第一話 十五秒後の未来
【いつも通りの平穏な授業中、突如として野球ボールが窓ガラスを突き破り、教室内に飛び込んできた。
砕けて飛散したガラスの破片は窓際に座る生徒の顔に突き刺さり、突然の流血沙汰に教室は騒然となり、生徒たちは――――】
黒陽高校の一年生、神崎深夜はそんな未来を視た。
「あと、十五秒……」
深夜は周囲の生徒達に聞こえないように抑揚を抑えた声でそう呟くと、脳内でカウントを始める。
――十四、十三、十二
「すいません。ちょっと暑いんで窓を開けてもいいですか?」
そんな呼びかけを受けた女性教師は板書の手を止めて振り返り、左眼を手のひらで覆いながら、すっと高く右手を挙げている深夜の存在を目に止めた。
――十一、十、九
「え? ……あぁ、はい。かまいませんよ、神崎君」
今年社会人になったばかりらしいその女教師は、今日はそんなに暑いだろうか、と若干首を傾げつつもすぐに彼の願いを聞き入れてくれた。
「ありがとうございます」
――八、七
教師の許可を得て座席から立ち上がった深夜は眠そうな半目の表情のまま窓際へと歩み寄ると、グラウンドに面したガラス窓をガラガラと勢いよく音を立てて開け放つ。
――六、五
窓から見えるのは、グラウンドで上級生の男子生徒達が体育の授業の一環として野球で盛り上がっている光景。
そして、そのさらに向こう側に広がる人口五万人に満たない小さな街、霧泉市の街並み。
街全体を見渡しても高層建築と呼べるのは七、八階建てのマンションがせいぜいな、とても都会とは言えず、しかし田舎とも言えないような典型的なベッドタウン。
それが深夜の生まれ育った霧泉市という街の実態だ
――いい天気だし、放課後はどこかの公園で昼寝でもしようかな――
五月も残すところあと一週間。梅雨入り前の最後の春の輝きとばかりに眩しく陽光が差し込んでくる。
その暖かい光を浴びた深夜の口からふわぁ、と気の抜けた大欠伸が漏れた。
―― 四秒
「あの、神崎くん。授業を再開するのでそろそろ席に戻って……」
――確か、この辺りだったはずけど――
まだ生徒への遠慮の抜けきっていない教師の指示を無視して、深夜は十数秒前の記憶を頼りに窓の外に向けて左手をかざす。
―― 三秒
甲高い金属バットの快打音が深夜の耳に飛び込んでくる。
―― 二秒
それと共に野太い歓声が眼下のグラウンドであがった。
―― 一秒
そして、深夜の視界に高速で飛来する野球ボールが現れる。
―― ゼロ
その白球は深夜の突き出した左手の数センチ横を通り過ぎ……。
――あっ……――
「……あがっ!」
その眉間に直撃した。
ゴツッ、と軟式ボールと頭蓋骨がぶつかる鈍い音が響き、その後、完全な静寂が教室を一瞬だけ支配する。
目の前が真っ白に明滅し、深夜が「まずい」と思った時にはもうすでに遅かった。
深夜の細い体がぐらりと大きくふらつき、次の瞬間には彼は自らの体すら支え切れずに仰向けに倒れ込んだ。
「……! ………っ!」
誰かが、必死に誰かに呼び掛けているような気がする。
しかし、既に深夜の耳に届くのはキーンという耳鳴りの音だけで人の言語はもう何も聞こえないし、理解できない。
視力、聴力に続いて、五感が次々とその機能を停止し、ついには意識も虚ろになり始めた深夜は最後に先ほど見た未来の映像を思い出す。
――宮下は……大丈夫だったかな? 怪我……してないと……いい……けど……――
友人の安否を気に掛けるその疑問は声にはならず。その答えを確認することもできず。
ただ、深夜の視界は白一色から徐々に黒に染まっていき、彼は眠りに落ちるようにその意識を手放した。
◇
赤い光の眩しさに目覚めた深夜は、額のズキリとした痛みによって寝ぼけた頭を一瞬にして覚醒させられた。
「えっと……俺……」
自分がカーテンで狭く囲まれたベッドで眠っていること。
その左側のカーテン越しに、目が痛くなるほどの赤い西日が差し込んでいること。
額に手を当てると、鈍い痛みとブヨブヨしたコブの触感があること。
自分が置かれている今の状況を一つ一つ確認していると、深夜はベッドの脇のパイプ椅子に座っている一人の少女の存在に気が付いた。
サイドアップにまとめた校則ギリギリに明るく染められた髪。座った状態でもわかるほどに女子の平均身長を下回った小柄な体躯。
そのシルエットは深夜のよく知る人物のものだった。
「宮下……」
「神崎くん、起きた?」
「……大丈夫? 怪我とか……ない?」
「え? 私? えっと、うん。見ての通りどうもないよ?」
深夜の言葉に、宮下と呼ばれた少女はきょとんと不思議そうな顔をする。
彼女はそのまま、袖の余った学校指定のセーラー服を見せつけるように腕を左右に広げるが、どこにも怪我がある様子は見受けられない。
それを確認した深夜は深い安堵の息を漏らし、全身をベッドに深く沈めた。
「よかった、無事で」
「それはこっちのセリフだよ……」
先ほどまで意識を失っていた怪我人の方が看病していた人間の無事を喜んでいる。そんな奇妙な状況に少女は半ば呆れつつも、深夜が目を覚ましたことで胸を撫でおろし、目尻に溜まっていた涙を拭う。
「……そういや、ここどこ?」
「学校の保健室。神崎くん、ヒナちゃんの授業中にグラウンドから飛んできたボールが頭に当たって気を失って……。あの、本当に大丈夫だよね? 記憶喪失とかになってたりしないよね?」
その少女は両手をベッドについて身を乗り出し、深夜に詰め寄る。
幼さの残るまるっとした顔が深夜の鼻先、吐息が届く距離まで近づき、ほのかな甘いシャンプーの香りが漂った。
「大丈夫。とりあえず、宮下のことはちゃんと覚えてるから」
「……本当に?」
「本当だって。名前は宮下灯里。身長百四十九センチ。俺と知り合ったのは中学二年の時で、趣味はぬいぐるみ収集とベランダ菜園。特技はUFOキャッチャー。苦手科目は……」
「あわわっ! わかった、わかったからもういいよ! っていうか、なんで私の身長まで覚えてるの……」
「なんでって、友達だし」
目の前の少女についての情報を頭から引っ張り出し、言葉にすることでその記憶に抜け落ちがないことを確認する。
だが、それを聞かされた灯里は顔を真っ赤にしてバンバンと深夜が被っている布団を手で叩き、それ以上はいいと深夜の確認作業を止めた。
「そういえば。俺ってどれくらい寝てた?」
「えっと……五時間くらい、かな」
「どおりで気分が良いわけだ」
ボールが直撃したのが昼休み明けの五限目だったので、そこから逆算すると今はだいたい夕方の七時前といったところか。カーテン越しに差し込む太陽の光が赤く変わっているのも当然の時間だった。
「悪いね、こんな時間まで看病させちゃって。退屈だったでしょ?」
「ううん、気にしないで」
深夜は内出血で膨れ上がった額のコブを撫でながら身を起こし、ベッドの温かさに名残惜しさ感じつつも、上履きを履いて立ち上がる。
カラカラとベッドを囲っていたカーテンを開けると、その向こう側から、目覚めの挨拶の言葉と共に学生服の上着が投げつけられた。
「よう。おはよう、神崎」
「ん……」
深夜は驚いた様子もなくそれを受け止め、保健室に備え付けられたソファに目を向ける。
そこには深夜に学ランを投げつけてきた張本人であろう眼鏡の男が座っていた。
「三木島……先生。どうしてここに?」
皺の残る無地の白いワイシャツに身を包んだ不健康そうな痩せぎすの男。
深夜と灯里が所属する黒陽高校一年三組の担任教師でもある彼の名は三木島大地。
ソファの背もたれに気だるげにもたれかかり、両足をだらしなく投げ出すというおよそ教職員らしくない態度で、三木島は深夜の質問に答える。
「どうしてって、お前らが帰らないと学校の戸締りができないからだよ。例の『連続襲撃事件』のせいで最終下校の時間が早くなったのは知ってるだろ?」
「……そんな話、はじめて聞いたんですけど」
「あれ?」
深夜は受け取った上着に袖を通しながら一応ここ最近の記憶を探ってみるが、三木島を含め誰からもそういった話を聞いた覚えはなかった。
「三木島先生、まさか神崎くんにあの事件のこと、説明してなかったんですか?」
深夜の隣に立っていた灯里が批難の色を混ぜて三木島を見るが、やる気なさげな担任教師は悪びれる様子を一切見せない。
「そういや忘れてたな……。ほら、神崎が学校に来るようになったのは五月になってからだろう? それから事件が起こってなかったから、説明するタイミングがなかったんだよ」
「だからって、それで何も知らない神崎くんが襲われてたらどうするつもりだったんですか!」
「いや、俺もうっかりしててだな……」
「これはうっかりで済ませちゃダメな内容ですよ!」
「……ねぇ、宮下。その『事件』って、何のこと?」
灯里と三木島の間で飛び交う『事件』や『襲われる』といった物騒な言葉。
その詳細が気になった深夜は、隣で担任教師に説教中の友人に『事件』とはいったい何なのか問いかける。
「ええと、四月の初めくらいに、黒陽高校の生徒が誰かに襲われたような状態で見つかった。って話は知ってる?」
「ああー。うん、そっちは一応」
そのニュースに関しては深夜もよく知っていた。
今年の四月十日。霧泉市立病院の地下駐車場にて、黒陽高校の男子生徒が一人、意識不明の状態で発見された事件のことだ。
被害者には巨大な鈍器で殴られたような痕跡があり、警察は暴行事件として捜査しているらしいが、まだ犯人の目星がついたという話は深夜の元には届いていない。
「それで、その事件には続きがあって……」
「それからだいたい一週間ごとの間隔で一人、同じくウチの生徒が意識不明の状態で見つかってるんだよ」
どうしてか歯切れの悪い灯里の言葉から繋げるように、ソファから立ち上がった三木島がその事件に関する説明を引き継いだ。
「被害者は最初の一人を入れて現段階で五人。全員、今もまだ目を覚まさないんで犯人の手がかりは何もない。というのが今この学校、ひいては霧泉市で問題になってる『連続襲撃事件』の概要だ」
「なるほど……そういう話になってるんですね」
「そういうわけで放課後の部活動も居残りも全面禁止。生徒も教員も授業が終われば即帰宅が教育委員会から厳命されているってわけだ。以上、説明終わり。理解したか?」
部活や委員会に所属しているわけでもない深夜は、そんなことを言われるまでもなく授業が終われば直帰していた。そのため、そういった事情を知る機会がないまま今まで過ごしていたというわけか。と内心で納得する。
「先生方も大変ですね」
「いやいや、案外そうでもないぜ。おかげさまで毎日ノー残業だし。それに被害者の見つかった現場じゃ、公園の遊具が溶けていたとか、自動車がバラバラに壊されていたとか、なかなか面白そうな話もあるしな」
「もう……いったいどこでそんな怪しい話を聞いてくるんですか?」
三木島の話す明らかに真偽が疑わしい情報に灯里は眉を顰める。その声は基本的に何事にも温厚な彼女には珍しく、若干の嫌悪感のようなものが滲んでいた。
「職員会議でちょっとな。誰が言い出したのか、犯人は人間じゃなく悪魔だなんて噂まである始末……っと、この話は宮下の前で長々とするもんじゃないか」
三木島は一人で勝手に結論付けると、事件に関する説明をパタリと取りやめ、深夜と灯里に保健室から出ていくよう追い立てる。
「とにかく、お前らが帰らないと俺が帰れないんだ。ってわけで、さっさと帰った帰った」
「え? ああ、まあ言われなくても帰りますけど」
「ああ、それと……」
深夜がその妙な態度に薄気味の悪さを覚えていると、三木島は思い出したように深夜の肩を掴み、その耳元で囁いた。
「最後の襲撃事件から今日でちょうど半月。もし次があるなら、そろそろかもな」
「……どういう意味ですか?」
「宮下をちゃんと家まで送ってやれよ、って話だよ。頼むぜ、ナイト様」
そんなことは言われるまでもない。とは口には出さず、深夜は夕日で赤く染まった廊下を灯里と共に歩き、二人は三木島だけが残る校舎を後にした。