その影は舞台上で黒い笑みを浮かべる
二日間合計八百八十七人。
これが昨年の北高文化祭の来場者数である。
もちろん、これは在校生徒及び教師を含めた数であり、昨年度の北高の生徒数が九百五十二人であったことから、いわゆるお客さんと呼べる来場者はほんの僅かであったことは公式発表がなくてもあきらかだった。
北高文化祭の来場者がこうも少ない理由。
それは、間違いなく南高の文化祭が同じ日におこなわれているからである。
では、両校がなぜ文化祭を同じ日に開催しているのか?
それを語るには、まず南校をつくった南沢一族と北高の関係を述べなければならない。
実は南校の創業者一族は遡ること三代あわせて七人が北高受験に失敗していた。
そのひとりである初代学園長南沢信彦が事業成功後、十年前にこの地に南校創立すると発表したときに、その目的を問われ「愛する郷土にあらたな文化的、そして教育的な土壌をつくって多少なりとも恩返しがしたいのです」などと殊勝な物言いをしていたのだが、それはあくまで看板の表のものであり、その裏には自分を含む一族に恥をかかせた北高を徹底的に貶め、最終的には廃校に追い込むとその暗い決意が大きく書かれており、現在の文化祭の形をつくることに尽力した生徒会長の名を取って「瀬戸祭」と呼ばれていた北高文化祭も彼らの主要ターゲットとなっていた。
南校は開校以来毎年北高の日程にあわせて同じ日に文化祭を開催し、資金力にものを言わせて派手な宣伝をしたうえ、有名人をゲストに招き、生徒たちが運営する模擬店の代わりに県内外の名の知れた専門店に出店依頼して文化祭の目玉としただけでなく、来場者特典などと称してそれらの購入に使用できる割引券を広範囲にわたって配りまくり徹底した人集めをおこなっていた。
当然来場者も多く、南校が金を払って呼び寄せた報道機関もその盛況ぶりを大きく取り上げたために、古代エジプト神話で北高の文化祭の愛称としてその名を残す伝説の生徒会長「瀬戸 真」から連想させるセト神に勝利したとされるホルス神の名前を冠した南高の文化祭「ホルス祭」はさらに有名になり県内中から人がやってくるようになる。
一方、あきらかな逆恨みの被害者なのだが、そのようなお金のかかることなどできるはずもない典型的な貧乏な公立校である北高の文化祭は駅からは南校よりも遠いこともあり来場者数は減少の一途を辿った。
五年前には縁起が悪いと「瀬戸祭」という名称を廃止し、北高文化祭に一本化したものの、それだけで来場者の減少は止まるはずもなく、来場者はなおも減り続けここ数年は二日間の開催期間中あの閑古鳥がけたたましく鳴き続けているのではないかと思われるくらいの悲惨な状況となり、南校の取材に来た報道機関の多くが笑いのネタとして会場入り口で暇そうにしている北高関係者の映像を流すのがお約束となりつつあった。
そして、今年。
裏では紆余曲折があったものの、結局例年通り両校は同じ日に文化祭が開催されることになったのだが、そこで、のちに「南北逆転の転機」、「南校没落の最初の出来事」として有名になるあの大事件が起こることになる。
三年後、南校関係者のひとりが自戒の念を込めながらその時のことを振り返り、絞り出すように語ったこのような言葉が残されている。
「あの日北高からの申し入れを受け入れていれば、今のようなひどい状況にはなっていなかったのではないかと思うことはある。だが、たしかに当時の我々は傲慢だったが、実際に北高の文化祭のありさまはあと一押しで消滅しそうな、まさに風前の灯火だったのも事実であり、あの年におこなわれた北高の文化祭であのようなことが起こるなど我々だけでなく北高関係者だって想像をしてとは思えない」
そして、その言葉の大部分を肯定するかのようなことを、この出来事を関する多くの資料で春香とともにその中心人物であるとされた麻里奈が全国ニュースでも取り上げられたこの年の北高文化祭終了直後に、その異様な熱気にあてられたのかのように幾分顔を紅潮させながら自らの兄に興奮気味に語っている。
「私も春香もある程度の成功を手に入れる自信はあったのはたしかだ。しかし、北高文化祭がこれだけの大ごとになっていることは文化祭初日学校に来るまでまったく知らなかった。もちろん南校の連中がこの事態を予想していたはずはないだろうが、北高側だってそれを計画し、そのために入念な準備をしてきたひとりを除けば誰ひとりこのようなことが起こるなどとは思っていなかったはずだ。こうなってくると、結局南高の関係者も含めて私たち全員が彼女の掌の上で踊っていたことになるわけだが、これだけのことをやりながら彼女がまったく注目されないのは不思議なことだ。目の前にいるのに誰も気がつかない。まるで闇に溶け込んだ影のように……いや、彼女の場合は眩しい光につき従う影のようにと言った方がよりふさわしいのだろうが……」




