第1話
月明かりだけが照らす夜の森を一人で歩いている。春のまだ少し冷たい風が木に茂る葉をさわさわと揺らし、その音に寄り添うように虫や鳥の鳴き声が聞こえてくる。
なんて、こうして描写すれば夜の森も悪くないな、と思うかもしれないけれど、実際は違う。すごく怖い。
今歩いている場所は獣道で、月明かりがあるおかげで一寸先しか見えないということはない。でも、そこまで視界がいいわけでもない。さらに、動物でも動いているのだろうか、不規則にガサガサと音が聞こえてくる。正直に言うと、すごく怖い。
しかしそんな恐怖のみに支配されているかと言えば、そういうわけではない。むしろワクワクする気持ちの方が強い。
「おっと......」
そんなワクワクを証明するかのように視界が開ける。そこには、木造の一軒家がポツンと立っていた。よしよし、ようやくだ。ようやく、
「念願の一人暮らしだあ!」
もはやじっとしていられず、玄関まで走り、一軒家の引き戸をガラガラと勢い良く開ける。当然、電気が点いていないので真っ暗な屋内。壁に手を当てて、なんとか電気のスイッチを探りだして電気を点ける。
パッと明るくなる玄関。木造の家だからこその落ち着いた雰囲気があるが、汚れたという印象はなく、むしろ床や壁は輝くほど綺麗な状態だ。それがまた一層俺の気分を良くさせる。
「さて、と。まずは荷物を置こうか」
流石にここまで来るのは結構大変だった。まずは着替えやらなにやらが入ったこの荷物を何とかしないと。
「よっと」
荷物を抱えながら居間の扉を開けて電気を点ける。よしよし、事前に搬送してもらっておいた椅子やら机やらテレビやらは問題なく配置されている。居間から見えるキッチンにも遠目に冷蔵庫などの家電が見える。
「とりあえず荷物はここに......」
居間にある机に近づくと、机の上に何かが鎮座しているのに気が付く。これは、木彫りの熊だ。口には鮭を咥えている。こんなもの、頼んだか......?
「ま、いいか」
気にはなるけれど、大したものじゃないだろうし。多分搬入業者さんからの贈り物か何かだろう。
適当に荷ほどきして、自室で一旦腰を落ち着ける。ふふーん。早速我が城が完成したぞ。
「今日はとりあえずお風呂に入って寝ようかな」
そう呟いてお風呂に入り、寝る支度を済ませて布団に潜る。移動の疲れもあったのか、慣れない環境なのにすぐに睡魔が襲ってくる。今日は随分気持ちよく眠れそうだ......。
チュンチュン、チュンと鳥の囀りが聞こえてくる。窓から差し込んでくる暖かい日差しが心地よい。
「ふあ~あ......っと」
軽く伸びをして、布団から体を起こす。さてと、とりあえず朝ご飯を食べて仕事をしないと。って、まずは着替えないとね。
寝巻から普段着に着替えて、スーっと居間と寝室を分ける襖を開ける。迷わずキッチンに向かって、適当に調理器具を手に取る。とりあえず、朝ご飯は目玉焼きと納豆、あとはナスのお味噌汁で。
「ふんふんふ~ん」
鼻歌交じりに朝食を作り、居間の机の上に並べていく。こういうのも段々おろそかになっていくのかもしれないけれど、やっぱり最初くらいはちゃんとしないとね。
テレビの電源を入れて、少し窓を開けて陽を入れて、朝の空気を感じながら食卓に腰を落ち着ける。さて。
「いただきま「わしの分は?」......へ?」
手を合わせていざ食事に手をつけようとすると、どこかから声を掛けられる。テレビの音とはちょっと違うような......
「だから、わしの分は?」
「えっと、どちら様ですかー?」
周りをきょろきょろ見回しながら声を出してみる。すると、机の上で、ガコンと音がした。
「だから、わしの分も飯を用意しろと言っているんじゃ!」
「うわあ!」
なんと、木彫りの熊が動き出した。口に鮭を咥えたまま仁王立ちで腕を組む。
「えっと、君が喋ってるの?」
「君とはなんじゃ! わしはお前より年上じゃぞ!」
「歳は上でも見た目が......」
「熊を見た目で判断するでない!」
「いや、熊なら歳より見た目で判断するでしょ」
なんということだろう。朝からとんでもないことが起きている。木彫りの熊は両手を振り上げてやんややんやと抗議してくる。
「というか、ご飯なら口に咥えてるじゃないか」
「わしのペットになんてことをいうんじゃ!」
「いや、ペットなら口に咥えない方がいいんじゃないかな」
「お前ら人間も猫吸いといって猫を吸っておるじゃろ」
「いや、口に咥えるほど吸う人は珍しいと思うけど」
「とにかく、わしにも飯を用意しろ!」
「ふう......分かったよ、普通のご飯でいいんだよね?」
「うむ」
俺との口論が終わって、その場に胡坐をかく木彫りの熊。いや、とんでもないことって頭ではわかっているんだけれど、なんかすんなり順応しちゃった。これも俺の癖の一つなのだろうか。
適当な茶碗を用意して、ご飯とお味噌汁、目玉焼きを皿に盛り付ける。......箸、用意した方がいいのかな?
一応俺と同じ食事の準備が出来た。ただ、食器の大きさとかが木彫りの熊のサイズではないんだけど、大丈夫かな。
「おお、なかなか旨そうだ。ではいただこうか」
「うん。せーの」
「「いただきます」」
早速お味噌汁から手を付ける。うん、我ながらいい出来だ。すごくおいしい。
「ほお......これはなかなか美味じゃの」
ちらりと熊の方に目を向けると、器用に茶碗を抱きかかえるようにして持ち上げて、お味噌汁をのんでいた。見かけによらず力持ちだなあ......って、熊なら力持ちなのか。一方咥えられていた鮭は熊の足元でビチビチと跳ねている。
ロボットにしてはあまりに生々しい動きだ。やっぱり、この木彫りの熊と鮭は生きているのだろう。鮭にエサは......熊が与えているのだろうし、あんまり気にしなくていいかな。
「それにしてもお前さん、わしらのことを随分簡単に受け入れるのぉ」
「ん? まあね。それとも驚いてほしかった?」
「そういうわけではないがの。肩透かしというか」
「そうなんだ」
テレビを見ながら熊に返事をする。今日の天気は終日晴れ。特に悪いニュースもなく、一人暮らしの一日目としてはいいスタートを切ったのではないだろうか。
......ん? 一人暮らし......?
ちらりとご飯を口に運んでいる熊(と相変わらずビチビチ跳ねている鮭)に目を向ける。この二匹が一緒にいるというのは、一人暮らしと言えるのだろうか? ペットということなら一人暮らしかもしれないけれど、流石に人語を離す動物と暮らすとなれば一人暮らしとは言えない気がするし......。
「あのさ。熊はなんでこの家にいるの?」
「わしは熊などという名前ではない!」
まずは率直にここにいる理由を聞こう......と思ったら、怒られてしまった。そうだよね、まずはお互いのことを知らないと。
「えっと、俺の名前は二月照光。君の名前は?」
「わしはタイトじゃ。そしてペットのハル」
「(ビチビチビチ)」
自分の名前が呼ばれたことを理解しているのか、一層跳ね回る鮭、じゃなくてハル。木でできているとは思えないほど滑らかに動くものだ。
それにしても名前を憶えてもらおうとするなんて、タイトとは長い付き合いになるのかな? っていやいや、それを聞こうとしていたんじゃないか。大した用事でなければすぐに出ていってくれるだろうし、俺の一人暮らしは守られる。
「ん? ある人に頼まれてのぉ。お前をある場所に通わせるために来たのだ」
改めて俺の家に来た理由をタイトに聞くと、そう答える。
「ある場所?」
俺がオウム返しで聞き返すと、タイトがその場で立ち上がり、こちらに指を突き付けてくる。
「聞けい、幸運なる若者よ! お前は妖怪学校『奇々怪々』に入学することになったのじゃ!」
言い終わると改めてその場に座って、残っていた味噌汁を飲み干し、ぷはっとお椀から口を離す。いい飲みっぷりだ。いい飲みっぷりなんだけど、それ以上に嫌な単語が聞こえた。
「えっと。入学は辞退できるの?」
「出来ん」
「なんでさ」
「なんでもじゃ」
「......」
断固として譲らない姿勢。こうなったらもう受け入れるしかないだろう......流石に簡単に受け入れすぎか?
「まあ分かったよ。頑張ってその妖怪学校とやらに通うよ」
「奇々怪々じゃ。間違えるな」
「......うん。奇々怪々に通うよ。諸々の日程を教えてもらっていい?」
もうなんでもいいや。爽やかな朝の空気に対して面倒くさいというネガティブな感情があふれ出してくる。さっさと奇々怪々とやらを卒業して夢にまで見た一人暮らしを楽しもう。
......って、うん? よく考えると学校に通えるのか。あの人たちがいない状況で。そう考えると悪くないか......?
頭の中で色々考えながらも、とりあえずタイトに今後の予定を尋ねる。すると、タイトはご飯を口に入れながら呑気に答える。
「焦るでない。食事が終わったらゆっくり教えよう」
「まあ焦っているわけじゃないけれど、そんなに急ぎの用事ってわけでもないんだね」
気持ちを切り替えて食器に残っていたご飯を口に入れて食事を終える。すると、タイミングよくタイトも食事を終わらせる。ちょうどいい、一緒にお皿を洗っちゃおうかな。
「「ごちそうさまでした」」
二人で手を合わせて食後の挨拶をする。さてと、食器を台所に運んで洗っちゃおう。
シャツの袖をまくって、スポンジに洗剤を掛ける。そこからスポンジを軽くもんで泡立たせて、いざ食器を洗う......瞬間。
リーン、リーン......
「?」
これは、鈴の音かな? 鈴なんてこの家に運んでないはずだけれど。
一旦手を止めてあたりを顔をあげる。すると、異変に気が付く。
「なんだろう、雰囲気が......」
この家は森に囲まれた場所にある。なので鳥や虫の鳴き声といった環境音は常に聞こえてくるのだけれど、今はそれが一切聞こえてこない。
「タイト?」
振り返ってタイトに声をかけるけれど返事がない。あれ、机の上からいなくなってる。......っていうか、なんか居間に入ってくる陽の光が変だ。
様子がおかしい。俺以外の人がいないのにそれが分かるっていうのがなにより異常だ。
とりあえず、外に出てみようか。もしかしたら何か起きているのかもしれない。そう考えて玄関から外に出る。そこでさらに大きな異変に気が付く。
「な、なんだこの空」
俺が見知っている青い空に白い雲は見当たらず、代わりに広がっているのは赤い空に黒い雲。
心臓がドクンと大きな音を立てる。これ、相当恐ろしいことが起きているんじゃないか?
なにか原因があるんじゃないだろうか。そう考えて家の周りを歩いてみる。すると、見覚えのないものが見つかる。
「これは、井戸?」
石でできた円形の穴を守るように木の屋根がついている。木の屋根から伸びる紐の先は井戸の底へと続いている。うん、間違いなく井戸だ。
ただ、こんなもの物件見学の時にあったかなあ? 首を傾げながら井戸に近づいて、中を覗き込んでみる。
「......あれ」
覗き込むと暗い穴の底が、薄っすらと赤い光を反射している。井戸だから穴の中にある水が映っているのだろう。そこまでは想像通りの光景なんだけど、あることに気が付く。
「よっと」
一旦井戸を覗き込むのを止めて、井戸に垂れていた紐に手を掛けて引っ張り上げる。なんでだろう、紐の先に桶が付いていないんだよな。代わりに何かついているのが見えた。
引っ張り上げた紐の先についているのは......風鈴? もしかして、さっき鳴っていた鈴の音ってこれ?
「いや、さすがに無いか」
さっきまでそよ風程度しか吹いていなかった。そよ風程度で揺れた紐が鳴らす風鈴の音なんてたかが知れている。それに井戸の中にあったわけだし、聞こえてくるわけないか。
これは関係ないだろう、そう考えて井戸の中に風鈴を戻して井戸に背を向ける。さて、次はネットニュースでも確認を
リーン、リーン......
「......」
井戸から遠ざかる足が止まる。なんだろう、やけに風鈴が気になる。さっきは突然音が鳴ったから気にならなかったけど、なんていうか、風鈴の音が耳から入ってきている感じがしない。わけが分からないこと言っていると思うけど、心に直接響いているというか。
やけに気になって再び井戸の中を覗き込む。相変わらず真っ暗で底が見えない。......ん? 底が見えない? さっきは赤い光を反射していたのに。
もっとよく観察したい。そう考えて少し身を乗り出す。すると、突然体の力が抜ける。
「!? うわああああああああ!!」
最悪だ、頭から真っ逆さまに井戸に落ちる! もちろん垂れ下がっている紐に手を伸ばすけれど、力が全然入らない!
風を切る音と不快な浮遊感が落下していることを実感させる。俺、こんなところで死んじゃうのか?
あまりに衝撃的な展開と確かに迫ってくる死の感覚にどうすることもできない。唯一俺が自分からできることがあるとするならば。
意識を手放すことだけだろう。
※この作品は10月末ごろに投稿予定の作品の第1話です。作者の都合によって内容が変わる可能性がございますのでご了承ください。
ずっと音沙汰なく新作を書いているのはなんとなく申し訳がないということで投稿することにしました。先に書かせていただいた通り、これ以降のお話の投稿は10月末ごろになります。
現時点でそこそこ書いているので、失踪はない、と思いますのでよろしくお願いいたします。