幕間 二 生かすか殺すか
夜道を歩く二人の黒コートの人間。一人は恰幅の良い中年太りが目立ち始めた男。もう一人はまだ少女と呼ぶのが相応しい若い顔立ちをした金髪が特徴的な女性。
コートの男、立花は隣を歩く金髪の少女の姿を上から下に見回すと、感嘆の声を漏らした。
「なんだか感慨深いですねぇ。紗々ちゃんがそのコートに袖を通す日が来るなんて」
「立花さんはまだ反対ですか? 私が悪魔祓いになるの」
隣を歩く金髪の少女、雪代は少しいじけたような声をだすが、立花はそれをあっさりと否定した。
「いいえ。流石に今更反対なんてしませんよ。ただ、紗々ちゃんと出会ってから十年も経ったって思うと感慨深くて」
施設から通っていた公立中学校を卒業すると同時に雪代は協会の悪魔祓いとなった。てっきり難しい試験のようなものでもあるのかと思っていたのだが、そんなことを言っていられない程に悪魔祓いは人手不足らしく、協会が運営する施設出身ということもあってあっさりと認められた。
「私、当時七歳でしたから、今年で九年目ですよ?」
「この年になると大体一緒なんですよ……僕もあの頃はまだ三十代だったのが気付けばもう……時の流れは恐ろしいですねぇ」
悪魔祓いになったと言っても、まだ雪代は右も左もわからないひよっこ。まずは先人たるベテランの元で経験を積むということとなったのだが、雪代の教育係が立花なのはおそらく偶然ではないのだろう。
「紗々ちゃん。現場、ここであってますよね?」
「住所的にも間違いないかと」
「やだなぁ。もっと小綺麗なところで取引してくれませんかね」
二人は都市部の中心にある、高層ビルの建築工事現場の前でその足を止めた。
今回の任務は魔道具の金銭売買の摘発。
なんでも、悪魔との契約によって製造された魔道具を法外な値段で売りつけている者がいるらしく、雪代は立花の後について地道な調査を続けていた。そして、遂にこの建設途中のビルの内部でその取引が行われるという情報を掴んだのだった。
「まあ、今回は紗々ちゃんにとっては初仕事、状況整理はちゃんとしておきましょうか」
「はい」
「情報では売人も購入者も一人ずつ。過去の購入者の情報からやり取りされている悪魔の異能は『筋力増強』で形状は栄養ドリンクのような液体。検査に引っかからないドーピング薬としてスポーツマンに高額で取引されているそうです」
「売人もその魔道具の薬を飲んでいるのでしょうか」
「飲んでいなくても僕たちの存在に気づいたらその場で飲むでしょうね。戦闘の可能性も考慮に入れておいてください」
「了解です」
雪代は緊張した面持ちでコートの上から拳銃を撫で、一度だけ深呼吸をする。
訓練で何度も的に向けて撃っていたそれを、初めて人に向ける可能性があるのだと感じ、その約一キログラムの鉄の塊が重みを増したような気がした。
「とはいっても、売人の確保は僕がやるので紗々ちゃんはブツの確保、あるいは破壊を優先してください。僕がやられちゃった時は一目散に逃げてくださいね」
「質の悪い冗談はやめてください」
「冗談じゃありませんよ。悪魔憑きと戦うというのはそういう事です」
いつもの軽口だと思って流そうとする雪代に対して、立花は声色も口調も変えずに淡々と続ける。
「僕らがやるのは結局のところ命のやり取りです。こちらにその気がなくても向こうはまず確実に僕たちを殺しに来ます。そういう状況下で一番大事な事……なんだと思います?」
いきなり問題形式で問いかけられ、雪代は顎に手を当ててしばらく考え込む。
「冷静な判断。でしょうか?」
「五十点。冷静な判断が常にできるなら確かに理想的ですが、普通は無理です。なので本当に重要なのは『迅速な判断』つまり迷わない、躊躇わないことなんですよ」
「……なるほど」
「だから、余裕があるうちに決めておくんです。銃口を向けた時、敵を『殺す』のか『殺さない』のか。ピンチなった時『命がけで戦う』のか『一目散に逃げる』のか。決めておけば迷いません、迷わなければ生き残る確率は格段に上がります。そして何より、一線を越えた時に後悔しなくて済む」
その最後の言葉に含まれた意味を雪代は問いただそうとは思わなかった。
「では授業はこの辺にして、行きましょうか」
◇
情報によれば取引は一時間後らしく、二人は潜入した建設中のビルの内部に先客がいないことを念入りに確認してから、取引現場となるはずの十階にて息を潜めてその時を待った。
――悪魔の力を売る……か。ママが悪魔を召喚しようとしたのも、お金のためだったのかな――
悪魔憑きが来るまでの間、むき出しのコンクリート柱の陰に身を隠していた雪代はいまだ答えの出ない母の真意について考える。
だが、その思考は革靴が床材の張られていないコンクリートの地面を踏む音によって遮られた。
――来た!――
別の柱の陰にいる立花とアイコンタクトを交わし、雪代は呼吸を抑えてより一層影に同化できるように努める。
階段を上って現れたのは二人の男。一人は身長百七十に満たない小柄な体格で上下のスウェットにマスクとラフな格好で小さなショルダーバッグを斜めかけしている。
もう一人は逆に日本人の平均値を越えた百九十に迫るかどうかという高身長の小綺麗なジャケット青年、こちらは小さなハンドバッグを大事そうに両腕で抱えている。
二人は雪代達が既にこの部屋にいるなどとは露知らず、地上十階という立地も相まって雪代達にも聞こえる明朗な声で会話を始めた。
「試供品はお気に召してくれたようで何より。アマチュアレスリングの期待の新星とか何とか言われてるらしいやないか」
「ああ。素晴らしかった……どれだけ努力しても越えられなかった壁を突き破った感覚っていうのかな、決勝戦すら赤子の手を捻るような感覚だったよ。これでドーピング検査にひっかからないどころか、副作用すらない。まるで魔法だ」
「魔法ねぇ。せやな、魔法の薬や」
雪代は会話から売人は小柄なスウェットの男、購入者が高身長の青年だと当たりをつけて、改めて両者を観察する。
――あちらが売人だとすれば、魔道具の薬はあのショルダーバッグの中に?――
雪代は音を立てないように注意しながらコートの内側から白銀色の拳銃を取り出し、安全装置を外した。
――あとは立花さんの合図を待つ――
雪代はあくまで後衛、油断を誘うためにもギリギリまで身を隠す手はずとなっていた。
耳に全神経を集中させ意識を研ぎ澄ましていると合図、ではなく乾いた銃声が室内に響いた。
「ぎゃっ!」
「なっ、なんだ!?」
銃声から一秒遅れて、スウェットの男は短い悲鳴をあげ、肩を抑えてその場にうずくまる。そして、雪代の足元には訓練で何度も見た青いゴム製の非殺傷弾の弾頭が転がって来た。
「てめぇ! サツに売ったんか!」
「違う! 僕は何も知らない!」
「うぐっ!」
男たちの口論は二度目の銃声によって打ち切られ、スウェットの男は背中に銃撃を受けて前のめりに床に倒れ伏す。
その状態になって初めて立花がリボルバー式の拳銃を構えた状態で柱の陰から姿を現した。
「どうもどうも。お話の邪魔をして申し訳ありませんねぇ」
「サツ……じゃねぇな?」
「はい。悪魔犯罪専門の執行組織。協会の悪魔祓い……と言えば伝わりますか?」
「協……会?」
「おや、ご存じでない? となると偶然魔導書に関わった三流ってところですかね」
立花はスウェットの男に銃口を向けたままゆっくりとにじり寄る。
その手際の良さと容赦のなさに雪代は舌を巻いてしまった。
――迷わない、躊躇わないって、つまりこういう事か――
無警告の発砲といい、非殺傷弾とはいえまだ悪魔憑きと断定していない相手に銃撃を当てることといい、警察のような真っ当な組織ではありえない行動の連続。
しかし、その結果彼は反撃の予知すら与えずにスウェットの男を無力化してみせた。これでは雪代の出番など最初からない。
「オイ……何ぼさっと見とんねん! お前もしょっ引かれるぞ!」
床にうずくまった体勢でスウェットの男が叫ぶ。それが取引相手の青年に向けられたものだと、立花も雪代もすぐに理解した。
――マズイ。立花さんはスウェットの男の方に意識を向けている。このままでは逃げられ……――
雪代は最初、その言葉は逃走を促すためのものだと思っていた。だが、それは違った。
はっ、と目を見開いた青年は慌てて自らが抱きしめていたハンドバッグの中に手を突っ込み、そこから栄養ドリンクなどに使われるような茶色いガラス瓶を取り出した。
雪代はすぐにそれが『魔道具の薬品』だと察した。
――すでに魔道具は受け渡しがされていた?! まずい。立花さんはあの瓶に気づいていない――
叫んでそれを知らせようにも、ジャケットの青年に意識を向ければ自然とスウェットの男への警戒がおろそかになってしまう。
――いま、自分がすべきことは立花に知らせることではなく、あの男を無力化することだ――
そうして、雪代は右手に握られた拳銃の撃鉄を起こし、柱の陰からジャケットの青年に銃口を向ける。
――撃つのか、本当に?――
浮かび上がる自問自答。ゴム製の非殺傷弾と言えど音速を越える速度で撃ちだされるそれは、当たり所が悪ければ命の危険がある。
雪代は改めて人殺しとなる覚悟あるのかという自らの問いかけに、答えを出せなかった。
「……うわぁああ!」
雪代は結局、その引き金を引くことはできず、自らの葛藤を掻き消すように叫びながらジャケットの青年に向けて飛び掛かった。
「な、なにをする! 離せ!」
青年の抵抗にあいながらも、雪代は必死にその手に握られた瓶を奪い取ろうと足掻く。
「はぁあああ!」
そして、その取っ組み合いの結果、偶然にも青年の握る瓶は地面に叩きつけられ、その破片と中身の液体が飛び散った。
「な、おまえ! なんて、なんてことを!」
青年は悲嘆にくれた表情を浮かべ、抵抗をやめる。そして、コンクリートのシミになりつつある液体を必死に指先でこすり、舐め取ろうとし始めた。
「これがないと僕は、僕は!」
「ぁ……」
その姿を見て雪代は察した。
――この人がもっていたのは『悪意』じゃない……この人にあるのは誰もが持っているような『欲』だ――
きっと彼は悪魔の存在を知らなければ、その力を知らなければ普通に生きていたのではないか。
雪代が呆然と青年を見ていると、再度銃声が鳴り響き、ジャケットの青年は声も上げずにその場に倒れた。
「いやぁ、助かりましたよ。まさか、魔道具が既に彼に手渡されていたなんて予想外でした」
声の方を振り返ると、そこでは銃口からまだ白い煙が立ち上る拳銃を構えた立花が起用に左手だけでスウェットの男を手錠で拘束していた。
「紗々ちゃん。そっちの青年の拘束、お願いできますか? 先ほどのやり取りを聞く限り、どうやら魔道具を既に試したことがあるみたいですから」
「あ……はい」
立花の声にようやく冷静さを取り戻せた雪代は彼の指示通りに眼前で蹲る青年に手錠をかける。
「よくも……よく、もぉ!」
痛みか、悔恨か、それとも怨嗟か、様々な感情が混在した涙を浮かべるその青年を拘束し、雪代の初任務は終わった。
◇
「ふぅ……事務って作業大変ですねぇ」
ジャケットの男……炭村を捕えた日から一週間が過ぎ、雪代は事件の事後処理を何とか終えて協会施設の休憩室で一息ついていた。
「立花さんが書いたやつは文章がメチャクチャで参考にならなかったですし……」
他に誰もいないのをいいことに独り言をポツリと呟いていると、バンッと扉が壊れるのではないかと思う勢いで開けられ、見知った不機嫌そうな顔が休憩室入ってきた。
「あ、叶。お疲れ様です」
「雪代、テメェ……」
自分と同じように中学校の卒業と同時に協会の悪魔祓いとなった幼馴染、仁戸叶。久しぶりに見た彼の姿はワックスで逆立てられた髪や赤いメッシュなど施設にいた頃以上に攻撃的な外見になっていた。
彼は雪代の存在を目に止めると一目散に彼女の元に歩み寄り、その胸倉を乱暴につかんだ。
「捕まえた悪魔憑きを無罪放免で逃がしたっての本当なのか!」
「あぁ……その話ですか?」
雪代はあまり焦った様子も見せず、頬をカリカリと掻くだけ。その態度が仁戸の神経を逆なでしたのか彼はそのまま壁際に雪代を押しつけて更に大きな声で叫ぶ。
「どういうことだ! 説明しやがれ」
「いや、誤解ですよ。魔道具を売買していた悪魔憑きの男はちゃんと立花さんが矯正施設に送りました。私が無罪を訴えたのはその魔道具を買っていた人です」
「魔道具を使ったのならソイツも同類だろ」
「彼はそれを悪魔の力だと知らずドーピングだと思っていました。彼も悪魔憑きに騙された被害者ですよ……まあ、ドーピングもそれはそれでダメですが、情状酌量の余地があると思ったんです」
実際の所、雪代の主張に同調している人間は非常に少なかった。立花ですら悪魔に関わったのなら彼も立派な悪魔犯罪者、というスタンスで最初は渋い顔をしていた。
だが、雪代のしつこい説得を受けて渋々上層部への申告に後押しをしてくれた形だった。
「執行猶予、ってやつですよ。更生の余地は残すべきです」
「テメェは! バケモノを殺すために悪魔祓いになったんじゃねぇのか!」
「私は……」
雪代の脳裏に浮かぶのは、悪魔の力に溺れその代償によって命を落とした母の姿。
「私は悪魔から人間を守りたい。だから、私の敵は人間じゃない、悪魔だけ」
「ああ、そうかよ! だったら勝手にしろ」
これ以上の問答は無駄だと判断したのか、仁戸は雪代のシャツを握りしめていた手を放し、踵を返す。
「……仁戸」
「人間が高尚なんてのは幻想なんだよ」
仁戸は最後にそれだけ言い残して休憩室から出ていった。
この日を境に、彼は雪代に対して当たりが強くなった。




