#4 隣人なんてこわくない(1)
日も暮れかけだというのに、電車内は客もまばらだった。
芸能人が電車に乗ってもいいのかと駕木は訊いたが、
「全然気づかれないの」
と香坂は、不満そうだった。
駕木の家は、綿津見高校から2駅である。
近いからという理由で選んだ高校だった。
同級生の多くが、地元の中学校から綿津見高校を受けている。
駕木もその流れに乗っただけだ。
けれども、そこに龍が関係してたとなると――
これは運命なのだろうか?
それとも仕組まれていたのだろうか?
そんなことを考えながら駕木は右隣に目を向けた。
家込はうつむいたまま黙っている。
学校を出てからずっとこの調子で、話しかけづらい。
「それで――香坂はいったい何者なの?」
重苦しい空気に耐えかねて、駕木は左の香坂に訊いた。
香坂は背筋をしゃんと伸ばして、シートにもたれてもいなかった。
ちょっと思案したのか、顔を明後日のほうに傾けている。
「ただの芸能人、ってわけでもないんでしょ?」
龍に関する知識を持っているだけではない。
綿津見神社を手に入れるため、わざわざ学校を建ててしまう『人々』がそこにいるのだ。
いくら香坂が芸能一家だといっても、学校建設の資金まではないだろう。
すると香坂は、
「わたしはね、〈4つの庭〉の人間なの」
と穏やかにこたえた。
「4つの、庭……?」
「オーストリア発祥の秘密結社。でも、発展したのはイギリスだから、正式には〈フォース・ガーデン〉っていうの」
「ちょっと待って!」
あわてて駕木が遮る。
「なぁに?」
「秘密結社って――宗教?」
「まあ、それに近いかも」
「そんな話、こんなところでして大丈夫?」
繊細な話だろうと、駕木は気を回したのだが――
香坂は、あからさまに嫌な顔をした。
「日本って宗教に対して偏見があるのよ。初詣は神社にいって、生誕祭にはデートして、死んだらお経を唱えるから、特定の宗教に囚われない=無宗教って思っているみたいだけど……すべてひっくるめて、日本人の宗教だから」
「んんん?」
「節分の豆まきや、七夕、精霊馬、灯篭流し……お祭りも風習も、宗教行為よ」
「いやでも、物騒なのもあるし」
「それはそう。でも、盲目的に否定するのは、盲目的に信じるのと同じことよ」
「ふぅむ……」
たしかに、世の中には数多くの宗教があるのだろう。
しかしニュースでは、宗教紛争の話題ばかり流れている。
繰り返し流されるそんなニュースをみていると、神様を信じることがバカらしくさえ思えてくる。
けれど実際には、宗教に救われたという人もたくさんいるはずなのだ。
だからこそ、何千年経とうとも、世界中で「信奉」されている。
今まではそんなこと思いもよらなかったけれども――
発想を転換させれば、それもまた事実である。
龍を視てしまった駕木は、それらを信じる人がいても、おかしくないと思えた。
「秘密結社と言っても、すべてが宗教というわけじゃないの。政治団体もあれば、親睦団体もある。フリーメーソンも友愛団体だから、会員はどんな宗教を信じていたっていいの」
「へえ――でも、日本に学校を建てるくらいには、巨大なんだ?」
「まあね」
「どこまで秘密なの? 会員であることも秘密?」
「表向きは自然保護団体だから、ホームページもあるわ。わたしやわたしの両親が、会のメンバーだということも載ってる」
「なにそれ、全然秘密じゃない!?」
「宗教以前に、法に則った活動をするのは、人として当然よね」
「なんか――夢がないなぁ」
秘密結社というくらいだから、小学生の秘密基地みたいに、男のロマンを求めてしまう。
「どこもそんなものよ。非公式なのはもっと奥の部分」
「それが龍ね」
「龍にしたって〈4つの庭〉からすれば、ほんの一部でしかないわ」
「ええっ!?」
駕木は面食らった。
天地がひっくり返るほどの大事だった『龍』が、まるで些末なように扱われたからだ。
「たとえば〈4つの庭〉というのは、4つの団体からできているの。それぞれ――
〈放埓の舟/ワイルド・アーク〉
〈凍える唇/フローズン・リップ〉
〈潔癖の城/クリーン・ルーク〉
〈暢気な忌杖/ケアレス・ワンド〉というの」
「おお、秘密結社っぽい!」
「そのなかで龍を扱っているのは――わたしが所属している〈凍える唇〉だけ」
「凍える唇って――氷の女王みたいな」
「わたしって、そんな風に見えてる?」
「いや、そういうわけじゃ」
悪戯っぽく笑う香坂に、駕木も苦笑した。
「ダンテの『神曲』によると、地獄でもっとも苦しいのは氷結なんだって。わたしたちは、人間最大の苦しみを理解し、そして同時に、口づけという赦しを与えるの。己への厳しさと、他人への愛情を兼ね備えた団体というのかしら」
「へー、なんか香坂らしいね」
ポロリと出た言葉だった。
香坂のことは、まだよく知らないはずなのに。
駕木にはなぜか香坂の冷静さが、ストイックさから来ているような気がしていた。
それに香坂の言葉をよく聴いていると、実は他人に対してどこまでも寛容なんじゃないかと思えたのだった。
「駕木くんなんかは、『口づけ』に反応してハアハアするかと思ったのに」
「し、しないよっ!」
「逆に心配だわ、駕木くんに思春期は来るのかしら?」
「それ、香坂に報告する義務あんの?」
「あったらわたしのほうが、ハアハアしてるかも」
「香坂のほうこそ変態さんだった!?」
「よかった、調子出てきたじゃない」
香坂はまた悪戯っぽく笑う。いや――
なんとか楽しい空気を作ろうとしているようでもあった。
もしかすると香坂も、家込とのあいだにできたわだかまりを、取り除きたいのかもしれない。
けれども家込は、ずっとうつむいたままだった。
「じゃあ、〈フローズン・リップ〉以外の団体は、何やってるの?」
「さあ」
「さあ!?」
悪びれもせず肩をすくめたので、駕木も頓狂な声を上げてしまう。
「組織が広大だから、誰がどこでなにをやっているかなんて、わかんない」
「そんな投げやりな」
「『秘密』結社だから」
「いやいや、ここで『秘密』を持ち出す!」
「だって、本当に知らないんだもん」
「ほんとうに?」
「ええ」
「特別な神様を信仰しているとか?」
「いいえ」
「特別な儀式があるとか?」
「参加したことない」
「じゃあ、なんでやってんの?」
「親が会員だったから。物心ついたときには、こっちの世界だったの」
「よく続けられるね」
「好きも嫌いもないから」
恬とこたえる香坂に、駕木はすっかり当惑してしまった。
そんな駕木を、香坂も気の毒に思ったのかもしれない――
「〈4つの庭〉が求めているのは、真理よ。真理からすれば、龍だってほんの一部――そう言いたかったの」
「真理……」
「どんな宗教もそう。実際に求めているのは、神様じゃなくって、真理なの」
「うん――んんん?」
解説をしてくれたのだろうが……
駕木は理解が追いつかずに、またもこんぐらがってしまう。
「偉そうに言っているけど――わたしは龍を視ることも、感じることもできないの。正直そういう点では、駕木くんに嫉妬してる」
それはあまりに率直な言葉で、嫉妬につきまとうはずの憎悪は感じられなかった。
むしろ香坂は、持ち前の冷静さによって、涌きあがる感情を、すべて受け入れているようだった。
明るいものも、暗いものも、すべて受け入れているような落ち着きがあった。
「じゃあ香坂は――真理のために、ぼくとホテルに入った?」
「それは――」
的を射られたのか、香坂も思わず口ごもる。
「駕木くんって勘がいいの? それともわかってて、嫌がらせしてる?」
「あのときの香坂は……すごく真剣だったから」
「……――」
「命を懸けてるってのは、伝わったよ」
「ほんと駕木くんって……嫌なひと――」
そういって香坂までうつむいたので、駕木もあわてて様子をうかがった。
しかし言葉とは裏腹に、香坂は笑っているように見えた。
真意がわからずに駕木が戸惑っていると――
香坂はすぐに顔をあげて、いつもの溌剌とした貌で、
「エリス・J・ホッパード」
「え?」
「エリス・J・ホッパード。駕木くんが昨日逢った、彼の名前よ」
「あの外国人?」
「アイルランド人よ。駕木くんにはちゃんと話すっていってたのに、まだ何も言ってなかったから」
新宿二丁目のラブホテルから、香坂につづいて出てきた男。
虚ろな顔をした、むくつけき大男が、駕木の脳裏に浮かんだ。
すると――
「本当にごめんなさい……」
うつむいたまま、家込が謝った。
「どうしてアイスが謝るんだよ?」
「それはぁ……」
家込が言い淀んでいると、香坂が、
「エリスは、家込ちゃんたちに捕まっているの」
「家込に捕まる?」
「みたいです……」
「巨人みたいにデカかったけど。あの人捕まえるってすげぇ大変だと」
「方法はいくらでもある」
「監禁とか拘束ってやつ?」
「だから、わたしが交渉に来たの」
「それもう事件じゃん!」
「でも公にできない」
「さっき人として法律がどうとか言ってなかった?」
「秘密は奥にあるとも言ったわ」
「ぜんぜん物騒だ」
「わたしは〈交渉〉に来たの。そこに駕木くんがいれば、家込ちゃんたちも手を出せない」
「ぼくの利用価値そこか!? あーでもむしろ、納得した!」
香坂は、エリスを助けるため自分を利用した。単純な構図である。
秘密を守るためなら、同級生とでもラブホテルに入る覚悟があるのだ。
学校で気のない男に告白するくらい、わけないだろう。
そう思うと、駕木も胸のつかえが取れた気がした。
「言ってくれたら協力したのに!」
「いやよ、駕木くんにフラれたの傷ついたんだから」
「プライドの問題!?」
「わたしは、誰からも愛される存在でいたいの」
「それとこれとは話が――って報復でこれ!? リスクのほうが高いでしょ」
「いい気味、って言いたいとこだけど……全然スッキリしてないのよね」
「まだ足りてない!?」
「歯痒いくらいに」
「うーん」
駕木も苦虫を噛む。
確かに香坂は昨日、一生後悔させてやると呪いの言葉を吐いていた。
これから先のことを想うと、駕木はまた胃が痛くなりそうだった。
「まあいいや……それでエリスさんはなんで捕まったの?」
「彼は龍を――あら?」
香坂は車両前方を見つめた。
ブレーキ音もしないのに、電車が急速に足を緩めていく。
流れゆく景色も次第に遅くなっていった。
まだ駅までは距離がある。
駕木もこんなところで電車が止まるのは初めての経験だった。
「事故?」
「時間切れ――わたしはここまで」
そういうと香坂は、貼りついたような哀し気な微笑みを浮かべて……
停止した。
電車もぴたりと止まる。
制動距離もなく、慣性も働かない停止だった。
「香坂――?」
駕木が話しかけても、香坂は呼吸すらしていなかった。
(え、死んでる!?)
愕然としていると、
「呪が……」
家込が窓外を眺めながらつぶやいた。
夕焼けに染まる街。
だがその赤は、いつもより色濃くみえた。
まるで血の池に呑まれたような、おどろおどろしい光景であった。
見ればまわりの乗客も、ことごとく停止している。
駕木と家込以外、すべての時間が止まっていた。
「……どうなってんのこれ?」
「困ったなぁ。これじゃあ本当に、香坂さんの言う通りかも……」
「いや、え、なにこれ!?」
「無人ぉ。後で全部話すから、とりあえず一緒に帰ってくれる?」
家込はそういうと、優先席の窓ガラスを開けて、車外へ出ようとした。
「アイス、危ないよ」
「平気、平気」
先にバッグを放り投げてから、窓枠を掴んで足から身を乗り出していく家込。
動きに無駄はなく、普段のおっとりした家込とは別人のようであった。
そういえば低血圧で朝が弱いといいながら、家込は毎日タンク塔まで「無事に」登っていた。もしかすると運動神経も悪くないのかもしれない。そんな疑惑さえ湧いてくる。
もういったい、何を信じたらいいのか、駕木はわからなくなってきた。
車外に出た家込は、はやくおいでと駕木に手を振っている。
駕木は固唾を呑んだ。
この窓から出ることが、いよいよ常識からはみ出してしまうような気がしたからだ。