天王星の夜
ドイツ、ドレスデン郊外。
その晩、それほど大きくないその屋敷に身なりよい紳士たちが集まっていた。
「……ということは、あなたもひどい目に遭ったのですか?」
「はい。我が家の家宝である貴重な稀覯本までもっていかれました」
「私もそうです。ひどいものです」
「私もそうだ」
「このまま忌々しい蒐書官どもをのさばらせていたのではヨーロッパ中の本棚から良書が消えることになりかねません」
「そのとおりです。今日ヨーロッパの有名なビブリオマニアである皆さんにお集りいただいたのは、ご連絡のとおり我々共通の敵であるあのものたちに対する対策について話し合うためです」
「とは言っても、潤沢な資金と悪魔的な交渉術を備えた蒐書官どもに抗う術など思いつかない」
「まったくだ。しかも、従わなければ殺される」
「困りました。ん?セギュール卿には何かいい案があるのかな」
「はい。実は問題が一挙に解決するうえに、失ったもの以上にものが手に入るすばらしい対抗策を用意してまいりました」
「ほう。それは是非お伺いしたいものですな」
「簡単なことですよ。諸悪の根源をこの世から消し去ればよいことです」
「というと」
「部下の蒐書官ではなく彼らの主である天野川夜見子を抹殺するということです。そうすれば、蒐書官など根無し草と同様。放っておいても枯れるだけです」
「ですが、どのような方法でそれをやるのですか。あの女は自身の戦闘能力が高いうえに多数の護衛が従えていると聞いています。しかも、あの女が巣穴から出ることはめったにないらしい。武器を持ち込むのはかなりむずかしい日本でどうやってそれを実行するのですか」
「たしかに日本では難しいでしょう。ですが、あの女が日本国外で確実に護衛なしに行動することがあります。そこでならどうですか?」
「本当なのですか?」
「はい。あの女は自分の部下を殺されたときには、報復は自らの手でおこなうようです。ロンドンで起きたブルーフィルド家虐殺事件を覚えていますか?」
「もちろん」
「あれは部下を彼に殺害された天野川夜見子が館に乗り込んで起こしたものです。しかも、裏から手をまわして手に入れた情報によれば、あの女は単独でそれをおこなったとのこと」
「それはすごいな」
「ですが、そこが狙い目でもあります。同じように部下が害されればあの女は報復のために必ずやってきます。そこを待ち伏せしていれば必ず討てる。いかがでしょうか」
「なるほど、大変魅力的なアイデアですな。ですが、その役を誰が引き受けるのですか?部下の蒐書官を殺すだけならともかく、その後にあの女の襲撃を受けることになるのですよ。それもあなたがやっていただけるのですか?セギュール卿」
「いや、それは遠慮したい。あの女に抗するだけの武力は持ち合わせていないもので……」
「私も……」
「そうだろう。誰も貧乏クジは引きたくないからな。いい案ではあるが、実際におこなう者がいなければ砂上の楼閣と言わざるを……何かな、クラウトハウゼン卿」
「皆さんが引き受けないということであれば、その役は私がやりましょう。実は近日中に我が屋敷を蒐書官が訪ねてくることになっています」
「やってくれるか。感謝する、クラウトハウゼン卿」
「はい。ですが、私だって命は惜しいし、皆さんが安全な場所から眺める中で私だけがあの女の刃の前に立つのは御免被ります。天野川夜見子が入国後は全員が私の館に逗留していただきたい。それが引き受ける条件になりますが」
「当然だな。承知した」
「労せずに甘い果実は手に入らないということですな。私も承知」
「私も承知した。他の方々も異存はないだろう」
「もちろん」
「これで、天野川夜見子のカレンダーも残りわずかということが決まったな。実にめでたい。乾杯だ」
「乾杯。我々の時代に」
「乾杯。あらたに加わるコレクションに」
……乾杯。滅びゆくものたちに。
「お伺いしてよろしいですか?クラウトハウゼン様」
「もちろん。何なりと」
「私たちふたりをこの館に留め置くとはどういう意味でしょうか?」
「葉月の言うとおりです。私たちはドイツにワインを楽しみにきたわけではありません。蒐書官としての仕事をするためにきているのです」
「それは知っている」
「では、なぜ私たちはこの館から出られないのでしょうか?」
「それこそが今回の君たちの仕事だからです」
「それはどのような意味でしょうか?」
「わからないかね」
「ええ」
「今回の君たちの仕事はエサになることだ」
「エサ?」
「そう。ある大物を釣り上げるエサだ。だから、エサはエサらしく振舞ってくれたまえ。さあ、仕事を始めようか」
「たった今ふたりの蒐書官を捕らえました。ショーの始まりだとあの方にお伝えください。それから、ふたりはすぐに始末し宴の準備を始めますので、まずは天野川夜見子の耳にも届くように手に宣伝してください。よろしくお願いします。メンデルゾーン閣下」
……盛大に蒔いたエサに釣られてターゲットが動き始めました。
……ありがとう、クラウトハウゼン。ところで、あのふたりはどうしていますか?
……もちろん、しっかりと自分の仕事を果たしています。
……結構です。腐ることがないように十分に注意して保管してください。
……承知しております。完全体で披露できるように抜かりなく一日三回最高級アルコールで消毒しております。
……ありがとうございます。しかし、さすがに朝の消毒はいらないのではないですか?
……では、獲物が籠に入りしだい、狩りを、いいえオペレーション・ウラヌスを開始します。
……よろしくお願いします。わざわざドイツに来たのです。しっかりと仕事をしなければなりません。
その晩、南ドイツにあるその館の大広間の扉が突然開けられ、現れた日本人女性が流暢な英語でこうあいさつをした。
「こんばんは、皆さん」
続いて、ドイツ語、フランス語、スペイン語で挨拶を繰り返した。
だが、呼ばれもしないのにやってきたその客人の登場にもその場にいた誰も驚くことなかった。
そして、一瞬の沈黙後に嘲笑が起こる。
「待っていたよ。天野川夜見子」
それはこの館の主のものではなく、前回の会議には現れなかったその会の真の主催者が言葉だった。
「意外に浅はかな女だな。我々がおまえを歓迎するための準備をせずにこうして宴を催しているとでも思ったか?だが、とりあえずは招きに応じてくれたことには感謝しておこう。ようこそ、死の宴へ」
もちろん彼が期待したのはその言葉に驚愕する彼女だったのだが、そうはならなかった。
「そう。では、私も礼を言わなければいけないですね。お招きありがとうございます」
「余裕があるな。だが、今回はブルーフィルドの時とは違うぞ。だからこそ、私もこうやってここにやってきたのだ。おまえが辱められながら殺されるところを見物するために」
「そうですか。しかし、これから起こることが本当にあなたの思い描いたものなのかは疑わしいと言っておきましょう」
「ん?何が言いたいのかは知らないが、強がりはその辺にしておけ。おまえが中に入ったのを確認してから私が手配した精鋭の武装兵がこの館を包囲することになっている。おまえが噂通り強くても多勢に無勢。絶対に逃げられないぞ」
「ふふっ」
「何がおかしいのだ」
「外に配置しても、中に兵を置かなければ結局あなたたちは殺されることになるわよ。それにここに来たのは私ひとりではない」
「何?」
「そういうこと」
その言葉は、遅れて現れたもうひとりの日本人女性からのものだった。
「誰だ?おまえは」
「彼女の友人。中倉由紀子よ。よろしく、閣下」
「まあ、ひとりがふたりになろうが、大勢は変わらん。クラウトハウゼン、こいつらにおまえが用意した余興の品をみせてやれ」
「わかりました。では、さっそく」
この館の主人の合図によってあらわれたのは銃で武装した二十人の男たちだった。
「残念だったな。だが、これで形勢逆転だ。さて、せっかくクラウトハウゼンが準備してくれたのだ。簡単に終わっては興ざめだ。多少なりとも抗って私を楽しませてくれ」
会の主催者であるこの男は余裕たっぷりにその言葉を口にした。
だが、彼の余裕もここまでだった。
そう。
真の宴はここからだったのだ。
「たしかにそのとおり。簡単に終わらせるのはもったいない。そこには同意してあげる。でも、これで形勢逆転とは笑わせてくれる。夜見子はどう思う?」
「まったくそのとおりです。ここまで勘違いをしてくれるとは清々しいと言わざるをえません。私には状況が悪くなったようにしか見えません。もちろんあなたたちにとってということですが」
「何だと。どういうことだ?この状況でなぜそのような大言を吐けるのだ」
「そこに並んだ銃口は本当に私たちに向けられていると思っているの?」
「何?どういうことだ」
「これだけ言ってまだわからないのですか?では、あなたから説明をしてあげなさい。クラウトハウゼン」
「かしこまりました。夜見子様」
天野川夜見子という名の日本人女性の言葉に恭しく頭を下げるのはこの館の主であった。
「何だと」
「どういうことだ」
「ク、クラウトハウゼン。もしかして貴様我々を裏切ったのか?」
「裏切り?失礼なことを言わないでもらいたいものです。私は今も昔も夜見子様、そしてあの方々の忠実な僕です。それにそれは私だけではない。そうだろう?同志ミカエル。そして、ジャック」
「ひどいな。この時のために気の利いた自己紹介の言葉を用意してきたのに台無しになったではないか」
「まったく、パウルは貴族とは思えぬ気が利かぬ所業だ。まあ、昔からそうだったが」
「ウルリヒ、アヴリール。貴様たちもこの女の仲間だったのか」
「そういうことになりますね。仲間ではなく正確には僕ですが」
「おっと。もうひとり紹介するのを忘れていました。せっかくなので君は自ら名乗ってはどうかね。ピエール」
「そのおまけのような扱いはそろそろやめてもらいたいものだよ。パウル」
「何?」
「まさか貴様もユダだったのか?セギュール」
「ユダではありませんよ。人聞きが悪い。それにユダというのなら、あなたこそその名を名乗るにふさわしいでしょう。キンベル閣下」
「ということは、あの時貴様がほざいたあの勇ましい話も……」
「まあ、そういうことになります。残念でしたね。メンデルゾーン閣下」
「よくも騙してくれたな」
「ふん。こういうことは騙された方が悪いのですよ」
「まったくです」
「さて、登場人物の自己紹介も一通り終わったことだし、そろそろつまらないこの宴を終わりにしましょうか?」
「承知いたしました。夜見子様」
「そうそう。死ぬ前にいいことを教えてあげる。まず先ほど自慢していた精鋭の兵とやらは機関銃を抱えたまま詰所で成仏したわよ。アメリカから呼び寄せた私の蒐集官とお嬢さま直属の兵たちに襲われて」
「なんだと」
「まだある。ヨーロッパ各地で襲撃事件が起きているわよ。三分前から。こちらは私の兵よ。そして、その場所とはもちろん……」
「もしかして……」
「そのとおり。ブルーフィールド邸の惨劇があなたたちの家族の身に降りかかっている」
「……頼む。攻撃を中止するように指示してくれ」
「家族は何も知らない。関係ないものを巻き込むな」
「残念。それはできない。それに大部分はもう終了しているわよ」
「橘花に歯向かう者は誰であろうがどの世界に住もうがすべてこうなるのよ。地獄に行ったら巻き添えを食った家族で泣いて詫びなさい」
「……橘花?も、もしかして、おまえたちはあのものたちの手の者なのか?」
「今頃気がつくとは衰えたわね。キンベル卿」
「まったく」
「命だけは……そうだ、私の書架全部を差し出す。いや、すべての財産を差し出す。だから……」
「本はありがたく受け取ってあげる。しかし、どんなことがあってもあなただけは絶対に逃すなと当主様から直々に命じられているのでどのような命乞いをされても助けるわけにはいかない。キンベル卿。いや、裏切り者ムーンチャイルド・ブラックハウス。おまえだけは私が直々に薄汚いネズミにふさわしい残酷なやりかたで殺してあげる。でも、安心しなさい。切り落とした首は特別に哀れな姿になって待っているおまえの家族のもとに届けてあげるから」
「始めなさい」
……終わったそうだ。
……だが、今回は少々考えさせられる事案だったとは思わないか?
……おまえがそのようなことを言うとは珍しいな。何だ?
……蒐書官も得難い人材ではある。だが、夜見子は特別だ。あれを失うのは見た目以上に我々にとってダメージは大きい。
……そのとおりだ。だがら、これだけ派手にやったのだろう。今後同じことを考える輩が出ないように。そして、夜見子の後ろには誰がいるのかをはっきりと教えるために。
……だが、それでも万全とは言えない。やはり夜見子の行動に制限を加える必要があるのではないか。
……そうだな。だが、夜見子にそれを納得させるのは大変そうだ。
……まあ、説得は博子にやらせればいいだろう。もちろん親父もそう思っていたから博子直属の兵を夜見子に貸し出すことも、博子のドイツ行きも許したのだろう。
……まあな。
小野寺家の朝。
その日麻里奈の部屋には惰眠を貪る彼女を起こす聞きなれない声が響いていた。
「小野寺様。朝でございます。小野寺様」
「う~ん。……誰?」
「博子お嬢様の代理の者です」
「ヒロリンの代理?それでヒロリン本人はどうしたの?」
「所用で今日はお迎えに上がれません」
「ふ~ん。わかった。もう、起きたから大丈夫だよ。ご苦労様」
「そうはいきません。小野寺様が家を出るまでが私の仕事だとお嬢様から強く言われております。それで……」
「何?」
「お嬢様より小野寺様は声をかけただけではベッドから絶対に出ないので必ず実力行使をおこなうようにと命じられています。また、これについては先ほどお母さまからも手抜きを一切せず私の全力でやってくれという許可を頂いております。では、失礼いたします」
「うぎゃ~」
……博子様。それで、その目覚まし係とやらを誰に命じたのですか?
……麗です。目の前にいたので。
……非常に申し上げにくいことなのですが、博子さまのその人選にはいささか問題があるかと。
……そうなのですか?
……あの者はたしかに命じられたことを確実に実行いたします。ただ、融通が利かないところがあり、今頃ご友人の方はたいへんかわいそうなことになっているのではないかと思われます。
……あらら。
サブタイトルは、独ソ戦の転換点となったあの有名な逆包囲戦のソ連軍作戦名「Operation Uranus」から。




