第二十一話 全てを出し切れ
「はぁ!」
疲労とダメージに加え、地面の下に潜む見えない触手を警戒し続ける精神的摩耗。
様々な要因で重く感じる自分の体に雪代は喝を入れ、七本に増えた触手の攻撃を避けながら、空になった弾倉を予備と差し替えて三木島に銃口を向ける。
「おっと、あぶねぇな!」
すると、迫る七本の触手のうち、六つの動きが低下し、逆に最も雪代に近い一本の速度が上がった。
「つッ!」
その一本が鞭のようにしなり、雪代の太ももを掠め、衣服と肉を裂いた。
幸い筋が切られたわけではなく、走ることそのものに支障はない。だが、その衝撃で姿勢が崩され、放たれた弾丸は三木島から逸れて、虚空に消えた。
「チェックだ」
「まだ、ですよ!」
続けざまに迫る六本の触手。雪代はそれを回避し再び三木島、そして触手と距離を取るように走り出す。
「その足でまだ走れるのかよ。予想を裏切ってくれて嬉しいよ」
――先ほどの攻撃の緩急。やはり三木島は触手一つ一つに意識を分散している――
雪代の攻撃を妨害するために一本の触手の操作に集中した結果、他の触手の動きが急激に緩慢になっていた。
つまり、あの触手は自動操縦ではなく、全て三木島の思考と計算によるマニュアル操作ということだ。
七本の触手を同時に操る、その思考演算能力には甚だ驚愕させられる。
だが同時に、この情報は灯里の救出作戦を成功させるための大きな手掛かりだ。
――先ほどのように、何とかして三木島の意識を百パーセント触手の操作に向けることができれば……新しい触手を生み出すことはできなくなるはず――
「おいおい、どうした? そんなに離れてちゃ宮下は助けられないぜ?」
三木島の安い挑発。それらを無視して雪代は一定の距離を保ちながら戦況を分析する。
――おそらく、今の彼が私に向けている集中力は七割前後。残りの三割は不測の事態や、神崎さんが奇襲してきた時のために温存、といったところでしょうか――
雪代が銃口を三木島に向けると、触手の動きは明らかに機敏になり、即座にその妨害や防御行動に入ってくる。
雪代はこの加速を『余力の一割ほどを触手操作に回した結果』と推測していた。
つまり、こちらからの一度目の攻撃で一割を。そこから間髪入れない追撃によって残る二割の余力を使わせることができれば、三木島に大きな隙を作り出せるはずだ。
――問題はその二割の余力を引っ張り出すための二の矢ですが――
ただ退魔銀の弾丸を続けて撃つ、といった単調な攻撃ではダメだ。
彼の集中力を使わせるには、三木島の予想を大きく裏切る必要がある。
雪代はそれを実行に移すための最適な位置を目指し、血の滴る足を無理やり動かして一層加速し、走り出す。
目的地は芝生の上で意識を失っている宮下灯里と雪代が三木島を挟む、そんな形になれる場所。
つまり、雪代に視線を向けようとすれば、必然的に人質を背後に置かなければならないこの配置だ。
――チャンスは二重の意味で一度きり!――
雪代は右手で拳銃を三木島に向け、彼の注意を銃口に誘導する。
しかし、彼女は引き金を引かない。代わりに三木島の意識の外にある左手で、放物線を描くようにソレを高く放り投げた。
「今度は手品の真似事か。なかなか器用だな!」
上に投げられた「何か」と、雪代の構える拳銃。
人間の有効視野の限界的にも、三木島の視界に収められるのはどちらか一方。
本命が上か、前か、三木島の思考が加速する。
短い逡巡の中、三木島は思考を逆転させて最適解を模索した。
退魔銀の弾丸に必殺の力がある以上、上は高確率でブラフ。そう考えるのが妥当だ。
だが、もしも雪代の本命が上に投げたものだったとしたら。
三木島はそう仮定して思考を進めた。
人間が片手で投擲でき、かつ今の三木島を打倒しうるもの。
それは何か。
思考がそこまでいたった瞬間、三木島の視線は自然と上に向けられた。
温室の天窓から差し込む月明りに照らされたソレは、かつて戦争ものの洋画かなにかで見覚えのある形状そのままだった。
「手榴弾とか正気かよ、テメェ!」
「ええ、いたって大真面目ですよ!」
雪代の投げたソレは弧を描き、ゆっくりと、しかし確実に三木島の方へと落下していた。
「チッ!」
ここではじめて三木島の笑みが消えた。
雪代に向けていた七本の触手の軌道を変え、その全てを総動員して宙に浮く爆弾を包み込む。
手榴弾を包む触手はまるで樹木の繭のようなものを形成し、その内部からくぐもった爆発音が両者の間に響く。
「信じていましたよ。ちゃんとそちらを防いでくれると!」
「しまっ!」
本来なら人質を取った相手に対して、手榴弾など投げつけられるわけがない。
だが、冷静さをしっかりと残している三木島なら、その可能性に気づき、全力でそちらを防御してくれる。
その確信が雪代にはあった。
――一の矢は通った。そして、こっちが追撃の二の矢!――
完全に触手の脅威から解放された雪代は改めて三木島に銃口を向け、引き金を引く。
「っく! アムドゥシアス!」
焦りを滲ませた三木島の叫び。
それに呼応するように、今までとは比較にならない速さで三木島の周囲に触手が現れた。
新たに伸びてきた触手は、周囲の土を豪快に巻き上げ、弾丸の起動を強引に逸らした。
――精度と速度が先ほどまでと桁違い。あの触手を操っているのは三木島の意識ではなく、彼に憑依している悪魔の方か!――
「……っ!」
そして、その巻き上げられた土砂に隠れていた一本の触手。その大振りな一撃が雪代を打ち据え、弾き飛ばした。
「あっ、ガハッ!」
雪代自身が攻撃に意識を集中していたために、その攻撃は彼女にクリーンヒットしていた。
その細い体が宙に浮き、雪代は数メートル後方の花壇の上に転がって、サクラソウの花を散らす。
これ以上はマトモに動けない。だが雪代はそれで構わなかった。
――十割、三木島の集中力を奪い切った……あとは!――
既に三木島の思考能力に余力はない。それは防御と追撃を悪魔に委ねたことからも明白だ。
そして、精度に欠けた大振りな攻撃。これは防御のために巻き上げた土砂によって、三木島の視界が遮られている証拠でもある。
これこそが雪代が作り出したかった千載一遇の隙。
「うぉおおお!」
「っ、神崎か!」
その隙を、未来視の異能を有する神崎深夜が見逃すはずがなかった。
今までじっと入口の扉の影で身を潜めていた深夜。
彼は雪代から託されたナイフを片手に、自身の持ち得る全ての力を両足に込めて、温室の中央へと走り抜ける。
「な……なにを!」
だが、その足の向かう先は雪代の予想していた方向、囚われた灯里の元ではなく、周囲に幾本もの触手の防壁を残す三木島に向かってだった。
◇
「な、なぜですか、神崎さん!」
その打ち合わせにない行動を目撃し、雪代は困惑する。
いくら集中力を奪ったといっても、それはあくまでも人質に向ける余力がなくなっただけのこと。
三木島自身の身を守ることへの意識はむしろ、今、極限まで高まっているといっていい。
そんな状態の彼に、一般人の深夜がナイフ一本でどうにかできる道理はない。
たとえ、深夜に未来を視る力があったとしても、だ。
「ああああ!」
だが、それは深夜自身も重々承知している。
いや、むしろ雪代よりも明白に彼は「自身の無力さ」を理解していた。
それでも深夜が三木島に向かう理由。それは雪代が気付いていない【三木島の余力】が彼には視えていたからに他ならない。
雪代の策は完ぺきだった。だが、それでも灯里を救うにはまだ足りない。
だから、深夜は最後の賭けに出た。
「三木島ぁ!」
相手の名をあえて叫び、意識を自分へと向けさせる。
極限まで研ぎ澄まされた守りの意識。それに突き動かされ、三木島は触手の操縦権を悪魔から取り戻し、深夜へとその先端を突きつける。
「残念だけど、お前一人じゃ俺には届かねぇな!」
「神崎さん! 危ない!」
雪代の悲痛な叫びを他所に、深夜は自身に迫る触手を踏み台に跳んだ。
曲芸じみた滅茶苦茶な動き。
だがそれこそが、深夜が触手達の波状攻撃を避けきる唯一無二の未来の選択肢だった。
――これが九本目……――
「なんだとっ!」
「うっ、うぉおお!」
この十五秒間、何度も何度も脳内でシミュレーションを繰り返した。
何度も何度も触手に貫かれる未来を視た。だから、深夜はこの先も知っている。
「だが、跳んじまったら避けられねぇよな!」
三木島が最後の最後まで残していた余裕、その全てが込めて十本目の触手が生み出され、宙に浮かぶ深夜を狙う。
「三木島、お前が触手を同時に操れる数って、十本まで。だよね……」
「お前、どうして!」
もちろん、ただの推測や予想でこんなことはできない。深夜はその全てを視ていた、
【灯里を助けに向かい触手に刺し貫かれる未来】
【三木島に向かい、触手に叩き落とされる未来】
【雪代を助けに行き、二人揃って殺される未来】
その全てを視ていたからこそ、深夜は自分の命を懸けて三木島の最後の一本を引きずり出せた。
これは雪代と深夜が全てを賭して生み出された数瞬の隙。では、誰がその隙に灯里を救うのか。
深夜にももう余力はない。
雪代では間に合わない。
故に、彼らに灯里は救えない。
【天窓が砕け、ガラス片の雨と共に、一つの黒い影が温室内へと飛び込んできた】
「そこにいるんだろ……」
深夜は自身に迫る十本目の触手から目を逸らし、その視線を温室棟の天窓へと向ける。
神崎深夜ではなく、雪代紗々でもなく、宮下灯里を救うための最後のピース。
深夜は最後に残った一欠片の力を込めて、ナイフを天に投げつけ、その名を叫ぶ。
「お前の出番だ……力を貸せ、ラウムッ!」
その絶叫に呼応するように温室棟の天窓が砕け、ガラス片の雨と共に一つの黒い影が温室内へと飛び込んできた。