第十七話 冷たいくちづけ
「あ、いた。ラウム、いきなりどこに消え……どうしたのその髪?」
「えへへ。似合うかな? きゃるん」
グラシャラボラスの最期を見届け、雪代達の所へと向かおうとする深夜の前に髪先の色が白く変わったラウムが現れる。
「いきなり変わると違和感がすごい」
「もー! そこはノータイムで『似合ってる、可愛いよ』っていうところでしょ! もう、そんなんじゃ女の子にモテないんだから」
深夜の回答に対してラウムは不服を全身でアピールし始める。
途中に挟まれた低い声のセリフが深夜のマネのつもりだったのか、ラウムの理想像なのかに関しては深夜は突っ込まないと固く胸に誓う。
「そもそも同世代の女子に知り合いすらいないんだから、モテるもなにもないよ」
「じゃあ、そんな寂しい青春を送る深夜にラウムちゃんがプレゼントしてあげる。ちょっとしつれーい!」
「え? あ、おい! 何するのさ」
「いいからいいから、大人しくしてよ」
ラウムはそう言うと半ば強引に深夜の左眼を掌で覆い隠す。
深夜は逃れようとするのだが、戦いの疲労に加え人間と悪魔の身体能力の差には抗えず、抑え込まれてしまう。これでは未来が視えない。
「コレのどこがプレゼント?」
「じゅーさん、じゅーし、じゅーご……もういいかな」
「ラウム、いい加減に……」
悪ふざけに痺れを切らし、声を荒げようとした深夜の右頬に冷たい吐息と柔らかい感触が触れた。
「お前……なにを?」
それがラウムの唇の感触だと気づいた瞬間、深夜の脳内から無数の声が雑多に響き始めた。
『――お願い! お兄さんに助けて欲しいんだけど』
『神崎深夜くん、君の左眼についてだが――』
『初めまして、今日から教育実習としてお世話になる――』
『神っちってさー、アカリンのこと――』
「あっ……」
深夜は自らの頭の額を押さえ、身体が倒れそうになるのを辛うじて堪える。
――これ……は、俺の、記憶?――
その声の全てを深夜は知っていた。
だが、同時にここ数か月、この声の主との交流の記憶がすっぽりと抜け落ちている。それはまるでその間、彼らのことを忘れ去っていたかのように。
そして、深夜は理解する。この声の正体がなんなのか。
――違う、これは……ラウムに奪われていた……代償だ――
無秩序に鳴り響いていた声が少しずつ整理され始めると、今度はそれらとリンクする映像が脳裏をよぎり始め、蘇る記憶の情報量は爆発的に増加していく。
その突然の処理で脳が混乱したのか、耐え難い頭痛が深夜を苦しめる。
「え、あ。ちょっと、深夜! 顔真っ青だけど、大丈夫!?」
耳からそんな声が聞こえるが、それは脳内で響く声にかき消されて意識には汲み取られない。
一つ一つ、声の思い出が想起され、誰との記憶なのか、いつの記憶なのかがラベリングされていく中で、一つの情景が深夜の心象世界に広がるスクリーンを占める領域が大きくなっていく。
やがてその記憶は他の声と映像を押しのけて深夜の全てを埋めつくした。
そこはとある病院の個人病室。
一人の少女がベッドの上で身を起こし、脇に置かれたパイプ椅子に座る深夜に語り掛けていた。
しかし、その深夜の左眼は眼帯で覆われており、それがこの記憶が深夜の中学生時代のものであることを示していた。
「ねえ、深夜。最後に三つ。三つだけお願いしてもいいかな?」
その少女は齢は十五ほどでパジャマに覆われたその体はやせ細り、青白い血管が透けて見えるほどに白い。
その少女からは触れれば溶けて消える雪像のような弱々しさがあり、深夜は身動きができないままじっと座ってその少女の言葉を聞き続けた。
「一つ目、もう二度とこの病室には来ないで、深夜と会うのは今日が最後」
少女は何度も言葉に詰まりながらも自らの願いを深夜へと伝えていく。
「これ以上、弱っていく私を見ないでほしい。深夜の思い出の中には元気な私だけいればいいから」
「…………」
深夜が何も言えなくなってしまっているのを認識してなお、少女は願いを言葉にし続ける。
「二つ目、私の代わりに灯里ちゃんのことをこっそりでいいから守ってあげて。私のたった一人の大切な妹だから」
「……あぁ。任せろ」
深夜はようやく出せた、絞り出すような掠れた声でその願いを受け止める。
「……三つ目は?」
「三つ目は……私の……最後のワガママ」
少女は膝の上で握り拳を作る少年の顔に手を伸ばすと、左眼を覆う眼帯を外しその両目を愛おしそうに見つめる。
両者の間を流れた無言の時間。
それはぴったり十五秒の空白。
だから、深夜はこの後に少女が何をするのかを見届け、少女は深夜がその未来を拒まないことを確認し、瞳を閉じる。
「ん…………」
少女は自らの唇を深夜へと押し付け、彼の口をふさいだ。
それは技術も熱もない、ただその行為そのものに意味を見出しているような子供の口づけ。
そんな唇だけの触れ合いはほんの一瞬の出来事で、少女は自分から身体を引いて目をあける。
「この先、深夜が誰かを好きになっても、いつか誰かと結ばれる時が来ても、私のことをずっと覚えていて欲しい。私はあなたに忘れられたくない。それが私の最後のお願い」
精いっぱいの笑顔を作ろうとする少女の目じりで、反射した光が煌めいていた。
「だって私は、これまでずっと深夜のことが大好きだったから」
それは決して――――と約束したはずの記憶。
「あ……ぁあ……!」
深夜は膝から崩れ落ち、空嘔吐のような嗚咽を漏らしながら両手を地面について這いつくばる。
「し、深夜! あ、あれ? 代償……ちゃんと思い出せた……よね?」
顔面蒼白になった深夜にラウムは手を差し出そうとするが、彼のその急な変化をもたらしたのが自分であるが故にあと一歩が踏み出せずに立ち止まってしまう。
「なにが……全部やる、だよ……」
ポツリ、と打ちひしがれる深夜の首筋に水滴が落ちる。
「俺……俺の一番大事な記憶。アイツのこと、全部忘れて……」
滴は一つに収まらず、一つ、また一つと深夜の体と大地を濡らし、あっという間に大粒の豪雨となっていく。
「ごめん……ごめん……栞里。俺、お前との約束、破った……」
雨音ですら掻き消せなかった、たった一人の少年の絶叫が和泉山の別荘地にこだました。
『約束する。俺は栞里のことを絶対に忘れない』
「っぁああああああああああああ!」




