序幕 儀式
六月一日の午前零時。
秋枡円香は死んだ。
◆
五月の最終日、時刻は午後十時をわずかに過ぎた頃。
地元の公立高校に通う少年、和道直樹はバイト先である食品スーパーのシャッターを下ろし、隣に立つ秋枡円香に向けて快活な声投げかけた。
「お疲れさんっした!」
「お疲れ様……ごめんね、僕の分担まで手伝ってもらって」
仕事終わりと思えないその元気さに、今年四十になった秋枡は、「これが若さか」などとじじむさいことを考えたが、すぐに自分の学生時代を思い出し、その結論を否定した。
これは、この少年の生まれ持った気質なのだろう。
「別に大丈夫っすよ。ちゃんと十時までに終わったし、秋枡さんには色々とお世話になりましたから」
二人の関係は新人アルバイトとその教育係というさして珍しくないもので、その付き合い自体もまだ二か月に満たない程度。
「なんていうのかな。いい子だよね、君は」
それでも、和道の持ち前の気さくさもあってか、彼らはもう既に打ち解けた仲と言ってよかった。
「えへへ……面と向かって言われると照れるっすね」
下手な謙遜をするでもなく、和道はその言葉を額面通りに受け取り、素直に喜んだ態度を見せている。
秋升は、そんな彼の屈託のない様子を見ていると、時折、強烈な劣等感に苛まれることがあった。
「でも、あまり遅くまで働いていると、家族も心配するんじゃないのかな?」
「確かに、母ちゃんには色々言われます。ちゃんと勉強もしろよー、とか」
「なにか、貯金の目的でもあるのかい? 例えば……海外旅行とか?」
実際この少年は、高校生としてはかなり密にシフトを入れているし、他のバイトが急用で来れなくなったりした時も、率先して代わりを申し出ている。
彼ぐらいの遊び盛りの年頃では、それなりの理由がなければ、なかなかそんな生活は割り切れないだろう、そう思っての問いかけだった。
「別に、そんな立派なこと考えてねぇっすよ」
和道は気恥ずかしそうに頬を掻く。
その純朴な態度もまた、秋升の卑屈さをくすぐった。
「ウチ、母ちゃん一人親なんで、家計の足しになれば程度の軽い動機っすよ」
「……そっちの方が、よっぽど立派だと思うけどね」
「そうですかね?」
これ以上、この真っ当な少年と話したくない。
そう思ってしまった秋枡は、あえて家がある方向とは真逆、和道とは別れる道に向かって一歩を踏み出した。
「じゃあ、僕は一杯やってから帰るよ。夜も遅いから気をつけてね」
「了解っす。秋升さんもあんまり飲み過ぎないように気を付けてくださいよ」
和道は秋枡の適当な嘘を疑うことなく、真っすぐに帰路を歩いて行った。
そんな和道の後ろ姿が視界から消えるのを確認して、秋枡円香は胸に詰まっていた息を吐きだす。
「ふぅ……」
誰かのために行動する。
そういう言葉をどこか気持ち悪く感じるようになったのは、いつからだろうか。
大人になったといえば聞こえはいいが、世間的にはそれは捻くれたとか、汚れたとされるような変化だろう。
あの少年もいずれはそんな人間になるのだろうか。と一瞬考えそうになった秋枡は、大きくかぶりを振ってその浅はかな思考を振り払った。
「あの子が、僕みたいなろくでなしと同じような人間になるわけがないか」
秋枡は言い訳がましくコンビニで缶ビールを一本だけ買い、決して和道と鉢合わせないよう、遠回りをしながら帰路に着いた。
◇
霧泉市の住宅街にある二階建ての一軒家、それが秋枡円香の住まい。
十年前に死別した両親から相続し、古寂びれてはいるが、それでも男やもめが一人で住むには少々立派過ぎる規模。
現に半年前に秋枡が刑務所から出所し、この家に戻ってきた直後は、リビング以外ろくに使ってない有様だった。
それが今となっては、その空き部屋を色々と便利に利用しているのだから、人生どうなるかわからない。
ガチャリ、と滑りの悪い鍵を開け、三和土に靴を粗雑に脱ぎ捨てると、秋升はそのまま居間を素通りして書斎へと向かった。
「しまった……酒は冷蔵庫に置いてくるべきだった」
いつもの癖で帰宅直後にまっすぐ来たせいで、缶ビールも持ってきてしまっていた。
秋枡は少しだけ考えて、その場でビールのプルトップを押し開けて、一息にその中身を喉に流し込んだ。
もう頭を使う作業はほとんど終わっている。ならば、最後の景気づけにちょうどいいと思ったからだ。
「思ったより、酒に弱くなっていたかな」
今更ながらに、これが実に数年ぶりの飲酒だと気づくが、今更そんなことを思っても後の祭りだ。
すきっ腹にアルコールを一気に入れた秋枡は、顔が熱くなるほどの酩酊感に襲われていた。
「これは少し……よろしくないな」
自らの無計画が招いた酔いが醒めるまで、少し間を置くことにした秋枡は書斎のデスクチェアに深く腰掛け、デスクの上の写真立てを手に取る。
「……僕は、どうすればよかったんだろうなぁ。由仁」
それは、三年前に娘と共に行った旅行先での写真。
異国の観光地を模したハリボテの前で、ぎこちない表情の秋枡と、そんな父とは対照的に満面の笑みを浮かべる娘が並んで立っている。
写真の中で笑う娘の、左右不揃いに結ばれた髪が現在の秋桝の目を引いた。
それは彼が何度もやり直して、それでもうまく結べなかった自己満足の愛の象徴。
「あの子は……今年で八歳か。きっと、もう自分で結べるようになってるんだろうな」
その写真を見ていると、秋枡は自分がいかに父親として不出来だったのか、それを突きつけられているような気分になった。
だが、そんな感傷がうまい具合に彼の酔いを醒ましてくれたらしい。
頭がすっきりしだした秋枡は、鍵付きの引き出しから一冊の洋書を取り出し、それと入れ替えるように、写真たてを引き出しの奥に押し込み、鍵をかけた。
その写真が二度と目に入らぬように。
『もしもあなた様に、悪魔に魂を売ってでも叶えたい願いがあるのなら。この魔導書をどうぞ、お手に取ってくださいまし』
ソレは三か月前、突然彼の前に現れた妙な女から買い取ったものだ。
見た目は革張りのように取り繕われているが、中身はコピー用紙を束ねて作られた粗雑な魔導書。
秋枡はデスクの上でそれ開け、付箋を貼っておいた目的ページまでパラパラとめくっていく。
いまさらになって、あれは本当に女だったのだろうか、なんて疑念が鎌首をもたげた。
不思議なことに、直接会って話したはずの秋升自身も顔も声色も全く思い出せないのだ。
ただ、安っぽいメイド服を着ていたことだけは明確に覚えているので、女と称しているだけに過ぎない。
もしかしたら、あの女自身が悪魔だったのではないか。
秋枡の思考は自然とそこにいきついた。
「まあ、どうでもいいか。僕はこの彼女を……いや、この本を信じることにしたわけだし」
その本に書かれている文章はラテン語が七割、日本語は三割ほど。
その日本語も、元から書かれたものではなく、秋枡が和羅辞典を何冊も買い揃えてなんとか和訳し、その要点を直接書き足したものだ。
「さあ、はじめようか」
秋枡はこの三か月の間に準備しておいた、儀式のための道具をデスクの上に並べて、ゆっくりと立ち上がる。
まずは、陣の準備から。
書斎の床に刻まれた真円の魔法陣に、食紅を水で溶かした液体を流し込む。赤い液体は、フローリングに彫られた溝を伝って流れ込んでいき、魔法陣が赤く染まる。
続いて、魔法陣の四方に霍香のアロマキャンドルを焚き、それが唯一の光源となるように部屋の照明を消す。
そうして暗闇の中には、蝋燭の火に照らされた赤い魔法陣だけが浮かび上がってくる。
密閉した部屋に香草の特徴的な匂いが充満するのを待ち、最後に刃渡り五センチ程の小さな黒曜石のナイフを右手に持ち、これで儀式の準備は終わった。
「いざやってみれば、あっさりとしたものだな」
緊張で口が乾く。
酒を入れたのは、結果的に正解だったかもしれない。
どうやら秋枡円香という人間は、素面では一線を踏み越えられない人間だったらしい。
四十と生きて、初めて気づかされた情けない真実が彼の躊躇いを消し去り、儀式の最後の一手を進ませた。
黒いナイフの切っ先で左手の平を切り、痛みと熱を帯びたその切り口から流れた血を魔法陣に流し込んだ赤い液体に混ぜる。血と染料が混ざり、すぐに両者の区別は曖昧となる。
これで魔法陣は血によって満たされた。
あとは言葉もいらない、ただ念じるだけだ。
――汝が望む代償をもって、我が望みを叶えたまえ……――
ごうっ、と密室のはずの書斎に風が吹き荒れた。
秋枡はすぐに、それが床に彫られた魔法陣から噴き出しているのだと理解する。
「っ! ほ、本当に……」
その風はアロマキャンドルの小さな火を吹き消し、後に残った白い一条の煙が少しずつ黒に染まり、螺旋を描く風の軌道を視認させた。
『――――』
秋枡は風の音の中に何者かの声が聞こえた気がした。
その声が何を言っているのか聞き取ろうにも、彼の全身は強烈な虚脱感に包まれ、立っていることもやっとの状態になっていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
体温がどんどん下がっていくのがわかる。
どれほど息を吸ってもそれが脳に届かない。
視界が外側から徐々に白く変わっていく。
アルコールの酩酊感とは根本的に違うその感覚は、かつて一度だけ行った献血で血を抜いた時の感覚に似ていた。
『――……いを』
皮肉なことに、自分の足で立つことを諦めるほど朦朧とした結果、秋枡は風に紛れた言葉に意識を集中できるようになった。
その声が、彼に一つの確信を抱かせる。
『今一度、問いましょう。貴方様の願いを』
悪魔の召喚は成功したのだと。
けれども既に秋枡円香の視界は白く染まっており、その声の主がどんな姿なのか、それすら確認できなかった。
「――を頼む……」
それでも、彼はその声の主に縋った。
『命令を受領いたしました』
それは意味のない自己満足。
それでも、それを叶えられればなにかをやり直せる。そんな気がしていた。
『その願い、この命に代えても必ずや叶えましょう』
そして、夜は更け、日付は変わる。
六月一日、午前零時。秋枡円香は死んだ。