虹航海
これは現在麻里奈たちが通う千葉県立北総高等学校通称北高近くで営業するある洋菓子屋にまつわる話である。
今から四年前。
「おっさん、姉さんがあんたがつくったアップルパイが食べたいと言っているのだ。今すぐつくれ」
「断る。この前から何度も言っているだろう。うちは予約を取らん。まして、おまえたちチンピラに脅されてつくるなどまっぴらごめんだ」
「いい度胸だ。まあ、いい。おまえの度胸に免じて今日は帰ってやるが、明日のこの時間にもう一度来る。必ず用意しておけ」
「断る」
「おっさん、意地を張るのも大概にしておけ。もし、明日用意していなければ商売ができなくしてやるぞ」
「もちろん客が来なくなるだけは済ませない。店を丸焼きにしてやる。せっかくだ。おまえたち一家も一緒に火葬してやる」
「いいね。生きたままの火葬」
「そうなりたくなければ、言う通りにすることだ」
とても普通の客には見えない三人の男たちの怒号に気押されて店内にいた他の客はあっという間に退散し、男たちが出て行った後に店に残っていたのは怒号が飛び交う中にやってきたまだあどけなさが残る小柄の少女だけだった。
「ごめんね、びっくりしたかい」
店主はその少女にそう声をかけた。
もちろん店主は少女が恐怖のあまり動けなくなったと思ったわけなのだが、実はそうではなかった。
少女の口が動く。
「それよりも……」
「それよりも?」
「これからどうするのですか?」
「……というと?」
「あの人たちは本気ですよ」
「えっ」
「ただし、あの人たちの目的はアップルパイではありません。だから、たとえ明日アップルパイを用意してもまた新たな難題を突きつけることになります。おじさんがこの店を手放すまで」
「……お嬢ちゃん、あんたは何者だい」
「私の名前は立花博子。今、花の小学六年生です」
「それで、博子ちゃん。博子ちゃんは私がどうしたらいいのかわかるかい?」
「はい」
「あなた、こんな時に子供の意見など……ここはやはり警察に」
「それはやめたほうがいいです」
「なぜ?」
「あの人たちだってそこまでバカじゃない。警察に通報されることくらいは予想しているでしょう。つまり警察に通報されても心配ないということです。最悪警察もグルということだってあります」
「そんな……」
「では、改めて聞こう。博子ちゃん、どうしたらいいと思う」
「まず、おじさんたちには二つの道があります。ひとつは店を手放すこと。それからもう一つの道は戦うこと。私としてはここのお菓子がなくなるのは困るので後者を選んで欲しいものです」
「なるほど……だが、なぜ私の店を狙うのかな?」
「そうよ。たしかにこの店は駅前にあるわよ。でも、ここよりも立地条件のいい場所などいくらでもあるでしょうに」
「おそらく店自体が邪魔なのでしょう」
「はあ?」
「どういうこと?」
「近くにもう一軒ケーキ屋さんがありますよね。あまりおいしくないので人気はないのですが」
少女のいう店に店主は心当たりがあった。
「それはもしかしてカッスル・イブリームのことかい」
「そう。客層があまりにも悪いのでちょっと調べてみたのですが、あの店のバックにはヤクザ屋さんがいます。知っていますか?」
「いや……もしかして」
「そういうことです。味では勝てないので力で勝負しようということです」
「……博子ちゃん。あんた、本当に小学生なのかい。というか、なぜそんなことまで知っているの?」
これは当然の疑問である。
だが、少女は店主の質問に答えることなく話を進めた。
「それよりも、どうしますか?やはり逃げますか?」
「……もしかして助けてくれるのかい?」
「ええ。頼まれれば」
「本当に?」
「はい」
「……頼む」
「あなた」
「どっちみち何も手がない。この子に任せてみよう。それで、どうする?」
「交渉してきます。成功すればこの店は安泰です」
「交渉が失敗したときは?」
「さあ……失敗する気がないので考えていません。それから成功した場合の報酬ですが、予約を取らないのでレア度が高いこの店のアップルパイ。私の家を唯一の例外にしてもらえますか?」
「いいよ。そんなことでよければお安いものだ」
「交渉成立です。では、今日はこのケーキを三つ買って帰ります」
もちろん、店主が立花博子と名乗ったこの不思議な少女の交渉が成功することを望んでいたことは事実であるものの、子供が暴力団相手におこなう交渉がうまくいくとは爪の先ほども思っていなかったのもまた事実であったことは、後年この店主が残したいくつかの述懐からもわかっている。
「お待たせしました」
「……やはり、お嬢様自ら危険な場所に赴かなくてもよかったのではないでしょうか。せめて、我々があのゴミどもを始末してから……」
「いいえ。これでいいのです。欲しかったものも手に入りそうですし。それよりも、さっきのチンピラに尾行はつけてありますか?」
「もちろんです」
少し離れた場所に止めていた車に乗り込んだ少女は待たせていた男たちと短い会話を交わすと、子供が持つものとは思えない無骨な携帯電話を取り出した。
「……私です。私のお気に入りの店を地元の弱小ヤクザが嫌がらせをしています。明日ケリをつけるなどと言っていましたので、今日中に対処してもらえますか。……では、よろしくお願いします」
翌日、昨日の男たちだけでなく彼らの兄貴分と思われる男も加わったグループが店の前に現れた時、店主夫婦はこれから起こることを想像し腹を括った。
「残念だが、年貢の納め時かもしれないな。俺の意地の代償が家族の命などありえない話だ」
「……そうですね。それにあなたの腕ならどこでもやっていけます」
「そうだな。ところで……」
ふたりには気がかりなことがあった。
「……昨日の子供……博子ちゃんといったか。あの子はあいつらと本当に交渉したと思うか」
「さあ。でも、確認だけはしたほうがいいでしょうね」
「そうだな」
……相手はチンピラだ。
……いくら子供だといっても、もめ事に口を挟めば冗談で済ませてはくれないだろう。
……縁もゆかりもないこの店のためにひどい目に遭っていては申しわけない。
夫婦はそう思った。
だが、ここからふたりが思いもしなかった展開が始まる。
「数々のご無礼申しわけありませんでした」
「今後この店に迷惑になるようなことはいたしません。お許しください」
「本当に申しわけありませんでした」
昨日、脅し文句を盛大に並べ立てていた三人のチンピラは店前で見事な土下座を披露したのだ。
「ご主人。これまでコイツらがとんだご無礼を働いていたようで申しわけありませんでした。……おい、いつ顔を上げていいと言った。おまえらは俺がいいと言うまで地面に額を擦りつけていろ。このボケ」
続いて、彼らを蹴り飛ばした三人の兄貴分と思われる男も深々と頭を下げる。
「……えーと」
店主たちの狐につままれた表情に気がついた兄貴分らしい男が語った顛末の内容はこうである。
昨晩、彼のもとに上部団体から電話があり、「何のつもりかは知らないが、このままその店を潰そうとするならば破門だけでは済まないと思え」と発言者の表現をそのまま引用すれば「あまりの恐ろしさにチビッた」くらいに凄まれたのだという。
「この店がうちの上部団体と繋がりがあるとは露知らず。申しわけないことを……」
店主は何も言えなかった。
なにしろ、自分にはそのような人物の心当たりはなかったのだから。
……ただひとりを除いて。
店主が知っているそのひとりがその店にやってきたのは、先客が帰ってから三十分が過ぎてからだった。
「うまくいったみたいでよかったです」
「お礼を言わなければいけないのだろうが、博子ちゃんの家は彼らの同業者なのかい」
「いいえ。下の中くらいのただの貧乏一家です」
「そう。まあ、これ以上聞かないほうがいいみたいだね」
「それは賢明な判断と言えます。ところで、報酬の件ですが」
「もちろん覚えている。ただ、あまり他では言わないでほしいな」
「私としてもプレミア感を保つためにそうするつもりです。それに、前もって連絡はします。この前のヤクザ屋さんのように今欲しいなどということは言いませんので安心してください」
「そうしてくれるとありがたいよ」
「私の方からもお願いがあります。私が友人たちとこの店にやってきた時には対応は他のお客さんと同じにしてください」
「……わかったよ」
「では」
少女が合図をすると、スーツ姿の若い男ふたりが現れた。
「私の話は終わりました。あなたたちはお屋敷へのお土産を買ってください。それとは別に私とまりんさんとお兄さんのためにこのケーキを三つ」
「はい、承知しました。お嬢様」
「……お、お嬢様?」
「では、店主。少々足りない気がするが、とりあえずここに並んでいるものをすべてもらおうか」
「はあ?今、何と……」
「全部買うと言っているのだ」
「あまりにもおいしそうなので全部買いたいそうです。そうでしょう?」
「はい、お嬢様のおっしゃるとおりです」
「では、おじさんお願いします。今日はいっぱい売れてよかったですね」
少女はそう言ってこの日一番の笑顔をみせた。
それはまぎれもなく小学生のものだった。
そして、それから四年の月日が過ぎたこの日。
四人の騒がしい女子高校生と童顔でありノリは彼女たちに引けを取らないもののよく見れば彼女たちより一回りほど年長の女性、それからこのグループの一員とは思えぬくたびれたひとりの男子高校生で構成されたグループがその店にやってきた。
「やっぱり、お菓子といえばここだよね」
「まったくだ」
「私もそう思います。本当においしいですよね」
「まあ、ちょっと高いけれども、この味なら仕方がないわね」
グループのリーダーらしい長身の美人女子高校生が口火を切ると、口々にこの店を褒めたたえる言葉が続く。
「残念ながら私たち北高女子にとっての憧れの一品であるアップルパイはないが、それ以外でもみんなおいしい。ちなみに今日の支払いは春香がします。皆さん、春香に拍手~」
「うむ。支払いはお嬢さまであるこの私に任せろ」
「太っ腹~」
「あ~それから」
「何?」
「橘。言うまでもない事だが、貴様だけは自腹だ」
「おい、ちょっと待て。なぜこの場面でそういう性差別が起こる。この男女平等の世の中でそれはひどいだろう」
「恭平、あんたには男としてのプライドはないの?」
「ない。麻里奈よ。俺はおまえがつくったこの悪の組織で生きていくために不要なものは捨てなければいけないことを学習した。そして、最初に捨てたのがこういう場面でのプライドだ。だから、春香が代金を払ったケーキを食べることを恥じる気持ちなど今の俺には微塵もない」
「あんた、それって威張って言う話なの?」
「むろんだ」
「さすが橘君です」
「橘よ。いつでもどこでも貴様は本当に情けないヤツだな」
「まったくだよ」
「だが、店の中でそこまで堂々と言われては仕方がない。今日の悶絶パフォーマンスのすばらしさに免じて特別に貴様の分も出してやろう。感謝しろ」
「おう」
「……とにかくケーキを選ぶことにしよう。さて、私はどれにしようかな」
「私はまりんさんと同じものにします」
「俺はまみと同じのものにする」
「このケーキはふたつしかないからこれにしよう」
「では、私も。ということで、このケーキは私とまりんさんの分しかありません。橘さんは違うものにしてください」
「くそっ。麻里奈め」
「せっかく他人のお金で買い物するのだから、私はやっぱり一番高いのがいいな」
「……先生、それはちょっと……」
「さすがは守銭奴教師」
「まったくだ」
「うるさいわね。私は値段が高いケーキが好きなのよ。じゃなくて、私が好きなケーキがたまたま一番高かっただけよ」
「はいはい」
メガネをかけた地味顔の少女を除く五人が大騒ぎしながらきれいに並ぶケーキを睨みつけ品定めを始めたところで、店主が彼女たちに声をかける。
「ところで、お嬢さんたち。アップルパイは食べたくないかい?」
「えっ?」
店主のその言葉は彼女たちには意外すぎるものだった。
現在少女たちがたむろしている店、すなわちこの「ファイユーム」のアップルパイのおいしさは有名であったのだが、それとともに非常に高価なうえに入手困難なことでも知られたいわゆるレアアイテムだった。
どんなに金を積まれても予約を取らないために、これを手に入れるためには朝早くから並ばなければならず、また開店と同時に完売するため放課後であるこの時間にやってきてこの貴重なアイテムを手に入るなどありえないことだった。
「あるの?本当に?」
「ワンホールだけだがあるよ」
「奇跡だ。これは奇跡に違いない」
「春香、買いだ。絶対買いだよ」
「もちろんだ。それ買います。でも、なぜ残っているの?」
このグループのスポンサーである自称お嬢様で「創作料理研究会の歩く銀行」と評されるかわいい男の子と表現できそうな快活な女子高校生の質問に店主があらかじめ用意していたその答えを口にする。
「……う~ん。つくりすぎたので余った」
「へえ~。とにかくラッキーじゃ」
「それから代金だけどね、ちょっと時間が経ったので今回はタダでいいよ」
「やった~」
「これもすべてまりんさんの日頃のおこないがいいからですね」
「まみたんの言うとおりだよ。本当にえらいな~私って」
「ない。そんなことは絶対ありえんぞ。少なくても俺は認めん」
「今回ばかりは橘の言う通りだ。まみたんは本当にまりんに甘いよ」
「まったくだよ」
「そんなことはありません」
「じゃあ、これね」
「ありがとう、おじさん。……あれ?」
「どうしたの?まりん」
「いや。なんでもない」
……温かい。というか、熱い。朝につくったというのは嘘でこれはまちがいなく出来立てだ。
……ということは、このパイは私たちの来る時間に合わせてわざわざ焼いたということだ。
……そういえば、今日ここに行きたいと言い出したのは……なるほど、そういうことか。
グループのリーダーである彼女は思った。
……予約を取らないこの店にこんなことをさせられるのはこの世にひとりしかいない。
帰り際に店主に小声で「ありがとうございます」と礼を言う自分の親友であるメガネ少女に彼女はこっそりと声をかけた。
「ありがとう、ヒロリン」
サブタイトルは、これを書いている時に聴いていたかの香織さんの歌より拝借しました。
ヨルムンガンド二期最終話の挿入歌なのですが、サウンドトラック盤ではYour Rainbowと改題されています。




