第六話 Power of Tearer
協会の職員達にとってそれはあまりに突然の出来事だった。
『緊急警報、緊急警報、正面玄関に悪魔憑きが襲撃! 非戦闘員は早急に退避し、所内にいる実戦部の方は至急応戦に向かってください! これは訓練ではありません。繰り返します! 正面玄関に悪魔憑きが襲撃!』
館内にアナウンスが鳴り、非常事態を告げるサイレンが響く。
「雪代紗々は、どこだぁ!」
その場にいた誰もが、突如として現れたその男が悪魔憑きであると気づいた。
それほどまでにその男の姿は異質だった。
人間の限界を遥かに超越した圧倒的な質量の筋肉の鎧。腕も足も胸も首もあらゆる部位が筋肉によって膨れ上がり、皮膚は張り裂けそうなほどに張り詰めている。
「答えろ、雪代紗々はどこだぁ!」
その筋肉は見せかけだけではなく、その男の一撃は容易く床を砕き、逃げ遅れ、その腕の一振りを受けた職員の体がひしゃげて動かなくなった。
「うわぁああ!」
ここは悪魔退治の最前線ではあるが、所属している職員のほとんどは非戦闘員だ。彼らにその男を何とかする手段はなく、突然の襲撃に悲鳴をあげて逃げ回るしかなかった。
しかし、一人の男性職員がその動乱の中で足をもつれさせてしまい、逃げ遅れた。
「ひ、ひぃ!」
そんな彼を襲撃者は見逃さない。もはや怪物にしか見えない体躯の男が迫る。
「だ、誰か、助けっ……!」
「おまかせあれぇ!」
哀れに震えるその男性を叩き潰そうと振り上げられた右腕は、一人の少女の蹴りによって逸れた。
◇
「ふぅ! セーフ! お兄さん生きてる?」
炭村の右腕を蹴り飛ばし、襲われていた協会職員の前に立ったラウム。その姿を見て、状況が呑み込めていない様子の青年は酸欠の鯉のように口をパクパクさせていた。
「警報鳴ってるし、避難場所とかあるんでしょ? さっさと逃げなよ」
しっしと手で追い払うモーションを受けて、青年はとりあえず目の前のラウムは味方だと察し、走って施設の奥に逃げ込んでいった。
「あ! 偉い人にちょーぜつ可愛い美少女悪魔のラウムちゃんに助けてもらったって言っておいてね……って、アレ、聞こえたかな?」
「どういうつもりなんだい?」
職員が逃げた先を見るラウムに、炭村は疑問を投げかける。異形な姿になってはいるが理性はまだ残っているらしい。
「元々結構なマッチョだったけど、数時間見ないうちに随分鍛えたねぇ……ドーピングって体に悪いらしいよ?」
「君は悪魔なんだろう? 協会の人間を何故助ける」
「そりゃ、ラウムちゃんが愛と正義の悪魔だからだよ。きらん」
ラウムは炭村の問答に答えつつ。姿勢を低くし戦闘態勢に入る。
――コイツの目的は紗々か……あの子、いったい何したんだか――
「邪魔をするなら。君も、潰す!」
炭村もまた即座にラウムを敵だと認定し、丸太より一回りも太い右腕を振りかぶる。
「うぉお!」
ラウムは跳躍でその殴打を躱す。彼女が先ほどまで立っていた場所は一メートル近く陥没していた。
「清々しいまでのパワー系だなぁ! けど、当たらなきゃどうということは――」
しかし、炭村もまた跳躍し、宙に逃げたラウムを追った。その巨体からは想像できない瞬発力と跳躍力にラウムは悲鳴を上げる。
「――え? ちょ!」
「うぉおおお!」
唸り声と共に炭村は大きく腕を振り回して空中のラウムを捕らえ、地面に向かって叩き落とした。
「きゃ!」
ボールのように固い床で体を跳ねさせたラウムは苦痛に顔を歪めながらも態勢を立て直し、両足で着地する。
「ちょっとちょっと、その見た目で素早く動くのはルール違反でしょ……」
「骨を砕いた感触が無い……なるほど。魔力による疑似的な肉体。それは本当に見た目だけなんだな」
間違いなく普通の人間なら即死だった。殴られた衝撃で千々に乱れた魔力を整えながら、ラウムは敵の力を考察していく。
――匂いの濃さからして、憑依型の契約。魔力による身体強化と異能による筋力増強の合わせ技……契約してる悪魔は多分アロケルだな――
一方で炭村はラウムを打った自らの腕をさすりながら呟く。
「困ったなぁ……雪代紗々を見つけるまでは温存したいんだが、悪魔相手に手を抜くのは臆病な僕には少し怖い」
「女の子相手なんだから、ラウムちゃんとしては優しくしてほしいんだけどなぁ」
「それは無理だな」
炭村はバァンと雷のような音を立てて自らの胸の前で手を組み合わせる。そして、皮下に何かが蠢いているかのように、彼の両腕の筋肉が不気味に膨らみ始めた。
「うわっ、キモっ!」
筋肉の膨張は腕だけではなく、胸筋、胸鎖乳突筋、僧帽筋と上半身のありとあらゆる筋肉が密度を高めていく。
もし、また彼の一打が直撃すればラウムの疑似肉体すら原型を留めていられないだろう。
「サァ……やろウか……」
――紗々には絶対後でドーナツ奢らせる――
更なる筋肉の増強により異形度を増す炭村、彼が前傾姿勢になったかと思った次の瞬間、壁の如く圧を放つその巨体がラウムの眼前にあった。
「フぅ!」
動作そのものは単調なパンチ。だが、その速度は常軌を逸していた。
「くっ!」
ラウムは先ほどの反省から低く跳び、短い滞空時間で距離を取る。
――動きが早すぎる! まともに正面に立っちゃダメだ!――
「身軽ダな。面白イ!」
翻弄の意味も込め、ラウムは地面だけを足場にする平面的な動きから、壁や天井、炭村が破壊した椅子や棚と言ったオブジェクトを蹴る立体的な動きに切り替える。
「どうシた? そちラからは来ナイのか?」
炭村が周囲を飛び跳ねるラウムを挑発するが、ラウムはそれには乗らない。いや、乗ろうにも乗れないと言うべきだろう。
――あんな筋肉ダルマ、私が蹴ったくらいじゃビクともしない――
そもそも圧倒的に戦力差がありすぎるのだ。挑発されたところで近づこうという気にすらならない。故にラウムは炭村に捕まらないように常に動き続けていることしかできないのだ。
――直樹、セエレ! 早く深夜を連れてきてよ!――
「ふム。なラ!」
業を煮やした炭村は拳を振りかぶり、動き出す。しかし、彼が向かった先はラウムを追ってではなく、彼女が足場にしている壁面に向かってだった。
「こうシヨウか!」
それは爆弾が爆ぜたかのような音と衝撃。
飛散するコンクリートと鉄骨の破片がラウムの体を掠め、着地するつもりだった壁の消失を目視してようやく、ラウムは気づいた。
炭村がパンチ一つで壁に十メートル規模の大穴を空けたことに。
「しまっ!」
着地するはずの壁の消失はラウムの動きを狂わせ、結果的に彼女はバランスを崩し無防備な姿勢で地面へと落ちる。
「捕マエた」
その瞬間を待ちわびていたように、炭村がラウムの眼前に現れて拳を振りかぶる。
――まだ、死ねないのに……――
だが、その拳はラウムには振るわれず、地を打つ拳の轟音の代わりに聞こえてきたのは銃声だった。
「ウガァアアア!」
そして、炭村の腕は爆ぜ、血と肉を周囲にまき散らす。ラウムはその光景に見覚えがあった。
「退魔銀……!」
ラウムは血肉でその身を汚しながらも冷静に状況を判断し、銃声の聞こえてきた方に向かって駆けた。
「はぁはぁ……アンタ……」
「おや? お嬢さんと私、どこかでお会いしましたっけ?」
ラウムは自らを助けた、悪魔祓いの証明である黒コートを身に纏った白髪の混じりの中年男性、立花藤兵衛を恨めしげに睨む。対して立花は炭村の返り血にまみれたラウムに一瞥もくれずに拳銃の狙いを定めている。
「アンタが深夜のことを連れて行ったの、しっかりこの目で見てんのよ!」
「あぁ、なるほどなるほど。アナタが神崎さんと契約している悪魔ですが……」
「私の大事な相棒は無事なんでしょうね! 酷いことしてたらラウムちゃん許さないから!」
「ラウム? ……あぁー……そういう状況ですかぁ……」
立花はラウムの名前を聞くや否や、複雑そうな表情を浮かべる。
そんな二人の問答の間、右腕を打ち抜かれた炭村はようやく立ち上がり、自らを撃った悪魔祓いに視線を向ける。
「アァアア。オマえも、いたのカ……立花、だったカぁ?」
その眼に宿るのは敵意を超えた強い感情。それは怨念と形用されるようなものだった。
「貴様モ殺ス!!」
炭村は痛みを感じていないかのように欠損した右腕を振りかざす。そして、魔力の弾ける音が鳴り、肩口の断面が蠢き始めた。
最初は筋繊維が傷口を覆い隠し、そこからブクブクと泡が膨れ上がるように筋肉は膨張と増殖を繰り返していく。
「嘘でっしょ……」
絶句するラウムの視線の先で、みるみるうちに炭村の失われた右腕が再生していった。
「立花ァ! 忘れたとは、言わせナイゾぉ!」
「炭村……懲りずに再び悪魔と契約するとは……紗々ちゃんの優しさは届かなかったようですね」
立花は肉の異形へと身を堕としつつある炭村を忌々しそうに見つめ、躊躇なく二度目の銃撃を放つ。
「ハッ! ハハハァ!」
しかし、炭村も正面からの第二射は容易く躱し、狂気に染まった笑い声をあげた。
「はぁ……あーー、ラウムさん。でしたっけ?」
「え? 今? 何よ一体!?」
「いえ、ここに来る途中に言われたんですよぉ。『ラウムと名乗る女の子に助けられた。僕の代わりに助けに行ってください』って、ウチの職員に」
立花はラウムには一瞥もくれず、退魔銀の射撃によって迫ろうとする炭村をけん制し、距離を維持する。
「というわけですので……ちょっと手伝っていただけます?」
立花は全ての弾を撃ちきり、リボルバー式の弾倉から薬莢を雑に落としてから、再度退魔銀の弾丸を装填する。
「ハハッ! お兄さんちゃんと伝えてくれたんじゃん……でも、ラウムちゃんの恩は安くないからね!」




