#3 妹なんてこわくない(4)
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更衣室で道着に着替えると、雪花は武道場へと降りて行った。
体育館は2階がアリーナで、1階が武道場となっている。
女子更衣室は2階にしかなかった。
全面畳の武道場は、空手部と柔道部で半面ずつ分けている。
顧問の出口参郎は、幼少から雪花を鍛えた道場の師範だ。
綿津見高校でも雇われ顧問として、指導にあたっている。
雪花が兄と同じ高校に入ったのも、出口がいたからという理由が大きい。
遅れてきた雪花だが、ゆっくりと柔軟運動をしてから合流した。
学年やクラスによって終業時間が違うので、遅くなってもなにも言われない。
いまだ精神的な動揺はあるが――
身体を動かしているほうが、雪花は無心になれた。
しかし、胸のわだかまりが収まったわけではない。
雑念がぷつぷつと、泡のように浮かんでくる。
その泡を潰すように、雪花は拳を突きだし、蹴りをあげた。
なぜこうも苛つくのか。
それは自分でもわかっていた。
龍という存在に出会った衝撃、のせいではない。
なにをやっても平均値で、人に障ることのない兄が――
道すがらのお地蔵さんのように、誰から忘れられてもニコニコしている兄が――
身にあまる力をもっているらしいという事実。
それが雪花を動揺させていた。
兄には、自分がいなければならない。
兄を無能にしたのは、自分が才能を奪ったせいだ。
そう思っていた雪花は、心のどこかで兄を庇護しなければならないという使命感に駆られていた。
それはもはや義務として、自分の存在意義にまでなっていた。
しかしそれを、学園一の美女と謳われる香坂間継に、打ち砕かれた。
兄には自分など、必要なかったのではないか?
兄にとって自分は、余計なお世話でしかなかったのか?
そう思えば思うほど、叫びたいほど苛つくのだった。
荒んでいる雪花を――出口がわからないはずもなかった。
型稽古の途中で号令を止めると、出口は雪花の正面に立った。
そして無言のまま、技の歪みを正していく。
わずかに外向きになったつま先は正位置へ、膝は内側に補正した。
ぐっと重心が安定する。
武道では、大地をとらえることが重要だと、出口はいつも言っている。
人間が立っていられるもの、大地があるからである。
大地を踏みしめたときの反発力、それが力の正体である。
大地から生み出された力を、どうやって拳まで伝えるか――
全身の関節や筋肉を工学的に連動させて、その力を一点に収束させる――
それが技となる。
だから余計な緊張などで伝達が狂うと、技が鈍るのだ。
固まった筋肉をほぐすため、指導者は力んでいる部分を両手で叩く。
肩、腕、腿と叩かれると、雪花もようやく自覚できた。
そうだ――
いちばんの苛立ちの原因は、そこではなかった。
何よりも不甲斐ないのは、自分は震えて声も出なかったのに――
兄はケロリとして、香坂間継と普通に会話をしていたことである。
怪我をした鳥を保護して、毎日手厚く看病していたのに……
ある日帰ってきみると、蓋の開いた鳥かごだけが寂しげに揺れていた――
そんな心境だったのだ。
どこかへ飛んでいった鳥を想うにつれ、大地という軛に繋がれているのは自分のほうかもしれないと、そんなもどかしさに、うち震えていたのである。
――ふう~~~~~
雪花は大きく息を吐いた。
そうして、見切りをつけた。
この克服には時間がかかる。
技が少しずつ磨かれていくように、感情にも少しずつ向き合わなければならない。
己の負と向き合うこと。
それは、技の弱点を見極め、克服することと似ている。
――すぅ~~~~~
大きく息を吸う。
これだけで、いくばくか気分も良くなる。
たとえ兄に龍という能力があったとしても、自分には空手や勉強の才能がある。
それは決して別物ではない。
そこに卑下したり、階級的に見たりする必要はない。
雪花は、出口が両手で喝を入れた一瞬で、それを理解した。
『自信をもて』という師匠の掌が、雪花に届いていた。
未知のもの、不可知のものに出会うと、人は迷う。
だがその迷いを超えるものもまた、人なのだ。
(大丈夫、わたしは向き合える)
そう言い聞かせると、少し気が楽になった。
号令が再開されると、先ほどよりものびやかに拳を突きだすことができた。
次第に、気分も落ち着いてきた。
今頃はきっと、兄と香坂間継と逢澄さんが、家に向かっているはずである。
親は共働きなので、家には誰もいない。
ふたりの女性をまえに、兄が粗相をしなければよいが……
そういえば――兄がニワトリを預かっていると言っていた。
昨晩は宿題に追われて、段ボールだけ渡したが……
逃げだしたり、鳴きわめいたりしていなければいいな。
ようやく気持ちを切り替えることができて、雪花は稽古に打ち込んだ。