序章 ある、晴れた日のこと
雨が降っていた。
その雨は数日前から予報されていたものだったということを、神崎深夜は後になって知った。
台風でも来るのかという程に酷い豪雨の中、彼は傘をささずに一つの墓前の前に立ち尽くしてた。
その墓石には『宮下家之墓』と刻まれ、その正面に供えられたわずかに萎びた花が大粒の雨に打たれ絶え間なく揺れていた。
「俺、いつから……栞里のことを忘れてたんだろう」
彼女が生まれつきの心臓病を理由にこの世を去ったのは昨年の一月。
それ以来、深夜は月命日は欠かさずに墓参りに来ていた……はずだった。
今は六月、だが、どれだけ記憶を掘り起こそうとしてもここ数か月、この場所に来たという記憶が深夜にはない。
「五月と四月……三月も無い……ってことは最初から、か」
三月末、ラウムと契約を結び、彼女に捧げた最初の代償。
それこそが神崎深夜と宮下栞里の繋がりだったのだろう。
「忘れないで、って……お願いされたのに」
深夜は自嘲の笑みを浮かべようとするが、実際に作られたのは顔の筋肉がピクピクと痙攣しているような歪な表情だった。
「ごめん」
彼が墓前に立ってから、どれだけの時間が経過したのだろう。
分厚い雨雲が空を覆っているせいで今が何時なのかも、深夜にはよくわからない。
だから、深夜はすっかり失念していた。
「そんな格好してると風邪ひくよ」
もう学校の授業はとっくに終わる時間であることを。
深夜がどうしても今日、この墓前に駆け付けたのは今日が栞里の月命日だったからであること。
彼女はこんな雨程度で、最愛の姉の墓参りを取りやめたりしないことを。
「深夜くん」
その声のする方向へゆっくりと首をひねる。
そこには授業終わりにそのまま来たらしい、黒陽高校の制服姿の宮下灯里がいた。
「…………」
思わず『宮下』と呼びかけた自分の口を押える。
「……灯里」
そうだ。栞里が死んでから、深夜は彼女をそう呼んでいたはずだった。
少なくとも、中学三年生の頃は間違いなくそう呼んでいた。
そのはずなのに、ほんの最近まで彼女を苗字で呼んでいたような気もしている。
もはや自分の記憶の何が正しくて、何が間違っているのかすら深夜にはわからなくなりつつあった。
――栞里との繋がりがなくなったから、灯里を名字で呼ぶようになって……その後、三木島にさらわれた灯里を助けようとして……――
「深夜くん、フラフラしてるけど大丈夫? とりあえず雨宿りできるところに……」
最初は傘もささずに棒立ち状態の深夜に困惑気味だった灯里も、少しずつ整理がついてきたのか不安混じりの声と共に深夜に歩み寄ろうとする。
その声に思わず引き寄せられそうになる深夜だが、無意識に前に出したボロボロの手が視界に入ったことでその動きはピタリと止まった。
「っ……ごめん」
「し、深夜くん!」
そして、灯里に聞こえるかも怪しい小さな声でそれだけ言うと、深夜は灯里の横を走り抜け、逃げるように霊園を後にした。
いや、逃げるようにという言葉は正確ではない、彼は本当に灯里から逃げ出したのだから。
「はぁはぁ、はぁはぁ…………」
豪雨によって血と泥は滲み、洗い流されてはいた。だがそれでも、彼の服と体は既に別荘地での戦いによってボロボロだった。
そんな姿を灯里に見られるわけには行かない。
だから深夜は決して彼女に追いつかれないように、雨の中を全力で走り続けた。
一度も転ばずに家にたどり着けたのは奇跡としか言いようがない。
家に入るや否や、風呂にも入らず、着替えもせずに自室に逃げ込んだ深夜に対して真昼が何か言っていたような気がするが、彼の耳にはそれは届いていなかった。
辛うじて残っていた理性がこのままベッドに倒れることだけはさせなかったが、体に張り付いた服を脱ぐ気力すら残っていなかった深夜はずぶ濡れのまま、ドアを背にフローリングの床の上に座り込んだ。
「最悪だ……」
ラウムの代償を軽く見ていたつもりはなかった。
誰かとの繋がりを失うことが怖くなかったわけではなかった。
いつか、家族のことも、灯里のことも忘れてしまうかもしれないと理解していた。
――俺はその全てを覚悟して、ラウムの……悪魔の力を使ってでもみんなを守るって決めた――
だが、神崎深夜はそんな大切な人との繋がりを失っても変わらなかった。
それはまるで大切だと思っていたものが本当は大したものではなかったのではないか、と思わされるようで。
深夜はそれを受け入れることができなかった。
◆
深夜が栞里と出会ったのは小学校に上がってすぐのことだった。
出会った場所は霧泉市立病院の屋上。
立ち入り禁止のそこに、どうやって入ったのかは実はもう深夜はおぼえていない。
おぼえているのは、左眼の定期健診のために母親と共に病院に来たこと。母が医者と話をする間、外で待っていることになった深夜が昼寝場所を探していたこと。そして、その日がとても晴れていたことだけ。
「すぅ……すぅ……」
金網を通り抜ける風の涼しさを感じながら、太陽の熱で適度に暖められたコンクリートの上で身を丸くし、眠りについていた深夜の意識は、ガチャンと扉の開く音によって覚醒した。
――誰か、来た?――
立ち入り禁止だということは深夜も認識していたため、入ってきたのは病院の職員だろうという予測は簡単にできた。
怒られるだろうな、と少しだけ思案した深夜だったが下手に隠れるよりも堂々とした方が説教も短いだろうと考え、目をつむったまま昼寝を継続することにした。
どうせバレるなら数秒でも長く寝たかった、ともいえる。
深夜の予想通り、扉の方から足音が少しづつ彼が眠る屋上の中央へと近づいてくる。
しかし、どういうわけか、その足音が深夜のすぐ近くで止まっても彼を起こそうとすることはしなかった。それどころか、深夜を起こさないよう、静かに息を潜めているような雰囲気すら感じる始末。
――病院の人、じゃないのかな――
結局、好奇心に負けた深夜は自ら、目を開き、その誰かを確認することにした。
「……あ」
そこにいたのは深夜と比べて二歳か三歳ほど年上らしい女の子だった。
細身、というよりはか細い体躯、寝ぐせの残る長い髪。パジャマ姿、ということは入院患者だろうか。
彼女はまるで生まれて初めて人間を見た子猫のように、上からじっと深夜を見つめていて、その結果、自然と深夜と少女は見つめあう形になってしまった。
「君……なに?」
寝起きということもあってか『何の用』と『何者?』が混ざった結果、ずいぶん漠然とした問いかけになってしまう。
少女はパチパチと二度瞬きをした後、数秒間考え込むように固まり。
「何なんだろうね、私って」
少しだけ寂しそうにそう言った。
それが深夜と栞里の出会い。
彼女は深夜にとって生まれて初めての友達、そして、深夜が出会った唯一の同類だった。




