闇はさらに深く広がる 静かに そして ゆっくりと
……お久しぶりです。日野様。
……うむ。おまえも元気でやっているか?
……おかげさまで。
……まず聞こう。おまえがここにやってきたのはどのような理由だ。北高教師という肩書を持つおまえが私的にその学校に通う生徒が住まうこの館にやってくるのはさすがにまずかろう。
……はい、それは重々承知しております。ですが、日野様が隣の施設の建設を指揮すると聞き、工事を始める前にどうしてもお話しなければと思い、やって参りました。お話だけでも……お願いいたします。
……博子に関することか。
……はい。
……それはおまえが現在仕えている者ではなく、私が聞かねばならぬ話なのか?
……はい、そのとおりでございます。
……わかった。
まもなく七月になろうとしていたこの日の深夜。
その隣では二十四時間体制で大規模な建設工事がおこなわれていることが嘘のように静まり返った広大な北高敷地の一角に建つ本来なら誰もいないはずの古びた木造校舎の周辺にはそれを取り囲むように百を超える人影があった。
入り口付近にはさらに二十人。
「古いな」
「そうですか?私には趣があって素晴らしい建物に思えるのですが」
その集団の中心にいた一番の年長者であるその男の呟きに、隣の少女がうれしそうにその言葉を口にした。
「外観については私も博子と同じ意見だ。だが、安全性となるとやはり難ありと言わざるをえないだろう」
「まったくです。このような危険極まりない犬小屋に博子様たちを押し込めるようにと校長たちに進言したのはおまえであると聞いています。いったい何を考えているのですか?森本」
再び呟いた男の言葉に別の女の刺すような言葉が続いた。
「私も危ない場所であることは十分に承知していたのですが、あのときはこの場所を知らせなければお嬢様のクラブが認可されない状況だったので……」
「万が一、博子様が少しでもお怪我をされた場合は、あなたの首は胴体から離れると思いなさい。もちろん簡単には殺しません。その前に爪を一枚ずつ剥ぎ取り痛覚を持っていることをたっぷりと後悔させます。そして爪の次は手足の指を一本ずつ……」
「由紀子よ、その辺で許してやれ。森本も橘花の人間だ。それくらいのことは十分承知している。それにこの建物に問題があることはわかっていたと言っているだろう」
「わかっているというのならこの男の罪はさらに重いです。森本、罰として今すぐ親指の爪を差し出しなさい」
「黙れ、サディスト」
「……」
「深夜のお説教はそろそろ終わりでいいですか?」
男のその言葉とともに沸き上がった彼女の配下たちのはっきりとわかる殺意とそれに呼応するようなもうひとつの殺意の塊がぶつかり合う空気を中和したその声はこの場のすべてを支配する少女のものだった。
わずかな沈黙後、まず鉾を納めたのは年長者の方だった。
「……言い方が悪かったようだな。それについては謝罪しよう」
「……私も言い過ぎました。森本、私の言葉は忘れてください」
「……もちろんでございます」
「結構です。相手が誰であろうとも私の前での内輪もめは許しません」
「申しわけありません。博子様」
「……さて、中を見せてもらおうか。森本、カギを開けろ」
「はい」
それは一瞬の出来事だった。
「……どうぞ」
「さすがだな。相変わらず見事な手際だ。まあ、この程度のカギを開けることなどおまえにとっては造作もないことか。では、中に入ろうか。博子、案内をしろ」
「はい」
それから一時間ほど経った同じ場所。
「どうでした?」
「実物は思っていた以上に古い。そして、管理が相当悪かったらしく見た目以上に危険だ。大きな地震があれば倒壊は免れない。しかも、すべての設備も貧弱だ。今も昔も木っ端役人の仕事はろくなものではないな」
「そういうことであれば、いっそのこと今ここで破壊してしまえばよろしいのではないのですか?」
「まあ、そのとおりなのだが、人為的に建物を破壊した場合には当然管理をしている者たちが責任を問われることになる。それだけならまだどうにでもできるが、一番の問題は博子がそれを望んでいないことだ」
「そのとおりです。私はこの木造校舎が好きなのです。破壊などもってのほかです。しかも、この校舎の管理は私たちがおこなっています」
「ですが、このボロ小屋が危険だということがわかった以上は、たとえ博子様がどれほど存続を望んでいても警備責任者としてはとても容認できるものではありません。このボロ小屋は即刻破壊すべきです」
「管理者責任はどうする?」
「それは顧問ひとりに押し付ければ済むことです。なにしろ顧問をしている上村なる教師はその口実になる愚かな行為を毎晩おこなっていますので」
「しかし、ここが使えなくなると、私たちが活動できる部屋がなくなります」
「いいえ、第一調理実習室がありますのでその点はまったく心配ありません」
「でも、むこうは料理研が……」
「現在あの部屋を占拠している料理研と僭称している無礼な輩を排除すれば済むことです。配下の者を動員して今晩中に料理研の部員全員を狩ってまいります。素人のガギ五十人を狩るなど造作もないことです」
「それはこの学校の教師とは思えぬ言葉だな」
「それは私の借りの職業です。それに私にとって博子様以上に大事なものなど存在しません」
「由紀子よ。おまえの忠誠心は見上げたものだが、それはさすがにやりすぎだ。それよりももっとよい方法がある」
「と、いいますと」
「建物の外観を残しながら中身をそっくり入れ替える工法があるのだ。もちろん我々橘花がおこなう工事だ。安全なものに改装するついでに校内設備のすべても一流ホテルにも負けないものにしてやろう。しかも、工事期間中でも博子たちの活動を阻害しない。どうだ?これなら文句あるまい」
「すばらしいです」
「……私も賛成します。ですが、そのようなことが本当に可能なのですか?」
「当たり前だ。私を誰だと思っているのだ」
「……建築にかかわるすべての神に愛されしもの」
「私自身がそう名乗ったことは一度もない」
「では?」
「橘花の建設部門の責任者、日野誠だ。櫛橋、おまえに命じる。私の考えに沿って建築計画を策定しろ。来週から工事を始めるので期限が二日だ。工事の指揮もおまえに任せる」
「承知しました」
「二日?二日で設計や資材調達まで終わらせるのですか?」
「その程度のことは我々にとっては児戯にも等しい。なあ、櫛橋」
「そのとおりです。ところで、今日初めて現物を見たのですが、部分的に図面にない素人による中途半端な改装がおこなわれていました。それについてはどういたしましょうか?」
「博子はそれについて何か知っているか?」
「はい。それは私の友人が知り合いの業者にお願いして工事をしているものです」
「なるほど。そういうことなら、そこは形だけでも残してやれ」
「承知しました。しかし、その田舎業者の安普請は我々の工事には邪魔でしかないものなので今後は遠慮していただきたいものです。あと腐れがないようにその業者を消してしまいますか?」
「いや。今後の改装工事は我々が完全に引き継ぐことにすればよかろう。その交渉は暇を持て余している一の谷か晶にやらせる」
最近ではあまりお目にかかることができない古い木造校舎を前に興奮気味の日野が櫛橋たちと建築談義を始めると、その隙を縫うようにこの学校の体育教師の肩書を持つ女が少女にそっと近づき囁くように訊ねた。
「……博子様にお訊ねしてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「博子様のクラブの顧問をしている上村恵理子なる女は毎晩この建物に忍び込んで酒を飲んでいると聞いておりましたが、博子様はなぜあの女が今晩現れないことを知っていたのですか?」
「恵理子先生自身が今晩は圭子先生に誘われた無料で高いお酒が好きなだけ飲める合コンに参加するのだと何度も自慢していましたので」
「なるほど」
「もっとも、その合コンは恵理子先生をこの校舎から遠ざけるためにこちらでセッティングしたものだったのですが」
「それから、日野氏は二日で工事を始められると言っていますが、私にはそのようなことできるとは思えません。ハッタリではないのですか?」
「いいえ。まちがいなく工事に入れます。心配はいりません」
……まあ、普通では絶対にありえません。それができる理由などひとつしかありません。
……これを見ろ。
……何だ、これは。
……博子からの連絡だ。日野の爺さんからも同様の作業通知が届いている。
……それは見ればわかる。俺が聞いているのは博子が部活動をおこなっている校舎の改造をなぜ日野がおこなうことになったのかということだ。
……耐震性に問題があるそうだ。
……だが、このボロ小屋は高校が管理しているものなのだろう。
……博子からの連絡には、かなり年期が入っているもので至急工事をおこなう必要があると日野に言われたが、学校側に任せていてはいつになるかわからない。そこで日野が学校の代わりに工事をすることなったと書いてある。
……そうであれば、学校側が即刻工事をするように県に圧力をかければ済むことだろう。それをわざわざ……。もしかして、日野には耐震補強以外に別の目的があるのではないか?
……おまえもそう思うか。まちがいなくそうだ。なにしろ改装工事は日野直属の兵だけでおこなうそうだからな。
……ん?工事は来週から始めるとあるぞ。ということは、日野はかなり早い段階からそのボロ小屋にも手を付ける準備をしていたということか……。それを今になって工事が急に決まったかのように連絡してくるとは。やってくれるな、あの爺さん。
……まあ、あの男がやることにはすべて意味がある。しかも、博子が放課後に過ごす場所を工事するのだ。放っておいても構わないだろう。
……ところで、親父は日野がいつから準備をしていたと思う?
……おそらく、日野が博子の館にやってきた直後だろうな。日野にボロ校舎の危険性を知らせた者がいるのだろう。
……それが博子自身なら、このような手の込んだことをする必要はないのだから、日野に知らせた者は博子以外ということか。
……そうなるな。
……それは誰だ?
……そもそもあの頑固者に会いに行く者など橘花のなかでもそうはいない。そのうえ人嫌いの日野がその者が訪ねてきたからといって簡単に面会するはずがないからその者は日野にかなり近い人間と考えられる。その条件に当てはまる者で現在博子の護衛隊に属しているのはひとりしかいない。日野の元側近で現在影として北高に入っている森本だ。おそらく知らせたのは森本だろう。
……だが、その森本は例の建物の情報を日野に知らせていなかったようだぞ。一の谷の話では、日野はあの施設について博子に聞かされるまで本当に知らなかったようだからな。
……煮え湯を飲まされたとでも言いたそうだな。だが、日野が森本を信用している点がまさにそこなのだろう。口が堅いことと相手が過去にどれだけ世話になっていようが部外者には情報を漏らさないという資質はあの男がおこなっている仕事には不可欠であろう?だからこそ、日野は森本を博子の護衛隊に加えるように推薦したのだ。
……だが、最後は元上司に泣きついたわけだ。
……森本としては、それがギリギリのタイミングだったのだろう。だから、日野もそれに応じた。そんなところであろう。
……涙が出るくらい美しい師弟愛だな。ところで、博子はそれを知っていると思うか?
……聞くまでもないだろう。日野の言葉だけですべてを察しただろうよ。日野もそんなことは織り込み済みだろうな。だから、日野の芝居は別の人物を対象にしたものなのだろう。
……たとえば、由紀子か。
……そういうことになる。自分に情報を流した森本を守るために。まあ、そんな人情話などどうでもいい。問題は日野があの校舎にどのような仕掛けを施すかだ。
……楽しみだな。
……まったくだ。
第五章の本編「聖なる館」冒頭で語られていたのがこの話となります。




