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小野寺麻里奈は全校男子の敵である  作者: 田丸 彬禰
第十一章 光と闇の邂逅
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光と闇の邂逅

 麻里奈の意向どおりに創作料理研究会も文科系クラブの入れ替え戦ともいえる文化祭に参加するということは決まったものの、そのための特別な準備を開始する様子などまったくないままに、また少し時間が進んだある日の放課後のことだった。


 女性陣からの嘲笑の中でおこなわれた恭平による本日の悶絶パフォーマンスも滞りなく終了し、あとはまみと博子それに抜け殻状態から叩き起こされた雑用係の恭平がおこなう後片付けが終われば今日の部活が終了するという淀んだ空気が漂うなかで、紙コップに入った少し苦めのコーヒーを飲んでいた創作料理研究会の顧問である恵理子が意を決したかのように意気地のなさから長らく先延ばしにしていた自らにとっての重要案件をついに切り出した。


「そういえば、私はまだ約束を果たしてもらってないわよね」


「約束?何の」


 乾坤一擲、恵理子渾身の問いにそれとは対極と言えるような気のない返事を返したのは砂糖がタップリ入ったハイビスカス茶を飲んでいた部長の麻里奈だった。


 言うまでもないことであるが、常識が通用しないここ第二調理実習室では債権者が放置していた約束を債務者である相手がわざわざ持ち出すことはない。


 しかも、その債務者がこれまで債務不履行を乱発してきた麻里奈ということになれば、なおさらである。


「ほら、私がここの顧問をやったらって話よ」


「ん?やったらどうなるの?」


 恵理子が差し出すヒントにもまったく反応しない麻里奈。


 もちろん、ここで自らそれを宣言すればケリはつく。


 だが、こういうことに関してはからっきしの恵理子がそれを言えるはずもなく、ただただ顔を赤くするだけであった。


 そして、やっとのことで口にした言葉がこれだった。


「え、えっと……ほら、あれよ」


 まったくもって情けないかぎりである。


 だから、結果がこうなる。


「わからないよ。先生。アレだのソレだのを連発するのは認知症の前触れだとこの前テレビでやっていたよ。いくらなんでも早いでしょう。幼児体型の認知症なんか聞いたことないよ。まあ、先生は幼児体形だけど立派なおばさんでもあるから仕方がないけど」


「それは全部違うから。とにかく、あなたはすぐに思い出すべきなのよ。私の名誉のために」


「そんなことは知らんがな」


 話がまったく進まないので顔を真っ赤にしている本人の代わりに言ってしまえば、今から七年前、恵理子が高校三年の時に入学してきた麻里奈の兄小野寺徹に一目ぼれをした。


 だが、ライバルは「増えることはあっても減ることはない」といわれたくらいに学校内外に溢れているうえに、こと恋愛に関しては完全に奥手の部類に属する恵理子は、結局デートどころか直接告白することもできずに一年間が過ぎ、卒業の日を迎えてしまう。


 しかし、そこで恵理子が徹を完全に諦めたわけではなかったことは、徹の妹である麻里奈が持ちかけたある怪しげな話にホイホイ乗ったことでもあきらかである。


 その怪しげな話というのが、現在恵理子が麻里奈に血相を変えて履行を迫っている例の約束となる。


 だが、「現在顧問をしている料理研究会を辞めて、自分が立ち上げた創作料理研究会の専任顧問になれば自分の兄である小野寺徹とのデートを妹特権によりセッティングしてやる。その後の進展についても、顧問として頑張りようによっては、妹として最大限の応援と援助を約束する」などといういかにも胡散臭いその約束を、麻里奈はペテンの道具として使用した直後に忘却のかなたに放り込んでいたので、二か月以上も過ぎたこの日にようやく発掘された時には、麻里奈の記憶回路の中ではそれはすっかり朽ち果てた状態になっていた。


 麻里奈は完全に忘れ、恵理子は言い出せぬというこのおかしな状況を打破し恵理子にとっては救世主となったのは、この二人とともに創作料理研究会が誇る「悪のスリートップ」を形成する創作料理研究会の料理係兼副部長であり、ふたりよりは少しだけ常識がありそうな地味顔の自称天才料理人ヒロリンこと立花博子である。


「まりんさん。先生が言いたいことは、先生がうちのクラブの顧問になったら、まりんさんがお兄さんと先生とのデートをセッティングするという約束のことだと思います」


 片づけが終わり、まみ、恭平ともに麻里奈たちが座るテーブルに戻ってきた自称天才料理人の一言によって、ようやく自分が犯した数々の悪事のひとつにそのような出来事があったことを、かすかに思い出したらしい麻里奈も呟いた。


「そういえば、そういうことを言ったかも。ずいぶん前に」


「そうそう、それよ。ナイス、ヒロリン。それでどうなったの?あの約束は」


 ようやく自分との約束を思い出したらしい麻里奈に、麻里奈がまた忘れぬうちに決着を図ろうと物凄い勢いで捲し立てて、このままでは数分後に期待で爆発しそうな恵理子を憐れむように見上げながら、人前では決して口には出せない諸般の事情があるとはいえ、こちらも似たような餌で釣られ約束が果たされないまま麻里奈に放置され続けている創作料理研究会に所属している唯一の男子高校生が心の中でこう呟いた。


 ……まあ実現の可能性はないな。


 案の定、恭平の予想と世間の期待をまったく裏切ることなく、ハイビスカス茶を飲みほしたティーカップの底を残念そうに眺めながら麻里奈はそれが当然かのようにこう言い放った。


「でも、それは期限切れだよね」


「はぁ?」


「だから、それはもうとっくの昔に賞味期限切れになった約束だよって言っているの」


「え~」


 いつもなら、ここで騙されたことにようやく気がついた被害者が泣きながら渋々債権を放棄して麻里奈のペテンが完了して話は終了となるのだが、この日は少しだけ違った。


 なんと恵理子がここから驚異の粘りをみせたのだ。


「ということで、先生。その約束はなかったということで……」


「何を言っているの。そうはいかないわ。私は約束どおりこうしてこのクラブの顧問として毎日頑張っているのだから、あなたも私との約束を果たしてちょうだい。だいたい、あなたは本当に小野寺君にお願いしてくれたの?」


 その活動の大部分が学校のクラブ活動の範疇に入っていないこの創作料理研究会において恵理子が顧問として頑張ることが威張って言うほどいいものなのかも微妙なところではあるのだが、さらに微妙なのはこちらである。


「もちろん、ちゃんとしたよ。この前も確認したら今はちょっと忙しいから、そのうちとかと言っていた」


 ……麻里奈よ。だいたい、おまえはさっきまでその約束を忘れていたではないか。それなのにいけしゃあしゃあとこの前も確認したなどと言いやがって。怪しい。いや、間違いない。どう考えてもこいつは徹さんに先生とのデートの話などしていない。


 矛盾だらけの麻里奈の言い訳に、再び心の中で鋭いツッコミを入れる恭平であった。


 もちろん彼の指摘を待つまでもなく、麻里奈が最近兄に恵理子とデートについての確認したことはもちろん、恵理子とのデートを頼んだ事実もこの世どころかあの世の隅々を探しても存在しないことは誰の目にもあきらかだったのだが、この日の恵理子の粘りはまだまだ続く。


「とにかく、あの時にちゃんと約束をしたのだから、約束は守ってもらうわよ。小野寺君に連絡していつデートしてくれるのか確認してよ。今すぐ。ほら、また忘れないうちに早く電話してよ」


「先生、今日はずいぶん力が入っているよね」


「そんなことはぜんぜんないから」


「いやいや、今日の先生はずいぶん張り切っています。これは何かあったに違いありません」


 普段の部活中どころか授業でもみせたことのない恵理子の粘りに、この場にいる全員が不審に思い、まず約束の相手である麻里奈が、続いて博子がそれを口にし、春香がついにその核心に辿りつく。


「ライバルに先を越されたとか。それとも行き遅れ候補ナンバーワンに確定して焦っているのかも。更なるライバル出現という可能性も考えられるよね」


「そんなことはないわよ。だいたい、私は行き遅れと言われるほどの年齢じゃないから。ごまかされないように念を押しているだけよ。約束は守るものだということをまりんに教えようと思って。世間の常識というものを生徒に教えることもこの学校の教師としての務めでしょう」


 春香の鋭いツッコミにうろたえながら、恵理子が顔を真っ赤にして必死に否定しているものの、実はこれがすべてビンゴであった。


 恵理子の没落は中倉由紀子という名の体育教師が新しい年度が開始されてからしばらく経ってという実に微妙な時期に北高にやってきたことから始まる。


 年齢は恵理子より四歳年上の中倉由紀子というその教師は体育教師らしい豊満な体にそれとは対照的な知的オーラを纏うという妙な色気を漂わせ、同僚の男性教師たちを見下す彼女のその傲慢な言動はその魔性の魅力も相まってそのようなものにまったく耐性のない田舎高校の男性教師たちをあっという間に虜にし、恵理子から鞍替えした彼らの多くは由紀子の下僕としての生活を送り始める。


 だが、彼女の悪夢はそれだけでは終わらない。


 ちょうどそのころ第二調理実習室から漏れだしたあの噂が職員室を侵食し始め恵理子の評価は一気に下がったのだ。


 そして、数日前。


 朝礼時の発表という形で恵理子にトドメを刺すようなさらなる悲報が届く。


 なんと昨年一緒にこの学校に赴任し自他とも認める恵理子最大のライバルである数学担当の女性教師田代玲子が、同僚である古典を教える教師高久重文と結婚することがわかったのだ。


 一番負けたくない玲子に先を越されたということだけでも、恵理子にとってはゆゆしき事態だというのに、時を同じくして数か月前まで北高職員室内結婚したい同僚第一位だった自分が、短期間に並みいるアラサー教師を抑えて売れ残り候補筆頭という不名誉な地位に駆け上っているという不本意の極みであり、当然聞きたくもない情報が風の噂で恵理子の耳に入ってくるというダメ押しと言える悪い出来事がそれに続いた。


 もちろん、評価が急降下した原因の大部分は麻里奈率いる創作料理研究会に関わったことに由来しているのはあきらかなのだから、諸事情があるにせよ、その結果を招いたのは自らの意思のよるものであることくらいは恵理子も十分理解していた。


 そして、このままこの状況を放置していれば、恭平に対する女子生徒たちの評価同様「下がることはあっても上がることはない」といういわゆる「重力の法則」によって、評判は下がる一方であることもわかっている。


 しかし、ここで今回のコースアウトの間接原因ではあるが、実は本丸ともいえる麻里奈の兄であり高校時代の友人たちの誰のとっても憧れの的だった小野寺徹をゲットするようなことになれば、最近ため込んだ多額の負債が一挙に完済されるだけでなく、今まで自分を追い抜いていった玲子を含むライバルたちを逆転し、燦然と輝く勝ち組として名前が轟くことができるのだから、まずはデートと、恵理子が仕事以上に頑張るのも無理からぬところではある。


 だが、これがこれから起こる恵理子にとってあってはならない悲劇を引き寄せる原因となる。


 もちろんこの時点では彼女がそれに気がつくことはなかった。




「しかたないな。じゃあ、ヒロリン。兄貴に電話してよ」


 赤ペンキで「あなたが電話をするまで恵理子は一歩も動きません」と書かれた顔で諦める様子をまったく見せない恵理子の驚異の粘りに遂に麻里奈が根負けした。


「それでお兄さんが電話に出たら代わりますか?まりんさん」


「そんなわけないがないでしょう。ヒロリンが話をつけてよ」


「わかりました」


 麻里奈に押し付けられた麻里奈の兄小野寺徹との面倒な交渉をあっさりと了承した自称天才料理人でもあるエセ文学少女が取り出したのは、地味顔の彼女にはまったく不似合な真っ赤なスマートフォンであった。


 外見も、そしてその言動も機械音痴の代表のような博子がこのポンコツクラブ関係者で唯一のスマートフォンを所有者ということ自体がすでに大いなる驚きなのだが、恵理子にとってさらに衝撃的だったのは博子がさっさと電話をかけ始めたことだった。


「ち、ちょっと、まりん。なぜあの子が小野寺君の携帯電話の番号を知っているのよ」


 今度は「納得できません」と書かれた顔で恵理子が麻里奈に訊ねると、麻里奈がこともなげに恵理子の聞きたくない事実を口にした。


「兄貴に教えてもらったからでしょう」


「……そうなの。じゃあ、あとで……」


 教えてもらおうと続けようと恵理子の言葉を遮るように麻里奈の言葉が割り込んだ。


「兄貴は、自分が教えた相手以外からの電話は絶対出ないよ。それくらいしないとダメらしいよ。なにしろ数が多いから」


 もちろん何の数かは知っているし、自分もなんとかそこに加わりたい恵理子を盛大にガッカリさせる麻里奈の話の最中にどうやら、麻里奈の兄小野寺徹と電話がつながったらしい。


「もしもし、私です……」


 その後は部屋の隅に移動してボソボソと話しているので内容はわからないが、博子の表情はあまり見かけないものであった。


 このエセ文学少女は普段から笑顔は多いが、それはどちらと言えば、何に対してもヘラヘラと笑っているだけで、本心からのものとはとても思えない感情の色が薄いものばかりであり、現在電話中の彼女が見せているような表情は創作料理研究会の活動中にはお目にかかれないものであった。


「も、もしかしてヒロリンと小野寺君って仲がいいの?」


「すごくいいよ。ただ見た目も実年齢もかなり離れているからふたりで歩いていると歳の離れた兄妹に間違えられているけど」


 それが、さすがに「ふたりはつきあっているわけではないよね」とは聞く勇気がなかった恵理子の不安に満ちた精一杯の問いに対する麻里奈の答えだった。


「兄妹……まあ、さすがにヒロリンと小野寺君じゃ釣り合いが取れないし、恋人には見えないか。とりあえずよかった」


「なにがよかったのですか。先生は、また失礼な想像をしていたわけではないでしょうね」


 電話が終わったらしい博子の声だった。


「たまたま近くにいるようだったので、今日の六時に正門前で待ち合わせということで話をつけました。お兄さんには五時半と言ってありますので、たぶんピッタリになるでしょう」


「あんがと」


「どういうことですか。まりんさんのお兄さんを三十分も待たせておくなんて申しわけないですよ。ヒロリン」


「そうでもないよ」


 何事も真面目なうえに、大好きな麻里奈の兄を待たせるなど失礼すぎるとまみは考えたのだが、自らも時間にルーズな知り合いに対して同じことをやっていた春香はそれをすぐに理解した。


「要するに遅刻の常習犯ということでしょう。まりんを見ればわかるよ。さすがは兄妹というとこかな。もっとも、どこにいるかは知らないけれども、突然電話して三十分後に来いと要求する方が酷というもので多少の遅れは大目に見なきゃいけないけどね」


「それに徹さんより一億倍だらしない麻里奈の場合は遅刻一時間がオンタイムだから徹さんのほうがはるかにマシということだろう。麻里奈の時間にルーズなのは天下いっぴ○%×$☆♭♯▲!※○%×$☆♭♯▲!※」


「橘。貴様はやはり愚かだ」


「まったくです」


「右に同じ」


 春香があえて触れなかったことを堂々と口にして、麻里奈からありがたいご褒美をちょうだいして踏みつぶされたカエルのようなうめき声を出して喜びを噛みしめる愚かな男子高校生をひとしきりこき下ろした創作料理研究会関係者の話題は麻里奈の兄へと移る。


「楽しみだな。先生がメロメロというまりんの兄貴」


「本当ですね。私も楽しみです。まりんさんのお兄さん」


「私はちっとも楽しみじゃないよ。ろくでもないことしか起きないし。それに兄貴は本当に性格悪いからガッカリすると思うよ。」


「お兄さんは性格がいいとても素敵な人です」


「なぜそこで『は』を強調するのよ。それではまるで兄貴は性格がよくて私は性格が悪いみたいじゃないの」


「俺は当然ヒロリンに一票○%×$☆♭♯▲!※」


 真っ先に賛意を示した恭平の脳天には再び麻里奈の力強い拳が直撃し、もはや人間の言葉では表現のしようがない気持ちの悪い声を出して再びいただいたご褒美に喜びをあらわにする元祖悶絶パフォーマーであった。


 しかし、どうやらここでは麻里奈による口封じ作戦は失敗だったらしく賛同の声が次々に集まる。


「当然私はヒロリンに一票」


「まりんの兄貴には会ったことはないが、とりあえず私もヒロリンに入れておくか」


「私はもちろんまりんさんに一票です」


「ありがとうまみたん。そして裏切り者である春香と先生、それから恭平はこれから地獄に落ちればいい」




 さて、ここであらかじめ宣言しておこう。


「彼女が地獄に落ちたらそこの住人すべてが天国に亡命する唯一無二の存在」が最後に発したこの呪いの言葉であるが、このあとすぐに想像を絶する形で具現化されることになる。




 時間になり全員で待ち合わせ場所である校門にやってきたものの、やはりというべきかまだ徹は来ておらず、付近でうろうろしていると待ち人の代わりに現れたのはどう見てもいいことだけはしそうもない風体の若い男が五人だった。


「こんにちは。松本まみさん~」


 話し方から判断すれば、見た目だけでなく頭もあまり良さそうではない。


「まみたんの知り合いなの?」


「いいえ、全然知らない人です」


「当然でしょう。まみたんがこんなゴミと知り合いのはずがないだろう。橘以外は」


「おい、春香。なんでそこで俺の名前が出てくるのだ」


「当然だろう」


「いやいや全然当然じゃないぞ」


「それにしてもこんなのが校門前をウロウロしているのに学校は何も対策を講じないのか」


「愚かだな」


「まったくです。ただし、すぐにでも排除可能なのでそれほど問題はありませんが」


 そして、麻里奈にそっと近づいた博子が囁くように続ける。


「……どうしますか?まりんさん。合図すればすぐにでも清掃作業は可能です。今日はなんと護衛が五人もいますのであの程度の輩など瞬殺です」


「……いやいや、しばらく遊んでやろう。それに、できればこいつらの始末は遅刻した罰として兄貴にやらせたい」


「わかりました。それにどうしようもなかったら私がやればいいわけですから。素人五人ならあっという間です」


「それはダメ。そのときは私もやるよ。いつぞやのように出番なしで武勇伝を広められるのは御免被る。やっぱり武勇伝は自分でおこなってこそだよ」


「わかりました。では、先に決めておきましょう。私が右の三人。まりんさんが左のふたり。それでいいですか」


「いいよ。でも、それはあくまで最終手段。とりあえずは兄貴が来るまでの時間稼ぎだ」


「わかりました」


 一方、目の前にいる少女ふたりがまさか自分たちを狩る算段をしているなどとは爪の先ほどにも思っていない知的で思慮深い五人の男たちはこの時点ですでに決定していた永遠にやってこない明るい未来について呑気に語っていた。


「ラッキーだな、こっちも五人、そっちも五人。まあ一人ババアもいるが、とりあえず今から合コン行こうよ。合コン。それにしても北高女子はレベルが高いな。それとも松本さんの友達のレベルが高いのかな。ババアの代わりに同級生のお友達がいれば完璧だったけど、今日のところはこのババアでガマンするか」


「……さっきから連呼しているババアというのは、私のことかしら」


「おまえ以外にどこにババアがいる」


「……まだ二十四歳よ。失礼な」


 ババアという自らにとってのNGワードにすぐさま反応したのは、二十四歳という微妙なお年頃である女性教師だった。


 猛烈な再反撃を試みようとしたその女性教師だったが、彼女にとっての一番の敵はすぐ隣にいた。


「仕方がないよ。先生は確かにおばさんなうえに幼児体型だから若者に対する魅力度ゼロ。みたいな」


「でも先生。よかったですね。幼児体形のおばさん先生でもガマンしてくれるという人が見つかったみたいですから。これで先生の将来は安泰です」


「……ふたりともひどいよ」


 味方であるはずの麻里奈と博子から届いた力強い応援メッセージに恵理子は意気消沈し、本来はここで一番頑張らなければいけない教師が早々と戦線離脱し戦力外となった。


 ちなみに、男たちの勘定には入っていないようだが、恭平もいるので「そっち」は実は六人だった。


 その六人目である恭平はまみに自分の存在意義を見せる絶好の機会とばかりにほんのわずかな男気となけなしの勇気を振り絞って、男たちの前に立ったもの、残念ながら実力はまったく伴っておらず、一言も発しないうちに腹に強烈な一撃を食らって地面に接吻させられ「そっち」もすぐに五人になった。


「橘さん」


「……話にならん」


「まったくやられるのが早いです。それにしても変わらないですね。昔から恭平君はまりんさんにいいところを見せようとして失敗して、最後はいつもまりんさんに助けられていましたから。本当にいつまで経っても変わることがありません。さすが恥の伝道師」


「まあ、この根性なしの恥ずかしい男がやられるのは当然と言えば当然だ。ところで橘。道路の真ん中にぶざまに寝転がっているのは、私たちのスカートの中を覗き見するためではないだろうな。なにしろ変態であるお前には玄関に転がって小学生の妹のスカートの中を覗き見した前科がある。やられたフリをしてスカートの中を覗き見するくらいパンツ覗き魔であるお前なら十分ありえる」


「……それはかなり恥ずかしいな」


「まったくだ」


 まみは心配そうに声を上げたものの、麻里奈はため息とともに軽蔑の色を大量に込めた視線で見下ろし、博子は苦痛に歪む恭平の顔を嬉しそうに覗き込みながら呑気に恭平の黒歴史を披露し、春香にいたっては、いつもと同じように恭平を盛大にこき下ろし始め、恭平は身内だけでなく男たちからの失笑を買ってしまった。


「まあ、これで本当に五人対五人になったところで出発しようか。向こうに車止めてあるからさ」


 リーダーらしい男が指さしたのはあまり品があるとはいえない装飾がされた紫色のワゴン車であり、ほぼ全部のガラスには中が見えないように黒いスモークフィルムが貼られていた。


「一応お伺いしたいのですが、あのようなボロ車に本当に十人も乗れるのですか?嫌ですよ。みんなで車を押すなどという醜態をさらすのは」


 この状況下ではどうでもいいような博子の問いは、もちろん本当の待ち人が来るまでの時間稼ぎなのだが、そのような思惑など気がつくはずもない男たちは、幼児体形が自慢の女性教師の心をえぐるような心無い言葉を再び口にする。


「大丈夫。もしだめな場合は、ババアを捨てていく」


「ババアは粗大ごみか」


「そういうこと」


「それは言える。アハハハ。ババア、お前粗大ゴミな」


「そういえば、このババアから粗大ゴミの匂いがする」


「さすが粗大ゴミ」


 さほど年齢が変わらぬ男たちに粗大ゴミ扱いされた元北高男性教師の結婚したい同僚第一位で、現在は売れ残り候補筆頭である幼児体形が自慢のおばさん教師の哀れな末路はさておき、かわいい子羊の毛皮を被った二匹の獰猛すぎる狼も決断時期を迎えていた。


「面倒になるので、やはり車に乗せられる前にケリをつけたほうがいいです」


「そうだね。それにしてもバカ兄貴は来ないね。仕方がない。やるしかない。あ~だけど嫌だな。ここで大立ち回りを演じたら停学になるかも。正当防衛と認めてくれるかな……」


「いいえ。停学では済みません。手早く全員を片付けないといけないのでアレを使いますから。当然校門前で血の雨が降ります。当然そうなれば……」


「悪夢じゃ。それは悪夢じゃ」


「ですが、どうやらその必要はなくなったみたいです。来ます」


「えっ。誰が?」


「もちろん、お兄さんです。しかも、頼もしい援軍二名つきです。右」


「あっ、本当だ。まったく遅いよ。でも、これで退学はなくなった」





「さて、とりあえず人道主義に基づいた降伏勧告をしておきましょうか」


 主人の合図を待っていた四人組をすり抜け、音もなく忍び寄る三つの人影を横目で眺めながら、いつもの黒い笑みを浮かべて勝ち誇ったように右手を腰に当て高校一年生の標準サイズよりひとまわりほど大きい胸を張って麻里奈はリーダーらしき男に宣言した。


「心優しいこの私から、バカなあなたたちへのありがたいアドバイスよ。拝聴しなさい」


「何をいまさら」


「早くそのボロ車を捨てて逃げたほうがいいわよ。それから、二度と私たちの前に現れないと約束するのなら、今日の無礼は特別に許してあげる。まあ最終的にはこわいお兄さんたちの軽いお仕置きは待っているだろうけども」


「ハッタリかまして、なんとかなるとでも思っているのか」


「本当にあなたたちのため……でも」


 噛みあわない押し問答は少しの間続いていたのだが突然試合終了。


 ……ではなく試合開始のゴングが鳴る。


「……残念ながらタイムアップみたいだよ」


 麻里奈のその声と重なるように、麻里奈たちを囲む男たちの背後から別の男たちの声がした。


「グッドタイミングだな」


「まったくだ。俺たちの出番にピッタリだ」


「見せ場満載。獲物も多いし美人のギャラリーもいて久々のショータイムみたいだな」


 男たちが振りかえると、自分たちと同じか少々年少かもしれない若い男が三人ニヤニヤと笑っている。


 知らないうちに背後を取られていたのだ。


 すぐさま始まる乱戦。


 と思いきや、そうはならならなかった。


 原因はその中のひとりを指さした麻里奈のこの一言だった。


「なにがグッドタイミングよ。遅すぎ。もう少しで私とヒロリンがショーを始めるところだったじゃないの。こんな人通りが多いところでヒロリンがスロートカットショーを披露したらどうなるかわかるでしょう」


 恵理子も知っているそのひとりは、麻里奈のクレームを鼻であしらうと、なんと麻里奈に対して見事なばかりの毒舌を披露した。


「何を言う。麻里奈が校門前で大暴れして退学にでもなれば、この学校に平和が訪れて、まことに結構なことではないか。全校生徒とそれ以上に校長をはじめ教職員一同様は涙を流してお前の退学を大喜びすることだろうよ」


「ひどいことを言うよね。でも、バカな兄貴と違って少なくてもここにいる創作料理研究会部員の誰一人、そんな愚かなことを考えている人はいないからね。ねえ、そうでしょう」


「……ハハハ」


 麻里奈にこれだけの毒舌を見舞って無事でいられる唯一の人物の言葉に当然麻里奈本人は憤慨し、自らの意見に同意を求めた。


 だが、現在道路で仮眠中の恭平を除く創作料理研究会関係者の大部分はとりあえず軽く頷いたものの、心の中では麻里奈ではないほうの意見に力強く同意し、拍手喝采をしていた。


 もちろんそれは永遠の秘密であるのだが。


「……まあ麻里奈はともかく博子までそこに巻き込ませるわけにはいかないな。遅くなってすまなかったな。博子」


「心配していただきありがとうございます。ですが、大丈夫です。……お兄さん」


「ちょっと、その差は納得できないのですけど。兄貴はかわいい妹に対する愛情が全然足りないよ。私はこんな兄を持ってなんと不幸なのだろう。本当に恥ずかしい兄貴だ。そしてかわいそうな私」


 自分と博子の扱いの違いにプリプリと怒る麻里奈は脇に置くとして、先ほどから麻里奈に毒舌を見舞っている彼こそが本来の待ち人である先ほど話題になった麻里奈の兄小野寺徹であり、両隣にいる美形というより精悍と言った方が表現するにはピッタリな言葉である二人は彼の友人である河合駿と黒川純久である。


 自分たちの挟んで繰り広げられる兄妹の壮絶バトルを思わず聞き入ってしまっていた男たちだがふと我に返り、自分たちの本来の目的と、それから挟み撃ちになっている現状に気がつく。


「なんだ、お前たちは。こいつらの知り合いか」


「まあ、そういうことになるが、とりあえずお前たちは死にたくなかったら俺たちを相手にすべきだぞ。なにしろ、そのふたりは強いうえに容赦がない」


「それは言える」


「俺たちもかなり強いけどな」


 もちろん徹たちの言っている意味はわからなかったが、自分たちより更に言葉の軽いこの三人を知らない五人の先客たちは腕に自信もあり、何より数で上回っているため確信した勝利を確定させようと、これからおこなわれる楽しい合コンには邪魔な存在でしかない男三人組を消し去るために殴りかかった。


 だが……。


「私が思ったよりも早く終わりました。この程度なら私が素手でやってしまえばよかったです」


 そう呟く博子の言葉どおり始まった五人対三人の戦いはあっけなく終了し、多数派は自分たちの予定に反して少数派に瞬殺された。


「……お嬢様」


「……あとの処理はお願いします。その前に後ろで糸を引いている者がいないかは必ず確認してください」


「お任せを」


 決着がついた直後に近づいてきたサラリーマン風の男が通り過ぎた瞬間、博子と男は他には届かないような小さな声でそのような短い会話を交わしていた。


 その様子をチラリと眺めた麻里奈だったが、すぐに目を移したのは五人の哀れな男たちだった。


「だから逃げたほうがいいって言ったのに」


「まったくです」


 少しだけ遅れてやってきた博子はそう言って大きく頷く。


「ところでヒロリン。兄貴は本当に強いの?」


「お兄さんは素人の中ではかなり強いです。まあ、護衛であるふたりが本気を出せばさらに強いのですが」


「まあ、そうだろうね」


 麻里奈の問いに答える博子の言葉どおりとにかく三人は強かった。


 相手には何もさせないままクリーンヒットを連発し徹が二人を、残る二人が一人ずつ殴り倒したところで、仲間を見捨てて逃亡を図ろうとしたリーダーらしき男を河合駿が車から引きずり出すと、三人がかりで悲鳴を上げながら許しを請うその男を文字どおりボコボコにした。


「おっと、聞くのを忘れていた。お前、今後こいつらに手出ししないと約束できるか。できるならこの辺でやめておくが」


 すでにこの辺でやめておくというレベルではなく、ジョークにさえなっていないことを徹に訊ねられた男はなんとか頷き、とりあえずは生きていることは確認できたのだが、男の顔はそれが怪しく思える程に見るも無残なことになっており、ここだけを見たら間違いなく加害者と被害者は入れ替わってもおかしくない状況になっていた。


 もちろん、ここには早々と戦線離脱していたものの、これでもれっきとした教師がおり、彼女から警察への親切丁寧な説明をなされるはずである。


 もっとも、その教師である恵理子にとっては警察の事情聴取などよりはるかに重要な事案が目の前で発生したため、この日彼女は現場から逃亡し、その警察への親切丁寧な説明は翌日に回されたのだが、これから語られる大事件により、それはさらに延期されることになる。


 だが、結局恵理子を含め関係者の誰も警察の事情聴取を受けることはなく、事件もそのままうやむやになってしまうわけなのだが、この日よりこの哀れな五人の姿を見た者がいないことから博子の言う「処理」が確実におこなわれたことはまちがいないところであろう。




「おい麻里奈。一点貸だぞ」


「なんでよ」


「退学を免れたのだから、感謝してもらうのは当然だろう」


「だいたい兄貴が遅刻しなければ何も起きなかったのでしょうが。兄貴が遅刻魔のおかげで私は恥をかいたのだからね」


「それこそ、大遅刻魔であるお前に言われたくないな」


 再び麻里奈とレベルの低い口論を始めたこの男、小野寺徹は高校時代には妹である麻里奈よりも更に上を行く文武両道だったのだが、それよりも彼を有名にしていたものがふたつある。


 ひとつ目はとにかくケンカが強かったということであり、これは現在もまったく変わっていないことはたった今証明された。


 そして、もうひとつが「男の名前は聞いた瞬間に忘れるが、女性の顔と名前は一生忘れない」、「その守備範囲は無限大」などと評されたアレであり、多くの男子生徒が諦めの表情を浮かべ、ため息交じりに呟いた「ヤツがいるかぎり俺たちには明るい未来はやって来ない」、「ヤツは全校男子の敵だ」という中学生時代の妹と同じ輝かしい称号を得ていた高校生時代は、女子生徒だけでなく独身どころか既婚女性教師たちのハートまで独占していた。


 どうやらこちらについても変わっていないようで、彼の姿を見た瞬間に突如完全復活して、自分の勝手な妄想を膨らませた期待度二百パーセントの恵理子以外に彼の撃墜マークはさらに二つ増えていた。


「素敵ですね。まりんさんのお兄さん。もちろんお友達の方も素敵でしたが」


「うんうん、本当に三人とも格好よかったしいい男だ。でも一番はやっぱりまりんの兄貴だな。これは先生がメロメロというのもわかる」


 ということで、今回新たにその列に加わったのは徹とは初対面のまみと春香だった。


「も~やっぱりこうなるのか~~」


「当然です」




「……それに比べて橘。貴様はなんだ!同じ男どころか同じ生物とも思えないこの体たらく。貴様。やはり私たちのパンツを見ようとしていただろう。この変態。それとも死んだふりをしてやりすごうとしたのか。意気地なしにも程があるぞ。そういうことなら、私が直々に永遠に死んだふりをさせてやる」


「○%×$☆♭♯▲!※○%×$☆♭♯▲!※」


 まさに救世主ともいえる徹を散々褒めちぎった後に、蔑むように見下しながら真っ先にやられた恭平を再びこき下ろし、道路でうずくまっていた恭平の顔を力いっぱい踏みつける春香であったが、どうにか対抗できる顔以外はどこを取っても圧倒的に素材が違う徹と比べるのは恭平にとってはいささか酷というものだろう。




「そうだ」


 さすがに少し前の話だったので、それを覚えていた麻里奈はせっかく兄を呼び出したのだから、これでなんとか手打ちに持ち込んでしまおうと、あの約束の完了手続きを手早くおこなうことにした。


 兄貴と博子が顔を合わせてしまった以上、これから何が起こるかは十分想像でき、それが始まってからではすべてがご破算になりかねないのだからと心の中でつぶやきながら。


「兄貴、覚えていると思うけど、今うちのクラブの顧問をしてもらっている兄貴の高校の先輩だった上村恵理子先生」


「あ、あの、小野寺君ありがとう。私のことなんか知らないと思うけど、高校の二年先輩だった上村といいます。もうおばさんだけど」


「いえいえ、上村先輩のことはもちろん覚えていますよ。こんなきれいな先輩を忘れることなんてできませんよ。恵理子先輩、またお会いできて本当にうれしいです」


「……えっ。ほ、本当?うれしいな」


「先生、これで約束を果たしたということでいいかな」


「も、もちろんいいわよ。ありがとう、まりん」


 兄貴も歯が浮きそうなセリフをよくも平気で言えるものだという心の声と、先ほどまで完全否定していたおばさんを自ら名乗るウブすぎる恵理子を指さしして大笑いしたい衝動をなんとか押し殺して、自らの重要案件解決に専念する麻里奈であったが、とりあえずこれで目的は達成されたことになる。


 こうして、どさくさ紛れのこの微妙な結果は、ペテン臭がプンプンするのだが、麻里奈が背負っている多くの債務のうち一つは債権者の完璧な了解も得て無事返済完了となった。


 さて、その後であるが、その方面で有名であった徹が友人ふたりとともに、まみと春香にも丁寧な自己紹介をした。


 大いなる不安に反して、北高一のモテモテ女子高生であるまみに対して徹がかけた言葉は、友人たち以上にあっさりとしたものだったので、恵理子は安堵に平らな胸を撫で下ろしたのだが、この日最大の事件は実はここから始まる。




「高校に入っても本当に学校ではちゃんとそのメガネをかけていたのだな」


 残りふたりの恭しい挨拶に続いて徹が恵理子たち三人とは全く違う親しげな口調で話しかけた相手こそ、客観的に見て大きな胸を除けばここにいる女性陣の中で一番見た目が地味な博子だった。


 徹と博子は昔からの知り合いであり、これは許容範囲であると恵理子は自分の気持ちを強引に押さえつけて納得したのだが、それに対する博子の返答は恵理子の絶対防衛ラインをはるかに越えていた。


「当然です。それが約束ですから」


 それは非常に短い言葉であった。


 だが、そのすまして答える仕草は年上の恋愛相手の問いかけに答える深窓の令嬢のような物言いで、これだけ短い言葉でそう思わせるのは簡単ではなく、もちろんこれまでこのような雰囲気を漂わせる博子などふたりは見たことがなかった。


「こんな美人が近くにいることを知らぬまま卒業するとはこの高校の男どもにとっては残念なことだな。いや。これぞ男にとっては不幸の極み」


「そうですか。しかし、私は自分がどのような容姿であるかなどあなた以外の人に知ってもらう必要などありませんし、まして、それによってその人がどうなろうかなど私にとってはまったくもってどうでもいいことです」


「なるほど。……手をつなぐか」


「いいですよ」


 さらに続く徹と博子の会話、そして博子に向ける徹の優しいまなざしが何を意味するのかはさすがに理解したものの、徹との一回のデートにすら辿りつくのには気が遠くなるくらいの長さの行列に並ばなければならず、ついに実現しなかった自分が一番欲しかったものを手に入れていた博子の姿に、恵理子と、それから実はかなりの面食いだった自称お嬢様馬場春香の理性が崩壊する。


「まりん。これはどういうことよ」


「私も知りたいよ。なんかいつものヒロリンのキャラじゃないよ。あれは」


 焦る恵理子と春香が麻里奈に詰め寄る。


「見てのとおりだよ。兄貴の本当の彼女はヒロリンということ。今日だって私ではなくヒロリンが電話したから兄貴は飛んできたのだと思うよ。つまりメロメロなのはヒロリンではなく兄貴のほう。だから先生がいくら頑張ってもどうにもならないと思うよ」


「……そんな」


 それは衝撃の事実であった。


 恵理子にとって。


「だいたい、あの黒縁メガネだって兄貴が中学校に入学するヒロリンに虫よけのためにかけさせているものだから。それに、今からもっと驚くものが見られるはずだよ」


 麻里奈が言うその驚くものは、地味顔の象徴である黒縁メガネを外して胸ポケットにしまった博子がこれまた地味顔キャラの重要要素である中途半端な長さのおさげ髪を少し弄った後に現れた。


「だ、誰よ。あそこにいるのは」


「ヒロリンですよ。もちろん」


 仰天する恵理子に対して、少なくても表面的には動揺を見せないまみが見たままである正しい情報を伝えるのだが、納得できない春香と恵理子は往生際悪く、それを全面否定する。


「いや、あれはヒロリンじゃない。私は認めん。絶対認めんぞ」


「右に同じだよ。ヒロリンには勝ち組もかわいいも絶対に似合わないでしょう。なんですか、あの小さくてかわいい生き物は」


「そう言っても何も変わることはないですよ」


 現実逃避を続けるふたりの宥めながらも、実はまみも心の中での驚きは大きかった。


「……ヒロリンはこんなに美人さんだったのですか」


 まみの思わず零れたその言葉に答えたのは麻里奈だった。


「ヒロリンがまだ小学六年の時に将来絶対に美人なると確信した兄貴が、他の男に取られぬようにとヒロリンに自分と歩くとき以外は常にあの黒縁メガネをしろと言っていたからね。さすがは我が兄貴。女性を見る目だけは確かだったということだよ。そう。あれが本当のヒロリンだよ」


 そこにいるのは、麻里奈の隣でその姿を見て驚いているこの周辺ではかわいいことで有名な北高一のモテモテ高校生の少女である松本まみにもまったく引けを取らないかわいい少女だった。


「……こ、これではとても勝てん」


「……その言葉、認めたくはないけど……」




「まりんさん。これから『ネフェルネフェル』に行くから、恭平君もちゃんと連れてきなさいってお兄さんが言っています」


「わかった。先生、春香。恭平を叩き起こすのを手伝って」


「あ、ああ。わかった」


「……春香……私、明日から寝込みそう。三週間くらい」


「私なんか三か月は寝込みそうだよ。なんか本当に見てはいけないものを見てしまった気分だよね。これでヒロリンが料理上手になるようなことになったら私は神様を恨むよ。神様。私に恨まれたくなかったら、どうかヒロリンには一生凶器をつくる罰をお与えてください。それからついでにその凶器をまりんの兄貴に早いとこ食べさせてふたりが破局し世の中が平等であることを示してください」


「ヒロリンは年功序列という言葉を知るべきだよ」


「それには同意できないが、とりあえずリア充は死ね」


 ふたりの敗残兵はこの日酒を飲まずとも酔えるということを、身をもって証明することになるのであった。

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