第二十五話 願いを叶える簡単な方法
◆
「パパ、最近危ない国にばかり行ってない?」
「俺だって、なにもわざと危ない所を選んでいるわけじゃないんだが、今まで行ってないところ、ってなると自然とね」
在原恵令奈の父は、カメラのレンズを磨きながら苦笑いを浮かべた。
「別にそんな危ない所に行かなくても、食うには困ってないじゃない。私も就職したわけだし」
父はそれなりに有名な写真家だった。
たまにテレビで父の取った風景画や動物画が使われることもあるし、在原の学生時代にはカメラ趣味の同級生からサインを求められたことがある。その程度にはその界隈では凄い人らしい。
直接聞いたことはないが、それなりの貯金はある気はしていた。だからこそ、わざわざ危険を冒してまで働く必要はないだろう、それが彼女の言い分だった。
「写真ってのはさ、二つの意味があると思うんだ」
「また急に哲学的なこと言いはじめた」
在原から呆れたような声が思わず漏れるが、そんなやり取りはこの父娘にとってよくあることだった。
「自分の思い出を形にする写真と、知らない世界への扉となる写真」
「パパは風景写真が専門だから、後者?」
「そうだな。恵令奈だって、知らない場所の写真とか、ワクワクするだろ?」
「それはわかるけど」
「で、俺の撮った写真を見て誰かがワクワクしてると思うと、それだけですっごく気分がいんだ」
いつだって、父が見てきた知らない世界への扉を最初に開けるのは自分だった。
それがずっと続くと、思っていた。
「ぶっちゃけると、仕事でやってるっていうより、俺がやりたくてやってるだけなんだよ」
「はあ……わかったわよ。その代わり、お土産忘れないでよね」
父が仕事先で内紛に巻き込まれ流れ弾を頭に受けたと知らされたのは、彼を飛行機で見送った一か月後のことだった。
「今はまだ命に別状はありませんが、このままではいずれ確実に脳細胞を傷つけていくでしょう」
医師は生き延びたことすら奇跡だとしきりに口にしていた。
在原にはそれが暗に、「これ以上を望むのは諦めろ」と言っているような気さえした。
「摘出手術ができるようなお医者さんはいないんですか?」
「私が知る限りでは……」
どうやら、この世界にはドラマで出てくるような神の手を持つ医者は存在しないらしかった。
だから、彼女は神の手ではなく、悪魔の手に縋ることにした。
病院のベッドから身動きが取れなくなった父の貯蓄や保険金、それらを勝手に使って手に入れた悪魔召喚の魔導書。
彼女がその中から選びだしたのは錬金術を司る悪魔、ザガン。
けれども、その異能をもってしても彼女の願いを叶えるには至らなかった。
「どういうことよ、パパを助けられないって!」
『単純な話だ。私の異能は触れた金属を操るもの。直接触れられぬものはどうにもできん』
つまり、弾丸を取り出したければ父の脳にその指を突っ込め。悪魔の言い分はそういうことだ。
それでは本末転倒もいいところではないか。
「……じゃあ、いったいどんな力があれば、パパを助けられるのよ」
『心当たりがないわけではない……モノを動かすことを得意とする悪魔。シャックスやセエレ辺りならあるいは……』
「そう、なら次こそ……」
『だが、君にヤツらを召喚できる適正があるとも限らんし、なにより、人一人が複数の悪魔を召喚しようなど、ただの自殺行為だ』
自身の内に宿った悪魔は冷静に、残酷な真実を並べていく。
しかし、そもそも最初から医師にも神にも見限られた在原が、その程度の言葉で諦めるわけもない。
「……ねえ、ザガン。悪魔の召喚者に成功した人間って、別に私ひとりだけじゃないわよね?」
『ん? ああ、そうだな。君が特別な存在というわけでない』
「なら、召喚した人から悪魔の力を奪えばいい。それなら、私の適性は関係ないはずよ」
在原にはザガンを召喚するだけの適性があった。けれども、それが世界で自分だけの才能だと奢るつもりはない。
つまり、他にも悪魔と契約した人間はいるはずではないか。
だったら、そいつらから『当たり』を奪い取ればいい。
『……ほう。なるほど、面白い発想だ。悪魔を何度も召喚するよりは現実的な手段といえよう』
悪魔が彼女の案にお墨付きを与える。
『よかろう。呼び出しに応えておいて、何もせずあの地獄に戻るのは悪魔としての矜持に欠ける。君の愚行、最後まで見届けようではないか』
「ええ、当然よ。しっかりと、支払った代償の分は働いてもらうから」
彼女が『蒐集家』と呼ばれるようになるのは、それほど先の未来ではなかった。
◆
――どうせ最期なら、もっとマシな思い出に浸りたかったのだけど、ザガンと契約してからはあまり褒められるようなことはしてこなかったし、これも因果応報か――
それでもやはり、ザガンと日本中を旅したこの数年は、人生の中で最も濃密な期間だった気がする。
そんな記憶が瞬きする間に駆け巡り、あとはもう落ちるだけ。
「結局、私は、どうすればよかったのかしらね……」
「じっとしといてくれよ!」
それが彼女の最後の呟きに答えたものではないと気付くより先に、脱力しきっていた在原の体は背後から羽交い絞めに抱き留められた。
「えっ?」
神崎深夜はまだ目の前にいる。となれば背後にいるのは誰なのか、その選択肢は必然的に絞られる。
「あなた……!」
首を捻り、背後で叫ぶ和道の顔が在原の視界に入る。
「っと、おぉぉお!」
うるさいほどの声と共に、在原は和道に抱きかかえられたまま、地面に着地すると同時に土の上を転がった。
全身を擦り、服はボロボロに擦り切れ、土と血で汚れてもなお、それでも在原は生き延びた。
「いっつぅ……」
『深夜、大丈夫?』
「魔力強化してても足が痺れる……おい、和道何やってんの!?」
在原が疑問を口にするより先に、轟音と共に着地した深夜が剣を杖代わりにして辛うじて立った状態で和道に吠える。
当然だ、命がけでトドメの一撃を打ち込んだ相手を助けるなど、彼も全く予想していなかったのだろう。
「いや、あんな高さで、しかも頭から落ちたらこの人死んじまうじゃねえか!」
「お前も、俺もそいつに殺されかけたんだよ?」
「それはソレ! これはコレ!」
「…………」
「…………」
数秒、深夜と和道が互いに睨み合うが、結局先に根負けしたのは深夜の方だった。
「……もういい。面倒くさい。あとはもう和道に任せる……」
「サンキュ、神崎」
「セエレも、話はまた今度……ちょっと、もう、限……界……」
そう言って、深夜は武装化を解除したラウムに倒れかかるように、その体を預けた
「うぉ! 深夜! だ、だいじょう……ぶ、みたい……だね」
「すぅ……すぅ……」
「立ったまま寝やがったよコイツ……」
深夜はラウムに支えられた体勢で目を閉じ、健やかな寝息を立てている。
「よっと、やっぱ全身いてぇ……」
在原の下敷き状態になっていた和道はもぞもぞと這い出し、全身の傷を確認しながら立ち上がると、まだ状況を理解しきれずに呆けた在原に手を差し伸べる。
「立てます?」
「何のつもり……?」
在原はようやくその言葉を口にできた。
この少年は、いったい何が目的で敵対していた自分を助けたのか、彼女にはさっぱりわからなかったから。
「いや、一個気になることがあって、それはちゃんと聞いておきたかったんです」
「気になること、ってなによ?」
「在原さんの目的、っていうか、悪魔に頼んだ願いって。なんだったんすか?」
「え……い、今更?」
なんて、滅茶苦茶な話だ。
さっきまでお互いに意地を張って殺しあっていたというのに。
「いや。なんか、最後、神崎に向かって必死に叫んでたでしょ?」
詳細はよく聞こえなかったっすけど、と和道は気の抜けた笑みを浮かべている。
「それ見てたら思ったんですよ。もしかして、軽い気持ちじゃなくて、本気でセエレの力が欲しい理由があるんじゃないかなって」
「それを聞いてどうするの?」
「え? 俺に手伝えそうなことなら手伝おうかなって。それだけっす」
その表情にはもう欠片の敵意も見て取れない。
「殺してやる、って言ってきた相手のお願いごとを聞くなんて、坊やはどうかしてるわ」
「お互いに生きてるなら、遅すぎることはないっすよ。きっと」
この少年は何を考えて、今の今まで自分に殺意を向けていた相手にこんな屈託のない笑みを向けられるのだろう。
いや、きっと何も考えていないのだ。善とか悪とか、敵とか味方とか。そういうことを本当に、何も。
「信じられないかもしれませんが、主様は本気でおっしゃっております。私が保証いたしましょう」
そう言うセエレの表情は少しだけ誇らしげだった。
――ただ、目の前で困ってそうな人に順番に手を差し伸べているだけなのでしょうね、このお人好しの坊やは――
そして、同時に思う。
もしかしたら、最初から奪おうとするのではなく、ただ、セエレと共にいた彼に「助けて」と言えば、それだけでことが済んだのではないか。と
「ああ…………なんだ、そうすれば、よかったのね」




