第十九話 落ちろ!
「ご無事ですか直樹様! ……その傷は!」
瞬間移動の異能によって座敷牢に現れたセエレは、主の背中の負傷に気付いて顔をしかめる。
「俺は大丈夫だ! それより、セエレならこの手錠を外せるか?」
和道が大賀の両手を繋ぐ拘束具を指さすが、それを見たセエレは驚嘆の声を漏らした。
「手錠……これは、退魔銀の手錠?!」
「退魔銀って……協会で神崎が付けてたやつか!」
退魔銀はあらゆる魔力の干渉を打ち消す物質。いわば、悪魔の天敵だ。
これではセエレの力で手錠を外すどころか、大賀を安全な場所に退避させることもできない。
「ですが、悪魔憑きがなぜ退魔銀を……?」
退魔銀は協会の悪魔祓いにとって虎の子の切り札のはず。
それがどうして大賀操の手にあるのか、セエレの疑問は尽きない。だが、今はその理由を考えている場合ではなかった。
「厄介なもん使いやがって、おい大賀操! この手錠の鍵を寄越しやがれ! そんでもって、先生にちゃんと頭下げて謝れ!」
自分達では大賀の手錠を外すことはできないなら、と和道はダメ元で操に投降を呼びかけてみる。
だが、彼がそれに応じる気配はなく、地団駄を踏む子供のように体をくねらせ、触腕をでたらめに振るだけだった。
「姉さん。なんで……なんでそんな目でそいつを見るんだよ……お前も僕から姉さんを奪うのか?」
「こっちの話、まったく聞いてねぇな」
こちらの存在を認識はしてはいるようだが、同時にその認知が大きく歪んでいるであろうことが和道にも容易に読み取れた。
端的言えば、今の大賀操は正気ではない。
「こちらに来る直前、花菱様から聞いたのですが、彼の魔道具は経口摂取するタイプだったそうです」
「食ったら異能が使えるようになる魔道具、ってことか」
「おそらく、悪魔の魔力を直接肉体に取り込んだことで、精神がその影響を受けているのかと」
憑依型の契約ならば、契約者の体に宿った悪魔の意識が魔力の制御をしてくれる。
だが、魔道具を通して異能を獲得した操には、その安全装置が存在しない。
そのため、魔力の悪影響をダイレクトに受けているのだろう。
「そっか……じゃあ、どうやったらあの人も助けられる?」
「あなたという人は……」
和道の問いを受け、セエレは呆れたような息を漏らす。
だが、それ以上は何も言わない。
主の望みは全て叶える。それが彼女の、悪魔としての信条だから。
「今の操様は魔道具契約と憑依契約の中間のような状態です。となれば、対処法もおそらくその二つと同様でしょう」
「えっと……つまり?」
「魔道具の魔力が切れるまで消耗させるか、本人を気絶させて魔力の制御権を失わせる……まあ、どちらにしても力づくです」
「よしわかった! どうせ手錠の鍵も手に入れないといけないしな……ヒナちゃんゴメン、怖いかもしれないけど、もうちょっとだけ待っててくれ」
大賀の理性が彼を引き留めろと叫ぶが、拘束された体は思ったようには動いてくれない。
そんな彼女に向け、和道は一瞬だけぎこちない笑みを浮かべて身を翻した。
「行くぜ、相棒!」
「ご命令とあらばなんなりと」
和道は拳を固く握り、操に向けて一直線に駆け出す。
「姉さんから、離れろ!」
「うぉ! アイツ、露骨に俺のこと狙ってきやがる」
対する操もまた、右腕が変化した触腕を真正面から振るう。
悪魔のセエレ完全に無視し、人間の和道を狙うあたり、魔力による精神汚染が思考能力を低下させているのだろう。
「大振り。隙だらけだなっ!」
触腕が直撃するよりも早く、セエレの手が和道の手に触れ、二人はその場から操の背後へと跳ぶ。
「はぁあああ!」
覇気と共に放たれたセエレのボディブロー。
申し分ないタイミング。回避は不可能だ。
――しかし、彼女の拳は操の体の表面を滑った。
「これは……粘膜!」
拳にまとわりつくヌメヌメした不快な感触にセエレが顔をしかめる。
暗いせいで気付かなかったが、よく見れば操の全身は糸を引くような粘度の高い液体で濡れそぼっている。
「うらぁ!」
続いて和道が回し蹴りを放つが、その手応えも非常に軽い。
「っく!」
奇襲の失敗にセエレは歯噛みするが、悔しむ猶予すら与えられず、操の振り向きざまの一振りが彼らに迫る。
「そこかぁ!」
再度、セエレは和道ごと瞬間移動することでその攻撃を避け、操との距離をおいて仕切りなおす。
「なんだよこのヌメヌメ、攻撃が滑って全然効いてねぇ……」
セエレは自らの拳に付着した粘膜を改めて観察し、それが既に黒い煙のように蒸発しはじめていることに気付いた。
「どうやら、この粘膜も異能で作られたもののようです」
「あの腕といい、粘膜といい……アイツが契約してるの、絶対タコの悪魔だな」
「無意味とまではいいませんが、殴る蹴るの攻撃では有効打にはならなさそうですね」
「マジかぁ……どうする?」
タコの粘膜なら塩もみでもすれば取れそうだが、あいにくそんな大量の塩はここにはない。
「打撃がダメなら……捌きましょう」
そう言って、セエレは懐から大振りのサバイバルナイフを取り出す。
「私が先行します。直樹様はあの触腕にご注意ください!」
セエレが武器を取り出したことで、操はようやく彼女を脅威とみなし、その一足一刀の間合いの外で警戒態勢に入る。
だが、彼女の異能の前ではその程度の警戒では足りない。
赤髪の悪魔はナイフごと操の視界から消失し、次の瞬間には彼の触腕を根元から切り落としていた。
「ぐぁああ! 痛い、痛いじゃないか……」
「ナイスセエレ! これなら取り押さえられ――!」
触腕という攻撃手段を失った隙をつき、和道は操に飛びかかる。
粘液の妨害を受けながらも、その腰に両腕を回して取り押さえようと必死に組み付いた。
「離せ!」
和道が操を地面に押し倒そうとした瞬間、切断された触腕の断面から大量の粘液が血のように溢れだす。
それは瞬く間に凝縮して液体から個体へと変わると、再度操の右腕にまとわりつき触腕を形成した。
「がっ!」
操は復活した触腕をでたらめに振るい、和道の体を弾き飛ばした。
「直樹様!」
壁へ叩きつけられる寸前、セエレが刹那の瞬間移動で主の体を抱きとめる。
まさに間一髪のところだった。
「サンキュー……再生するとかアリかよ」
「あの触手はおそらく、操様の肉体が変化したわけではなく、魔力で作られた外装のようなものなのでしょう」
「あー、じゃあ逆に言えばあの触手は切っても本体は無事なのか」
さっきは操が凄まじい苦悶の声をあげていたので、和道は少しやり過ぎたかとも思っていたのだが、どうやらそれは杞憂だったらしい。
「じゃあ悪いけど、俺がもう一回操さんを取り押さえるから、セエレはあのタコ足を切って援護してくれ」
「……かしこまりました!」
セエレとしては、危険な役目に自ら進んでいく主人に思うところはあるが、役割を逆にしろと言っても、彼は受け入れないだろう。
そもそも、十に満たない少女を模した彼女の体では、悪魔の力を持ってしても大の大人を取り押さえるには小さ過ぎる。
セエレはナイフを刃先についた粘液を拭き取ってしっかりと握りなおし、主人の動きに意識を集中する。
「行くぜ……いち、にぃ……さん!」
合図と同時に、和道は先ほどよりもさらに早く駆ける。
座敷牢自体がさほど広いわけではない。
一秒も経たずに彼の手が操に届いた。
「放せ、姉さんは僕のだ! お前なんかにやるものか!」
それを振り払おうと、操の右腕が振りかぶられる。
「させるか!」
一閃
その背後に現れた深紅の影が、その小さな体を回転させて触腕を再び切り飛ばした。
「がぁああああ!」
異能の制御が不完全故に、神経すら再現してしまったのだろう。
操の絶叫が座敷牢にこだまする。
「直樹様! 今です!」
「おうよ!」
先ほどよりも更に根元を切った。完全に再生するまでの猶予も微かに長いはず。
その期待に応えるように、和道は今度は操の足に組み付いて強引に押し倒すことに成功した。
「はなせ! いやだ、助けて!」
和道に馬乗りになられた操は、触腕の再生を待たずにジタバタと子供のように暴れだす。
しかし、彼の目線は自分を取り押さえる和道ではなく、座敷牢の隅でその戦いを震えて見守る大賀へと向けられていた。
「どうして……どうして僕を助けてくれないんだよ、姉さん!」
「さっきから聞いてりゃ姉さん姉さんって……あそこにいるのは大賀比奈だ! あんたの姪で、俺らの先生だ! ちゃんと現実を見やがれ!」
「だまれぇ!」
そのわずかな問答の間に、触腕の再生が完了する。
「直樹様! 今助けに――」
三度、それを切り落とそうとナイフを構えるセエレに向けて、和道は別の指示を出す。
「セエレ! 俺達の真下の地面を跳ばせ!」
「……! かしこまりました!」
彼の意図を瞬時に汲み取ったセエレは、座敷牢の冷たい床に直接手を押し当て、そこから魔力を地面に一気に流し込む。
「はぁ!」
シュン、という風切り音。
それと同時に、彼らのいる座敷牢の一角の床が消滅した。
「な、んだ――」
「魔力がなくなるまで、タコ壺で頭冷やしてろ!」
和道は操の体から手を放し、セエレの異能によって作られた大穴の底へと操を突き落とす。
空中に投げ出された操は、底の見えない深い穴へと沈んでいった。




