第十四話 天を墜とす黒き羽
『乱れそめにし 暁月夜』
その謳は囀るように紡がれる。
『むらくも断つは いなつるひ』
何者にもそれを遮ることは許されず、音は風に溶けていく。
深夜の意識は冷たい旋律に包まれ、それと同時に、今までとは比べ物にならないほどの喪失感が彼の胸中で暴れ出した。
『纏う羽衣 つきづきしくも』
それはまるで虚無に全てを食い尽くされる感覚。
気を抜けば自分が何者なのかすら見失ってしまいそうなほどに、思考が、感情が、希薄になっていく。
『まがい音になき――』
だが、彼の目に映る友の姿が、仲間の姿が、そしてなによりもラウムの歌声そのものが深夜の意識を繋ぎ止め、その精神の奥底にある核たる願いを守り続けた。
そして、深夜の中に生まれた虚無の全てが魔力へと変換されていき――
『――刻天を堕とせ!』
――いまここに破壊の悪魔の黒翼が現出する。
大剣の持ち手と刀身の境目から吹き出す膨大な魔力の奔流を見て、炭村の時とは形状が違うのだなと、深夜は漠然とした感想を抱く。
彼の見せた黒翼は両肩からバーナーの火のように収束されたエネルギーが噴き出していたが、ラウムの黒翼はどこか鳥類の翼を想起させた。
深夜は自らの筋肉と神経系を刺激する魔力の流れを感じながら、漆黒の翼が生えた大剣を握り直し、深く身体を落とす。
『今の私達が《黒翼》を維持できるのは四十五秒が限界。いける?』
「ああ、問題ない」
その言葉を合図に、深夜は大地が割れるほどの勢いでザドキエルに向けて駆けだし、大剣から放出され続けるエネルギーは黒い軌跡となってその後を追随する。
「堕天使に相応しい醜い翼だ。そんな虚仮脅しなど通用しない」
ザドキエルもまた、自らの白い翼を広げて真正面から深夜へと飛んで立ち向かう。
そして、漆黒の光を纏う大剣と青白い光を放つ槍が両者の間で激しくぶつかり合う。はずだった。
「なに……何故だ!」
しかし、先ほどまでのような鍔迫り合いはもはや起こらず、ザドキエルの振るう槍は黒鉄の大剣に触れたその瞬間から光の粒子となって崩壊した。
状況がまるで呑み込めていないザドキエルに向け、深夜は渾身の一振りを放つ。
「がっ!」
「っち、浅いか……」
深夜は自らが斬り飛ばした天使の右手が空中を舞うのを一瞥し、舌打ちを漏らす。
深夜の攻撃に対してザドキエルが反射的に上体をそらしたことで、その一閃は本体には届かず、右手首を両断するにとどまっていたのだ。
「私の身体を……よくも!」
ザドキエルは忌々しそうな表情を浮かべながらも自らの失われた右腕に魔力を込めなおす。
天使の肉体は魔力の塊。
故にこの程度の負傷は即座に修復可能だ。
だが、どれだけ魔力を注ごうと一向に失われた右手は戻らない。
それどころか、断面から黒い亀裂がザドキエルの胴体に向けて侵食をはじめていた。
「何故……なんだこれは!」
ザドキエルは咄嗟に再生成した光の槍で自らの右腕を肩口から切り落とす。
そうすることで、ようやくその侵食は止まり、逆に切り落とされた右腕は黒い亀裂に完全に包まれると、ガラス工芸が砕け散るように光の破片へと形を変え霧散していた。
「これはまさか……ラウムの破壊の異能!」
黒翼とは「異能の常時発動」だ
そして、ラウムの異能は触れる全てを無条件で破壊する力。
つまり深夜とラウムは今、膨大な魔力を持ってして、その異能を無制限に開放している。
ザドキエルは眼前で起こった事象をそう理解した。
「ありえん……我々天使に匹敵する魔力量など……」
『これが全てを賭けた人間の力ってやつよ』
「私は天使だ! 主より生み出されし者だ! それが人間如きに遅れを取るなどあってはならん!」
ザドキエルは深夜から大きく距離を取り、持ち得る魔力、その全てをもってして光の矢を深夜の全天に展開する。
その数は百を優に超え、もはや光のドームとすら形容できるものだ。
「その剣一本で、防げるものなら防いでみるがいい!」
「ラウム、合わせろ」
『おっけ、オッケー!』
深夜の合図に合わせ、大剣から生える翼は一度帯状にほどけ大剣に纏うように再構築されていく。
『「全部……ぶっ壊れろぉ!」』
深夜がその場でくるりと一回転し、大剣を円形に振るう。
一閃ーー
その一振りによって、大剣に纏わりつく黒翼を構成していた魔力が遠心力に乗り、周囲一帯に放出された。
大剣から放たれた漆黒のエネルギーの波。
それに微かでも触れた瞬間から光の矢は次々と粒子へと崩壊していく。
最後の一本の矢まで根こそぎ消し去られ、黒いエネルギーの余波とも言える黒煙が晴れた時、深夜を中心に半径五メートルの『何も無い』更地が形成されていた。
「あ……ぁ……!」
ザドキエルは確信する。
あの力は危険すぎる。
刀身だけでなく、あの剣から放出される魔力の奔流、その全てが破壊の異能の影響下にある。
それも破壊の対象には有形、無形すら関係ない。
まさに、絶対的な終わりの化身。
天使は神に与えられた肉体に意識が芽生えてからの千年にも及ぶ時の中で初めて、心の底から恐怖した。
「あぁあああ!」
ザドキエルはその受け入れがたい現実を振り払うように叫び、白翼を大きく震わせて自らの体を天空へと持ち上げた。
あれほどの力が無条件で生み出せるはずがない。
今逃げ延びれば、あの人間は間違いなくその力に飲まれて自滅する。
故にこれは敗走ではない。
そんな理屈を並べて、ザドキエルは深夜の手が届かぬ空高くへと飛び去ろうとする。
『深夜、ザドキエルが逃げる!』
「……いや、大丈夫……」
ラウムは焦って深夜に追撃を促す。
だが、一方の深夜は少しだけ驚いた表情を浮かべると器用に左眼だけを細めた。
『大丈夫って……』
「視えたから、大丈夫」
その直後、ザドキエルが先ほどまでいた地面が突如として膨れ上がり、瓦礫を周囲に吹き飛ばしながら黒い汚泥の塊が間欠泉のように吹き上がってきた。
『あれは……ロノヴェ!』
「ご主人様の命を奪ったあなたを逃がすわけがないではありませんか!」
黒い汚泥は四つ首の蛇に姿を変え、その牙を天使に伸ばし、食らいつこうと迫る。
「許しません。絶対に、許しはしない!」
「死にぞこないの悪魔が! 邪魔をするな!」
だが、大蛇の牙は天使にはわずかに届かず。
逆に放たれた光の矢に穿たれ、再び黒い汚泥となって中に飛散してしまった。
「くそう、くそう……届かな……」
「いや上々だ、ロノヴェ。お前のおかげで届いた」
散りゆくロノヴェでも、地に立つラウムでも深夜でもないその声は、ザドキエルの背後、何もないはずの虚空から響いていた。
「なっ!?」
そして、ザドキエルが驚愕する間すら与えず、その白翼の右側が見えざる何者かに切り飛ばされる。
「どうした天使。右腕の崩壊につられて肉体の構成が綻んでいたぞ。それほどまでにラウムが恐ろしいか?」
その奇襲の実行犯たるグラシャラボラスは敢えて異能による隠密を解除して、勝ち誇った笑みを浮かべて天使を見下ろす。
「貴様、いつからそこに!」
「今さっき、ロノヴェの蛇に乗って」
片翼を失い、ザドキエルの上昇速度は急激に低下した。
しかしそれでも、既にその高度は深夜の一足飛びの範囲外にまで上り詰めていた。
これでは深夜の攻撃は届かない。
間に合わない。
だが、その場でそう確信したのはザドキエルただ一人だった。
『深夜、タイムリミットまであと十五秒!』
「いくよ、ラウム。アイツの終わりはもう視えた」
深夜は大剣を両手に構えて天を仰ぎ、片翼となった天使を睨む。
天に舞うザドキエル、地に立つ深夜。
その両者の間にある最後の隔てり、それを埋める声が深夜の元に届いた。
「セエレ、頼む!」
「かしこまりました!」
深夜の背後、はるか後方で和道が叫ぶ。
彼は雪代の見立て通りに負傷しつつも生きていた。
それどころか、彼はその負傷によってできた傷からあふれる血液をセエレに飲ませ、彼女の魔力を回復させていたのだ。
その命を受け、従者足る悪魔は顔一面にこびり付いた主の血を腕で拭い去ると、自らの足元にある転がる無数の瓦礫に手を置く。
「神崎様、参ります!」
その言葉を合図に、セエレは瓦礫を次々と瞬間移動させていく。
その転送先は、深夜とザドキエルの間にある空中。
転送された瓦礫達はまるで、天に上るための階段のように、深夜が進むべき道を指し示した。
「神崎ぃ! いっけぇえええ!」
「うぉおおおお!!」
渾身の叫びと共に深夜は跳ぶ。
自由落下する瓦礫を次々に蹴って、高く、高く、天へと登り、そしてその身はついにザドキエルを超えて、彼の頭上を取った。
「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな! 人間と悪魔風情が! 私を誰だと心得る!」
「知らないよ、そんなの……」
「私は! 私は、神に生み出された――」
「お前は俺達の敵。ただ、それだけだ」
黒翼を纏うその一刀は煩く喚くその怨声ごと、片翼の天使を地へと叩き墜とした。




