The Dark Side of The Moon 10
東京のとある一角。
とても都心にあるとは思えない木々に覆われた広大な敷地に建つ黒レンガ造りの洋館に呼び出された二十代半ばと思われるその女性が身なりのよい男に案内されてこの館の主が待つその部屋に入った。
「お久しぶりです。当主様」
「由紀子も元気そうで何よりだ。さて、おまえをロンドンから急遽呼び戻したのには理由がある。やってもらいたいことがあるのだ」
「何なりとお申しつけください。今回はいったい誰を始末するのでしょうか?総理大臣ですか?それとも……」
「いや。その頼みたいこととは博子の護衛だ」
「……承知いたしました」
「すでにおまえには博子が通う高校で体育の教える教師という肩書を用意してある。もちろん、博子のクラスだけを受け持つように手配しているので、空き時間は博子の警護をおこなってくれ」
「はい。ですが、博子様の護衛は尾上たちが就いていると聞いております。あの者たちでは手に負えない問題が発生しているということですか?」
「そういうわけではない。だが、現在学校内での護衛はひとりもいないのだ。しかも、校内で博子の護衛をするとなるとさすがに男は目立つ。そういうわけだ」
「なるほど」
「それから、博子の学校に入れた影から最近博子に纏わりついている女性教師がいるという報告を受けているので特にその女には注意してくれ。状況はこちらへ逐一報告するように」
「承知いたしました。それで、その女が博子様にとって邪魔な存在であった場合はいかがいたしましょうか?」
「おまえの判断に任せる。必要であれば博子の護衛を使うことも許可する」
「かしこまりました。それで、いつから赴任すればよろしいのでしょうか?」
「急で申し訳ないが来週からだ」
「承知いたしました」
翌週、彼女中倉由紀子の姿は麻里奈たちが通う千葉県立北総高等学校通称北高にあった。
そして、この新任教師は休み時間になると一年A組を廊下から教室を覗きこみ、当然彼女の視線の先にはため息をつきうんざりするメガネ少女の姿があったわけだが、さすがにここまで露骨にやればこの手の噂話をするのが大好きな女子生徒たちの格好の標的となるのは当然といえば当然である。
「また、あの先生来ているよ」
「まりんさん目当てなのかな?」
「違うと思う」
「そうなの?なぜわかるの?」
「まりんさんが部屋にいなくても部屋を覗いているよ」
「じゃあ、誰が目当て?」
「ヒロリンだよ」
「え~」
「ヒロリンは同性の先生に人気だね」
「ヒロリンの地味顔は年増女に好かれる顔なのかも」
「いや、絶賛増量中のあの巨大な胸かも」
「あ~それはあるかも。なにしろ、あの先生は上村先生に負けないくらいの貧乳だからね」
「そうかな?結構大きいじゃないの」
「あれは脂肪ではなく全部筋肉だから正式な胸とは認められない」
「そういうことなら、先生に私のお腹にある余分な脂肪をわけてあげようかな」
「そういえば、あの先生は授業中もヒロリンばかり見ているよね」
「ヒロリンを特別扱いしているし」
「出席を取るときにヒロリンを博子様と呼んだこともあるし。ストーカーかな」
「きっとそうだよ。ヒロリン目当てにこの学校に赴任してきたに違いない」
「そんなことができるの?」
「さあ、知らんけど、とりあえずそういうことにしておこう」
「おっと、そこにもうひとりのヒロリンストーカーの登場。これは紛争ぼっ発か?」
「いつものことじゃん」
「うむ。たしかに見慣れた光景じゃ」
生徒たちの言うもうひとりのストーカーとは、もちろんストーカー教師こと赤瀬美紀である。
ふたりが目を合わせた瞬間すぐさま戦闘の火蓋は切られた。
「また、あなたなの。一体何をしにここに来ているのですか?用事がないなら帰りなさい」
先客である新任教師の口からさく裂した毒のある言葉に元祖ストーカー教師も負けずに応戦する。
「もちろん用事があるから来ているのよ」
「あなたのような者が博子様にどのような要件があるというのですか?」
「あなたなんかに言う必要はない。だけど特別に教えてあげる。それはもちろん伝統ある我が書道部への勧誘よ。そう言うあなたこそ何をしているのよ」
「私は博子様にあなたのような変な虫がつかないように見張っているのよ」
「私に言わせれば、あなたがその変な虫よ。脳筋ゴリラは犬コロのように校庭を走り回るのがお似合いよ。シッシッ」
「言ったわね。子供の落書き並みの字しか書けないくせに。下手くそなあなたに書道を習わなければならないとはこの学校の生徒は本当にかわいそうね。博子様をそのようなことに巻き込まないでください。これ以上博子様に纏わりつくようなら今すぐ解体しますよ。肉塊」
「やれるものならやってみなさいよ。私は半端な覚悟で立花さんを勧誘に来ているわけではないことをみせてあげる。脳筋ゴリラ」
「そう。あなたがそう望むなら醜いメス豚にふさわしい方法で切り刻んであげるから感謝しなさい」
「するかい」
休み時間が終了してもまだまだ続きそうな激しくはあるものの不毛で低レベルのバトルを終了させたのは、ふたりの共通の目的である地味顔のメガネ少女本人だった。
「先生たちは何をしているのですか?」
「……博子様」
「こんにちは、立花さん。私はいつもどおり書道部への勧誘に来たのよ。それなのに私の崇高な目的を理解できない知性も教養もないこの脳筋ゴリラが生意気にも私の邪魔をして……」
「その言葉はそっくりお返しします。ヘボ教師の分際で博子様を勧誘しようとは百万年早いです。博子様にお願いすることがあるなら、まずはこの場で土下座をしなさい。無礼者」
「とにかく、他の人の迷惑になるから今日は帰ってください……」
「……仕方がないから今日は戻ることにするけど、次は必ず入部届けにサインしてもらうからね」
「博子様、まずはあの騒々しいだけの目障りな肉塊を解体してまいります」
「それを言うならあなたも十分目障りだから。とにかく戻ってください」
「承知いたしました。博子様」
「中倉です。報告いたします。例の女ですが、博子様に害を及ぼすつもりで近づいている者ではありません。一週間尾行し、また本人が留守中に自宅も調べましたが問題はまったくありませんでした。彼女はただのバカな教師です。どうやら博子様の書道の実力に目をつけて書道部に入部させようとしているようです」
……それにしても、本当に久しぶりの日本だな。さて、あのふたりはどうしているかな?相変わらず仲良くやっているかしら。とにかく、せっかく日本に帰ってきたのだから、あのふたりには絶対に会わなければいけないわね。




