第十一話 深淵に臨む
◇
『望みを言え。誰を殺す?』
彼は今まで常にそういう存在として在った。
憎きものを殺す。愛しいものを殺す。
富を奪うために殺す。安寧を守るために殺す。
ただ快楽のためだけに殺す。ただ生にしがみつくために殺す。
『殺すこと』とは手段だ。
それが目的となることは決してなく、必ずその先にそのものの欲望が存在する。
「生きるのに飽きた。だから俺を殺してくれ」
だが、その男は殺意の先にあるべき欲望を持っていなかった。
『断る。依り代であるお前を殺せば俺も地獄に逆戻りだ。自殺なら自分でやれ』
「へぇ、地獄っていうのは悪魔にとっても居心地が悪いのか。そりゃ怖い」
心にもないことを言う。と吐き捨てようとするがその男は続けて妙なことを口走った。
「せっかく人間の世界に来たんだ。お前はなにかやりたいことでもあるのか?」
『…………』
その沈黙を男がどのように受け取ったのかはわからない。だが、その男は虚無に染まっていた目をわずかに輝かせながらこう言った。
「なら、この身体をお前に貸してやる。俺の代わりにお前がこの世界でどう生きるのかを見せてくれ。それが俺達の契約だ」
◇
グラシャラボラスは殺しに感慨を覚えたことはなかった。
ただ少しばかり彼の異能が殺すという行為に適していただけであり、そして、それがおおよそ最も簡単に契約者の願いを叶える手段だったからに過ぎない。
何の策も工夫も要らない。ただ姿を消し、音を消し、匂いを消し、気配を消し、その足で歩み寄り、一撃で殺すだけ。
その繰り返しのはずだった。
――まだ動くのか。この人間は――
「はぁはぁはぁ……」
額から流れる血を拭うことすらせず、神崎深夜はラウムが変身した大剣を構えて立ち上がる。
何度攻撃を直撃させたか数えてすらいない。
だが、この男はどれだけ床を舐めようと立ち上がり見えないはずのグラシャラボラスへと敵意の視線を向けて来る。
いくら魔力による身体強化があるとはいえ不死身になるわけではない。無数の切創、打撲、出血、それ加えて先日の協会で受けた傷もあるはず。
だというのに――。
「また……打点を外された」
拳に残る微かな違和感に思わず声が漏れる。
「見えているというには中途半端。だが、偶然と呼べる回数ではない」
この声もグラシャラボラス自身の異能によって掻き消され、深夜には届いてない。そのはずだ。だが僅かずつではあるがこの男はグラシャラボラスににじり寄りはじめている。
「貴様には何が見えている?」
それを確かめるためにグラシャラボラスは敢えて真正面から深夜に向かって駆けた。
深夜の俯きがちの視線は接近するその姿を捕らえている様子はない。
「なにっ?」
そんな油断を突き崩すかの如く、深夜とグラシャラボラスの視線がぶつかる。
その表情に浮かんでいるのは“そこにいる”という確信。
「そこか!」
そして遂に深夜がカウンターとして放った一太刀がグラシャラボラスを掠めた。
「ぐっ!」
接触ギリギリのバックステップで直撃は避けたがそれでも衝撃は逃しきれず、グラシャラボラスの体が背後に飛ばされ、ズササッと足裏が地面を擦る音が本人にのみ聞こえる。
「そうか。貴様が見ていたのは俺ではなく……この部屋全てか」
深夜の視線が俯いていたのは疲労からではなく、戦いの最中に破壊され床に散った家具や外壁の欠片を見つめていたのだとグラシャラボラスは理解する。
たとえグラシャラボラス自身が透明無音であろうとそれらを蹴り飛ばしてしまえば小さな残骸達は床を転がり、その存在を匂わせる。
この男は辺りに散らばった僅か数センチの欠片の動きだけを頼りにグラシャラボラスの居場所を探っていたのだ。
「正気とは思えんな」
それはもはや集中力や視野が広いなどという言葉で表すべき行為ではない。
狂気に片足を突っ込み、人間の限界値を強引に超えようとする極限状態。
今の深夜はまさにそれだった。
「あーもう。面倒くさいなぁ、お前」
すると突然深夜が独り言のように言葉を発し始めた。
「やっとタイミングが合ったと思ったのにさ、さっきといい警戒心強すぎ」
そう様子は明らかに今までの深夜のそれと違う。
グラシャラボラスへの挑発や自身を鼓舞しているというわけではなく、まるで思考がなんの制限設けずに口から言語化されているよう。
「過集中の結果、極度の興奮状態と言ったところか」
今の深夜は思考と行動の間にあるラグが限りなくゼロに近い。
脳のリソースの全てが戦うことだけに費やされており、理性は痛みを打ち消すためのアドレナリンに焼かれてしまっているのだろう。
「悪魔のくせに随分と生き汚いんだな。グラシャラボラス」
「……生き汚い?」
深夜のその言葉にグラシャラボラスの感情を乱そうなどという意図は全くなかった。それはただ、純粋な苛立ちからの悪態であり、発した深夜自身も数秒と立たずに思考から消え去る程度の言葉。
――言われてみれば、なぜ俺はこんなにも必死になっているんだろうな――
グラシャラボラスは蓬莱やロノヴェと違い永遠の命などには興味がない。
彼らと手を組んだのも単なる暇つぶし。生にしがみつく彼らの悪あがきの果てを見てやろうと思ったからに過ぎない。
――殺人の悪魔としてのプライドか? それも少し違う気がする――
蓬莱達の計画が失敗したところでどうでもいいはずだ。
なのになぜ、自分はこの場を離れずに神崎深夜と戦い続けているのだろうか。
グラシャラボラスにはその疑問に対する答えが言語化できなかった。
「ああ、もういいや。細々した戦いは面倒くさい」
深夜の目が煌々と怪しい光りを宿す。
「……あ。そうか、最初から、そうすればよかったのか。なんで気付かなかったんだろ……」
彼は大剣を逆手に持ち替え、自らの背後の内壁に深々とその剣先を突き立てた。
「ラウム、この部屋の壁と天井、粉々になるまでぶっ壊せ」
瞬間、室内の壁に無数の細かい亀裂が走り、紫電を迸らせて破裂した。
粉々というのは比喩でも何でもなく、足場を残し両者を囲んでいた屋敷の一室が粉塵へと形を変えて周囲を埋め尽くす。
「目晦ましで条件を同じにしたつもりか? だが、このていどの煙幕では薄いな」
大量の粉塵は確かに深夜とグラシャラボラスの姿を覆い隠した。だが、同時に壁と天井という囲い自体が消失してしまってはその粉塵がその場に留まり続けることはできない。
吹き込む風がすぐに視界を白く染める霧に対流を与え、流れを遮る障害物たる深夜の輪郭を浮き彫りにする。
「……やっと……見つけた!」
そんな白煙の対流を突っ切り、深夜が大剣を振りかぶった体勢でグラシャラボラスへと一直線に突っ込む。
「何故急に……っは!」
どうして深夜が突然、自分の位置がはっきりとわかったのか。その疑問がグラシャラボラスの脳裏を支配する中、一つの言葉がふっと彼の思考に湧き上がる。
『本来有るべきものが無い、それも立派なヒントになるの』
そうだ。今周囲は粉塵の白煙に満ちている。満ちていなければならない。しかし、それらは今グラシャラボラスの体を避けるように流れていく。
きっとそれは深夜にはくっきりと人型の透明な空白として見えているのではないか。
「うぉおおおお!」
深夜の大振りの一撃がグラシャラボラスを正面から捕らえる。だが、それでもなおグラシャラボラスは左腕を犠牲にしてでも急所への直撃を避けた。
「がぁ! はぁはぁ……」
「いい加減に沈めよ、しつこいなぁ」
「それはお互い様だろう」
左腕は骨折で使い物にならない。だが、その結果意識はまだ保たれている。
まだ戦える。その考えが自然と浮かび、グラシャラボラスの疑問が再燃する。
「なぜだ、なぜ俺は――」
『口出しは野暮かもしれないけれど、今のお前は鏡に映らないから教えておくよ』
その時、契約からずっと沈黙を貫いてきた肉体の持ち主、彼の契約者の意識が内なる声として語り掛けてきた。
『グラシャラボラス。お前、ずっと笑ってるって自覚してる?』
その言葉を受けて彼は手を口元にあてる。
確かに頬の肉が浮かび、口元が歪に歪んでいた。
「そうか……ようやく理解した。思えば俺は殺しの経験はあれど、戦いとやらを知らなかったらしい」
気づかれることなく近づき、殺してその場を去る。そんな成功が決まった作業に感慨など湧くはずがない。
思いつく限りの策と工夫を凝らし、それでもなお胸中を支配する不安と焦燥。
一秒先すらどうなるのかわからない未来への恐怖。
グラシャラボラスはその意識が生まれた瞬間から数千年の時を経て、初めてその感情を味わっていた。
「この恐怖とそれを超えた先にある快楽の予感。これが命賭けの熱というやつか!」
グラシャラボラスは外壁の崩壊によって偶然にも足元に転がっていた折れた細剣の持ち手側を手に取る。
片腕は折れているが元よりこの剣は片手用。戦いに支障はない。そして、粉塵によって透明化が意味をなさなくなったのならば素手よりも大剣と撃ち合える剣の方が良い。
粉塵が晴れるまでこの場を離れる。あるいは粉塵の外側へと逃げるという手もある。だが、グラシャラボラスはその選択肢は取らなかった。
――それでは興が冷める――
グラシャラボラスは細剣に自らの魔力を注ぎ込みその強度を補強する。これでラウムの異能の干渉にもある程度は抵抗できるだろう。
そして、最後の一撃を放つ全ての準備を終えたグラシャラボラスは深夜と向き合い、今更になって気づく。
彼もまた、自分と同じ顔をしていることに。
「そうか、貴様も……!」
初めての恐怖、興奮、渇望その全てを共有し両者は向き合い、同時に斬りかかる。
両者の刃が交差するその直前。光の雨が降った。
◇
突如として天より降りた眩い光の爆発。それを直視してしまった深夜は明滅する目を押さえて、衝撃で吹き飛ばされた体を起こす。
『深夜、無事? 生きてるよね?』
「ああ。視えてたからちゃんと防いだ……アイツらの四人目の仲間ってわけだ」
横やりを入れられたことで先ほどまで極度の興奮状態だった深夜も落ち着きを取り戻している。
『もしかしたら違うかも……』
「え?」
少しずつ回復していく視界。その先にあった光景がラウムの言葉の意味を深夜に告げていた。
「どういう……ことだよ……」
そこには何もなかった。
深夜も戦いの中で屋敷の一部を破壊したが、これはそんなレベルの規模ではない。
荘厳だった二階建ての西洋屋敷は完全に更地の上に転がる瓦礫と化していた。彼らの仲間がやったとすればいくら何でもやり過ぎだ。
「な……グラシャラボラス!」
それどころか深夜の眼前には血の海に横たわるスーツの青年の姿があった。その失血量は一目でもう助からないとわかるほどに酷い。
「こいつらの仲間でもないなら、いったい誰が……」
「一匹、取りこぼしたか」
その声は深夜の頭上、天より聞こえた。
『ウソでしょ……』
「……ラウム? どうした?」
光の爆発が生んだ土煙が風に流され、晴れていく先にその姿はあった。
厚い灰色の雲の下、純白の光を放つ二枚羽根を背に持った中性的な人影。それはまさに神話より語り継がれる姿そのもの。
『あんたは……私があの日……あのトンネルで殺したはずでしょ……なのにどうして生きてるのよ……』
太古の昔より、人はその姿を天使と呼んだ。
『ザドキエル!』




