第九話 悪魔が望むもの
「誰かに最期を看取って欲しかったんだ」
それがロノヴェを召喚した少年が語った願いだった。
「そんな願いをされたのは悪魔になって初めてですわ」
「ははっ、なんかゴメンね」
清潔に保たれた病室のベッドに横たわる彼は、あまり申し訳なさを感じてなさそうな声で謝罪する。
別に誤って欲しかったわけではないロノヴェもそれ以上は掘り下げることはしなかった。ただ、そんな願いのために自らの『皮膚』を代償にしてまで悪魔を召喚するのは少し割に合わないのでは、と全身を包帯に包まれた彼を見て思っただけだ。
「お体の調子はどうですか?」
「んー、いつも通りかな」
複数の内臓疾患を抱えて二十まで生きられないと言われ、更に全身の三割近い皮膚を突然失った人間の『いつも通り』とはいったい何なんだと、もしもロノヴェが看護師なら思ったことだろう。
しかし、ロノヴェと少年の契約は『憑依型』であり、契約者である少年の感覚は常にその肉体の内にあるロノヴェの本体にも共有されていた。
なので彼の言葉通り確かに特別な痛みも、急激な衰えの実感もないいつも通りの体調だということもしっかりと伝わっていた。
では、最初から聞く意味はないのではないかとも思うが、このやり取り自体に意味を見出していたロノヴェは毎日、同じ質問を自らの主に投げかけていた。
そして、異能によって少年の体外に生成した人型の分身体を操り、昨日と同じように少年の身の回りの世話をはじめる。
「前から言おうと思っていたけど、別に四六時中僕のそばにいなくてもいいんだけどな。病院の外に遊びに行ったりとかしたらどうだい?」
「お気になさらないでくださいませ。これが私の趣味なのですから」
「……その服装も?」
「はい。もちろん」
実を言うとロノヴェは他者に奉仕すること自体はそれほど好きではない。
けれども、自主的に奉仕を続けていると、そのうち相手が自然と自分に何かを求めるようになる。
求められること。頼られること。必要だと思われること。
ロノヴェが本当に好きなのはそっちだった。奉仕はいわばそれを引き出すための下ごしらえのようなものに過ぎない。
そういう意味では一人では何もできないほどに弱り切ったこの少年はロノヴェにとって理想の契約者と言えた。
いつまでも一緒にいたいと思えるほどに。
故に、少年の病状が悪化し昏睡状態に陥った時、蓬莱永秀の計画に加担するという選択を彼女は迷いなく選ぶことができた。
生命の実を使い、自らの契約者を生き永らえさせるために。
◇
「天使と……生命の実……」
延命装置に繋がれた自らの契約者に寄り添うロノヴェ、彼女が語った自らの目的を聞かされた和道は呆然と立ち尽くす。
「禁断の果実……そんな私達悪魔にすらおとぎ話のような存在が実在するわけが……」
和道の隣に立つセエレもまた、困惑のこもった言葉を眼前の敵に投げつける。
だが、ロノヴェはあっさりとセエレの言葉を受け止めた。
「ええ、そうですわね。実在するという根拠はどこにもありません」
「なら……」
「ですが私には、もうそんなおとぎ話に縋る以外にこの人を救う方法が思いつかないのですわ」
そしてロノヴェは物言わず眠る主人の頬を優しく撫でる。
「本当に他に方法はなかったのかよ! 秋桝のおっちゃんや炭村さんを悪魔憑きにしない……人を傷つけない方法が!」
和道の慟哭が室内に響く、しかしそれは虚しく壁に吸い込まれた。
彼の拳は爪が食い込むほど強く握られ小刻みに震えている。そこにこめられた感情はきっと一つではないのだろう。
ぶつける先がわからなくなった怒り。正しさの在りかへの疑念。どちらに転んでも人の死を肯定してしまう恐怖。あるいはもっと別のなにか。
「それは守りたい幸福を持つものの考えですわね。ですが、私はあなた達が持つ幸福を奪ってでも彼を救う。そう決めたのですわ」
そう言うと和道達の背後の扉、その隙間からおびただしい量の黒い魔力の泥が侵入してきた。
「これは……ロノヴェの!」
屋敷中の分身達が人の形を保つことすらせず、汚泥の姿のまま自らの主人を守るために集まってきたのだ。
そして、それらは和道達と対峙するロノヴェの前に四つの巨大な影として圧縮されていく。
「これが私の奥の手、とっておきの精鋭達。ナイフ一本では干渉も殺しきることもできはしませんわ」
影が形作るのは熊、獅子、雄牛、大鷲の四種の猛獣。しかもその全てが実在するものよりも一回りも二回りも大きい。
「いきなさい!」
「グァアア!」
猛獣達が牙を剥き、咆哮と共に和道に迫る。
その進撃は一歩ごとに部屋全体を揺らし、人間には覆すことのできない絶対的な力を和道へと見せつけていた。
「直樹様、危ない!」
セエレは主に抱きつき、そのまま瞬間移動で猛獣たちから距離を取る。だが、そもそもこの部屋がさほど広くないためにほんの数秒の時間稼ぎにしかならない。
「逃げられても構いません、追い続けなさい。セエレちゃんの魔力が尽きるまで」
「くそ……」
セエレは瞬間移動を連続し、魔獣たちの攻撃を避け続ける。
だが、瞬間移動をするたびに確実に魔力が消費されるセエレに対し、分身が破壊され新たに作り出さない限りは大きな消耗のないロノヴェ、両者の異能の性質から考えてもこの削りあいはセエレが圧倒的に不利だ。
そして、それは異能や魔力の知識に乏しい和道ですら理解できていた。
「俺達が勝つには……」
和道の視線が一瞬だけロノヴェに守られた契約者へと向けられる。
彼の存在はロノヴェにとって明確な弱点。ベッドの上から動くこともできず、自らの身を守ることもできないのならセエレの瞬間移動で急接近し、攻撃することは容易い。しかし、そのあまりにも無防備な姿が和道にある事実を強く認識させる。
――ロノヴェを倒すってことは……あの人を殺すってことになるのか――
たとえ運よくこの場は命を奪わずに収められたとして、その後はどうなる。
以前ロノヴェが言っていた言葉を思い出す。
『悪魔と契約している時点で普通では叶わない大それた願いを抱いている』
普通の手段で人の命が助かるのなら誰もこんなことはしない。他に手が無いからロノヴェ達は秋桝や炭村という悪魔憑きの犠牲を許容し、今、和道達を殺してでも願いを叶えようとしているのだ。
――こいつらを野放しにしたら、悪魔憑きは増え続ける。悪魔憑きが起こす事件の被害者も……けれど……――
それでも、一か月前にはただの高校生に過ぎなかった和道には人を守るために人の命を奪う覚悟など持てはしなかった。
「どうすれば……」
「直樹様、これがあなたにとって気休めになるのかはわかりませんがこれだけは言えます。私はあなたの選択に正しさなど求めません」
そんな主の苦悩を読み取ったセエレは異能の連続使用で敵の攻撃を回避し続けながら告げる。
「道理や倫理、人の常識など忘れてください。私は聖者ではなく悪魔です。そんな私が貴方に求めるのは常に――」
それは命がけの戦いのさなかと思えないほどに、穏やかな音として和道の耳を通った悪魔の囁き。
「あなたの心からの欲望なのですから」
そんな言葉で和道の心に曇っていた陰りはあっさりと晴れ渡り、彼の表情には覚悟に満ちた笑みが浮かんだ。
「そうか……じゃあ、悪いけど俺のワガママに付きあってくれるか?」
「はい、この命が尽きるまで」
主の決断をくみ取り、セエレは和道を四つの獣の一体、最も機動力に優れている大鷲の更に上に飛ばす。
「ガァアアア!」
「うぉおおお!」
獣の咆哮と拮抗するほどの慟哭と共に、和道はナイフを握る右手に渾身の力を込め、大鷲の背中へと突き立てる。
「言ったはずですわ! もはやそのナイフ一本では私の分身は掻き消せない!」
「うるせぇ!」
ロノヴェの言葉通り、大鷲はナイフをその背に受けても健在。だが、それでも和道は構うことなくナイフを更に深く、深く押し込んでいく。まるで刀身をその体に埋め込むように。
「うおぉおおおお!」
そして、和道は大鷲の体内で自らの出せる限界を超えた力を込めて、自らナイフを握り砕いた。
「ギャっ!」
大鷲が短い悲鳴をあげ、その直後に体が内側から膨れ上がり、風船のように爆ぜた。
「ああ、そうだ。勘違いするなよ、俺。お前は正義の味方なんかじゃない……」
べちゃべちゃと血と臓物を散らすように、黒い魔力の汚泥が一面に飛散し、それを最も間近で受けた和道は顔に張り付いた汚泥を手の甲で乱暴に拭い去る。
「俺は悪魔憑きだ!」
彼のその右手には細かく砕けたナイフの破片が痛々しく突き刺さっていた。
「体内で魔道具を壊し、魔力を暴走させた……ですが、そんな奇策は一度限り!」
和道が分身を破壊したカラクリを瞬時に見抜いたロノヴェ。彼女は即座に残る三体の猛獣の姿を取った自らの分身達をセエレから離れて無防備状態の和道へとけしかける。
雄牛の角が、大熊の爪が、獅子の牙が和道を狙う。その全てが一撃で彼の命を奪いうる脅威。
逃走はもはや間に合わない。武器を失った彼に立ち向かうことなどできはしない。しかし、それでも和道の目には力強い眼光が輝き続けている。
それはまるで、勝利を確信したかのような。
「セエレ! いまだぁ!」
「また異能で逃げる気ですか!」
「いや、違うな」
次の瞬間、ロノヴェの視界が薄暗い影に覆われた。
「そんな……」
その原因はいたってシンプル。
照明の光が突如として空中に現れた巨大なコンクリートの塊によって遮られたからだ。
「まさか、それは……屋敷の外壁を……」
「ほんの三メートル四方ほど切り取らせてもらった!」
そして、セエレの声はその塊から聞こえてきていた。つまり、このコンクリートの塊はセエレが異能によって持ってきたのだ。
セエレの武器は魔道具のナイフだけではなかった。
いや、そもそも彼女にとっては魔力を持たない全ての物質が質量攻撃を可能とする武器になりえたのだ。
「ダメだ……もう、間に合わない……」
上部から迫る三メートル四方の壁、いくら俊敏な猛獣達でも落下までの数秒でその範囲から逃れるのは不可能だった。
床が抜けるのではと思う程の衝撃と轟音が部屋どころか屋敷全体を揺らす。
ロノヴェは自らの分身達がその圧倒的な質量で押しつぶされる様を見届けることしかできなかった。
あとに残ったのは間一髪コンクリート壁に押し潰される前に異能で助け出された和道とそんな彼に怪我がないか心配そうにするセエレだけだ。
「どういう……つもりですの?」
勝敗は決した。先ほどの四体の分身はロノヴェの魔力の八割以上が割かれていた。それが崩壊した今の彼女には新たに分身を作る余力はない。
けれども、ロノヴェが受け入れられなかったのはこの勝敗にではなかった。
「分身だけを押しつぶすように位置を調整なんてして……」
そう。セエレが持ち込んだコンクリート壁は確かにロノヴェの分身達をまとめて押し潰した。
しかしその被害にあったのはあくまでも分身達だけ。ロノヴェと彼女の契約者は最初からその範囲の中にはいなかったのだ。
「まさか今更、私達を見逃すなんてそんな甘いことを!」
「当たり前だろ! どんな状況だろうと人殺しなんかしたら気分が悪いだろうが!」
和道はそんなロノヴェの不満の言葉に真っ向から反論する。
「確かに、お前らの目的のために秋桝のおっちゃんが死んだのは許せないし、これ以上悪魔憑きを増やして霧泉市をメチャクチャにされるのは止めたい」
「なら……」
「けどな! そのために人殺しをするなんてまっぴらごめんだし、死にそうな人間を見殺しにするのも後味が悪いから絶対に嫌だ!」
事情を知るまではロノヴェを倒せば全てが解決すると思っていた。だが、そうすることで失われる命があるのなら話は別だ。
和道直樹はたとえ相手が誰であろうと、そんな結末を許容することはできない。
「お前らがこれ以上魔導書をばら撒くのは止める。けど、あんたの契約者を助けるために俺にできることは全力でやる」
「まるで子供のワガママですわね」
「ああ、これは俺のワガママだ。だから、俺のやり方でその人を助けられなかったら、ロノヴェは俺を恨んでくれていい」
町の人々も、目の前の青年もどちらも切り捨てないという強欲な選択。それを受け入れてくれとばかりに、和道は自らの足で歩み寄りロノヴェに負傷していない左手を差し出す。
ロノヴェはしばらく困惑した様子でその手と和道の顔を順番に見つめたが、どう考えても裏を感じられない彼のその態度に呆れる以外の答えが見いだせなかった。
「そうですわね、私は負けた身。選択の余地などありませんはね」
それでも、彼女は和道の手を取ることを選んだ。それが自らの主を救うために今の自分が取れる最良の選択だと信じて。
「ですが、万が一にもご主人様が助けられなかった時は私の魔力が切れる前にあなたを全力で殺しにかかるのでお覚悟くださいませ」
「おっかねぇ……」
ロノヴェの言葉に込められた圧に冷や汗をおぼえながらも和道はようやく戦いの緊張から解放される。
「あ、そうだ。納得してくれたならお前の仲間の説得にも協力してくれよ」
「そうは言われましても、旦那様が納得するかは別の話ですわ。あと、グラ君は私達と違って暴れたいだけな節がありますし、今もラウムちゃん達と―――」
そこでロノヴェがある異変に気付く。
「……あなた達と一緒に来た悪魔はセエレちゃんだけ。ですわよね?」
ふと、彼女は顎を上げて天井、正確にはその奥にある二階を見上げる。
「ん? ラウムはお前達がここに軟禁していたんだ、私以外の悪魔など……まさか」
セエレも周囲の魔力の気配を探り、ロノヴェの言わんとすることを理解する。
「ええ……私はさっきすべての分身を回収しました。そしてグラ君の異能は魔力の気配も完全に消す。だから、この部屋の外にある魔力はラウムちゃんと門番さんの二つだけになるはずなのに……」
それはセエレもロノヴェも気づくことができなかったイレギュラー。
「魔力の数が一つ多い」
その直後、彼らの頭上から眩い光が降り注いだ。




