第十五話 果実の行方
「許さん……許さんぞ……悪魔ども」
自らが切り落とした右腕に続き、胸から下を失ってなおザドキエルは地に這いつくばり、その場から逃げ延びようを必死に足掻いていた。
唯一残された左腕で地面に爪をたて、溢れんばかりの怒りを糧にザドキエルはその意識を保つ。
「まだだ、霊核がある限り私は不滅……次はない、次は必ず……」
「不滅か……実に羨ましいことだ」
そんなザドキエルの行く手を阻むように一人の老人が前に立つ。
それは蓬莱永秀。天使の攻撃によって失われたこの屋敷の主だった。
彼は一本の杖に両手を添えて立っており、その立ち姿はお世辞にも力強いとは言い難く、その傍らにはボロボロに焼け焦げたスーツに身を包んだ花菱もいた。
「なんだ……お前は?」
蓬莱は『悪魔と契約していない人間は天使の歯牙にもかからんか』と薄く笑い、恭しく自己紹介をする。
「私は蓬莱永秀。ただの人間だよ」
「貴様は今までどこに?」
ザドキエルの疑問はもっとも。確かにただの人間は最初の一斉攻撃の対象には入っていなかった。
だが、それでもただの人間ならば完全に崩落した屋敷の下敷きになってしかるべきだ。ましてやこのような死を目前とした老体ならなおのことである。
「なぁに、そこは簡単な手品でさぁ」
蓬莱の隣に立つ花菱はそう言うと煤けたスーツの懐から白紙のカードを取り出し、蓬莱の体に当てる。すると、一瞬の発光の後、蓬莱の姿はその場から消えた。
そして、花菱がピンっとカードを地面に投げ棄てると、そのカードの置かれた場所に再び蓬莱永秀が現れた。
「封印の……異能か」
「これは偶然気づいたのだが、彼のカードの中にいる間は生物の生体活動は完全に停止しているようでね。病の進行を抑えるためにできるだけそうして過ごすようにしているのだよ」
つまり、蓬莱は花菱の懐に収められたカードの中に身を潜めており、その結果、屋敷の崩壊に巻き込まれずに済んだのだった。
「さて、交渉といこうか天使よ」
「交渉……だと?」
「ああ、君が条件を飲むのなら逃亡を手助けしよう」
ザドキエルの表情が恥辱に歪む。
天使である自分が人間に見下され、あまつさえ施しを受けるなどという現状はザドキエルには耐え難い苦痛だった。
だが、その全てを飲み込み、ザドキエルは蓬莱の交渉に応じる態度を取る。
全てはラウムへの復讐のために。
「貴様の……望みは?」
「神が持つという二つの禁断の果実の片割れ。人に永遠の命を与えるという生命の実。その在処を教えてもらおう」
「生命の実の在処……だと?」
生命の実という言葉を聞いたザドキエルの目の色が変わった。
その視線は今まで深夜や悪魔達に向けていた敵意とはまた違う、もっと根源的な人間という種に対する深い憎悪のこもった視線。
「よくも抜け抜けと。我らが大いなる主の身元からそれを奪ったのは、貴様ら人間だろう」
「何……?」
ザドキエルの言葉を受け、蓬莱の鋭い視線が初めて揺らいだ。
「どうも話が見えやせんねぇ。俺が知ってる昔話じゃ、人間の御先祖様が食ったっていうのは智慧の実だけのはずですぜ?」
「自らの罪を歪めて伝えるとは人間とはつくづく度し難い。天の至宝を奪った盗人の分際で」
「つまり、こういうことかね? 禁断の果実は智慧の実と生命の実、その両方が人間の手にあり、神すらもその所在を知らぬと?」
「ああ、そうだとも」
蓬莱の声にあからさまな落胆の色が混ざり、それに気づいたザドキエルは嗜虐に浸った笑みを浮かべる。
「そうか……どうやら、我々は最初から見当違いをしていたらしい。ロノヴェとグラシャラボラスには徒労をさせてしまったな」
「話は終わったかしら、おじいちゃん?」
「あぁ……ラウ……ム」
哀愁を背負い静かに佇む蓬莱の背後からひょいとラウムが顔を覗かせる。
その声を聴いた瞬間、ザドキエルの表情がこわばり、声が上擦る。
「ま、待て! 人間、私を見逃すという約束だったはずだ!」
「いやいや、あんな煽りまでしといて助けてなんてよく言えるねぇ。アンタって世界が自分を中心に回ってると思っちゃえるタイプ?」
そのあまりにも自分本位で惨めな天使の姿にラウムは呆れたような視線を向けた。
「あ、そうそう。ついでだけど、別にロノヴェとグラシャラボラスに負い目なんて感じなくていいと思うよ? アイツらもその辺は割り切ってたろうし」
グラシャラボラスに至っては元から生命の実になど興味がなかったと公言していたのだから、蓬莱を恨むのも筋違いろう、とも付け加えてラウムは蓬莱老人の肩を叩く。
「よもや、君に気遣われるとは思っていなかったな」
「敵ではあるし、色々と巻き込まれたけど。悪魔として、人の願いってやつは否定したくないからね」
「心遣い痛み入る……では、あとは君に任せるとしよう」
蓬莱老人は憑き物が落ちたように肩の力を抜き、花菱と共に一歩横に外れて、地に這いつくばるザドキエルをラウムへと差し出す。
「だってさ? じゃあ、今度は私とお話ししようか。ザドキエル」
ラウムはそう言って、蓬莱と変わるように天使の前に立ち、その唯一残されていた右腕を踏みつけてザドキエルをその場に縫い付けた。
「ラウム、この屈辱は決して忘れん……次こそは……必ず……」
「アハハッ! ……アンタに次なんてあるわけないでしょ?」
ラウムの声のトーンが一段階下がり、丸い琥珀色の瞳が細められる。
「わ、私には……」
「霊核がある、でしょう? 天使の心臓。大気中のマナを自らの魔力へと変換する半永久機関。よーく知ってるわよ。それがアンタを直接粉々にしなかった理由なんだから」
「ま、まさか……ラウム、貴様は!」
その直後、ラウムの右腕がザドキエルの背中を貫いた。
悪魔と天使、異なる魔力が互いに反発しあい、両者の周囲で紫電が爆ぜ、光の粒子が飛散する。
「まて、やめろ! 自分が何をしようとしているか、わかっているのか。私は神の――!」
「最後までアンタの拠りどころはそれだけなのね」
そして、ラウムの右腕は引き抜かれ、ザドキエルの肉体は断末魔をあげることもなく完全に霧散し、消滅した。
「やっと、手に入れた」
ラウムのその右手には硝子製のリンゴのような球体が握られている。
これこそが天使を天使たらしめるもの、霊核。
それは一秒ごとに青から赤、紫と七色の光を淡く放ちながらトクン、トクンと微かな脈動を繰り返しており、その姿はまさに霊体の心臓と呼ぶにふさわしい。
「…………」
ラウムはザドキエルから摘出した霊核を両手で優しく包み無言でじっと見つめる。
その瞳には期待と不安が半々に混ざっており、見るものの心を映す鏡のような表情をしていた。
きっとある者にはその少女は無垢な祈りを捧げているように見えただろう。
きっとある者にはその悪魔は自らの罪を懺悔しているように見えただろう。
永遠のような一瞬の後、ラウムの目から迷いが消え覚悟の色を帯びる。そして、彼女は震える手で透明なリンゴを自らの口に押し当てて天を仰いだ。
すると天使の霊核はその見た目の印象を裏切るようにするりと形を変えてラウムの小さな口に流れ込むと、あっという間にその全てが彼女の喉を通り過ぎ、ごくん、と嚥下の音がした。
「うっ……」
その変化はラウムが霊核を飲み干してすぐに起こった。
ラウムが一瞬、自らの胸を押さえて苦悶の表情を浮かべたかと思うと、彼女の濡羽色の黒髪が毛先から徐々に白くその色を変えていく。けれども、その髪色の変化は毛先から四、五センチほどでピタリと止まった。
「……霊核もちょっと壊れてたのか、あるいは他人の霊核じゃ上手く馴染まないのか……どっちにしろ流石に一人分じゃ足りないのか」
ラウムは自らの毛先を引っ張り、おおよそ黒と白が八対二と言った塩梅のグラデーションカラーになった自らの髪色を確認すると残念そうに小さくぼやく。
「天使の力を取り込んだのか」
その一部始終を見届けた蓬莱がラウムに語り掛ける。
「そんなところかな。とはいっても、まだまだ私の目的には足りないけど」
「天使の力を奪う……いや、天使になる。それが君の目的かな?」
「さっすが人間社会で成功してるだけあって。理解が早いね、おじいちゃん」
ラウムはパチパチと両手を叩き、心にもない称賛の声をあげる。
「だが、理解の及ばんこともある。君は天使になって何がしたいのかね?」
蓬莱もまた人知を超えた力を求めた者。故に彼は知っている。
力とは所詮は手段に過ぎず、それを求めるものは必ずその力で成し遂げない真なる願いがあるということを。
「そんなの決まってるじゃない……」
ラウムは一瞬だけ遠方に見える深夜の姿を一瞥し、満面の笑みを浮かべた。
「……天使は人を幸せにするものでしょう」
そんな天使はおとぎ話の中だけであり、真の天使が人間にとってどういうものなのか誰よりも知っているはずのラウムはそれでも一切の淀みなくそう答える。
自分は人間のために天使になりたいのだと。
「それに……」
「それに? まだ、別の目的があると」
「好きな人の隣には綺麗な体で立ちたいって思うのが乙女心じゃない?」
そう言って少し恥ずかし気にはにかむラウムの姿は天使でも悪魔でもなく、誰かに恋するどこにでもいる一人の少女のようだった。
ラウムのそんな表情を見た蓬莱は毒気を抜かれたように目を細める。
「回答に感謝する。君の願いが叶うことを心から応援しよう。では、行こうか、花菱」
「かしこまりやした、っと。そんじゃ堕天使……半天使? のお嬢さん 悪魔祓いのお嬢にもよろしく言っといてくだせぇ」
「え? あ、ちょっ!」
蓬莱の目配せを受けた花菱はスーツの懐から一枚のカードを取り出し、自らの足元にひらりと落とす。すると、そのカードから目がくらむほどの閃光が生み出された。
そして、その痛いほどの光が消えると二人の姿はどこにもいなくなっていた。
「あぁあああ、逃げられたぁ! どうしよ、どうしよう。コレ、絶対皆に怒られるやつじゃん!」
おそらく、花菱もまた在原ほどではないが複数の魔道具を隠し持っていたのだろう。
一人残されたラウムは目を凝らし、消えた蓬莱と花菱を探すが気配どころか魔力の残滓すら感じられず、地団駄を踏むのだった。




