時はお金で敵わないのなら、せめて仕事で良い処を見せたいと、そう思いました。下らない男親のプライドですね」

「そうだったの貴方」

「そうだ、社史に名を残せば、きっと俺も親として、誇りに思って貰えると、そう思ってしまった。でもそんな下らない事で、俺は自分の寿命を縮めてしまった、実につまらない理由で、そんなプライドなど命に比べたら何も価値など無いのに」

 文彦が何故に拘っていたか明子はこの時漸く真相を知る。祐樹も知らず知らずのうちに自分が文彦にライバル心を抱かせて、その命を縮める切っ掛けを作ってしまったと知り、ショックを隠せずにいた。

見つめていた目の先を、文彦から逸らさずにいられない。 

「だから、二人には何も怒りなど無いのです、

この件本当は、墓場まで持って行こうと思っていました、俺一人が納得すれば済む事だから。でも、こんなに急に逝くなんてね、思ってもいませんでしたよ」

「未だ、明日が有るでは有りませんか、明日の手術が上手く行けば、未だ」

「近藤さん、知っての通り、明日の手術は気休めです、不可能なのです。ですから、今日来て貰いました。何よりも、失礼は承知でお願い事も有りましたから」

「お願い事ですか、何ですか?」

 文彦は溜めている気持ちを吐き出す様に話し出す。

「近藤さん、私が死んだら、残された明子と子供達の事、面倒を見てやってくれませんか、

往生際の悪い男の最後の我が儘を、どうか聞いてやってくれませんか、お願いです」

 文彦は深々と頭を下げた。その姿は男のプライドも何もかも投げ捨てた姿だった。

祐樹は文彦を見て心が詰まる、自分がいなければこの人は生き続けたかもしれない。それなのに今この人はそんな事気にもせずに、不倫相手で有る自分に頭を下げている。

こんなに屈辱的な行為は無いのに、この人は恥じる事無く、自分の残された家族の事を思っているのだ。ここは、文彦の気持ちに応えるしか無いと祐樹は思う。その手は文彦の手を力強く握りしめていた、そして、何度も手を上下に動かして、祐樹は大きな声で答えた。

「解りましたー!」

 と、答えて祐樹は握った手を自分の頭の上に掲げて下を向いて泣いていた。


 夕方の病院のロビーは人も少なく、祐樹と明子は背中合わせに長椅子に腰掛けて、背中越しに話をしていた。

「凄い方だな、旦那さん、家族の為に自分の尊厳など無視して、不倫相手の私にあんなお願い事が出来るなんて。私にはとても真似事など出来ないよ」

「そうね、まさか、あの人があのような願いを貴方にするなんて」

「それに、二人の事を知っていても、何事も無く今まで生活を送るなんて。常人の精神では先ず無理だろう、旦那さんは強い人だ」

「そう思う。・・・きっと姉さんとの生活が本当に過酷だったのね、それがあの人をあそこ迄強くしたのね」

「そうだろうな、私など旦那さんに比べたら足元にも及ばないよ。家族を亡くして悲劇のヒロインを気取っていたが、上には上が居るのだね」

「そんな事、比べる事では無いよ、貴方の試練は又別よ、比較出来無いよ」

 会話は一旦途絶えてしまう。夕日が明子の顔を照らし、祐樹の顔は影に入り、一層その表情を暗くさせた。祐樹は少しの間何かを考えていた、そして意を決した表情で頭を擡げた。

「明子さん、支援は続けます。でも別れましょう」

 突然の言葉だった、明子は聞き直してしまう。

「え?今何て?」

「支援は続けます。でも別れて下さい」

「でも・・如何して?」

「それは、最後は、最後だけは、旦那さんだけの明子さんで居て上げて下さい。そうしないと、私は旦那さんに申し訳が立たないのです」

「旦那だけの私に?」

「気持ちの問題では有りません、何もかもきっぱり切れて初めて旦那さんだけの明子さんです、それに、それにです!」

 祐樹は泣きながら声を振り絞る。

「私が居なければ、無駄な意地を張る事も無かった。そうしたら旦那さんは生き長らえたと思うと、私には耐えられない。私が明子さんを愛する資格など無いのです」

「でもそれは結果論です、貴方が居なかったら子供達の事、如何なっていましたか。あの人それは、その事は自分が納得していたと話してくれたではないじゃない」

「あれは・・旦那さんはそう言うしか無いでしょう。それに付け加えて、今日の最後のお願いです。あんな事、させてはいけない、私が旦那さんに、お詫びの記に提案するべき案件です。私は、わたしは!旦那さんの尊厳を蔑ろにしてしまいました」

 祐樹は頭を抱えていた、心底悔やまれる気持ちに耐えられない様子だった。

「だから、私には明子さんをこのまま愛する資格など無いのです、この先ずっと。旦那さんが亡くなってから、体よくその後釜に収まるなんて、そんな事出来ません」

 祐樹の言葉からは強い意思が感じられた。

前にも同じ経験をした明子は、祐樹がこう思ったらその考えを替えないだろうと予想した。

「解った、祐樹さん、貴方の事解っている、その考え変える事など有りませんね」

 祐樹は黙って頷いた、背中越しでもその感覚は伝わって来た、明子は納得した。

「では、私からも最後のお願いが有るの」

「何だい、何でも言ってくれ」

「別れるのなら、お金はもう受け取らない」

「え!それでは、旦那さんとの約束が!」

「良いの、別れるのなら、これが私の条件です」

「でも生活は、如何するのだい」

 明子は沈んで行く夕日を見ながら、穏やかに話した。

「旦那が亡くなったら、生命保険が入るの、

あの人その事忘れている。それに会社からも退職金が入る。それだけ有れば家のローンもバイオリンの残金も一括で返済して御釣りがくる。

それに春奈ももう働いて、家にお金を入れてくれる、後は浩二だけだから、お金は心配無い、だから、今後会わないと言うなら、不労所得は要らない、正論でしょ、私の言う事も」

 確かにと祐樹は頷いた。

「そうか、でも何か有ったら連絡してくれ、

何時でも頼りになるから」

「それもいい、今貴方がきっぱり何もかも、切れてと言ったでしょ、忘れたの」

 明子に突っ込まれて祐樹は何も返せない。

「だから、スマホ消しといて、昨日登録した番号、後で私も消しとくから」

「そうか、解った。そうだな、きっぱり切れるとはそういう事だね・・・」

 夕日がビルの向こうに沈んで行く。照明は既に点いていたが、暗く薄く感じられた。

明子は沈んだ夕日の方向が暗く成るまで見つめていた。

「じゃあもう行くよ、旦那さん、奇跡が有る事祈っている」

「有難う。行くのね、じゃあ其処まで」

 明子が立ち上がるのを祐樹は止める。

「いいや、そのままで居てくれ、顔を見たら辛くなる、後ろを向いていてくれ、黙って立ち去るから、見送りは無用だよ」

 祐樹はそう言い残して、ロビーを出て行ってしまった。

残された明子は沈んだ太陽の影を見ながら泣いていた。頬を涙が伝わる感触がこんなにも冷たいのを始めて知った。

 病院を出た祐樹はタクシー乗り場へ向かった。タクシーに乗り込むと、行き先を告げて、ポケットからスマホを取り出した。そして昨日登録したばかりの明子の番号を消去した。

 まさかこんなにも早くに、昨夜登録したばかりの明子の連絡先を消す事に成るなんて、

人生とは皮肉な物だなと、感じていた。

浩二君が大学を出る迄は続くと思っていた関係が、今日この時を持って終わりに成るなんて。辛過ぎる、でも文彦の受けた心の痛みに比べれば、責めてこれ位は罰として受けないと、自分も贖罪の念に押し潰されるだろう。祐樹はそう自分に言い聞かせて、無言でスマホをポケットに仕舞った。

 明子も文彦の病室に戻って来ていた。文彦は既に就寝中だった。鞄からスマホを取り出すと、祐樹の番号を消去した。もう涙は流さなかった。


 文彦の手術は主治医の予想通りに成功はしなかった。文彦は眠るような死に顔だった、

明子以下残された家族は文彦の亡骸に何時までも泣き伏せていた。

後日文彦の葬儀が終わり荼毘に付された。そして納骨の日がやって来た。家族は墓石の前でお坊さんの唱える読経を聞き、文彦の御骨を埋葬した。最後に明子と左に春奈、右に浩二を従えて3人はお線香の煙が蒸す中で静かに手を合わせる。

「いい、貴方達、お父さんの命日には、毎年こうして此処で手を合わせるの、約束よ」

「うん、お父さんここに眠っているのよね、私毎年と言わず、機会が有ればちょくちょく会いに来るよ」

「僕も、父さんに会いに来るよ」

「それと、此処へ来なくても、一日に一回は必ずお父さんの事思い出して上げてね、お父さん寂しがるから」

「うん、思い出す、必ず、浩二もね」

「うん」

 3人は煙が薄く成るまで何時までも墓前の前に座り込んで手を合わせていた。


場面は10年後の墓参りに成る。この日も10年前と変わりなく、真ん中に明子、左に春奈、右に浩二の配置で墓前に手を合わせていた。

以前と違うのは、明子は白髪交じりに成り、春奈と浩二は大人の出で立ちに成っていた。

「早い物ね、あれからもう10年か、お父さんあっちで元気にしているの?」

 明子は手を開けて、立ち上がり墓石に水を掛ける。

「お父さん、私よ、春奈よ」

 春奈はスカートの裾を掴み、墓前の前に出て、目を閉じた。

「姉貴、昨年と同じ約束しているの?今年も父さんに期待させて、がっかりさせる気なのかな?」

 浩二はこれ見よがしに春奈を茶化す。

「うるさいわね、良いじゃない」

「僕も早く編集長に成って欲しいと思うけど、今年は大丈夫かい?成れるのかよ」

 茶化された春奈も、無気に成り、明子の事も気にせずに言い返しする。

「アンタだって、最近どうなの、ストラディバリウスを贈呈して貰ったくせに、それに託けて腕を落としたと噂よ」

「何を言うのだよ、それはやっかみから来る誹謗中傷だよ。僕の後援会に財力が有る事と、若いのに生意気だとか、言いたい事を好き勝手に・」

「貴方達!お父さんの墓前で何を言い合っているの!駄目ですよ」

 二人のやり取りを見ていて、黙っていられず明子がしかる。

「御免。でも浩二がからかうからよ」

「からかう?しった激励と捉えてよ、姉さんの書く評論は僕も買っているのだから」

「アンタの言い方は棘が有るの、世界的な奏者だと思って偉そうに!身内ではそう取れないの」

 春奈はこの時既に名の有る批評家に成っていた。浩二も世界的に有名なバイオリン奏者に成っていたのだ。明子はその事が誇らしく、毎年文彦に会いに来る度に、二人の成長を報告していた。二人が脇で喧々諤々やっている内に明子は文彦に伝えていた。

{貴方この子達こんなにも立派に成りました。本当に貴方の御かげです、有難う}明子が手を合わせ、祈りを捧げると、二人も引き込まれ手を合わせる。3人並んで手を合わせる姿が、何とも和やかに見えた。


 法事が終わり一人帰宅した明子はリビングに座った。既に子供達は独立して、各々が家庭を持っている。住み慣れたこの家も明子一人では広すぎる位だ。

彼方此方に手を入れて一人で住むに不便が無いように仕様を変えてはみたが、流石に一戸建なので全てをリホームまではしていなかった。あれこれ見て廻すが、気に成るとキリがない。

気を取り直して、紅茶を炒れて何時ものティータイムとする。書棚には浩二が獲得したトロフィーや盾が彼方こちらに並べられ、壁には浩二の演奏している写真が何枚も掲げて有った。明子はそれらを眺めてお茶をするのが、何よりも楽しみだった。

「浩二がまさかここ迄に成るとは、神様でも予測できない事ね」

 明子に至福の時が流れた。暫くの間明子はその時間にまったりとしていると、スマホが鳴る、電話の主はサクラだった。

「サクラ?」

 明子は出るか如何するか迷っていた。祐樹と別れて以来、明子は祐樹の事を思い出したく無い一心でサクラの電話には出ないでいたのだ。その為か、サクラからの電話はここ10年近く来ていなかった。なのに、今頃に成って突然のサクラの電話だ。明子が出るか迷っていると、スマホは切れてしまった。

「何だろう、今頃」

 気に成った。もう時間も経つことだし、今更祐樹の事でも有るまいと思い、明子はサクラに電話をしようとした。その時再びサクラからの電話が入った、今度は迷わず出る。

「もしもしサクラ?」

「あ!明子!良かったー出てくれた、昔何回も掛けたけど、出ないからさ。きっと祐樹さんの事気にしてと思って、それ以来電話かけないでいたのだけど、元気にしている?」

「うん、大事無く平穏無事にしている」

「そうか良かった。そうそう、浩二君凄いじゃないのよ、今更だけど、成功したね、おめでとう」

「有難う、サクラも知ってくれていたのね」

「当たり前でしょう、あれ程の有名人に成れば知らずに居られる訳が無いよ」

「そうか、ありがとうね、そう言って貰えると親として誇らしいは」

「そうだよね、本当に」

「で、今日は何の用事で」

「何の用事?それ何よ!用事が無いと私は電話しては駄目なのかな?」

「御免そんな事、でも用事有るのでしょう」

「そうなんだ・・・・実はね」

 サクラの声のトーンが下がるのが感じられた、何か大事な要件が有る事が解った。

「祐樹さん、先々月亡くなったの」

 え!意外すぎるサクラの言葉だった。明子は返答に屈してしまい、返事が出来ないでいた。

「聞いている?祐樹さんが亡くなったのよ」

 事の詳細を漸くして理解した明子は、気持ちが動揺していた。何とした事だ、あの祐樹が亡くなったと。それは現実なのかと疑いたかった、でもその事を態々サクラは伝えてくれている。現実なのか確かめなければいけない。明子は動揺する心を落ちつかせ、サクラに再度確認した。

「もう一度言って、何て?」

「だから、祐樹さんが亡くなったの、貴方の第二の旦那さんだった人よ!」

 現実だ、間違いない、でも何故サクラがそれを伝えて来ているのだ。明子はそれも聞き出したかった。

「解った、でも何故サクラがそれを知っているの、未だにお得意さんとかなの?」

「違うよ!家の人に言われてね」

 家の人?それは、旦那さんを意味する言葉だ。サクラは結婚したのか?その相手が祐樹の知り合いとでも言うのか?該当する人物が誰なのか皆目見当も付かない。

「家の人って?その人が祐樹さんと知り合いなの?それ誰よ」

「弟の祐二さん。内縁の妻に成ったの、その事を以前に伝えようと、何度も明子に電話したのだけど、あの時出ないでいたでしょう・・・だから私、今は祐二さんと一緒に暮らしているの」

 そうだったのか、以前からサクラは祐二がお気に入りだった。上手く内縁状態になれたのか、相変わらずサクラはちゃっかりしている。それにしても縁とは不思議な事だ、あのサクラが今祐樹の永逝を知らせて来ているのだから。

「そうだったの、祐樹さんが・・・亡くなったのか」

 言われては見ても、現実感には程遠い感じだった、何か夢の中の出来事の様だった。

想像しても明子の頭の中に残る思い出は、10年前の祐樹の姿だ、あの元気な頃の事しか頭に思い描けないのだから。

「それでね、本当は祐樹さん、もし自分が死んでも明子には連絡するなと言っていたのだけどね。でもね、祐二が、どうしても連絡しろと聞かなくて、御免、今更聞かされても迷惑だよね、別れた人の亡くなった事など、聞きたくないよね」

「そんな事無いよ、聞かされて有難い。あの人には世話に成りっぱなしだったから、せめて線香位は上げたいよ」

「そう言ってくれて有難い、祐二がね、明子に話したい事が有るって言うの、だから、時間作って今度こっちに来てくれる?」

 明子は日時を決めて、祐樹宅で落ち合う約束をした。


約束の日に成り久しぶりに祐樹宅に来た、あの頃と何も変わらない佇まいだ。唯一違うのは電子ロックが新品に変っていた事。

明子はインターフォンを押す、するとサクラの元気な声が聞こえて来た。

「待っていたよ!今開ける」

 門のドアの鍵が開く音がした、明子はノブを廻して中に入った。玄関口まで行くとサクラがドアを開けて待って居た。

「久しぶり!明子じゃないの、やだ!白髪増えている、でもその髪も似合っている」

「サクラは、染めているの?黒い髪のままね、

相変わらず若いわね」

「染めているに決まっているでしょう、さっ、中に入って」

 明子が勝手知っている祐樹宅だ、懐かしさがこみ上げた。

「懐かしい、約5年間通った、そう思うと感慨深いな」

「そうよね、あの頃とは殆ど変わってないと思うよ、でもリビング見たら驚くかな」

 リビングがいったいどう変わったのか、明子は期待感が湧いて来た。

 サクラが先頭に立って、リビングのドアを開ける。そこは、壁の至る所に浩二のポスターが貼られ、キャビネットには浩二のアルバムやら、浩二の関連グッズに埋め尽くされていた。

「まあ、浩二の物がこんなに沢山!あの人浩二の事をこんなにも」

「そう、大ファンだったから、結果こうなりましたって感じかな」

 サクラの話しを聞いている時に、奥のキッチンから、祐二がお茶を盆に乗せ出て来た。

「あぁ、明子さんですか、初めまして、兄貴が生前中にお世話に成った方ですね。弟の祐二です」

 サクラが自慢するだけあって、この年に成ってもイケメンだ。ちょい悪親父という処か、

顎鬚を蓄えて、目元が祐樹にそっくりだった。

「明子です、お初ですね、何年も通っていたのに、ご挨拶抜きでいてすいませんでした」

「良いのですよ、事情が事情でしたから、今日はご足労頂き本当にすいません。兄からはもし何かが有っても貴方には知らせるなと言われていましたが、私が伝えたい事がありましてね、サクラにお願いした次第です」

「まあ、立ち話も何だから、明子座って、祐二も何時までお盆持って立っているの?」

 明子と祐二はソファーに対面して座った、

祐二の横にサクラが座ると、それは仲睦まじい夫婦その物だった。

「お二人お似合いですね、あの頃からサクラは祐二さんがお気に入りでしたから」

「そうなのかい?それは初耳だな」

「あの頃私は祐樹さんを介して、祐二さんにサクラを売り込んでくれと何度も言われていました」

「あの頃はね。でも、明子その後の展開は逆なの、実は祐二の方から一緒に成らないかと言って来たのよ」

 その展開は想定外だった。まさか祐二の方からサクラに求婚していたとは以外だ。

「そうなのですよ、でも明子さんの今の言葉を聞いていたら、あんなにしつこくしなくてもサクラは落ちていたのですね」

「さては、一緒になるのに大分祐二さんから色々プレゼントせしめたね、この子は昔からそういう駆け引きが上手いの」

 祐二はそれを聞と、その様な事は一切無いと大きく手を振った。 

「それが、そんな事も無くて、一緒になる条件が、開く迄も内縁状態という事でして、

籍は入れたく無いと言うのです、それが飲めないと一緒に住まないと言いまして。私も意地が有りましたから、籍をいれると折れずにいましたが、サクラの頑固さに負けました」

 以外過ぎるサクラの行動だ、明子は何か意図が有るのかと確かめると、サクラの返答はこうだった。

「あんな商売している身で、のこのこ名家に入り込んで、後で面倒に成るのも嫌でね。どうせ金だろうと、思われるのも癪だったし。それに祐二は私を本気で愛してくれたから、過去とかはどうでも良いと言ってくれたの、その言葉で私は充分だった」

 何となく祐二の人柄が感じられた、祐樹の弟らしいと思った。近藤家の男達は、細かい過去とかは気にしないらしい。

「まあ、そんなこんな、色々ありまして、今に至ります。それで、本題に入りますが、その前に、兄貴の事で何か聞きたい事とかありますか?」

 気に成っていた件が有った、それは祐樹の死因についてだ。それは電話では何も聞かされていなかった。

「その事ですか、解りました。2ヶ月前です、あの日兄貴は日課のジョギングに出ました。でも何時まで経っても帰らない事に不審に思ったお手伝いさんが、表にでると、門の中、あの庭先です、汗をかいた状態の兄貴が倒れていたそうです。死因は心臓発作でした」

 明子は手を口に当てる、あんなに健康管理をしていた祐樹の死因が、心臓発作と聞き何とも遣る瀬無い気持ちになる。

「まあ・・・心臓発作ですか」

「そう、皮肉な物ですね、健康には一番気を使っていた兄貴が、よりによって心臓発作で逝くなんてね、呆気ない事です」

「それは、お気の毒な事です。無念だったでしょうね」

「無念ですか、そう、無念が有ったとするなら、浩二君の将来を見られなかった事位ですよ。更なる活躍している姿を見られずに逝ってしまった。

それ以外は無いと思います。兄貴は何時でも家督を俺に譲ると言っていましたから。本当はもう引退して、隠居生活でもしたかったのでしょう、好きな浩二君の応援さえしていれば満足でしたから」

「そんなに、浩二の事を」

 祐二は大きく頷いた。その目は部屋中の浩二関連の物を見ていた。

「はい、見て下さい、これらの浩二君関連の物達を。出る作品は全て購入していました、コンサートが有れば国内なら何処へでも行きましたよ。ツアーなどは付いて回っていましたからね。でも決して後援会とかファンクラブには入りませんでした」

「え?何故に」

「自分の素性が知られる事を、避けていました。私は浩二君の影の支援者でいいのだと言ってね。後援会に多額の寄付をしても、名乗り出る事もしませんでした」

 全く祐樹らしい立ち振る舞いだ、あの人は言っていた、私は影の存在だと。それを浩二にも続けていたのか、明子は心の中で深謝する。

「その支援の事で、兄貴は絶対に口外無用と話していた事が有ります、でも私はどうしても明子さんにこの件を伝えたくてね」

「何ですか、浩二に対しての支援の事ですね、その内容とはいったい?」

「一年前浩二君にストラディバリウスを後援会から贈呈したと思いますが、あれを後援会へ寄付したのは、兄貴なのです」

 え?まさか、あの人が、一人で、と明子は驚きを隠せない。

「祐樹さんだったのですか」

「そうです、銀座の馴染の店主に言われたそうです。もうそろそろ浩二君は、ストラディバリウスを持っても良い頃だと。そう言われて用意をさせて、費用は兄貴が、貯金をはたいて払いました。会社の金は一切手を付けずに、個人の金で出しました」

「まあ、それで、浩二に、そこまで・・・」

 明子は言葉に詰まってしまった、感謝の言葉以外に何かを言いたいが、それが頭に浮かばない位に、心が揺れていた。

「だから、どうしても、明子さんにだけは、

兄貴の事、知って欲しかったのです、兄貴が浩二君の事をいかに大切にしていたかを」

「有難う御座います、本当に何て言ったらよいのやら、言葉が見つかりません」

「それともう一つ伝えたい事が有ります」

「もう一つ?」

 祐二は明子を見据えた。その目の真剣さからは、祐二が次に発する言葉の重大さを語っていた。

「明子さんの事も本当に愛していました。心からです、弟の身分です、その事が肌身で感じ取れました。その事をどうしても伝えたくて」

「私の事を」

「はい、生前兄貴は良く話していましたよ、

カッコつけて男の意地を見せてしまった。それが原因で大事な人を失ったと。明子さんと別れた事を悔やんでいましたよ。だからよく、俺とサクラと3人で明子さんの思い出話をしていました、その時の顔は本当に明子さんを懐かしんでいましたよ」

「本当ですか」

「そうよ、明子、私はね、意地を張らずに今からでも、迎えに行きなよと言っていたの。

でも祐樹さん、意地っ張りの塊でしょう、言う事を聞かなくてね。明子には今の生活が有る、旦那さんとの思い出の中で生きているのだからと。そう言って、最後までそれを通したの、その代わりに、浩二君の為に尽くした感じね」

 そうだったのか、あの人は、祐樹さんは私の事をそんなに大事に思っていたのか。それに反して私は旦那の事ばかりを気にしていた、祐樹の事を思い出しはしたが、きっと新しい人を見つけて楽しくやっているだろうと、勝手に決めつけていた。そう思うと、この10年間の自分の気持ちの有り方が悔やまれた。

「あの、祐二さん、よろしければお線香上げても良いですか」

「そうだ、未だでしたね」

 3人は旧家の仏壇へ向かった。其処には亡くなった家族の写真と共に、祐樹の写真が鎮座していた。亡くなる少し前に撮られた写真なのだろう、すっかり白髪交じりのダンディーな顔に成っていた。

「祐樹さん、良い年の取り方をされたのね」

「兄貴はモテましたよ、でもね、全く女性に興味は示さなくて、本当に浩二君オンリーでした」

 明子はお線香に火をつけると、静かに手を合わせて、祈りを捧げた

{有難う、浩二の事を助けてくれて、私の事も思っていてくれて、何もして上げなかった事、どうぞ許してね。その代わり、天国では、ご家族と楽しくして下さい。その内私がそちらへ行ったら、その時はご家族を紹介してね。でも奥様に私の事を何て説明するかしら。ちょっと意地悪かな}明子はそんな事を思いながら、祐樹に安らかにと最後のメッセージを送った。

 その後3人は懐かしさに花が咲き、時間が過ぎてゆく事を忘れて話していた。

いい加減良い時間に成り、明子は時間と思い時計を見た、その行動に気づいて祐二が何かを思い出した。

「そうだ、大事な事を忘れる処でした。サクラあれ!例の物持って来てくれないか」

「あれね、はい、解った」

「例の物ですか」

「実は、遺品を整理していましたら、明子さんに関する品が出てきましてね、寝室の金庫に大事に仕舞ってあったのです。余程大切な品なのでしょう」

 サクラは何かを持って戻る、その手には、あの交換日記が何冊も乗っていた。一番上のノートの上には明子がプレゼントとした、あの馬の鞍の形をしたキーケースまで有った。

「あ!このキーケース、私がここへ最初に来た時に祐樹さんにプレゼントした物です」

「やっぱりそうでしたか、兄貴、これを大事にしていましてね、有る時から使わなくなったので、如何したかと思っていたら、金庫に大切に保管していましたよ、それに、この日記、明子さんとのやり取りを、書いていた物ですね」

「はい、これを、祐樹さん、大切に金庫に仕舞っていたのですね」

「そうよ、祐樹さんにとっては、この世で一番大事にしていた物よ、亡くなったご家族と同じに、明子の事も大事にしていた証拠よ」

 サクラの言葉に明子は涙腺が緩んで来た。

私との思い出を大切に、取っていてくれたのが、堪らなく嬉しかった。

「あの、この日記は如何する予定ですか」

「明子さんが良ければ、お持ちに成って下さい。私達より、明子さんに価値が有る物ですから」

 明子は一言礼を言うと、その何冊も有る日記に手を乗せて、涙に伏せてしまった。


 夜になり帰宅した明子は、思い出の詰まった日記を手に取る、幾つかのノートは手垢がつき、幾分汚れていた。でもその汚れの幾つかは、きっと祐樹がつけた物、明子にしては、その汚れさえ貴重な祐樹の痕跡だ。それらの汚れを見ては、明子は祐樹を感じていた。

明子は最初に書かれた日記を手に取る、大人の交換日記と書かれた表紙を捲り、祐樹が初めて書き記した日記を声に出して読み始めた。

{お早う!今日からいよいよ、専属のお仕事だね、至らない私ですが、宜しくお願いします。始めに、二人の事に関して、最低限のルールを決めたいと思います。

明子はずっと読んでいた、読みながら思い出にひたっていた。もう誰の目も気にしなくて良いのだ。祐樹との日記を読む事が、明子にとって本当の至福の時間になっていた。

     「終わり」


事実はそれを受け取る人の立場によって、大きく変わるものだ。例えば大切な家族を失えば、それは失った家族には悲しむべき事柄だが、それが敵対するグループには喜ばしい出来事になるのだからだ。

一般常識では悪く言われる行為でも、それによって生きて行く糧を得る人にとっては、良い行為にさえ成り得るのだ。


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