第九話 大賀のご当主様
「もうすぐ大賀の本家に着きますよ」
運転席に座る花菱の口からその言葉が出たのは、霧泉市を出て半日が過ぎた頃だった。
――謙遜だと思ってたけど、本当に田舎にあるんだな――
窓の外に広がる一面の田畑を見て、深夜はそんなことを考える。
その緑一色の景色のなか、前方にひときわ目立つ立派な日本家屋の影が見えはじめ、深夜はそれが『大賀の本家』だと確信を抱いた。
理由は単純明快。その屋敷の他に民家らしき建物が一つも見えないからだ。
――ほとんど陸の孤島だな……――
同時に、花菱が『警護には都合がいい』と言っていた理由も理解する。
「長時間ご苦労様でしたっと。それじゃ、あっしは駐車場に停めてきますね」
深夜の予想通り、そこが大賀本家の屋敷だったらしく、花菱以外の五名が車から降ろされた。
長時間座っていたこともあり、めいめいが体を伸ばしている中、大賀は大きな欠伸を漏らした。
おそらく花菱に運転を任せている手前、車内で寝ないように気を張っていたのだろう。
「ふわぁ……」
「大賀先生、寝不足ですか?」
「あ、ご、ごめんなさい。シャキッとしますね」
「セエレと役割逆にすればよかった……」
その横では、ラウムも少し疲れた顔をしていたことには深夜は気づいてはいない。
「すっげぇ! ここがヒナちゃんの実家っすか?」
そんな中、一人元気そうな和道が眼前に建つ立派な瓦屋根のある正門を見上げて、感嘆の声を漏らす。
しかし、大賀の表情は説明に困ったといった感じの様子だ。
「んー、ちょっと難しいところね……」
「違うんすか?」
「確かに、一時期はここに住んでたこともあるんだけど、現当主の大婆様は私にとっては大伯母にあたる人で、私は直系の親族ってわけじゃないから」
その説明を受けた和道は、数秒考え込む素振りを見せた後、深夜の方を向き。
「神崎……大伯母って伯母とどう違うんだ?」
と尋ねた。
「大伯母は祖父母の姉のことだよ」
「なるほど」
そうしていると、花菱が駐車場から戻ってきた。
「すいませんねぇ。この家に来るのも久しぶりなもんで駐車場の場所忘れちまって、お待たせしました」
目に見えるのは、正門以外はどこまでも漆喰の壁なのだが、そんな離れた場所に駐車場があるくらいこの屋敷は広いのか、と深夜は内心呆れてしまう。
ひとまず、全員が正門前に揃ったことで、この家の関係者である大賀が音頭を取った。
「では行きましょうか」
木製の扉を押し開き、大賀を先頭に彼らは正門をくぐる。
その瞬間、気温は変わっていないはずなのに深夜は不思議な清涼感を感じた。
「深夜見て、庭に池あるよ! 絶対錦鯉いるよあれ!」
屋敷の本宅へと延びる石畳を歩いていると、ラウムが庭の一角を指さす。
そこには、岩で囲われた池があり、そのほとりでは腰の曲がった細い樹が青い若葉を携えて立っていた。
――松や柳……ではないな、灯里に聞いたらわかるのかな――
岩と水、そして美しく整えられた木々の緑。
それらが織りなす景観が生み出す、視覚的な涼しさがそこにあった。
そんな屋敷の立派さに圧し負けた和道の表情は、屋敷に近づくたびにどんどん固くなっていた。
「俺、緊張してきたっす……」
「アハハ……家と思わず温泉旅館とか、そういうものだと思ったら気楽かもしれないわね」
そんな彼の緊張を和らげようと、大賀が笑いかける。
そんな彼らを、本宅の玄関先に立つ中肉中背の男が出迎えた。
「おかえりなさい。ますます姉さんに似てきたね」
「え、操さん!? どうしてここに?」
その男は大賀の知り合いだったらしい。
だが同時に、この屋敷にいると思っていなかった相手でもあるようで彼女は目を丸くした。
襟足の刈りあげられたツーブロックの短髪と、爽やかな笑みが特徴的な男だった。
年齢は中年に差し掛かったところだろうが、見るからに生地のよさそうなポロシャツと折り目のしっかりついたパンツ姿からも清潔感が漂っており、老けているという印象は感じない。
あえて一言で表すなら『優秀なビジネスマン』と言われて、なんとなくイメージする外見をそのまま切り抜いたような男だった
「比奈ちゃんが危ない目にあったって聞いてね。居ても立っても居られずに駆けつけてきたんだよ」
「あ……心配をかけてごめんなさい」
「いや、怪我がないようでよかった。それでそっちの人達は……」
再会のやり取りを済ませたその男は、花菱をこの一団の代表だと思ったらしく彼に目線を合わせた。
「あっしは雇われボディガードで、こちらの方々は比奈嬢の教え子さん達です。失礼ですが、そちらさんは?」
花菱の当然の疑問に、大賀が代わりに答える。
「この方は叔父の大賀操さんです。操さんは大賀の経営する企業で勤めていたり、大婆様のお手伝いをしていたりと私よりもずっと大賀家との繋がりが深い人なの」
紹介を受けた大賀操は笑みを崩さず、がっしりとした手を花菱に差し出した。
「はじめまして……ああ、なるほど。あなた達が比奈ちゃんを守ってくださったわけだ。心から感謝しますよ」
「あっしにとってはそれが仕事なもんで」
花菱は操の手を取り、握手を交わした。
「そいつは何もやってねぇっての」
「そうだそうだ!」
それを尻目に、こそこそと花菱への不平不満を漏らす和道とラウム。
そんな彼らを、深夜も小声でたしなめるのだった。
「説明が面倒くさいし、花菱の手柄にした方が楽でしょ」
そんな蚊帳の外にされた子供達のやり取りをどう受け取ったのかはわからないが、彼はうっかりしていた、といった顔で屋敷の玄関扉を開ける。
「おっと、いつまでもお客様を外で立たせるのはよくないな。どうぞ中へ」
そうして、操に促されるままに大賀本家の屋敷に足を踏み入れた深夜達を、今度は五人ほどの着物姿の女中が出迎えた。
「ようこそ。お待ちしておりました。お荷物はこちらで客間へと運ばせていただきますので、そちらのほうへ」
五人のうち、最も高齢の女中頭らしき人物が代表して玄関の一角を指し示す。
「あ、ハイ! おなしゃす!」
「あ、あっしの荷物はちょいと特別なんで自分で持ちますよ」
屋敷の外観や庭の立派さの時点で、ここが本物の「名家のお屋敷」であることは理解しているつもりの深夜だったが、そんな彼も使用人に出迎えられるという経験ははじめてで、思わず呆気にとられてしまっていた。
「なんか、想像の数倍豪邸だし、大賀先生がお嬢様だった……」
「わぁ……」
「見てよ深夜、セエレなんて本物の女中さんを見て、めっちゃ目がキラキラしてるよ」
普段は冷静な態度を崩さないセエレだが、今の彼女は憧れのアイドルを間近に見た子供のように落ち着きがない。
玄関先でのやり取りを終えた頃、一足先に靴を脱いであがっていた操が再び深夜達を先導する。
「ご当主様は応接間で待っている。僕が案内するよ」
◇
操の案内で連れてられて応接間の内装を目の当たりにして、深夜は改めて大賀の言っていた『温泉旅館とでも思った方が気楽』という言葉を実感した。
十五畳はありそうな部屋の広さ、部屋の中心に位置する素人目にも高級品だとわかる黒檀製の座卓、床の間に飾られた萎れた部分が一つもない生け花。
どれ一つとっても現実味がなく、これが人の住む家だとはとても思えなかった。
操が『じゃあ、僕はここで』とその場を離れたことで、再び一行の先頭に立った大賀比奈が畳に正座し、深々と頭を下げる。
「ご無沙汰しております、ご当主様」
それを受け、応接間の中央に同じく正座で座っていた着物の老婆が重々しく口を開いた。
「まずは無事で何より……だけど比奈、その態度はいったいなんのつもりだい」
重ねてきた年月を感じさせる微かにしわがれたその声に、大賀はピクリと肩を震わせ、顔を上げる。
「え、なにか問題が……?」
臙脂の着物に身を包んだ老婆はやれやれと首を小さく振り、たしなめるように座卓の周囲に用意されていた座布団を顎で指す。
「大ありだよ。おおかた、教え子の前で格好をつけたいんだろうが、引率役がそうも肩肘を張ってちゃ、お客人も気が休まらないだろうに。ホラ、さっさとこっちに来て座りな」
深夜達は互いに目配せをしたのち、老婆の反応を確認してから、彼女の指示通り座布団に各々腰を下ろした。
「すまないねぇ、この子ったら昔っから見栄っ張りというか、カッコつけたがりというか。アンタ達もずいぶんと苦労させられてることだろう」
その一連の流れを見て、老婆はこれ見よがしに大きなため息をつく。
その身内への厳しい言葉に対し、和道はきっぱりと
「いいえ、全然! むしろ俺達が迷惑と心配かけまくってます、すいません!」
と逆に頭を下げた。
すると、どうやらその態度が老婆には好感触だったらしく、低かった声が微かに弾みをつける。
「お、元気がいいねぇ。そういう子は私も好きだよ。ほら、比奈も見習ってこれくらい素直になりな」
「ちょっと待ってください芥子お婆様!」
だが、老婆のずけずけとした態度に、大賀は我慢の限界と言わんばかりに声を張り上げた。
「さっきから好き勝手言ってますけど、お婆様も普段はそんな喋り方じゃないですよね!」
大賀からの突然の暴露に、深夜達は言葉を失う。
一方、老婆当人はとぼけた顔で明後日の方向を見ていた。
「なんのことかねぇ」
「妙なキャラ作りはやめてください、と言ってるんです!」
大賀が老婆をジト目で睨みつけること数秒。
「……あら、もうネタばらししてしまうのですね」
観念したように肩をすくめた老婆は、今までの威圧的な雰囲気が嘘のように、物腰おだやかな凛とした口調で話しはじめた。
「学生さんなら、こういう気風のいい老婆キャラの方が受けがいいと思って、ドラマを見て練習したのですけれど」
「この子達の大賀家への誤解が助長されるからやめてください」
いつの間にか攻守が一転し、大賀は老婆の悪戯に呆れたような声を漏らす。
「だって、いきなり真面目な雰囲気だと、堅物お婆さんだと思われてしまうでしょう」
「なんかこのお婆ちゃん、意外と愉快なタイプだね」
ラウムが深夜に耳打ちしてきた「愉快な人」は確かにこの老婆を表すのにピッタリかもしれない。




