風の到来
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おお、つぶらやくん、お帰り。大変だったね。
けっこう風強かっただろ? ここにいる間も、部屋中ががたがた揺れていたよ。
君は……言わずもがなか。とくに髪の毛。怒髪じゃないだろうけど、まるっきり、どこぞの怒りで目覚めた伝説の戦士チックだよ、ははは。
古来、風もまた神様の御業とみなされていたことが、たびたびあった。
人為的に起こせるものには限度があって、すべてにまんべんなく、ときに破壊的威力さえ伴って吹き付けることなんか、自然にしか許されない。
そのリミッターの外れた力に注目した、不思議なことに関する話は、いまでも多く残っている。僕自身も、少し前に風をめぐって妙な目に遭ったことがあるんだ。
休みがてら、その時の話、聞いてみないかい?
当時の僕は、思春期のご多分に漏れず「最強」の称号にあこがれていた。
僕の強みは走り幅跳び。体育でしか測らないが、その記録は現役陸上部にだってひけを取らなかった。部からのスカウトも受けたけれど、徹底して突っぱねていたな。
「専門家集団を蹴散らす一般人」の姿が、かっこいいだろうという、これまた勝手な理由ひとつでね。
陸上競技の記録につきものなのが、「追い風参考記録」。
競技により定められた強さ以上の追い風が吹いていると、その時の記録は公認のものとされず、あくまで参考のものとされる。
確かに追い風が助けになるのはフェアじゃないけれど、横風や向かい風の場合は適用されるというくだりには、ちょっと納得いかなかったな。どうせなら「横風参考記録」とか「向かい風参考記録」とかも作って、データを集めりゃいいのに、とも子供心に思った。
そして「最強」、すなわち「最高」の記録を残すのに、僕はベストコンディション+絶妙な追い風の存在を求めていた。
公な記録でなくともいい。自分がどこまで飛べるかの限度に挑戦したかったんだ。お薬などは使わず、あくまで自分の肉体と、自然が授けてくれるもののみをあてにして、どこまでやれるかというのをね。
弱くても効果が薄いし、強すぎてもだめだ。フォームが乱れ、かえってロクな結果にならない。そして風を得るためには、遮蔽物が周りにあまりないところの方がいい。
となると、僕の選択肢は河川敷となった。
走り、跳ぶあたりの石たちを取り除け、環境を整えていたけれど、着地場所に砂を持ってこなかったのは、なかなか危なかったなあ。下手な着地をしていたらケガをしているところだ。
ただでさえむき出しの地面に、勢いついた着地を繰り返していて、足が痛かったのに全然改めなかったもん。よっぽどのめり込んでいたんだと思う。
あらかじめ引き出し、固定しておいた巻尺の端を踏切板に見立てて、調整をする。
安定して出せるのは6メートル40あたりまで。それ以上は加速や踏切のタイミングによって、上り幅が変わっていく。
どうにか7メートル台に届きたいと、僕は思っていた。聞くに、このあたりの中学校で全国大会に出た子の記録が7メートル台らしいからだ。
だからこそ、追い風の力を待ち望んでいた。僕が飛ぶ段になって、タイミングよく強い風が背中を押してくれたならば、もしかすると届くかもしれない。そう、淡い期待を帯びていたんだ。
風は四方から吹いてきていたが、僕はいったん決めた向きを途中で変えることはなかった。リズムが乱れる。
横から、正面から風が吹き寄せることも珍しくなく、その間はあたりをウロウロするようにウォーキングして、身体を暖めておく僕。そして背中を押す方から風が吹くと、スタートの姿勢をとる。
並みの強さでは駄目だ。強すぎて、かえって姿勢を崩しかねないものもダメだ。それでいて、僕が跳躍した瞬間に「ぐっ」と強く押してくれなくちゃいけない。
厳しい、なんてもんじゃない条件だった。
それでもいつかそのような風が吹くんじゃないかと、僕は時間さえあれば環境を整えて、風の到来を待ち続けていたんだ。
およそ一カ月半後。
その日も河原にスタンバって1時間が過ぎようとしていた。
この時は飛び始めの調子が悪い。無風で飛ぶと、6メートル10がせいぜい。何度飛んでもいつもの自分を下回り、僕も機嫌を損ないかけていた。
早く来ないかといらだちながら、走る場所のまわりの石をときおり蹴り飛ばしていたけれど、にわかに追い風が吹き始めたんだ。
髪もウェアも、ひっきりなしになびく。それでいて、姿勢を崩さない絶妙な強さ。
「待っていた」と、一気にモチベーションが上がる僕は、すぐに自分でもうけたスタートラインへ。いくらか飛んだり、足首を回した後、風がやまないうちに発進した。
僕の最適な踏切は21歩。
その一歩一歩ごとに、風はじょじょに背中を押す強さを増していく。トップスピードに乗り切ったところで、風もまた姿勢を保つギリギリまで高まっていく。
視界の隅に見える、板代わりのメジャーの端。自分でも最後の一歩は、足裏全体かつ助走を殺さない勢いで踏み切れた。
浮き上がる視界と共に、いまやほぼ本能的となった、リード脚の引き上げにうつる。
はさみ跳び。僕の跳躍力なら、意味が出てくると体育の先生にすすめられてから、ずっとこの跳び方を続けてきた。
もとは、そり跳び派だった僕だが、踏み切る力が強かったらしく、たびたび勝手にはさみ跳びに近いフォームになっていたらしい。それからは意識して、こちらへ移してきたんだ。
背中を押す風は、なおも強まる。全速で自転車を飛ばしたかのように、後ろへ吹っ飛んでいく景色に、僕は空中を歩くように足を交差させていった。
シングルシザース。絶好調の時の僕なら、完璧に動作を終えられるが、今日は両足をそろえるまでに、砂利をまき散らしてしまうことばかりだった。
しかし、今回は余裕。
ぐるりと腕と足を回し、それらを揃えてなお高度は下がる気配なし。
「こいつは新記録間違いなし……!」と頭の中でほくそ笑むことができたのも、ほんのわずかな間だけ。
身体は相変わらず落ちない。はっきり頭の中で、一秒、二秒とカウントできてしまったんほどだ。
10メートルいっぱいに引き出したメジャーが、横を通り過ぎて行っても、勢いは落ちず。
さすがに慌てた僕が足をばたつかせるも、小石ひとつかすらない。
上半身はというと、僕のウェアが前方にたなびいている。いや、たなびきすぎている。
横から見れば、山もかくやという長さととがり具合。ぶちぶちと繊維のちぎれる音を交えながら、なおも跳ぶことをやめない。
身体が目指すは、川にかかる橋の桁下。普段なら向こうの景色を見渡せるそこが、いまはただただ暗い空間を広げて待っている。
もう僕が跳んでいるんじゃなかった。背後からの風もすでになくなり、もはやウェアが強く引っ張られるのに、僕が引きずられている形だったんだ。
ぶちりと、一番引っ張られていた部分のウェアがちぎれた。
一カ所に飽き足らず、両腰両肩、腹回りと5カ所が次々もぎ取られた。
ふと引力が失せ、急激に勢いがなくなる。つま先が土をえぐったと思いきや、僕は地面へダイビングヘッドをかました。
ここまで跳ぶなんて考えていない。取り除かれていない石たちが、滑り込む僕へ次々と牙を剥き、ようやく顔をあげたときには、いくつもの石が赤く染まっていた。
あの生地たちは、桁下の闇へ飛び込んだきり、姿が見えない。
落ちたかどうかも定かでない中、おっかなびっくりで立ち上がる僕の耳に届くのは、犬たちを思わせる鳴き声だった。
これも桁下の闇の中から聞こえる。それも、何匹分もだ。
鼻を鳴らし、息を震わせ、彼らは何かをむさぼっている。おそらく、あそこへ飛び込んだ生地たちだ。
僕はもう一目散に逃げだしていた。
後日、あそこへ戻った時には、桁下の奥にちゃんと向こうへの景色が見えていたんだよ。
あのとき、僕を吸い寄せたもの。そして僕の背中を押したものに関しては、いまも分からずじまいなのさ。