第十三話 俺の全部を――
その襲撃は突然だった。
「主の命により、貴様を削除する」
ただ、一つ分かることはその天使の目的が彼を殺すことだということは理解できた。
だからラウムは彼の手を取り山道から外れ、木々の生い茂る雑木林を駆けた。
「ちょっと待て、いきなり走るなよ、ラウム!」
「なに悠長なこと言ってんの! 天使の相手なんかしてられない、逃げるわよ『 』ッ!」
ラウムの声にノイズがかかり名前が掻き消される。ラウムに手を引かれる少年の顔も黒く塗りつぶされてよく見えない。
まるでその少年のデータだけが強引に掻き消されたかのような奇妙な映像だった。
「逃がしはしない」
ドキエルはそんな彼らの足掻きは無意味とばかりに、上空から彼らのいる地面に向けて光の槍を投げ放つ。
「ラウム、危ない!」
「え? きゃっ!」
手を引かれて走っていた少年が逆にラウムの体ごとその手を引き寄せる。
その直後、彼らの眼前を光の槍が突き刺さり、そして地面を砕いた。
「うわっ!」
「きゃぁあ!」
地盤が崩落し、彼らは突然の無重力状態に放り出される。
「なによコレ!」
「そういや、この真下って高速道路のトンネルがっ!」
そうして二人は土砂とコンクリート片と共にオレンジ色の光に満ちたトンネルへと落ちていった。
◇
「いってて……」
『痛いってことは生きてはいるみたいね』
「ああ、ラウムのおかげだな。ありがとう」
少年は自らの手に握られた大剣に向かって礼を述べる。
落下中に武装化したことで魔力による身体強化によって落下のダメージに耐えられたらしい。
少年は周囲の状況を確認しようと体を起こし、その光景に愕然とする。
「なんだよ……これ……」
彼の視界に映ったのは巨大なコンクリートの塊。
壁や落下した瓦礫に激突し、横転し、玉突き事故を起こした複数の乗用車達。
漏れたガソリンに引火し、ごうごうと上がる火の手。
そして、それらに巻き込まれた幾多の人達の苦痛の声、恐怖の声、助けを求める悲痛な声。
トンネル内部にはそんな地獄のような惨状が広がっていた。
『ザドキエルが起こした崩落に巻き込まれたみたいね』
「ラウム! とりあえずあの車の上に乗ってる瓦礫を壊すぞ! まだ中に人が……」
「これで逃げたつもりか?」
少年はすぐさま崩落したコンクリートの塊に駆け寄ろうとする。
だが、そんな彼をつけ狙う天使は彼らの落ちてきた天井の大穴からゆっくりと降り立ち、再び少年へと狙いを定めた。
『っち、しつこい。さっさと逃げるわよ!』
「俺達のせいで巻き込まれたんだぞ。こんな状況で放っておけるか!」
『ああ、もう! アンタってそういうやつだったわね』
顔の見えない少年はラウムの忠告を無視して瓦礫に大剣を振り下ろし、瓦礫に魔力を流し込んでそれを砕く。
「うぅ……」
その直後、少年は自らの頭を押さえてふらつく。それはザドキエルの攻撃や落下のダメージによるものではないらしかった。
『ほら見なさい。アンタにはもう代償になるような『人との繋がり』なんてほとんど残ってないだから、大人しく……』
「まだラウムは俺のこと憶えてるんだろ。なら、まだ大丈夫だ」
『……ったく』
少年の強がりにラウムはそれ以上何も言えなくなる。
そんなやり取りの間にも、少年は瓦礫の下敷きになっていた車の中にいた人々を外に引っ張り出し、炎から離れた壁沿いに引き摺っていく。
「逃げるのは諦めたか。良い心掛けだ」
だが、ザドキエルはそんな彼らに向けて光の槍を投擲する構えに入る。
「なっ、おい! お前、天使だろ! この人達まで巻き添えにする気かよ」
「どういう意味だ? 命乞いのつもりなら無意味だぞ」
「そうじゃない。無関係な人を巻き込むなって言ってんだよ!」
少年は天使に向かって吠える。だが、ザドキエルは心底どうでもよいとばかりに言い放った。
「主の命のまえに、人間が数十、数百死んだからなんだというのだ」
ザドキエルの動きは止まらない。
翼をはためかせ、その槍は少年と苦しむ人々に向けて放たれた。
「ふざけんな!」
そして、少年は真正面から大剣を振るいその槍を受け止める。
「うぉおおおお!」
それは咆哮か絶叫か。
槍と大剣のぶつかる一点から黒と白の光が拡散し、その世界を埋め尽くした。
『「 」!』
ラウムは光の中で少年を呼びかける。だが、その声は音にはならない。
既に家族との繋がりすら失った彼に与えられた名など、初めからこの世界には存在しないのだから。
『起きろ。起きなさい!』
ラウムは大剣の状態で少年に呼び掛け続ける。
『さっさと起きないとザドキエルが!』
「…………ぁ」
『まだ生きてるわね。最期まで付き合ってやるからあのクソ天使に一泡吹かせて……』
「ラウム……俺さ、お前に……助けられてばっかりだったな……」
『っ!』
少年の言葉に、そのあまりに弱弱しい声にラウムは息をのむ。
「俺達……いつも……ムチャクチャやってた……」
『アンタが毎度毎度見ず知らずの人助けなんかしてるからでしょう』
「しょうがないだろ……ほっとけなかったんだから……」
『その度に私の異能を使って。忘れて、忘れられて。バカよねアンタ』
「そうだな……もうお前に会う前のことは何も思い出せないし、あとどれくらい残ってるのか、俺にもさっぱりわからないんだけどさ……」
少年は恥ずかしそうに笑う。
「まだ、俺が持ってる誰かとの繋がり。力の代償……最後のひと欠片まで全部、お前にやる」
『全部ってなに言ってんのよ……そんなことしたら!』
「お前の魔力にすればお前は逃げられるだろ? あの天使は人間には興味がない。だったら逆に俺達がここからいなくなれば、アイツも無駄に暴れたりはしないはずだ」
『アンタってやつは最期まで……』
「これが俺だからさ……」
少年はそう言ってラウムを握る手に力を込める。
いつもとは違う、奪われるのではなく注ぎ込むように自らを構成する何かをラウムへと譲り渡す。
「最期くらい、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
その言葉を最後に、天板を失ったトンネル内部へと土砂が流れ込み、少年の姿を埋め隠した。
「死んだか……」
その一部始終を見届けたザドキエルは空中でその身を翻そうとし、その違和感に気づいた。
「……なんだ、この魔力は?」
先ほどまでか今にも消えてしまいそうなほどに細かったラウムの魔力が、突如として数十倍にも膨れ上がったのを感知する。
どんなカラクリを使ったのか、その真相を見極めようとザドキエルは自らの翼をはためかせて土砂が生んだ土煙を吹き飛ばす。
煙が晴れた先に大剣を握る少年の姿はなく、黒い翼を頭部に生やし異形に近づいたラウムの姿だけがそこにあった。
「不愉快だな。悪魔に堕ちた貴様が今更になって我々の真似事か?」
「ホント、今更よね……」
ラウムは自嘲の笑みを浮かべたかと思うと、翼を大きく広げて宙への浮かびザドキエルに背を見せて土砂と瓦礫の山の奥へと飛翔する。
「逃がすと思うか!」
ザドキエルもまた高速で飛翔しそれを追い、天使と悪魔の追走劇がトンネル内部にて始まった。
「飛ぶのなんて何百年ぶりかしらね……」
ラウムは自らの翼の感覚を確かめながら、視界を遮る黒煙を突っ切ってトンネルの奥を目指す。
「逃がさんぞ」
だが、ザドキエルが彼女の行く手を阻もうと光の槍を投擲する。
「きゃっ!」
その一投はラウムの鼻先を掠めてトンネルの壁面に突き刺さり、轟音を立ててコンクリ―の壁面が瓦礫へと変わる。
槍の衝撃で飛散したコンクリート片がラウムに降り注ぎ、打ち据えられたラウムは空中でよろめく。
それでも彼女は飛ぶのをやめない。目指すべき場所はここではない。
「ぐぅ……はぁはぁ、まだ……もう少し、奥に……!」
瓦礫の破片が直撃し、存在しないはずの内蔵が痛む感覚がラウムを襲う。
どうやら肉体を構成する魔力の密度が高まり過ぎた結果、ラウムの疑似肉体が人間のそれに近づいてしまったらしい。
ザドキエルはその一瞬の隙を逃さず、二本目の槍を生成しラウムへと投げ放った。
「きゃああ!」
光の槍の第二投はラウムの右翼を抉り、甲高い悲鳴がトンネル内に響いた。
そして、天使は空中で片翼を失ったラウムの喉を掴み、その体を壁へと埋め込むように叩きつける。
「かつては天使だったのかもしれんが、今は所詮矮小な悪魔。人間の力無しではこの世界に存在も保てない貴様ごときが私に敵うと思ったのか?」
「がっ……ぐ……」
ザドキエルは頸椎をへし折らんばかりの勢いでラウムの首を握りしめる。
ラウムも自らの首を絞める天使の腕に全力で両手の爪をつき立てるが、その程度の抵抗では天使は表情一つ変えない。
そして天使は光の槍を三度生成し、その穂先をラウムの胸へと突きつけた。
「終わりだ」
「……ここなら……」
「どうした? いまさら命乞いか?」
「誰も巻き込まない……よね……」
気づけば二人はトンネルの最奥、奇跡的に人も車も何もない空白地帯にいる。
ラウムは逃げていたのではなく、ザドキエルをここまでおびき寄せるために必死に飛んできていたのだった。
「何を言っている……」
だが、「人間を巻き込まない」という発想がそもそも存在しないザドキエルには、その言葉の意味は最後の最後まで理解できなかった。
「つか……まえた」
ラウムはザドキエルの腕を掴む両手により一層の力を込める、決してこの手を離さないように。
今のラウムでも天使の肉体を破壊するには魔力が足りない。だから彼女は靴を脱ぎ捨てて素足になった両足をトンネルの壁面に押し付ける。
ラウムの異能は触れたものを破壊する力。その触れる手段はなにも手である必要はない。
「ぶっ壊れろ!」
ラウムは自分の足を起点にトンネルの外壁に魔力を流し込む。
そして、黒い魔力の亀裂が二人のいるトンネル内の一画を埋め尽くした。
「貴様っ!」
天使が自らの置かれた状況を理解した時には既に天井の崩壊は始まっており、二人の頭上からコンクリートの塊と大量の土砂が落ちてくる。
「は、離せっ!」
「離すわけがないでしょ……私と一緒に堕ちろ!」
「ラウム、貴様ぁああ!」
ザドキエルは数十トンのコンクリートの塊と土砂という圧倒的な質量の前に押し潰され、絶叫と共にラウムの視界から消えた。
「はぁはぁ……」
一人、あとに残されたラウムは墜落するようにアスファルトの車道に落ち、煤とガソリンで黒く汚れた自らの手をじっと見つめる。
「あーあ。生き残っちゃった」
ザドキエルだけが崩壊に巻き込まれたのは偶然だった。
自分も一緒に死ぬことを覚悟していた。
「これから、どうしよう」
そもそも契約者を失った以上、ラウムが現世にとどまることができる期間は限られている。
「もういいか……全部、面倒くさい……」
ラウムは何をするでもなく、その場に座り込みただ終わりの時を待つことにした。
どれほどの時間をそうしていたのだろうか。
何もかもがどうでもよくなっていた彼女は、普段ならすぐに気づいたはずのその気配を見逃し、その声が自分に向けられているのだと気づいて初めて、その存在を認識した。
「…………バケモノ」
地獄の奥底のように暗く、熱い世界でラウムは神崎深夜と出会った。
◇
「これがあの日のトンネル事故の真相ってことか」
ラウムの記憶を見届けた深夜は大きく息を吐き、背もたれに身を預ける。
「あーあーもう恥ずかしい! こっから先は深夜も知ってるでしょ! はい、もう上映終了! お客様は足元にお気をつけてお帰りください!」
そして、いつの間にか深夜の隣の座席に座っていたラウムは、スクリーンを隠すように両手をバタバタと振って暴れていた。
「はあ、全く。こういう事情だったなら変に誤魔化さずに最初から言いなよ」
「だって気まずかったんだもん。私達があのトンネル事故の原因、っていうのもあながち間違いじゃなかったし」
深夜の右隣の席に座りなおしたラウムは目をそらし、ぼそりと呟くように答える。
「それに、天使が暴れてそれを止めるために戦ってました。って最初に言っても深夜、信じなかったでしょ?」
「……確かに実物見てないと信じてないかもね」
「でっしょー」
何も知らない状態で天使と悪魔、どちらがあの事故の原因かと聞かれればたいていの人間は悪魔の方を疑うだろう。
だが、実際のところ天使は人間を守るものなどではなく、神の命令だけを守る存在でしかなかった。
「ところでさ、ここって俺の心の中……みたいなものだよね。なんでラウムがいるの?」
「そりゃもちろん、深夜と私の想いが通じ合った証拠だよ。きゃるん☆」
「言い方が気持ち悪い……つまり、二人とも同じことを考えてたってことでしょ?」
悪魔と契約者の力の結びつきは精神の同調に大きく左右される。そういう意味ではラウムの言う気持ちが通じ合うというのもあながち間違った表現ではなかった。
そして、二人があの瞬間に思い描いたこと、それは。
「「ザドキエルを倒したい」」
二つの声は重なり、一つの願望が言葉となる。
「……ラウム」
「ん? なあに?」
「協会の地下で炭村がやったアレ。俺達もできるよね?」
スクリーンに映る映像はいつの間にかラウムの記憶から、数日前の協会での一場面へと切り替わっていた。
「できるよ…………けど、それをすればどうなるのかもわかってるよね?」
「ちょうど今さっき、その末路を見たところだよ」
「家族との繋がりがなくなれば自分の名前もわからなくなる。過去の全てを思い出せなくなる。そして、最後にはこの世から消えてなくなる……その覚悟が深夜にはあるの?」
そして、ラウムの姿もまたいつもの少女の姿ではなく、出会った時と同じ頭部から翼を生やした異形の姿へと変貌していた。
「そうは言うけど、なにもしなかったらそのままザドキエルに殺されるだけだ。俺だけじゃない、和道、セエレ、雪代。みんな死ぬ。だったらできることは何でもやらないと」
自分だけが死ぬならまだ受け入れられる。だが、仲間の死を、友の死を神崎深夜は決して受け入れられない。
「それにさ」
「それに?」
「お前に天使の力を取り戻させる……それが俺達の契約、だろ?」
深夜はあの日と同じように異形のラウムの目をまっすぐと見つめて、手を伸ばす。
「アイツを倒すために、俺の全部をお前にやるよ」
「そうだったね。じゃあ、私の力の全部、深夜に使わせてあげる」
ラウムは深夜の手に自らの手を重ね、目を閉じ、歌い始める。
◇
その異変に最初に気づいたのは雪代紗々だった。
「神崎……さん……」
ただの人間である雪代に魔力を感知する力はない。
そんな彼女がソレに気づけたのは他でもない、彼女はソレが何かを知っていたから。
「この魔力……あのトンネルの日と同等、いやそれ以上の!」
次にザドキエルがラウムの魔力の高まりに気づき、視線をその異常な魔力の出どころへと向ける。
二人のその視線の先で神崎深夜は立っていた。
彼が握る剣の棟区からは漆黒の奔流が噴き出す。
その黒い力の流れは絶えず、広がり、紫電を放ち、深夜の左手を伝ってその背へと流れていく。
「あれは……まさか……」
それはまるでカラスの片翼のようだった。
「ラウムの……《黒翼》……」




