幕間 【化物】 一日目→二日目
かつて、宮下栞里という少女がいた。
音無撫子は彼女をこう形容する。
「宮下栞里は化物である」と。
音無と宮下栞里の関係は説明するには少し複雑だ。
二人は友人というわけではなく、言葉を交わしたこと自体、片手で足りる程度の回数しかない。だが、それでも音無にとって宮下栞里は特別な存在だった。
年齢も違う、住んでいる都道府県も違う、そんな二人が交流していたのはピアノコンクールの会場、その短い時間の間だけだ。
プロを本気で目指す日本のピアニストの中に、宮下栞里を知らない人間はきっといない。それほどまでに彼女の技量は群を抜いていた。
彼女が出場したピアノコンクールで受賞を逃したのは、生涯でただ一度だけ。
そう言えば、どれほどのものか想像がつくのではなかろうか。
数多の世界級のプロピアニストが彼女の才覚を称賛し、ピアノに留まらず日本の音楽界牽引する逸材だともてはやした。
もっとも、間違いなく音楽の神に愛されていたその当の本人は、プロの道には全く興味がなかったらしく、そんな賛辞の言葉をいつも退屈そうに聞き流していた。
「別に私、あの人達のために弾いてるわけじゃないもの」
かつて一度、同じ控室になった時、宮下栞里はこう言っていた。
「じゃあ、なんでコンクールに出るの? 別にピアノを弾くだけなら家でもできるでしょう」
本気でピアノに向き合っている身としては、ただ結果だけをかすめ取っていく彼女は目の上のタンコブで、音無は不機嫌なのを隠そうともせずに突っかかっていった。
だが、そこは強者の余裕というやつか、栞里は音無の嫌味に真正面から返したのだった。
「でも、練習の成果を確認するにはコレが一番手っ取り早いでしょ」
そんなカラオケの採点マシーン感覚で、磨き上げてきた経験と感性を利用される審査員に音無は少し同情した。
そして、そのコンクールでも宮下栞里は圧倒的な差を見せつけて最優秀賞を受賞していき、音無はいつか彼女を打ち負かしてやるのだという熱意に燃えてより一層の練習に励んだ。
そして、その日が来た。
三年が経った今でもよく覚えている……いや、きっと音無は生涯あの日を忘れられないだろう。
今にして思えば、その日の彼女は最初から少しおかしかった。
今まで頑なに郊外の会場で行われるコンクールにしか出場しなかった彼女が、初めて東京都内で開かれるピアノコンクールに姿を見せたのだ。
演奏順は偶然にも音無と栞里は連続しており、舞台袖で顔を合わせるタイミングがあった。
そのことを知った時、音無は彼女に宣戦布告してやろうと思っていた。いままで何度も何度も辛酸を舐めさせられた彼女に今日こそ勝つのだと。
その日の音無の演奏は文句なし、過去最高のものだった。これなら宮下栞里を超えられるかもしれない。そんなある種の全能感すら覚えるほどの出来栄え。
演奏を終えて控室に戻る途中、舞台袖で次の演奏に備える宮下栞里と相対した。
『今日は私が最優秀賞をもらう』と、胸を張っていってやろう。そこに、プレッシャーをかけてやろうなどという打算は欠片もなかった。だって、宮下栞里がその程度の言葉を重荷に感じるなんて、想像もできないからだ。
だが、いざ真正面で宮下栞里を相対した瞬間、音無の中に漲っていたその威勢は一瞬で消え失せてしまった。
「すぅ……はぁ……」
彼女は身に纏う黒のドレスとは対照的に、今にも倒れそうなほどにその顔を蒼白にしていた。
何度も何度も握ったり開いたりする手を見つめて、息を吸って吐いてを繰り返している。
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと練習した。だから、大丈夫……」
目の前に音無がいることにすら気づいていないのだろうか、自らに言い聞かせるように宮下栞里はボソボソと呟く。
音無はそれが『緊張した人間の態度』だと気づくのに、随分と時間がかかってしまった。
「……それ、やめた方がいいわよ」
「え?」
宮下栞里はその声でようやく音無の存在に気づいたのか、ハッとして顔を上げた。
その顔は、この春に高校生になったはずなのに、初めて人前でピアノを弾く園児のようにも見えた。
「手を見てると動きがぎこちないような気がして、不安になるだけだから」
「ああ……そうなんだ」
「そういう時は目をつぶって、空を見上げて、肺の中の空気を一旦全部吐き出すの……自己流だけど」
それを聞いた宮下栞里は一度目を閉じて、数秒後に『本当だ』とよくわからないことを呟くと、そのまま天を仰ぎ、思いっきり息を強く吐き出した。
そうすることで、彼女の縮こまっていた両肩は自然と脱力し本来の位置に戻る。
「ありがとう。音無さん」
「コンサート会場でしか会わないのに、私の名前覚えてるんだ」
「私、記憶力には自信があるの」
まだ、その顔から緊張が全て抜けきったわけではない。だが、幾分かマシな顔つきにはなっていた。
そうして、音無は舞台に上がり観客に一礼する彼女を見送る。
本来ならもう控室に戻るべきだが、彼女の演奏だけは間近で聞いておきたかった。
「でも、あの子もこんな大舞台だと流石に緊張するのね。ちょっと安心したわ」
人間らしいところもあるのだな。と、音無は宮下栞里にわずかながらの親近感を覚える。
だが、宮下栞里の演奏が始まり、それが一瞬の幻想だったのだと思い知らされた。
宮下栞里は正真正銘の化物だった。
彼女の演奏は非の打ち所がないほどに正確無比に完璧で、
それでいて、今まで一度も聞いたことがないほどにおぞましまいものだった。
シューベルトの『アヴェ・マリア』
ショパンの『ノクターン』
リストの『愛の夢』
ベートーヴェンの『月光』
それだけではない、ドビュッシー、ドヴォルザーク、バッハ、ラヴェル。
作曲者も生み出された時代も、何の統一性もない、しかし同時に誰もがどこかで聞いたことのある無数のクラシックの名曲達。
彼女はそれらを細切れに解体し、耳障りの良いフレーズを繋ぎ合わせ、一つの曲として演奏していた。
本来ならリズムもテンポも滅茶苦茶になるはずなのに、奇跡のような噛みあいの元にそれは一つの旋律を織りなしてる。
観客が息を呑み彼女の演奏に聞き入っているのが舞台袖にも伝わる。
だが、同時に音無にはその曲がどうしようもなく気持ち悪かった。
なぜなら、音無はその曲の素材を知っているからだ。ワンフレーズごとに原曲が脳内で流れ、しかし脈絡なく途切れ、別の曲のフレーズが始まる。
ピアノ演奏を理解していればいるほどに、そのツギハギに気づいてしまう。
逆に、きっと何も知らない人にはこの曲は素晴らしい『一曲の演奏』に聞こえるのかもしれない。
それほどまでに演奏の継ぎ目がスムーズで、だからこそ、メドレーや組曲という枠に収めるにはあまりにも敬意に欠ける演奏だった。
演奏が終わり、コンサートホールを沈黙が支配した。
まるで時が止まったかのように、宮下栞里以外の全てが呼吸すら忘れて動きを止めていた。
そして、彼女が立ち上がり、観客席に向けて深々と頭を下げた瞬間、その呪縛は解けた。
パチパチと戸惑い交じりのまばらな拍手を浴びて、宮下栞里が舞台袖に戻ってくる。
その顔は相変わらずまだ緊張の色を残していて、しかし同時に納得の演奏を終えた音楽家特有の高揚感も帯びている。
そして、彼女の視界にもはや音無の姿は映ってすらいなかった。
その日、表彰の檀上に宮下栞里の姿はなく、最優秀賞には音無撫子が選ばれた。
この日を最後に、ピアノ演奏の場に宮下栞里が現れることはなく。
彼女が病で命を落としたと風の噂で音無の耳に届いたのは、この一年後のことだった。
◇
音無撫子はピアノがうまく引けなくなった。
ここでいううまく、というのは「素晴らしい演奏が出来なくなった」という意味ではなく「簡単なことすらできなくなった」という意味だ。
指が演奏中に固まってしまったり、イメージと違う位置に動いたり。
「教導学塾はこの先になります」
「教導学塾はなくなったって、聞いてましたけど……」
音無は街で偶然見かけた白いローブの女性に連れられ、夜の歓楽街を歩く。
道中、酔いつぶれた若い男達が彼女らに声を掛けようとするが、先導する女性の白いローブが教導学塾のものだと気づくと、男達は逃げるように離れていった。
「本部のビルは不幸にも倒壊してしまいましたが、居場所を求める人がいる限り、組織は残ります。あなたも……居場所がないのでしょう?」
「……はい」
音無とて彼女について行くことに不安が無いわけではない。だが、他に行く当てなどどこにもない。
二十年の時をピアノと共に過ごしてきた。プロピアニストである母もまた、その短くない時間を自分に費やしてくれた。音大は彼女のピアニストとしての実績を受けてその入学を許してくれた。
――あの家に、あの学校に、ピアノの弾けない音無撫子の居場所はない――
一度は命を絶つことすら考えたが、そこは恐怖が上回ってしまい、いよいよどうしようもなくなった時、教導学塾の噂を聞いた。
社会から隔絶されたコミュニティ。ここでなら、音無撫子という名には何の意味もないと期待した。ここに行けば、もう二度と宮下栞里の名を聞くことはないはずだと願った。
「着きましたよ」
「…………ここ、ですか?」
歓楽街を抜けた先、女性が立ち止まったのは西洋風のチャチな装飾がなされたホテル。
音無もバカではない。このホテルがビジネスホテルやリゾートホテルでないことは理解している。
「本部が崩壊し、寝泊まりするための場所が必要でしたから」
「あぁ……そうです、ね……」
音無は疑念を抱えたまま、促されるままにホテルの中に足を踏み入れた。
「これでやっと、解放される」
背後で聞こえるローブの女性のその言葉は聞こえないフリをして。




