人災は忘れなくてもやってくる
北高一の美少女である憧れの松本まみが自分の家にやってきたという歴史的な出来事と期間中にあの忌まわしき悶絶パフォーマンスを一度も披露せずに済んだことを除けばまったくいいことはなく、麻里奈の思いつきで次々と企画された「創作料理研究会の校外活動」と称する肉体的そして精神的に消耗するだけの実に無意味なイベントに参加しただけで、いや、参加させられただけで、あっという間に終わってしまった春の大型連休が終了してから三週間が経った第二調理実習室。
そこで今、恭平はこの第二調理実習室で一番顔を合わせたくない人物と対峙していた。
「何をするためにここに来た?しかも、その汚い赤ジャージは何だ?」
この世でもっとも常識と縁遠い麻里奈よりはほんの少しだけ常識はありそうだが、料理の腕とセンスはまったくないことが発覚した自称天才料理人ヒロリンこと立花博子は地味顔に黒縁メガネというその見た目だけは学業優秀そうだったものの、どうやらこちらも見掛け倒しだったようで連休直後におこなわれた高校に入学してから最初の定期試験の結果は料理の腕前と同様の散々なものであり、数学と英語が見事なばかりの赤点でその他の教科も皆平均点よりも赤点に近い点数であった。
もっとも、これは中学生時代も同様であり、「先生の、そのまた先生の師匠に教えるほどの腕前」と言われた書道と、鈍そうな見た目とは真逆な麻里奈をも凌ぐ抜群の運動神経と驚くべき筋力に支えられた体育を除けば、博子の成績は三年間ずっと曲芸飛行並みの低空飛行を続けていたので、この周辺ではいわゆる「いい高校」の部類に入る北高を麻里奈と一緒に受験すると博子が言い出した時には、教師の半数は自らの耳を疑い、残りの半数はできの悪い冗談だと思ったものである。
入学願書提出直前の模擬試験でも地を這うような成績しかあげられなかったにもにもかかわらず、北高に合格する気満々の博子は滑り止めとなる私立高校を受験するように勧める教師たちの再三の忠告にも「お金と時間の無駄」と言って耳を貸すことはなく、彼女の両親も「娘を信じる」の一点張りで教師との協議は平行線のままで終わったため、このままでは中学卒業後に彼女の行く場所がなくなってしまうのではないかと博子の明るくない未来を心配する声が上がり始めていた。
だが、なぜか博子の一番の親友である麻里奈だけは心配するそぶりなど微塵も見せることはなかった。
学校一の成績優秀者として南校から与えられた特待生待遇の推薦入学合格者という地位を、「担当者が土下座して頼まなかった」という驚くべき理由で蹴り飛ばしただけではなく、こともあろうに目と鼻の先にある南校のライバルである北高を志望先に決めていた麻里奈は自信満々にこう断言していた。
「ヒロリンは天才だよ。北高に合格するどころか、おそらく入学式では新入生総代として挨拶することになる。私もよほど頑張らないとヒロリンのはるか下になる」
そのような状況の中でその事件は起こった。
それはその男が発した「見栄だけで北高を受験すると言い出したバカなおまえが合格することなど絶対にありえない。私の忠告に従わなかったおまえはニート確定だぞ」という言葉から始まった。
たしかに、博子のこれまでの成績を考えれば、その言葉は丸きりのハズレではないようにも思えた。
だが、それを言った男が悪かった。
その男とは彼女たちが通う中学校の教師であり、さらにいえば博子や麻里奈の担任でもあったのだ。
博子本人はいつものヘラヘラとしか表現しようのない気持ちの悪い笑みを浮かべるだけだったのだが、それを聞いて彼女の分まで激高したのが日頃から彼と口論になることが多かった麻里奈だった。
麻里奈は相手を蔑むように見ながらこう言い放った。
「この子は本物の天才だよ。ヒロリンは北高程度なら最上位で合格する。そのようなこともわからないとは、あんたは相当なバカだね。そのようなかわいそうな頭の持ち主というだけでなく、内申書をエサに保護者に金をたかる寄生虫のようなあんたの腐った人間性も、教師という職業にまったく不似合だ。あんたは今すぐ教師を辞め、自分に相応しいドブネズミに取りつくノミにでも仕事を変えたほうがいい」
大勢の生徒がいる前で無能なうえに金に汚い寄生虫呼ばわりされたその相手である横山欣也という名の男性教師は、「年長者であり、クラス担任でもあるこの私に対して、そのような暴言を吐いたおまえを絶対に許さん」と物凄い剣幕で捲し立て始めた。
だが、麻里奈がその程度のことで怯むはずもなく、さらに挑発的な言葉をたて続けに投げつけて横山を煽り、彼の暴発は時間の問題と思われたのだが、たまたま通りかかった男性教師ふたりが顔を真っ赤にして怒り狂う横山を取り押さえ、彼とは対照的に涼しい顔をした麻里奈が「もし、ヒロリンが北高を不合格になったら、職員室であんたに土下座して謝罪してあげる」と宣言したことから、とりあえずその場はなんとか収まった。
それから一時間後、麻里奈は博子とともに屋上にいた。
「惜しいことをした。あのままあの寄生虫が殴りかかってくれば護身術をたっぷりと披露できたのに」
「まったくです。大けがを免れた横山先生はふたりの同僚の方におおいに感謝すべきでしょうが、それはそれとして、一方だけに負けの対価を設定するのはやはり不公平ですから、私が合格したら先生に罰を与えることにしましょう」
「それではあの寄生虫は厳罰確定だな。だが、ヒロリンが不合格になると本気で思っているあのバカのことだ。私の土下座を心待ちにするに違いない。知らぬが仏とはこのことだ」
「まったくです。まあ、それも合格発表日までの短い間のことではありますが」
それから一か月後。
自分に恥をかかせ続けた憎き麻里奈が土下座する記念すべき日であると横山が指折り数えて待っていた入学試験の結果が発表される日がやってきた。
だが、横山の期待と教師全員の予想に反して麻里奈の予言通り博子は見事に北高に合格しており、それは「開校以来最高の奇跡」だと職員室内での大きな話題となった。
しかも、その結果にどうしても納得できなかった横山が校長に頼み込みこっそりと高校に問い合わせをするとさらに驚異の事実が判明した。
博子は全体の二番目という高成績で合格していたのである。
「いつもの年ならダントツだったのですが、その上の方があまりにもよかったもので……そういえば、その生徒もおたくの学校の生徒さんで……」
高校の担当者はそう言ったのだが、彼が告げたその名前とは横山がこの世でもっとも聞きたくない人物のものだった。
残念ながら高校に入学して最初の定期試験ではそのような奇跡は起きることはなく、博子にとってはいつものポジションに戻ったということになるのだろうが、赤点を連発した彼女を待っていたのは、古くは「無間地獄」と恐れられ、現在でも「入口はあるが出口は存在しない無限ループ」と生徒たちに畏怖されている北高伝統の補習と再試験が合格点を達するまで延々と繰り返される赤点獲得者に対する厳しい補習コースだった。
「お仕置き部屋送り」という異名もあるこの補習コースは、対象者はその開始から担当教師から合格判定がもらえるまで部活動に参加できないというおまけもついており、そのことは恭平を大いに喜ばせた。
「あのバカが北高に合格したという入学試験の結果こそがバチカンに報告しなければならないくらいの驚くべき奇跡だったわけで、あのバカがお仕置き部屋送りになることなど当然の結果といえる。まあ、とりあえずこのまま進級できずに退学処分になった時には、『多少なりとも社会貢献をしたではないか』と、あのバカを褒めてやることにしよう」
博子の「お仕置き部屋送り決定」の報を聞き、祝福の言葉を口にしたのももちろん恭平であった。
第二調理実習室での恭平の独演会はさらに続く。
「そもそも奇跡というものは同じ人間にばかりに起こるはずがない。いや。起こってはいけないものなのだ。そもそも日頃のおこないが悪いあのバカに奇跡が一回でも起きる方がおかしいのだ。あのバカに訪れなければならないのは奇跡ではなく厳しい天罰だ。ついでに言っておけば、試験勉強もせずに運と勘だけを頼りに定期試験に臨んでいるようなあのバカが間違って成績優秀者として掲示板に名前が載るような事態にでもなれば、定期試験前には遊びもせずまじめにコツコツ勉強をしていた俺のような北高にふさわしい立派な生徒の悔し涙で大海が出来上がり、以後試験勉強を放棄する生徒が続出するというものだ」
恭平が珍しく人前で、と言っても聴衆はまみと恵理子だけなのだが、これほどの熱弁を振るっていたのは、本人の言葉を借りれば「これまでにあのバカから受けた数々の御恩を少しでもお返ししたいという素直な気持ちがたまたま今日少しだけ働いただけ」なのだそうである。
だが、彼が敵のいないところでしか戦闘をおこなわない小心者で人としての器が小さく勇気もなければ意気地もないいわゆる小物と呼ばれる種族を代表する人間であることを考えれば、博子本人や麻里奈はもちろん、最近では麻里奈以上に彼の天敵となっている春香も偶然部室にいなかったことが彼がこれだけの大口を叩ける唯一の理由であることは間違いないだろう。
むろん、創作料理研究会が根城としているこの第二調理実習室においてこれだけのことを言った恭平がただで済むはずはなく、このあと彼に待っていたのは、いつも以上に厳しいお仕置きだった。
さて、自分ひとりの成績だけを世に晒すのは不公平だと某所より苦情が届く可能性もあるので、ここで他の部員の試験結果にも触れておくことにしよう。
エセ文学少女の次に成績が悪かったのは自称お嬢様である馬場春香で、平均点と赤点の中間地帯にすべての科目を見事に並べてみせた。
「いいの。ヒロリンみたいに赤点じゃなければ。それに天は二物を与えずという諺があるでしょう」
自称お嬢様は、「学校一の巨乳」とも評される博子とは対照的な膨らみをまったく感じさせない貧相な胸を張ってそう主張し自分の不成績を正当化した。
もっとも、彼女の場合は高校の授業では絶対教わることのない現代の錬金術といえるものを習得しており、「この成績でも、私が生きていくうえで困ることなど何一つない」という彼女の言葉を疑う者は創作料理研究会関係者のなかにはいなかった。
「俺はあのバカが製造した得体の知らないものを無理やり体に入れられて体調が非常に悪かった。そうでなければ、もう少しいい成績がとれたはずだ」
自分よりも成績が悪い自称お嬢様に、「取り柄というものがまったくない凡庸で見どころの欠片すらないおまえのものらしい、いかにも小心者の小物が取るような論評にも値しない実につまらない成績だ」などと酷評された試験結果に対し、必死にそう言い訳をするのはまさに面白味もない平均点ばかりの恭平だった。
ちなみに、北高では定期試験の結果を掲示板に張り出すことが伝統となっているのだが、全員の名前が載るわけではなく上位半数がその対象となる。
当然ではあるが、掲示板の最後には誰かの名前が載ることになるわけだが、今回の試験において、学力だけでは取ることができないためにトップを取るよりも難しいともいわれるその名誉あるポジションに就いたのが恭平だった。
「ギリギリとはいえ、とりあえずは掲示板に名前が載り上位半数に入ったのだから、ここは良しとすべきなのだろうな」
その時は呑気にこのようなことを語っていた恭平だったが、これから二週間もしなうちに彼はこのポジションを偶然手に入れてしまった自分の不幸を嘆くことになる。
ということで、残りは恭平よりも成績上位者として掲示板に名前が載る創作料理研究会が誇るふたりの美人女子高校生である。
まずはこの怪しげなクラブ創作料理研究会の掃き溜めに鶴ともいえる全校一のモテモテ女子高校生である松本まみだが、彼女はクラストップというだけでなく学年でも五位という極めて優秀な成績をおさめ、才色兼備のわかりやすい実例というだけでなく、自称お嬢様が答案用紙返却後と通知表受領後の常套句として使用する「天は二物を与えず」という諺には例外があることを見事に証明してみせた。
そして最後は麻里奈となるわけだが、彼女の普段の言動を知る者にとってはやや意外に思えるかもしれないが、「私の予定表には試験勉強という文字は書かれたことはありません」などと自慢にならないことを自慢する博子とは違い真面目に試験勉強をする麻里奈はどの科目もまんべんなく高得点を叩きだして、まみに次ぐクラスで二番目という十分優秀といえる順位を確保していた。
もっとも、気に入らない教師が担当だった数科目の試験で麻里奈が嫌がらせとして披露した見事な崩し字は案の定それを理解できなかった教師たちによって不正解とされたのだが、実はそこにもかなりの数の正解が含まれており、実際の順位は学年最上位であったことは麻里奈の入学試験での圧倒的な高得点から容易に想像できるものである。
ちなみに、その崩し字は博子に教わったものであり、博子本人といえば、すべての答案で解答の大部分を麻里奈以上の見事な崩し字で記入していたのだが、その結果がアレであった。
ついでにいえば、麻里奈の崩し字の師匠であるエセ文学少女は今回の英語の試験で「次の英文を訳せ」と書かれた問いに、ロシア語で解答を書き込み見事に不正解を頂いたのだが、教師たちが「暗黒の二週間」と呼んで震えがったこれから起こる大騒動の結果、七月におこなわれた次の定期試験では「次の英文を和訳せよ」という訂正を勝ち取ったほか、他の教科でも冒頭に「特別に指定がないかぎり解答は日本語の楷書で記すこと。また、解答を記すのに使用する筆記用具は鉛筆またはシャープペンシルとする」などという他校の定期試験ではおそらくお目にかかれないような奇怪な注意書きまで登場させている。
もちろん、最後の一文も筆ペンを使用して解答を書き込んだ博子だけを対象としたものであったことは言うまでもない。
創作料理研究会部員たちの試験結果と硬軟取り合わせた実に微妙な裏話を披露したところで、そろそろ本筋に戻り、「危険物を違法に製造する天下の大罪人立花博子を合法的に創作料理研究会の部員名簿から抹殺でき、うまくいけばこの学校からも追放できるチャンス」と、博子の赤点獲得を喜んだ恭平の期待を大いに裏切り、補習会場からあっという間に解放されたエセ文学少女がいつもの赤ジャージ姿で第二調理実習室にやってきたところから話を始めよう。
「ヒロリンよ。心優しく親切な俺からの涙が出るくらいありがたいアドバイスだ。どのような卑怯な手段を用いて補習を免れたのかは知らないが、バカなおまえの今後の人生のためにはやはり補習を受けたほうがいいぞ。そうだ。せっかくだから、おまえはこれから毎日補習と再試験を受けていろ。もちろんそれは半年でも一年でもなく三年間だ。当然再試験や補習が忙しいので創作料理研は退部だ。だいたい、おまえはメガネをかけているのに、なぜそれほどバカなのだ?おまえはメガネをかけながら成績が悪いという世にも珍しい希少生物『バカメガネ』ということなら、この俺が許す。早く死滅しろ。それとも、お洒落とは無縁なおまえの黒縁メガネは実は伊達ということか。バカなおまえが見た目だけでも少しは頭がよく見えるようにという。だが、今回の試験でその偽装は完全に暴かれたぞ」
「変な言い方をしますね。メガネをかけた人はみんな成績がいいだなんて偏見というものですよ。メガネかけていても成績が悪い人はいます。私は悪くないのですが。もしかして、恭平君は床に転がって小学生の妹に顔を踏まれながら見上げるスカートの中のパンツがこの世で一番の絶景だと叫ぶ恥ずかしいロリコンさんというだけでなく、メガネ属性とかいう変態君でもあるのですか。そういうことなら、勘違いされると困るので念のために言っておきますが、面食いである私は恭平君など眼中にありません」
乾坤一擲、この日ばかりは乾いたタオルを絞るようにして体中からかき集めたありもしない勇気を振り絞って攻勢に出た恭平だったが、自分の成績を恥じ入る気持ちなど微塵もない相手の前ではせっかくの涙ぐましい努力もまったく報われないまま霧散していく。
「ふ、ふざけるな。俺は妹に顔を踏まれて喜ぶ変態ではないし、小学生のスカートの中を覗いて絶景だなどと思うロリコンでもない。もちろん、おかしなメガネ属性とやらでもないぞ。それに、何が『私は恭平君など眼中にない』だ。それはこっちのセリフだ。こっちこそ、おまえなど眼中になどないからな」
「ハイハイ、わかりました」
顔を真っ赤にしておこなった自分の必死な反撃を軽くあしらうエセ文学少女の涼しい顔を見て、血圧その他上がってはいけない色々なものが急上昇し頭に血が上った恭平は続く言葉に思わず絶対に言ってはいけないそのひとことを加えてしまう。
「そもそも、おまえは成績が悪いだろうが。部員の中で赤点を食らったのはおまえだけだ。赤点というのは頭が悪いバカなおまえのようなやつだけが貰うものだ。そこにいるもうひとりのスーパーバカだって赤点など取ってないというのに、二教科も赤点とはおまえは本当に恥ずかしいヤツだ……あっ」
言い終わってからようやく気がついたものの、時すでに遅し。
当然ながら、このあとに恭平に待っているのは、黒い笑みを浮かべて近づいてくる春香による厳しいお仕置きである。
「貴様、言うに事欠いてなんという無礼なことを。私の前でそれだけ言えばどうなるかぐらいは愚かな貴様でもわかっているだろう。では、さっそく始めようか」
「ちょっと待て。その……○%×$☆♭♯▲!※、○%×$☆♭♯▲!※、○%×$☆♭♯▲!※、○%×$☆♭♯▲!※」
いつもどおり余計なひとことを言ってお仕置きされる愚かな恭平が指摘するまでもなく創作料理研究会部員で赤点を取ったのはたしかに博子ひとりだけだったのだが、赤点を取った当人は相変わらず懲りた様子も反省する様子もまったくなく、それどころか、自分が赤点を連発した理由は自分の学力以外のものにあるのだという驚異の説まで開陳し始める。
「私の場合は……まあ、頭が悪かったわけではなくて、チョットだけついていなかっただけです」
「何だ、それは」
「私が書いた解答が頭の悪い先生には理解できなかったということです。こういうのを不運というのでしょうか。教師運があれば、赤点どころか、私がまみたんを抜いてクラストップになったのかもしれません」
「そんなことあるわけがないだろうが」
これまた恭平の言うとおり。
……のはずだった。
だが、ここに恭平が知らない事実がある。
博子がこの第二調理実習室に戻ってきた前日、すなわち昨日であるのだが、とにかく前日におこなわれた数学の補習授業で驚愕すべき事件が発生していた。
のちに「公開処刑事件」として北高の伝説となるそれは、補習開始直後にこの日の担当だったベテラン数学教師高口利明の高圧的な教え方は赤点を取った生徒に対する補習というこの場にはまったくふさわしくないものだと博子が言い出したことから始まる。
当然、その言葉にプライドの高い高口は激高する。
そして、高口が思わず発した「それほど言うのなら、どのようなものがふさわしいのか、ここに来ておまえが代わりにこいつらに教えてみろ」という言葉によって、教師の聖域ともいえる教壇に博子が立つことになったのだが、そのようなことなどできるはずがないと高をくくっていた彼の予想はあっさりとはずれる。
最後列でふんぞり返り、涙を浮かべて右往左往する博子を笑いものにしてすぐに教壇に戻るつもりでいた高口は数分後には自分の代わりに教壇に立っている小柄なメガネ少女が試験問題はおろか試験範囲を完璧に理解していることに気がつく。
……こいつは赤点回避どころか、満点を取ってもおかしくないレベルだ。
生徒たちのほうも同じ赤点を取った生徒が教壇に立った時には少々戸惑ったものの、博子が解答方法の説明を始めるとそのあまりの的確さに驚く。
「……ありえん」
このような場合、その言葉は目の前で起こっている状況についてのものであることが大部分である。
だが、自分抜きに補習が進む様子を唖然として眺めていた高口の口から思わずこぼれたそれは、これだけできる博子が赤点を取ったことに対するものだった。
「……そういえば……」
その理由を必死に探す高口の思考は、やがて自らの記憶に鮮明に残っていた博子の不思議な解答用紙に辿りつく。
それは、全体の八割ほどは判読不明の文字で書かれて不正解になっていたのだが、多くの生徒が不正解だった最終問題を含む最後の二割だけがきれいな楷書で正解が書かれているという強烈な違和感を覚えるものだった。
そして、そこからある結論が導き出される。
……こいつはわざと赤点を取ったのは間違いない。
とりあえず、そのような結論に達したものの、今度はその理由が何かを考え込み補習どころではなくなっていた高口を置き去りにして、博子の解説は順調に進み、時間の経過とともに博子に対する受講者の信頼は高まり続ける。
「一応、今日の範囲はこれで終了です。皆さんお疲れ様でした」
チャイムが鳴りこの日の補習が終了すると、当然のように生徒たちから博子に対して惜しみない大きな拍手が送られたのだが、普段の補習では起こらないこの拍手には生徒たちのふたつの気持ちが込められている。
もちろん、ひとつは博子への感謝だが、もうひとつは本来教壇に立っていなければならない高口へ向けられた皮肉である。
……貴様が普段の授業でこのように教えていれば赤点など取らなかったぞ。
……教師失格だな。
……無能。
……無駄飯喰らい。
……おまえは不要だ。
……消えろ。
……そうか。このメガネの目的はこれか。
この教室内でおこなわれたまさしく公開処刑ともいえる、教師にとってはこれ以上ないくらいの大恥をかかされた高口は悔し涙を浮かべながら大急ぎで校長室に駆け込み、そこで博子の満点だった数学をはじめとした入学試験での驚くべき好成績を知る。
その後、いつもの傲慢ともいえる態度から想像できないくらいに憔悴しきった高口から補習会場で起こった大惨事のあらましを聞いた他の教師たちは真面目だけが取り柄のような地味顔少女にとんでもない才能と恐ろしい裏の顔があることを知って震えあがり、次は自分が教室内で公開処刑にされて辱めを受けるのではないかと大騒ぎとなった。
もちろん、これ以上恥の上塗りを避けたい高口が帰り際に「次回以降の補習と再試験は不要」としたために、博子は二日後にもおこなわれるはずだった残りの補習と再試験は免除となる。
だが、事件はまだ終わらない。
今朝。
もうひとつの補習科目だったはずの英語が朝一番で博子のもとに飛んできた担当教師の藤崎より「立花博子。おまえは補習も再試も必要なし。合格だ」と伝えられ、再試験どころか一度の補習も受けることなく合格判定が出されるという北高始まって以来の栄誉を博子は手にすることになったのだ。
藤崎は恐怖に満ちた形相で博子にそれだけを伝えると逃げるように教室から飛び出していったので、その場にいた者にも何が起こったのかわからなかったのだが、これだけの事件であり当然後日談がある。
まず授業中自分たちをいびり倒してきた憎き高口が地味顔の女子生徒に大恥をかかされるという多くの生徒たちにとって溜飲が下がるこの事件の詳細は幸運にも博子による公開処刑の現場に立ち会った生徒たちから学校史に残る武勇伝として各種豪華装飾が加えられてあっという間に学校中に広がっていく。
一方、その公開処刑の被害者であるが、仲間が持ち合わせたいくつかの資料を検討した結果、自分が不正解とした解答の大部分が実は珍しい言語や崩し字と呼ばれる判読不明の文字で書かれた正解であったことが判明する。
これは間違いなく正解を自分が読めない字で記入して不正解とさせてわざと赤点となり、補習授業で自分に恥をかかせるという自分を狙い撃ちにした手の込んだ嫌がらせであると誤解、ではなく博子の意図を過剰に評価した高口は今回の悪夢を次の定期試験で繰り返さぬ方法はないものかと三日間不眠不休で考え抜き、ついに「立花博子の答案に関しては、まず本人に採点させ、その後別室で自分が立花博子にゴマを擦りながら形ばかりのチェックをする」という超法規的措置ではあるが、報復の対象からははずれる画期的な方法を思いつく。
他の教師たちも同様で、例の注意書きを加えることで予防線は張れると一度は安堵したものの、それによって高口以上の苛烈な報復があるのではと逆に不安がよぎり、自分ひとりが生徒の前で晒しものにされるなどまっぴらごめんとばかりに、博子と、すでに職員室中に悪名が轟いていた創作料理研究会のもうひとりの要注意人物である麻里奈に関しては高口が考案したすばらしい危機回避方法をこぞって採用することを決める。
実際にはこれでも博子がその気になれば補習教室にやってくることは完全には防げないのだが、博子は教師たちの卑屈極まる涙ぐましい努力と、なによりも中学校の教師たちが三年間まったく反応しなかった自分が用意した教師に対する試験に北高の教師たちが気づき及第点ギリギリではあるものの正解を導き出したことに感じるところがあったらしく、おとなしくそれを受け入れ、その結果として七月の定期試験からは博子は麻里奈とのハイレベルな争いを繰り広げ成績表で本来いるべきポジションに就くことになる。
また、こちらはこの「公開処刑事件」に比べれば付録のような小さな出来事ではあるのだが、博子による公開処刑候補者である一年A組を受け持っている教師たちのうち数人が後日の「笑いのネタ」にするために偶然撮影して持ち合わせていた数枚の写真を見せられて博子と麻里奈が答案用紙上で披露した崩し字解読を依頼された書道部の顧問である赤瀬美紀は、顧問である自分を遥かに凌ぐ博子の達筆ぶりに驚愕し、「立花博子は全国コンクールでも賞を取れる逸材である。彼女を入部させることが私の、そして北高書道部の責務である」と宣言し、博子に「まみたんやまりんさんだけでなく、私にだってストーカーがいます」などと、妙な勘違いをさせるくらいの度を越した入部勧誘を始める。
そして、このストーカー教師率いる北高書道部は内外の反対を押し切って顧問が夏休み直後に敢行した引っ越しにより旧校舎の二番目の住人となり、その地道な努力が報われ、文化祭のしばらくあとには博子は創作料理研究会と兼任というかたちで書道部に入部をすることになる。
さて、複雑怪奇な裏話まで披露したところで、話を愚かな恭平が実は自分よりもはるかに優秀な博子に対して恥ずかしい能書きを垂れていたあの場面の続きへと進めることにしよう。
真実を知る者から見れば色々な意味で実に愚かで無意味な行為を一生懸命おこなっていたことになる恭平だが、彼がこれほどまでに必死になって自称天才料理人を補習会場へ追い返そうとしていたのにはもちろん理由がある。
彼女がここに現れないということ。
それは憧れのまみの前で自分に屈辱の悶絶パフォーマンスをおこなうことを強要するあの違法製造物たちと顔を合わさなくて済むことを意味し、当然それは恭平の肉体的な、それ以上に精神的な健康が確保されるということと同義語でもある。
だが、恭平にとってそれが些細なことになるくらいにさらに重要だったのが、博子が部室に現れなかった昨日、ついに彼の皿にもまみの手作りお菓子が載せられたという歴史的な出来事が起こったことだった。
実は、これまではおやつタイムになっても恭平の皿だけには、約束されていたはずのまみがつくるおいしいお菓子の代わりに、自称天才料理人が製造した見た目が悪く、中身はさらに悪い得体の知れない危険物質が載せられていた。
もちろん恭平は入部したらまみの手作りお菓子を食べ放題だというあの約束を履行するように何度も麻里奈に要求していたわけなのだが、その度に「あれだけの大言壮語を吐きながらヒロリンのつくった料理を完食もできない勇気もなければ意気地もない世界一のヘタレのあんたにはそのようなことを言う資格などあるわけがないでしょう」と一蹴されていた。
当然のように部長の麻里奈と顧問の恵理子は彼専門の料理係である自称天才料理人にしかつくれないその特殊製造物の供給がストップする博子の補習期間については恭平にお預けを食わせるつもりでいたのだが、まみと、それから不思議なことに、いつもは恭平に辛辣な言葉を浴びせている春香から、「それではあまりにもかわいそうなので、期間限定で皆と同じおやつを出してはどうか」という恭平にとってはありがたすぎる提案がされ、さらに奇跡のように残りふたりもこれまた意外すぎるくらいにあっさりと自らの主張を放棄してそれを承認し恭平の夢が実現する運びとなったのだが、これには当然裏がある。
常識人のまみはともかく、日頃恭平を罵倒し創作料理研究会関係者の中で一番恭平に厳しく接してきた春香のそれは、彼女のこれまでの言動とは水平線の彼方ほどかけ離れたものであり、不審に思った麻里奈がその理由を春香に訊ねたわけなのだが、問われた自称お嬢様は黒い笑みを浮かべながらこう答えたのだった。
「落差があったほうがダメージ倍増。お預けなどよりもこっちのほうが面白いものが見られると思うよ。まみたんのお菓子を取り上げられた時の橘の絶望に打ちひしがれた哀れな顔が目に浮かぶ」
彼女のその言葉に大いに納得した麻里奈は春香以上の黒い笑みを浮かべながら何度も頷くと、ふたりの同類である恵理子もすぐさまそれに同意した……。
だが、裏にどのような経緯があるせよ恭平にとってそれは入部してから一か月以上も過ぎてようやく実現した待ちに待った念願のイベントであったことには変わりはなく、それがわずか一日で終了するなどとても承服できるものではなかった。
「麻里奈よ。こいつが部活動に復帰するのにはガマンして了承してやるが、そのかわりに今すぐこいつを料理係から解任しろ。それがだめでもおやつはまみだけが担当することを要求する」
自称天才料理人を補習教室に追い返すことを渋々断念した恭平にとってはこれが最大限の妥協であったのだが、残念ながら第二調理実習室という名のこの異次元空間においては、それが正しいかどうかに関わらず恭平の希望どおりにはものごとは絶対に進まないことになっている。
「そういうことは、ヒロリンがあんたのためにつくったおやつを完食してから言いなさいよ」
恭平の熱弁を早すぎるアブラゼミの鳴き声程度にしか思っていない麻里奈のこの一言によって例の特例はあっさりと取り消され、恭平のささやかな幸せはわずか一日で終了することになったのだが、その時の恭平といえば、まさに春香が予言したとおりのものであり、言葉にすることすら憚るような人類の常識を超えた情けない姿で涙ぐむその様子はそこにいた全員が嘲りを通り越し哀れみさえ覚え、まみの恭平に対する評価はまた一ランク下がることになるのであった。
「さて、ヒロリンの復帰記念として、今日はクッキー対決にしようかな」
「いいですね。私はお菓子作りが得意中の得意です」
「では、決まり。ヒロリンは恭平のためにおいしいクッキーを焼いてね」
「もちろんです。天才料理人であるこの私自慢のおいしいクッキーを堪能できる恭平君は世界一の幸せものです。土下座して涙を流して感謝してください」
自称天才料理人は自信たっぷりにそう主張したものの、いうまでもなくお菓子作りが得意なのはまみであって、お仕置き部屋から出所してきたばかりのこの自称天才料理人ではない。
というより、この第二調理実習室内でこの四月から始まった恭平を使った各種人体実験が料理経験のほぼすべてであるこの自称天才料理人ヒロリンこと立花博子はクッキーどころかお菓子と分類できそうなものですらつくったことはなく、その彼女が口にした自慢とやらがいったい何を意味するのかは永遠の謎である。
彼女の自信に満ちた言葉のあとに必ずやってくるあの悲しい出来事に何度も遭遇し、そのたびに屈辱の悶絶パフォーマンスを披露していた恭平もどうやらそれに気がついたらしく、自称天才料理人のこの言葉にすぐさま直接的な表現で疑問を呈した。
「ヒロリン。おまえは今嘘をついただろう」
愚かで鈍感なこの男子高校生が指摘するまでもなく、「私はお菓子作りが得意中の得意です」という言葉のすべてが嘘で出来上がっているわけなのだが、それに対する自称天才料理人でエセ文学少女でもあるヒロリンこと立花博子のエセ文学的返答がこれである。
「私は世界一の正直者で通っています。嘘なんて今まで一度だってついたことはありません。その証拠に嘘つきは泥棒の始まりというでしょう。私が今泥棒ではなく、かわいい女子高校生だということが、私が嘘をついていないという何よりの証拠なのです」
ハッキリ言おう。
聖人どころか、その要素だってこれっぽちもないこのエセ文学少女が「嘘なんて今まで一度だってついたことなんてありません」などと言い張っていること自体がすでにとてつもなく大きな嘘である。
それだけでなく、そこに「自分はかわいい女子高校生」などというさらなる大嘘まで付け加えた三段論法にもならないことをこのエセ文学少女は堂々と主張したわけなのだが、そのようなものすべてにまじめに関わっていたら、時間がいくらあっても足りない恭平は現在の自分にとっての最重要案件だけを訊ねることにした。
「ヒロリンよ。おまえは本当はクッキーなんかつくったことなどないだろう」
「だから、さっきから言っているとおり、もちろんあります。食べた人みんなから大変おいしいと喜ばれました」
まったくブレることなく、白々しいことを堂々と言い張る自称天才料理人であった。
「じゃあ、いつ、どのようなクッキーを焼いたのか言ってみろ」
「……え~と」
「どうした?」
問い詰める恭平の一言に一瞬だけ答えを窮した博子だったが、新たな一手として突然左手を腰に当て右手であらぬ方向を指さして高らかに宣言し、そこで自分にとって都合の悪い先ほどの発言をなかったことにしてしまう画期的なこの言葉をひねり出す。
「私は未来志向なので過去は絶対に振り返りません!思い出す必要もありません。そして、初心を忘れないように、私は常に初めてつくるつもりで頑張るだけなのです」
ということで、今日は今すぐにでも立派な大泥棒になれるこの地味顔の女子高校生が初めてクッキー、というか最終的には製造者ただ一人だけがクッキーだと言い張る謎の物質をつくる記念すべき日であることが確定した。
「大丈夫かな?この調子でヒロリンに好きなようにやらせていたら、いつかこの部屋が大爆発するとか、時空が歪められて私たちも巻き添えを食って異次元世界に送り込まれるとか、そんなことが起こりそうだよ。嫌だよ。私にはまだやりたいことがいっぱいあるのだから」
「私だってそうだよ。でも安心して。顧問権限で揚げものだけは絶対させないから。それに少なくても今日は大丈夫でしょう。だってクッキーだよ。小麦粉と卵と砂糖を捏ねて型抜きして焼くだけだよ。黒焦げになることはあっても橘君の今日の被害はその程度だよ……たぶん」
「普通はね。でも、なにしろつくるのがヒロリンだからね。きっとやってくれるよ。今日も」
「まあ、それはたしかに否定できないね」
「右に同じ」
ちなみに、春香が最初に口にした部室が大爆発するという心配であるが、本人も半ば冗談のつもりで言ったそれは、原因や規模こそやや違うものの七月のある日に実際に起きるある事件を予言したものとなり、後者についていえば、創作料理研究会の部室に指定され部長の麻里奈が足を踏み入れた四月のあの日からこの第二調理実習室はすでに悪が蔓延る世間の常識が一切通じない異次元世界になっていたわけなのだが、被害者を装っているものの春香も恵理子もその異次元世界の中心人物として、創作料理研究会と名乗るこの悪の組織の勢力拡大に日々貢献していることをつけ加えておく必要はあるだろう。
「ヒロリンよ。手伝いが必要なら言え。手遅れになる前に」
「恭平君の手伝いなど必要ありません。恭平君は私がつくるおいしいクッキーが出来上がるのを待っているだけで結構です」
「おい、今おいしいと言ったな。では、絶対においしいものをつくれ。いや、おまえにはそれは無理なのはわかっている。おいしくなくても構わないからせめて人間が食べられるものをつくれ」
「失礼なことを言いますね。私のつくったものは、いつでもどこでもおいしいです。私がつくるクッキーをおいしいと思わなかったら、それは恭平君の頭と味覚がおかしいということです。すぐに病院に行った方がいいです」
恭平は「これまでは手伝いなどと称して恭平君が私の調理の邪魔をしたから万人が喜ぶすばらしい料理が出来上がらなかっただけなのです」などと、料理が失敗したすべての責任を彼に擦りつけた自称天才料理人ヒロリンこと立花博子の強い希望により今回からは手伝いをすることを一切許されなくなり、試食が始まるまで麻里奈たちの脇に強制的に正座させられていた。
手伝いを拒否され、あとは自称天才料理人がなるべく被害の少ないものも製造することを心の底から祈るしかない恭平だったが、むろん、これまでの経験からそれが叶うはずがないことは恭平自身もうすうすは感じてはいた。
そして、これから訪れるものも、いつもと同じあれであるということも。
……結果はやはりいつものとおりであった。
「恭平君がこれまで食べたことのないおいしいクッキーをつくります」などと意気込んで料理を始めた自称天才料理人によって今回生み出されたものは炭化した「なにか」だった。
「ヒロリン、時々味見……は無理だから……まずは、もう少し食べる人のことも考えて材料は選んで、それから分量もきちんと量ったほうがいいと思いますよ。特にスコヴィル値の高い唐辛子の量は。それから、文字ばかりの難しい本だけではなく、たまには料理本も読んだほうがいいかな。やっぱり」
黒焦げのその「なにか」を口に入れ、もはや甘いのか辛いかもわからないまま、いつもどおりこの世界のどこでも使われない言語らしきもので異世界の呪文を火を吐くように唱えながら、他の追随を許さぬ見事な悶絶パフォーマンスを演じ切り、今は抜け殻のようになっている恭平を眺め、浮かび上がる笑いを必死に噛みしめながらまみは博子にささやかなアドバイスを送るのであった。
だが、今回は恭平の悲劇はこれで終わらなかった。
それは、一連の騒動がようやく収束した博子が第二調理実習室に戻ってきてから一週間が経ったこの日の会話が発端だった。
「……それにしても最下位に名前を残すとは、橘はつくづく恥ずかしいヤツだな。まあ、変態である橘にとっては晒しものになることは最高の悦びなのだろうけどな」
「本当ですね。それにしてもすごい才能です。どうやったらあの恥ずかしいポジションを獲得できるのかを、ぜひ恭平君にご教授いただきたいものです」
「私は恥を恥とも思わぬその鋼のような精神力をどうやって手に入れたのかも知りたいものだな」
「それはいいですね。ですが、私は恭平君のような変態にも笑い者にもなりたくはないです」
「同感だ。そういうことは橘の専売特許だからな」
「……くそっ。好き勝手言いやがって」
春香と博子が恭平本人を前にして堂々と語り合っているのは、掲示板に張り出された定期試験成績表についてである。
「実質的には橘が最下位だ。これこそ最低の人間である橘にふさわしい卑しい居場所といえるな」
「まったくです。あのような恥ずかしい成績を取りながら、よく堂々と神聖不可侵な場所であるこの部室に顔を出せたものです。恭平君の厚顔無恥ぶりには感服してしまいます」
「本来なら切腹ものだが、橘は鈍感なうえに辱めをごちそうだと思う変態だからこのような人類史に残る恥でも恥とも思わないのだろう。まみたんもよく見ておくといい。これが世界一の変態ヅラというものだ」
春香が指さした先には当然怒りと恥ずかしさで真っ赤になった恭平の顔がある。
「何度見てもまったく変わらない各種変態が混じり合った実に醜いお顔です」
「この気持ちの悪い顔でよくもまみたんに好かれようと考えられるものだな」
「さすが最下位に名前が載るだけのことはあります」
「まったくだ」
ふたりの言われるまでもなくたしかにそのポジションはよく目立ち、実は恭平自身も恥ずかしいと思っていた。
さらにこのふたりを相手に口で勝てるはずもなく、訂正を求めて間違ってふたりの会話に口を挟めば、自分の名誉が回復されるどころか、さらに状況が悪くなるだけであることはわかっていたので、嵐が過ぎ去るまで黙って耐えるつもりだったのだが、憧れのまみの前でここまでこき下ろされては恭平も反撃せざるを得ない。
「何が変態ヅラだ。俺より成績の悪かったおまえたちにだけは言われたくないぞ。そういうことは成績表に名前が載ってから言え」
恭平の言うとおり、彼より成績の悪いふたりの名前は上位半数だけが載る成績表にはない。
だが、それだけのことである。
「ほ~橘、言ってくれるではないか……」
「まったくです。恭平君の分際で私たちを侮辱するとは不敬罪に当たります」
「何が分際だ」
「では、恭平君ごとき。それとも、恭平君のくせにということにしておきましょうか?」
「ふざけるな」
当然ながら、恭平のその言葉を待っていましたと言わんばかりに、自分の成績に恥じ入ることのないふたりからの苛烈な報復は即座に開始され、恭平自身が開戦前に想像していたとおりにことは進み始める。
「橘、おまえは本当に何もわかっていないな」
「何がだ?」
「最下位で名前が載る恭平君と、名前が載らない私たちと、学校内ではどちらが有名人になると思いますか?」
「ん?……まあ、俺だな」
「その通りだ。もしかして、おまえは本当に最下位で名前が載ることを恥ずかしいと思わないのか。あ~そうだった。すまなかった。おまえにとっては晒しものになって辱めを受けることが人生最高の悦びだったのだな。私のような恥を知る常識人には変態である橘の心情を汲み取ることはできないのだ。許してくれ」
「しかし、存在自体が人類の恥。そして恥の権化、恥の化身、恥の象徴である恭平君が同じ創作料理研究会部員であることは私たちにとっては恥辱の極みであることはまちがいないでしょう。恭平君の昔からの知り合いとして本人に成り代わり、恭平君の恥ずかしい体質と性癖、それから恥という言葉を知らない彼の言動によって日々迷惑している創作料理研究会関係者の皆さまにお詫びいたします」
「ヒロリンが謝る必要はない。土下座して泣いて謝罪しなければならないのは橘、おまえだ」
定期試験期間中には使用する機会があまりなかったよく回る二つの口が、あっという間に恭平を崖っぷちに追いつめたわけだが、ここでいつものように一気に形勢逆転を狙って失敗する恭平の余計なひとことが飛び出す。
「何を言う。おまえたちは何か勘違いをしているぞ。たしかに俺は最下位で名前が載ることをまったく恥だとは思っていない。だが、それはおまえたちが捏造した名門北高男子にふさわしい高潔な俺の人格とは無縁な理由からなどではない。いいか、よく聞け。あそこは学年トップをとるよりむずかしいと言われている名誉あるポジションだ。だから、そのポジションを獲得したことを俺はこれからもずっと最下位で名前が載りたいくらいに誇らしく思うのは当然のことだろうが」
……どうだ、こう言われればぐうの音もないだろう。
もちろん、これは現在戦闘状態にある博子と春香を黙らせるためだけの強がりというか、方便だった。
だが、彼は非常に重要なことを忘れていた。
……自分のすぐそばに誰がいるのかということを。
……そして、その人物の前ではそのようなことを決して言ってはいけなかったということを。
案の定というべきか、当然というべきなのか、それとも予定通りと言うべきか、とにかくどす黒い笑みを浮かべたその人物が口を開く。
「わかった。じゃあ、校長先生にこれからずっと恭平が基準になるようにお願いしてきてあげる。そうすれば、恭平はずっと成績表の一番下に名前が載るよ。これで恭平は学校史に残る有名人なれるわけだ。恭平、私に感謝してよね」
もちろん、その人物とは麻里奈のことである。
「おい、麻里奈。ちょっと待て。今のは、その、言葉の綾というか……」
「私も校長先生たちに口添えしてあげる。特別に無料で。かわいい部員のたっての願いを叶える努力をするのも顧問のつとめだからね」
「いいね。じゃあ、先生に助太刀をお願いしようかな」
「ラジャー」
当然ながらすべてが手遅れであり、恭平のしどろもどろの言い訳を吹き飛ばすかのように、すぐさま恵理子がなんと無料で手伝うことを約束して彼を晒しものにする段取りが完成すると、エセ文学少女と自称お嬢様からの祝福の言葉が届く。
「よかったですね。これで恭平君はどんなに成績が悪くても名前が載るわけです。憧れの最下位で」
「三年間ずっと晒しものになれるこのご褒美。橘、おまえの大好きな晒しものになれるすばらしいご褒美をくださった優しいご主人さまに土下座して泣いて感謝しないといけないぞ。では、さっそくおまえの得意な悶絶パフォーマンスで感謝の意を示せ」
「ふ、ふざけるな。麻里奈よ、そのようなことは言葉だけにしてくれ。頼む、冗談だと言ってくれ」
だが、恭平のこの望みが叶うはずもなく、翌日には博子と恵理子を従えた麻里奈が直談判のために職員室に乗り込むことになるわけなのだが、数度にわたる恐怖体験により、もはや創作料理研究会が誇る「悪のスリートップ」に諍う気力など微塵も残っていなかった教職員一同麻里奈の交渉とは名ばかりの一方的な要求をあっさりと呑み、結果として卒業までの三年間、恭平は彼の希望通り毎回試験結果の最下位に名前が載る栄誉を得ることとなる。
……それから三年後。
彼はすでに創作料理研究会の伝説の一部となっていたのだが、それとは別に「橘恭平」という名前は「三年間すべての定期テストの成績表で最下位に名前が載った驚異の人物のもの」として嘲笑とともに積み上げられた彼の三年間にわたる輝かしい実績の頂点として関係者の記憶に刻み込まれ、北高の長い歴史で初めてであり、そして今後も間違いなく現れないであろう空前絶後の偉大なる記録保持者のものとして永遠に語り継がれることになるのだが、彼にとってそれが名誉なことなのか、それとも不名誉なことなのかは本人以外の誰にもわからないことである。




