古書街の魔女
東京都千代田区神田神保町。
橘花グループの至宝で「House of Cards」プロジェクトの責任者である一の谷和彦の姿は世界一の古書街の端に建つビルの一室にあった。
……天野川夜見子。彼女が暮らすこの建物を埋め尽くしている本が二千万冊とも三千万冊とも言われる彼女の蔵書のほんのわずかであるという有名なビブリオマニア。もっとも彼女が集めたその本の購入資金はほぼすべて橘花からのものであり、その蒐書方法も合法であるとは決して言えない。しかも、ひとつを、いや一人を除けば本がすべてに優先するという性格は完全に破綻している。個人的に絶対に関わりたくはないが、本に関する造詣と蔵書の数、そして何より本の蒐集能力という点を考えた場合には新しくできる古書店群を任せるにふさわしい人物は彼女以外に考えられないという晶さんの言葉はたしかに正しい。
「お久しぶりです。天野川さん。それとも、やはり夜見子さんと呼んだほうがいいでしょうか」
「呼び名などどちらでも構いません。それよりもここは知と教養の聖地です。金儲けにしか興味がなく本には無縁な無教養で潤いのないかわいそうな人生を送るあなたにもっともふさわしくないこの場所に足を踏み入れて何をしようというのですか。最初に言っておきますが、私が愛するこの地を汚すようなことを口にしたらその瞬間あなたは死ぬことになります。そのような話をするつもりでここに来たのなら、同じ橘花の人間として特別に見逃してあげますから、すぐこの部屋を出ていきなさい」
「この街の主とも呼ばれているあなたに対してそのようなことを話すつもりなどあるわけがないでしょうが。それに、さすがに無教養とはひどいですし、私だって多少ですが本は読みますよ」
「どうせ金儲けの指南書でしょうが。本当に卑しい男ですね」
「まったくの的外れとは言いませんが、せめて事業成功の秘訣が書かれた本と言ってもらいたいものです。それはともかく、今日はそのような物騒な話をしに来たわけではありません。あなたにひとつお願いしたいことがあってここに参りました」
「お願い?先ほども言いましたが、つまらないお願いなどして私の貴重時間を潰すようなことをしたら殺しますよ。私には世界中から本を集め、それを読むという崇高な使命があるのです。そのために日夜命がけで働いている者たちもいるのですから」
……世界中に散らばっている蒐書官と呼ばれる部下たちのことか。指示された本を手に入れるために粘り強く交渉するそのさまは無敵交渉官である晶さんも舌を巻いている。しかし、一方でどのような好条件を提示しても首を縦に振らない蔵書家はためらいなく殺して目的の本を強奪するという裏の顔を持つ人間の集まりでもある。橘花の犯罪行為の大部分はこの人の配下の者によっておこなわれているという噂もまんざら嘘ではないだろう。もっとも、私の目の前にいるこの人物も本のためならそれ以上のことだってやってのける。事実いったいどれだけの国会図書館の蔵書が彼女の工房で制作されたフェイクとすり替えられたことか。集めた本を読むため古今東西すべての文字を読み解けるようになったという得難い才能があるとはいえ、当主様もこのような狂人をよく放し飼いにしておくものだ。
「安心しなさい、一の谷。殺した後には皮を剥がして不足しているフェイク用の羊皮紙代わりに使ってあげます。これで」
彼の心の声が真実であるあることを自ら証明するように、夜見子はそう言ってこれ見よがしに引き出しから取り出したのは三本の手のひらサイズのナイフだった。
……そして、これだ。一日百冊読破すると豪語するこの引きこもりがいつどこでトレーニングをおこなっているのかは不明だが、彼女の近接戦能力が高いのはよく知られている。そうでなければ、たとえあの人が傍らにいるとはいえ橘花で一、二を争う武闘派であるあの蒐書官たちが唯々諾々と彼女の命令に従うはずがないのだ。
「上品な細工が施されたそれはペーパーナイフですか?」
「そうです。しかし、これは特注品でもっと固いものでも切れます。人間とか。それに『スロート・カッター』や『クイック・キル』には劣りますが、私も優秀ですよ。あなたと後ろにいるあなたの護衛ふたりの頸動脈を切る程度なら楽勝です。嘘だと思うのなら今ここで試してみますか?」
「いえいえ、私も命は惜しいですからそれは遠慮しておきましょう。それでお願いの話にもどりますが、私の話を聞いたらあなたは絶対にそのお願いを断らないと断言できます。それくらいいい話です」
「おもしろいことを言いますね。では、聞きましょうか。そのいい話とやらを」
「本に囲まれたこの部屋に引きこもってはいますが、あなたも橘花の幹部のひとり。当然あなたの耳にも入っているとは思いますが、私はあるプロジェクトを任されています」
「千葉の田舎に不似合いな巨大ショッピングモールをつくる話のことですか。当主様もそのようなつまらないものにお金を使うことをよく許可したものだと感心していました。その半分でも私に回していただければ、もっと有益なものに投資したものを」
「あなたにお金を渡せば、すべて本の代金になるだけでしょうが。それに、私に言わせればあなたの配下である蒐書官が起こした事件のもみ消しにかかった費用こそ無駄……」
「私の前でもう一度部下たちを侮辱する言葉を吐いたら生きたまま皮をはぎ取りますよ。一の谷」
耳をかすめたナイフとともに投げつけられた夜見子の言葉は冗談などではなく、明確な殺意が籠った警告であった。
もちろんここで殺される予定もなければ、そのつもりもない一の谷はすぐさま話題を変える。
今度は言葉を慎重に選んで。
「実は夜見子さんにお願いしたいというものは夜見子さんがたった今こき下ろしたその施設に関するものです」
「そのような場所で私に何をさせようと言うのですか?行きたくないですね。書店どころか教養ある人間もいない未開の地などには」
「そこはそこまではひどくないです。それで肝心のお願いですが、予定ではそこには古書店を八軒入れる予定です。そこの運営をあなたに任せたいのです。もちろん店のセレクトから商品の選定まですべてあなたに任せます」
「……かの地にそのようなものが本当に必要なのですか?しかも八軒も。だいたい未だ電気が通らず夜になると読書もできないような文明社会から取り残された秘境にそれだけのものを必要とするくらいに教養人が住んでいるとは思えないのですが」
だが、その言葉とは裏腹に目の前にいる相手の雰囲気があきらかに変わったことを感じた一の谷は隠し持っていた切り札を口にする。
「ちなみに、そこの主な客はお嬢様です」
その効果は抜群だった。
「お嬢様?もしかして、その施設はお嬢様のためにつくられるものなのですか?」
……やはり知らなかったようですね。でも、これで終わりではないですよ。
心の中で呟き、さらにもう一枚のカードも切る。
「そして、その施設建設を私に依頼したのもお嬢様であり、実際に建設現場の責任者はあの日野さんです。もし、手抜きして半端なものを出店したらお嬢様を溺愛している日野さんに殺されますよ」
「日野?日野誠までそのプロジャクトに関わっているのですか?」
「はい。もしかして日野さんは苦手ですか?」
「いや。あなたと違ってあの爺さんは質の良い本を読むし、建物に関わる稀覯本収集家であるため私の上客でもあります。そこにある本もあの爺さんのために手に入れた建物装飾に関わる稀覯本ですが……」
「それで、いかがでしょうか」
博子の名前が出た以上自分よりもはるかに博子との付き合いが長くその度合いも深い夜見子が一も二もなく承知することはわかっていた。
だが、彼はあえて訊ねた。
ここまで散々侮辱されたささやかなお返しとして。
もちろん彼女の答えは決まっている。
「……わかりました。憧れである自分の古書街が持てるうえにそれがお嬢さまのためであるとなれば、たしかに私には断れない話です。偏屈爺さんに安全祈願の人柱にされないように精一杯やらせてもらいましょう」
「お願いします」
「ところで、プロジェクトにはあの女も関わっていると聞いていましたが、それは間違いだったのでしょうか?」
……やはり来たか。
一の谷にとっての最重要案件を承諾した夜見子がついでのように訊ねた言葉に含まれたあの女とは、一の谷とともに橘花グループの至宝と呼ばれている墓下晶のことである。
実は夜見子と晶は高校そして大学を通じての親友であると同時にライバルでもあり、それは同じ橘花グループに所属している現在でも変わらないということにはなっているのだが、前者はともかく後者に関していえば華々しい活躍とそれに見合ったふたつ名が与えられた無敵交渉人と引きこもりの稀覯本蒐集家を同等に扱っているのは当人たち以外には同年代の女性がひとりいるだけだった。
そのような裏事情まで知っていたためなのだろうが、いざそれを聞くとやはり皮肉交じりの笑いが猛烈な勢いで込みあげてくる。
だが、それをこの場で表に出すことは自らの死と同義語である。
一の谷は笑いたいという衝動をどうにか抑え込み、一ミリグラムも感情を出すことないままその言葉を口にする。
「いいえ。晶さんはたしかに参加しています」
「それではこのような交渉はあの女の役割ではないのですか。それこそ、あの女の唯一の存在意義でしょうに。見たかったですね。私に願いを無下に断られて崩れ落ちるあの女のぶざまな姿を」
……親友に会いたかった。の間違いではないですか?
「たしかに、これは彼女に属する仕事なのですが、抜けられない別の仕事が入っているので私がひとりで来ることになりました」
……晶さんには「たとえ仕事であっても、あの女に頭を下げるなど私のプライドが許さないから行かない。あなたひとりで行ってください」と言われたのですが。まあ、こちらも間違いなく嘘ですね。なにしろ、この変人を推薦したのは晶さん、あなたなのですから。照れ隠しとはかわいいものですね。ふたりとも。
「それは逃げたということですね。卑怯なあの女らしいやり口です。ここにやって来ていたら土下座させて私の靴の裏を舐めさせたあとに顔を思いっきり踏みつけてやったのに惜しいことをしました。さて、一の谷。私もやるからには納得できるものにしたいので近いうちに資料を見せてもらうためにあなたのオフィスを伺います。それから私の愛するお店たちについての詳細はあの偏屈爺さんと直接交渉させてもらいますがそれは構わないですよね」
「問題ないです。どうぞよろしくお願いします。ちなみに時間はあまりないことはお忘れなきよう」
こうして一の谷は天野川夜見子を自らがリーダーを務める計画に引き入れることに成功したのだが、その代償も大きかった。
一の谷の計画では八軒の予定だった古書店の数はプロジェクトの責任者である彼の知らないところで変更が加えられ九月の開業時には十五店、半月後にはさらに倍する数となり、最終的には五十を超える数となっていく。
もちろん自らの計画をめちゃくちゃにされた一の谷は頭を抱えたが、突如出現したにも関わらず、すでに数世紀以上営業しているかのような堂々たる風格を持ち、それにふさわしい独特な雰囲気を醸し出すその古書店群と、その雰囲気に負けない質量ともに完ぺきな品揃え、そしてなによりも夜見子が「私の領域」と呼ぶこの新しい古書街のために自らのコレクションからセレクトして投入した膨大な数の稀覯本に引き寄せられた蝶達がこの施設の主要な客に育っていく様を眺めながら、彼はこのプロジェクトが成功したことを実感することになる。




