天国と地獄 汝はどちらを所望する
巷ではゴールデンウイークと呼ばれる春の大型連休初日。
前日に約束したデートに思いを巡らせながらその朝を迎えることができれば、男子高校生にとってこれほど幸せなことはないのだろう。
現実にはそのような幸せ者は半数にも届かないのかもしれないのだが、運悪くデートの相手は見つからずとも、そこは青春真っ只中にある男子高校生であり、長い連休中には何かしらの楽しいイベントのひとつくらいは彼らを迎えてくれるというものである。
だが、ここ千葉の田舎に住むその男子高校生はそのようなことにはまったく無縁であった。
いや、彼はそれとは対極の存在だと言ってもいいのかもしれない。
なにしろ、その稀有な存在である千葉県立北総高等学校通称北高に今年の四月から通う橘恭平はせっかくの休日だというのに朝から二階にある自分の部屋に立てこもり、下から聞き覚えのある女性たちの賑やかな声を聞こえてくるとそれまで以上に不機嫌オーラを発散していたのだから。
「お兄ちゃん、お昼ごはんだよ」
「恭ちゃん、ごはんだよ」
やがて、ふたりの妹が元気よくそう叫びながらバタバタと音を立てて二階に上がって来た。
「お兄ちゃん、すぐに降りてこないと麻里奈お姉ちゃんがあの話をお母さんにするって言っていたよ」
「……くそっ。麻里奈め。いつもおまえの思い通りにはなるとは思うなよ。だが、ここはおまえの言うとおりにしたふりをしておとなしく出ていってやることにする。……だが、勘違いするなよ。俺が出ていくのはあくまで悪の芽を摘み取るためだからな」
前日。
その話はこの日の放課後まで遡り、自称天才料理人が製造した名前だけを聞けば人間の食べ物に思える異次元物質「アイデア満載超豪華クリームカレー 惜春の香りを楽しみながら」なるものを体に入れた恭平が見事な悶絶パフォーマンスが披露してからかなりの時間が経過していたところから始まる。
「春香」
「わかった。おい、橘。帰るぞ」
「……あ、ああ」
恭平以外の創作料理研究会関係者たちがまみ特製春野菜カレーを堪能してからしばらく経ち、くじで負けて当番となった春香が虚ろな目をして床に這いつくばる恭平を乱暴に叩き起こして部室を出る準備を始めたところで、それは唐突に宣言された。
「恭平。明日は十時に恭平の家に創作料理研究会部員全員が集合して、それから買い物に行くから。忘れずにファイユームのアップルパイを用意して待っていなさいよ」
もちろん、恭平にとってそれは今初めて聞く話であった。
……そのような話があったことなど記憶にはないが、俺が知らない間に話がついていたのかもしれない。まあ、こんなことはいつものことだ。
もともとの性能が悪いうえに、先ほど起った大事故による全面停止から完全には復旧をしていない恭平の思考回路では、明日自分の家でなにかよからぬことが起こることが決定したところまでを理解するのが精一杯であり、麻里奈の言葉に彼にとっての一大イベントにつながる重要事項が含まれていたことをこのときはまだ気がついていなかった。
……買い物か。どうせ荷物持ちをさせられるのだろうな。重い荷物だったら宅配にして学校に届けてもらうように交渉しないといけないな。なにしろ普段は無駄遣いばかりするくせに、こういうところだけは、なぜかケチるからな。麻里奈のバカは。
そのようなことをぼんやり考えていた彼の脳に新たな負荷をかけるように麻里奈の言葉が耳から流れ込んでくる。
「ということで、先生も寝坊しないで来てよ」
「え~私も参加なの?」
「部活動の一環だから顧問も参加するのが当たりまえでしょう」
「いいよ。私は」
「だめ」
「そうです。だめです」
……どうやら恵理子先生はあまり乗り気ではないようだな。
「ん?」
恭平はあることに気がつき、心の中でそれに気がついた自分自身に拍手喝采した。
会話の様子では事前に打ち合わせなどはされていないようだった。
だが、明日我が家に面倒事も持ち込む人数はひとりでも少ないほうがいい恭平にとって、それはもはやどうでもよいことだった。
恵理子が乗り気ではない。
それこそが重要なのだ。
なにしろそれは、この後に恵理子に続く落伍者が現れて麻里奈の悪巧みが粉砕される可能性があることを意味し、もしそうなれば有意義な休日とまではいかなくても、少なくても穏やかな休日といえるものが自分のもとにやってくることになるのだから。
そのためには麻里奈がおかしな条件を出して恵理子の気が変わる最悪の事態にならぬうちにこの大事な橋頭保を確保しようと、策はないが熱意だけは十分にある恭平による恵理子に対する歯が浮くような全面支援が開始される。
「麻里奈よ、先生にとっては貴重な休暇なのだから、少しは気を使ってやれ。クラブ顧問というのは気苦労があるのだぞ。特にこの創作料理研究会の顧問は。毎日苦労している恵理子先生に感謝だ」
「そうそう。ここの顧問は本当にたいへんだよ。さすが橘君はわかってる~」
利害が微妙に一致したらしい共闘相手である恵理子はうれしそうにそう言って大きく頷くものの、薄皮一枚剥いだ先にはっきりと見える恭平の思惑などお見通しである恭平よりはるかに格上である三人組はターゲットを恵理子に絞った厳しいピンポイント攻撃を始める。
「先生はやっぱりおばさんだからすぐ疲れちゃうのだろうね。おばさんになるとたいへんだ。恭平の言うとおり、私たちよりも十歳も年上のおばさん先生には少しは気を使わないとだめかな」
「そうですね。なんと言っても先生は私たちより十歳も年上のおばさんなのですからすぐ疲れても仕方がないです。私もあと十年経ったら今の先生のようなすぐ疲れてせっかくの休日も寝ているだけなどという恥ずかしいおばさんになってしまうのでしょうか。先生を見るたびにおばさんになるのは嫌だと思います。十年後が怖いです」
「まったくだ。若いと思っていたが先生はやっぱり本物のおばさんだね。それにしても、連休をすべて睡眠に充てなければならないとはおばさんとはたいへんだ。あ~年は取りたくない。先生のようなおばさんにはなりたくない。あと十年になると私も先生のような恥ずかしいおばさんになるのか」
それは麻里奈の隣に座っていつもように仲間の下品なバトルに参加することなく聞き役となっていたまみが思わず吹き出すくらいにあまりにも露骨な内容であったのだが、麻里奈たちが連呼するこの「おばさん」という言葉こそ恵理子最大のNGワードであり、その言葉を絶対に素通りできない恵理子は大急ぎで否定にかかる。
「違うわよ。私はおばさんじゃないから全然疲れないけど……でも……えーと、ほら明日はデート……があるとか……色々……」
もしここで面倒くさいとでも言っておけばサイコロがいい方向に転がって今回の出番は免除という目が出た可能性もあったのだが、ささやかな見栄を張ったばかりに恵理子は自らその退路を閉ざしてしまったうえに、火事場にガソリン缶を投げ込むようなさらなる悲劇を呼び込むことになってしまう。
「先生がデートですか?」
「アハハ、先生がデートだって。笑える」
「知らなかったな。デートってひとりでするものだったのか」
「違うわよ」
「では、エア彼氏とデートということか」
「透明人間かもしれません。信じる人にしか見えない先生の理想の彼氏」
「二次元ということもあるな。おばさん教師とどこにでも持ち歩ける二次元彼氏と熱愛発覚的な」
「なぜそういうもの限定になるのよ。具体的にどういう男の人ですかとか、どこで知り合ったのですかとか、どこに行くのですかとかになるでしょう。こういうときは。それに私はまだ二十四歳だからおばさんじゃないし」
「ならんな。それにおばさんだし」
「なりません。それから先生は立派なおばさんです」
「だいたい、先生は彼氏どころか連休に遊ぶ友達だっていないじゃないの」
「失礼ね。いるわよ」
「だって携帯電話のアドレスも通話履歴も家族と私たち以外は学校とか歯医者とかしかなかったよ」
「なぜそんなこと知っているのよ。まりん」
「この前先生の角が生えた携帯電話を借りた時に全部チェックした」
「そして、先生は今日も寂しい『ひとり宴会』。かわいそうです。哀れです。哀れすぎる二十四歳のおばさん教師です」
「哀れとか言うな。色々言いたいことはあるけれど、まず何よ、そのひとり宴会って。それから絶対におばさんじゃないから。だいたい私がその買い物についていったら絶対にご馳走してとか言うでしょう。あなたたちは」
「本音出た~」
「なるほど。そういうことか」
「さすがは強欲守銭奴おばさん教師です」
「おばさんはいらない。強欲守銭奴もいらないけど……」
このあとにいくら慌てて火消しに走ってもすべては後の祭りであり、せっかくの連休にもかかわらずデートをする相手だけでなく遊ぶ友達もいない事実までが晒された挙句、参加したくない一番の理由まで発覚してしまった実に哀れな二十四歳の女性教師であった。
「恭平の家で昼食を食べるから一食分食費が浮くよ。どうする?」
「行くわよ。どうせ暇だし」
そして、食費が浮くことが判明すると、考えられる中でもっとも消極的な理由により参加表明をするのであった。
こうして、本来なら一番重要なはずの自宅を集合場所として提供させられる恭平の意見はまったく聴取されることなく、連休初日の予定がめでたく決まった創作料理研究会であった。
さて、すべてが決定した後という絶妙なタイミングではあったのだが、ここでようやく我が家にやってくるメンバーにまみが含まれていることに恭平も気がつく。
これは自分にとって非常にいいことであると方針を百八十度変更することにしたのだが、そこは浅はかなことしか考えない恭平、同様なことをおこなってそのたびにひどい目に遭っている常日頃の悲しい出来事をすっかり忘れたかのように、ここで再びつまらない小細工を思いつく。
……どうせ俺がどんなに反対しても麻里奈たちが家にやってくることが中止なるはずはないのだから、ここは心置きなく反対の意思を強く示しておこう。そうすれば問題が生じたときにすべての責任を麻里奈に擦り付けられるからな。
……完璧だ。
ということで、何を根拠にしたかはまったくの不明であるものの勝利を確信した学ばない人代表である恭平渾身の演技が始まる。
「ちょっと待て。何を買いにどこに行くのかを俺はまったく聞かされていないが、とりあえず待ち合わせ場所は駅でいいだろう。どこかは知らないが目的地が俺の家から近いというのなら、集合場所は部長であるおまえの家にしろ。なんといっても、おまえの家は俺の家の隣の隣なのだから。おまえの家ではなく俺の家が集合場所になる理由などないだろう」
「あるわよ」
……よし、引っ掛かった。
……ん?
恭平が即席に考えたものにしては出来の良い部類に入るそのエサに即座に食いついたのは、恭平にとってはまったくの予定外ともいえる今回の件にまったく好意的ではなかった恵理子だった。
……なぜここで麻里奈ではなく先生が出てくる。先生がわざわざ俺の家に来る理由などあるのか?もしかして、本当に俺の家で昼食を食べるつもりなのか?
悩む恭平。
話を円滑に進めるために、ここで恭平の疑念を解いておこう。
彼女が突然その気になった理由。
それは恭平のアリバリづくりのために主張した言葉にあったあるキーワードだった。
「おまえの家は俺の家の隣の隣」
麻里奈の家。
そこはすなわち恵理子がこの悪の組織創作料理研究会に半自主的に参加した理由でもある麻里奈の兄小野寺徹の家でもある。
実はこのクラブの顧問になるに際し、恵理子は小野寺徹とのデートを彼の妹によって確約されていたのだが、約束してからもう一か月になろうとしているにもかかわらず今もってそれは実現していないかった。
それどころが、目の前にいるそれを約束した張本人は約束をしたことすら忘れているようであり、あの約束の先にある自分の最終目的を達成するためには、まず自らの力で第一歩を踏み出そうという恵理子の考えはとりあえず正しいといえる。
だが、日頃の図々しさは影を潜め恭平案に乗れば確実に実現する憧れの小野寺家への強硬突入ではなく、恭平の家に行くときにたまたま起こった隣の隣に住む徹とのニアミス狙いなどという偶然性が高い策を選択するところが、こと恋愛に関しては高望みはするものの肝心なところでウブな女子中学生並みの意気地なさを露呈する恵理子らしいともいえるであろう。
さて、一方の恭平である。
……先生がそう言った理由はわからないが、この際よしとしよう。
予定の麻里奈ではなかったものの、まずまずの成功であると心の中でそう呟き、笑みを浮かびかけたところで自分をじっと見つめる視線があることに気がつく。
その人物は「なるほど、そういうことですか」と呟くと、なにやら嬉しそうな笑みを浮かべながら麻里奈にこう問いかけた。
「ところで、まりんさん。お兄さんは元気ですか?」
「えっ?ヒロリンは昨日兄貴と……あ~なるほど。そういうことか」
それは自分では聞く勇気がなかった恵理子にとっては渡りに船のような非常にありがたい質問だったのだが、博子より少しだけ遅れて恭平の意図を看破した麻里奈の返答は残念ながら恵理子の希望とは正反対なものとなった。
「今は家にはいないよ。幸運なことに、ここしばらくバカ兄貴の顔を見ないで済んでいる」
当然ながらこれを聞いてそのエネルギー源が消滅した恵理子のやる気はあっという間に萎む。
そして、こうなる。
「集合場所は駅でいいよ。歩くのが大変だから。どうしても来てもらいたかったら、橘君は私のためにお金のかかったランチを用意してちょうだい。もちろんお土産付きで」
……押しかける側がそこまで要求するというのはどうなのだ。しかも、おいしいものではなく高価なものを所望するとは、まったくこの強欲守銭奴教師はどこまでいっても金のことしか言わないな。
……それにしても肝心な時に余計なことを言いやがるな。おまえは。
そう心の中で叫びながらその人物を睨みつけようとしたときに、彼はその人物の勝ち誇った視線に出会う。
……うっ。これは間違いなく俺の計画を完全に読み切った顔だ。ということは、あれは先生への助け船ではなく、聞かなくても知っていることを先生のやる気を削ぐためだけにあえて麻里奈に訊ねたということか。まったく毎度忌々しいことしかしない狡猾なメガネめ。
そして、再び思案する。
だが、話が自分の希望していない方向に向かいかけてはいるものの、走り出した逆方向の電車に大急ぎで飛び乗った手前、いまさら百八十度方向転換をして創作料理研究会関係者の自宅訪問に賛成することもできず、さりとて自分の魂胆を見抜いている可能性が高い人物が間近にいる状況下で成功しそうな良策など思い浮かぶはずもない恭平には渋々ではあるが当初の予定通り麻里奈が登場することを期待しながら茶番劇の俳優を演じ続ける以外の選択肢はなかった。
恭平は気がつかないふりをして視線を外すと、やや上ずった声で恵理子の意見に賛意を示した。
「……そうそう。やっぱり駅の方がいいでしょう。俺の家が集合場所である必要などないし……」
「いや、ある」
「ん?」
ありがたいことに再び恭平の希望通りの答えが返ってきた。
だが、またしても麻里奈ではなく、そう答えたのは自称お嬢様馬場春香であった。
……まったく。いつもなら盛大に怒鳴り散らすくせに、肝心なときに麻里奈のバカは何をしているのか。
まさか麻里奈が自分の企てを読み切ったうえで心の中で舌を出しながら嫌がらせのためにノーコメントを貫いているなどとは思いもよらない恭平は、自分よりはるかに格上である自分の幼馴染をたっぷりとこき下ろして憂さ晴らしをしてから、目の前で起こっている事象のうち自分にとって都合のいい部分だけを掬い上げて満足することにした。
……とにかく、これでまた俺にとってはいい方向に動いたわけだ。どうだ、メガネ。最後には正義が勝つことになっているのだ。
心の中で鬨の声を上げてから、先ほどの人物に目をやった恭平はぎょっとした。
……なんだ。この顔は。
目の前にいるその人物であるエセ文学少女ヒロリンこそ立花博子は恭平と目が合うと、これから起こるすべてのことを見通しているかのようにその地味顔に不気味な笑顔を浮かべたのだ。
それは、恭平をこれから何かよからぬことが起きるのではないかと不安にさせるのに十分なものだったのだが、その不安はいつものように見事に的中し、棚から牡丹餅を狙った彼の愚かな泥船計画は出港直後に座礁する。
これがその残念なお知らせの第一報である。
「この機会におまえが自宅でどれだけの変態行為をおこなっているかを、被害者であるおまえの妹に確認するという義務がある。私には」
悲報は続く。
春香のその言葉を予想していた地味顔のエセ文学少女がうれしそうに用意していたその言葉を口にしたのだ。
「それは大事なことですね。恭平君がこれまでおこなった数々の変態行為を由佳ちゃんに証言してもらいましょう。まみたんの前で。それに由佳ちゃんのスカートの中を覗き見ただけではなく、それ以上の犯罪行為もやっているかもしれません。たとえば、由佳ちゃんたちの裸を見るために毎日お風呂を覗いるとか」
「うむ。この変態ならその程度のことをやっていることは十分考えられるな。橘よ、余罪があるなら今のうちに自白しておけ。今ならお仕置きの回数を一回減らしてやるぞ」
「くそっ」
……それが事実かどうかと言えば断じて違う。
……だが、兄にスカートの中を覗かれたと主張する自称被害者である妹の由佳はどういうわけか兄より自分のほうが家庭内での序列が上位だと思っており、その上位者である自分に対して威張り散らす無礼な兄への制裁などと称して、証言を求められればあることないこと、ではなく、ないことないことを涙ながらに訴えることは容易に想像できる。
……しかも、その取り調べとやらをおこなうのは、「食材からおそろしい凶器を生み出す」ことにかけては天賦の才がある自称天才料理人と、「それがおもしろいかどうかがすべてに優先する」ことを自身の行動指針に掲げる自称お嬢様である。
……それが真実かどうかなどこいつらにとっては取るに足らない些細なことであり、その場のノリやそれが面白いかだけですべてを決するこいつらがどのような判決を下すかなど火を見るよりも明らかである。
……すなわち、俺は無実の罪で罰せられる。
……しかも、憧れのまみの目の前で。
……そう。これはまさにあの忌まわしきあの事件の再現である。
……これはまずい。まずすぎる。
こうなると、もう止まらない。
疑い深く人間としての器の小さい小心者である恭平の物事すべてを悪いほうに考える能力がここでいかんなく発揮され、不安材料が次から次へと思い浮かんでくるわけなのだが、その中でも最大なものこそ、「口に食べ物が入っている時以外は、常に話をしている」と近所で評判の社交的すぎる母久美子の存在である。
この自称「見た目はいまだ現役女子高校生」、息子公認「精神年齢は小学生」である母久美子はどういうわけか実の息子である恭平ではなく、赤の他人であるはずの麻里奈や博子とすべての面で波長が合っていた。
恭平にとってはこれだって決して望ましいことではなかったのだが、それ以上に問題なのは彼女が天才ストーリーテラーと自称していることだった。
もし由佳が主張する「高校生の兄が小学生の妹のパンツを覗き見て興奮している」例の案件が明日話題になるようなことにでもなれば、彼女の創造意欲を刺激するその話題を素通りするはずがないこの母親は間違いなく参戦する。
そして、そこで母親は彼女の作品の中で娘たちに一番受けがよい息子の恥ずかしい話をいつも以上にはりきって捏造し、自慢げに披露することであろう。
その結果がどうなるかといえば、まさか実の母親が笑いのネタにするためだけに息子を貶めているなどとは想像もしない真面目な性格のまみが母親の作り話をそのまま信用してしまうことは十分考えられ、それはそのまま自分の評価が大幅に下がることに直結する。
「くそ、最悪だ」
恭平は渋々ではあるが名誉ある撤退を決意した。
「俺の家を集合場所にするなど絶対に認めん。そもそもお袋に何を言わずに……」
だが、家族をダシにして集合場所として自宅を提供することを拒否した恭平のその言葉に、それを真っ向から否定する別の人物の言葉が覆い被さった。
「昨日、恭平のお母さんに確認したら、どうぞ来てくださいと言われた。おいしいお昼を用意して待っているそうだよ」
「ちっ。ということは先生に言っていた昼食の件は本当なのか……いやいや、それよりも今までの俺の葛藤は何だったのだ」
不埒なことを考えた息子にお仕置きするように……昨日の時点にすでに決まっていたのだから決してそうではないのだが、とにかく麻里奈たちがやってくることを息子に相談もせず勝手に承諾した母親と、相変わらずこういうことをおこなう時には手際がいい麻里奈に恭平は盛大に舌打ちをした。
「恭平、何か言いたいことでもあるの?」
「フン、何もないぞ。麻里奈の性格の悪さに感服しただけだ。了解を貰っていたのならもっと早くそれを言え」
「何を言っているの。あんたがどのような妄想していたかは知らないけれども、さすがにおばさんの了解もなしにあんたの家を集合場所にはしないわよ。常識で考えてよね」
「くそっ」
悔しがる恭平の脇で麻里奈は母親からのある伝言をうれしそうに披露する。
「それから、おばさんは恭平がクラブ活動中にどのような恥ずかしいことをしているかを聞きたいそうだよ。ということで、春香は明日恭平の恥ずかしいおこないを親切丁寧に教えてやってね」
「了解した。どうせなら、橘はクラブ活動中ずっと悶絶パフォーマンスをやっているとでも言って、悶絶パフォーマンスの実演をさせるか。母親と妹の前まで実演する恥ずかしすぎる悶絶パフォーマンス。そして、その後ずっと家族中から蔑むような白い目で見られるのは、変態であるおまえにとってはこれ以上ないくらいのご褒美だろう。ということで、明日に家族の前で完璧な悶絶パフォーマンスをお披露目できるように今からもう一度いっておくか。悶絶パフォーマンス」
「橘君、大一番前の予行演習は必要だよ」
「そうだぞ。日々の努力は非常に大事だ」
「ふざけるな。俺は絶対にやらん」
だが、抵抗むなしく、結局は見事な悶絶パフォーマンスを再演する恭平だった。
そして、今日。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
「一時間遅れまではオンタイム」などとうそぶく稀代の遅刻魔である麻里奈がいるにもかかわらず、奇跡的に定刻どおりに創作料理研究会関係者全員揃って恭平の家にやってきたわけなのだが、「自分にたいへん優しく、他人に非常に厳しい」麻里奈が心を入れ替えて早起きしたなどということがあるはずもなく、今回の奇跡に関するすべての功績は午前七時には小野寺家を訪れ、遅刻する気満々で惰眠を貪っていた麻里奈をちょっとした策謀を用いて叩き起こし、まだ早すぎるとブツブツと文句を言う麻里奈の尻を叩きながら出かける準備をさせたエセ文学少女ヒロリンこと立花博子に帰すると言っていいだろう。
さて、その麻里奈だが予定よりも三時間も早く起こされて機嫌がよいはずもなく、集合時間の五分前には来たものの麻里奈よりも到着が遅かったまみと春香にたっぷりと八つ当たりをして憂さ晴らしをしていたのだが、なんと麻里奈と並ぶ遅刻常習犯である顧問の恵理子が麻里奈以上に早い到着を果たし、麻里奈の制裁から免れるという別の奇跡も起きていた。
もっとも、こちらの奇跡が起こった原因は、恵理子が最後の期待をかけた麻里奈の兄徹との邂逅だったわけなのだが、残念ながらそちらについては奇跡が起きなかったうえに、麻里奈の家を覗き込みながら家の前を徘徊しているその姿は「不審者がいる」と、麻里奈の母典子を恐怖させるに十分なものになるという、おまけまでついていた。
では、話を先に進めよう。
抗議の意味を込めて朝から自室に立て籠もっている恭平のことなどお構いなしに我が家のようにずかずかと橘家に上がり込むふたりの「準この家の住人」に続いて、手ぶらの恵理子、いつもの創作料理研究会随一の凶暴な言動からは想像できないのだが、甘い香りからおそらく中身はお菓子と思われる「Faiyum」と小さく書かれた大きいが厚みはあまりない白い箱を持参し自らが僭称するお嬢様らしい気配りを見せる春香、最後に手作りクッキーをお土産としたまみの順に廊下を進む。
そして、彼女たちを玄関で出迎えていたのが長女の由佳と次女の千夏というふたりの小学生と……赤いミニスカートから素足が伸びる恭平たちの母である橘久美子四十一歳だった。
「ヒロリン、橘のお母さんはいつもあんななの?」
「はい、そうです」
「橘君のお母さんらしいけど、いったい誰に対抗するつもりなのかな?」
自分以上に露出度の高い久美子のスカートに驚く春香に続いて、博子にそう訊ねる恵理子だったが、実は恵理子自身もあきらかに何かを意識しており、念入りに施した若作り化粧に必要以上にかわいらしさを強調する昨日買ったばかり薄いピンク色のワンピースという万全の臨戦態勢での登場であった。
ここで、あえてネタばらしをしてしまえば、久美子はこれでも普段と変わらぬ服装であったのだが、恵理子のそれは、博子からの「恭平君のおかあさんは、アラフォーですがすごくきれいですし、服のセンスも非常に良いです。明日先生がいつものだらしない薄汚れた上下スウェットで来るようであれば、確実に先生は恭平君のおかあさんの恥ずかしい引き立て役になります」というありがたい助言に基づいたものであり、博子を含む創作料理研究会関係者の低評価はともかく、恵理子自身は「大きな出費ではあったけれども、とりあえず二十四歳のこの私がアラフォーの引き立て役になるなどという最悪の事態は回避した」と出費に見合うだけのものがあったと満足していた。
もっとも、恵理子の場合はまだあきらめていなかった徹とのニアミスこそ本命であり、恵理子本人の言う今回の大出費とやらもそれに備えてのものだったのが、そちらの結果は前述のとおり見事な空振りに終わっている。
ついでに付け加えておけば、恵理子が成就することを熱望していたあの約束だが、六月のある日微妙な形でそれは実現することになるのだが、そのときに彼女は春香共々見てはならぬものを目にすることになる。
それから、約二時間後。
「じゃあ、そろそろお昼にしようか?」
「は~い」
持ち込んだ大量のお菓子をすべて食べ尽くしたところで、ようやくお開きとなった賑やかな女子会は、そのまま昼食へとなだれ込む。
「いや~来て正解。今日は大収穫だよ」
目的であったふたりの被害者への事情聴取ができただけなく、陽気すぎる彼女たちの母親からも重要証言も得られ、次回のお仕置きには十分すぎるネタを入手した春香は満足そうな表情をみせたが、さすがに前日予告していたあれを話題にすることはなかった。
たしかに、あれを言葉だけで説明するのは非常に困難であり、唯一の表現方法である実演もこの場に恭平本人がいないために不可能だったこともあるのだが、さすがの春香も最低限の常識は持ち合わせてはいるようであった。
そうなると、この世でもっとも常識からかけ離れた存在である麻里奈こそが恭平にとって危険な人物となるのだが、どういうわけか彼女もそれについてまったく触れることはなかった。
もちろん彼女も実は常識があったなどとはならないのだが、麻里奈には麻里奈なりの触れない理由はあった。
昼食の用意が整い、ふたりの妹たちに恭平が立てこもる部屋に呼びに行かせた時に、「すぐに出て来ないと、私があの話をすると言っていた」という魔法の言葉をふたりに授け、恭平を部屋から引きずり出すことに成功していたのだが、これこそが麻里奈があの話をしない理由、すなわちこのような情報は実際に使用するよりも使用をほのめかした時の方が、恭平のような妄想力の高い人間にはより大きな効果が得られるうえに何度も使用できるという利点もあるということなのである。
さて、恭平も引きずりだすことにも成功し無事昼食が始まることになったわけなのだが、ここで問題が発生する。
いや、発生していたというほうがより正しい表現であろう。
不機嫌な顔で渋々やってきた恭平がギョッとするほど彼以上の強烈な不機嫌オーラを発している人物がいたのだ。
まみである。
……どういうことだ。何が起こった。
だが、鈍いうえに洞察力がない恭平でもまみの不機嫌の原因が何であるかはその様子を見れば一目瞭然であった。
……なるほど。そういうことか。
まみが不機嫌な理由。
それは創作料理研究会の根城である第二調理実習室でもネフェルネフェルでもまみの指定席となっている麻里奈の隣を恭平のふたりの妹が占拠していたことだった。
しかも、先ほど閉会した女子会開始からずっと。
……これはこのまま放置するわけにはいかないな。
さすがの恭平でもそう思うほどの緊急事態である。
博子や春香が相手なら押しのけてでも席を確保するし、そもそも創作料理研究会のなかでは彼女のために麻里奈の隣の席を空けておくことが暗黙の了解となっていたのだが、さすがに事情を知らない小学生にそれを期待するのは無理であり、さりとて乱暴な手段を用いることもできず、では、このまま我慢し続けるかといえば、それも限界に近づいており、時間を追うごとにまみのイライラが募っていった。
……橘さんのバカ。こういう大事なことは事前に妹さんたちにちゃんと伝えておかなければいけないでしょう。
本気で不法占拠者たちの兄を呪っているまみの隣では、面白いことになってきたと黒い笑みを浮かべる博子がどうやら同じ感情を有しているらしい麻里奈とのアイコンタクトでしばらくこの状況の放置を決め込むにしたのだが、あまりお目にかかれない鬼の形相のまみの顔に恐れをなしたのが、ふたりと違いそれをおもしろいことだとは思えぬ他の創作料理研究会の関係者たちである。
「橘、やれ」
「橘君、君の出番よ」
春香、続いて恵理子が恭平に催促する。
こういう時にだけアテにされるというのも悲しいものはあるが、事情を知る創作料理研究会関係者の中でこの事態を変えられるのはたしかにふたりの兄である恭平だけであり、これは正しい選択である。
いや。
……のはずだった。
もちろん、ここで恭平が普段から兄に従順である次女の千夏に声をかけていれば、おそらく彼女たちが望んだ結果となったのだろうが、彼が声をかけたのは日頃兄に対して反抗的な長女由佳だった。
「由佳、バカなおまえはおかあさんの隣に行って、そこの席を開けろ」
このような時に日頃の恨みを晴らそうとする彼の人としての器の小ささが招いたものではあったのだが、天罰のようにここから多くの誤解にもとづいた恭平の悲劇が始まる。
「なぜ私が麻里奈お姉ちゃんの隣にいてはいけないの?もしかして、また床に転がって私のパンツを見ようとしているの?そうでしょう?パンツ覗き魔の変態兄ちゃん」
頬を膨らませて兄を虐げる言葉を並べ立てる由佳に続くのはもちろん社交的すぎると評判の彼女の母親である。
「恭平、麻里奈ちゃんの隣に行きたいのなら由佳にもっと丁寧にお願いしなさい。由佳のパンツを本当に見たいのなら……土下座くらいは必要ね」
「泣きながら土下座して、それから私の足を舐めてお願いしたら席を代わってあげてもいいよ。でも、土下座程度ではパンツは見せられないからね」
「じゃあ、仕方がない。恭平、由佳のパンツは諦めなさい」
それはまるで麻里奈のものではないかと思えるくらいの容赦のない言葉の連続であり、それを聞いた春香と恵理子は、もしこの子が高校生になる頃にまだ創作料理研究会が存続していれば麻里奈に負けない立派な創作料理研究会部長になるだろうと心の中で力いっぱい太鼓判を押したのだが、このふたりと違い、まみの前で妹にこき下ろされて面目丸つぶれとなった彼女の兄はおもしろいはずがない。
「誰がおまえの汚いパンツなんか見たいものか。とにかく、さっさと席を開けろ。バカ」
「い・や・だ」
「どけ。バカ」
「絶対イヤ」
「そんなに麻里奈ちゃんの隣に行きたいの?恭平」
「麻里奈の隣になんか行きたいものか」
「ほら、やっぱり私のパンツが見るためでしょう」
「おまえの汚いパンツなんか金をもらっても絶対見ないぞ」
「嘘ばっかり。見たいくせに。でも、絶対に見せないからね」
「ふん」
「こっちこそ、ふんだよ。この変態兄ちゃん」
どうやら学校同様自宅においても恭平の思い通りにはことが進まないようで、レベルの高いとは言えない言葉の応酬後、兄妹の真剣だが滑稽でもあるにらみ合いが始まる。
ここでまみが「麻里奈さんの隣に座りたいのは私です。席を譲ってください」とでも言ってくれれば、すべてが丸く収まったのだろうが、正真正銘の麻里奈ラブであるまみもここでカミングアウトをする勇気はさすがになかったためにそうはならず、この珍妙な膠着状態は永遠に続くかに思えた。
だが、ここで思わぬ救世主が現れる。
「千夏ちゃん、たまには私のところに座ってかわいい顔をよく見せてください。ほらほら、邪魔なまみたんは向こうに行ってまりんさんの隣にでも座ってください」
その言葉を口にしたのは博子だった。
「わかった。お姉ちゃんよりかわいい私は博子お姉ちゃんのところに行く」
「ちょっと待ってよ。私のほうがかわいいから、私が博子お姉ちゃんの隣に行く」
博子に指名された妹の千夏だけでなく、小学生らしく「かわいい」に過剰に反応した姉の由佳までが椅子から飛び降り争うようにまみの席を目指す。
「アハハ、ふたつとも空いてしまいましたので、まみたんは好きな方をどうぞ」
「……ありがとうヒロリン」
こうして兄妹によるプチ家庭内争議は博子の魔法の言葉によってあっという間に解決してしまったわけだが、対照的に評価を下げたのが恭平である。
「橘、おまえの無能さにはガッカリだ。死んで反省しろ」
「この程度のこともできないとは。橘君には本当に失望しました」
これまでは家族の前ということで遠慮していたものをもはや隠すことをせず、いつもと同じように口汚く罵る春香や、両手をあげて必要以上のオーバーアクションで残念さを表明する恵理子とは違い、上品とは言えない言葉を口に出すことはなかったのだが麻里奈の隣に座り笑顔を取り戻したまみも春香達と同様の気持ちで胸がいっぱいである。
しかも、「ヒロリン、いい手があったのなら最初からやれ。おまえは本当に気が利かないのろまなヤツだな」などと自分の器の小ささを棚に上げ今回の大恩人を批判するという更なる大失態まで演じ、このあと一時間にわたりこのような問題を理解するには少々幼かった千夏以外の全員からいつも以上の負の賞賛を浴びる恭平であった。




