がーるずとーく Ⅵ
千葉県の田舎にある千葉県立北総高等学校通称北高。
その敷地の端にポツンと建つ古い木造校舎の一室では、この部屋を部室として占拠している関係者たちが下僕感満載の唯一の男子部員に冷ややかな視線を送りながらとりとめのない会話を楽しんでいた。
それはまったく中身のないものである。
しかし、彼女たちのことをよく知るすべての北高関係者は口を揃えてこう言う。
「部活動がおしゃべりをしているだけ?結構なことではないか。彼女たちがお菓子を食べて雑談しているだけで済むなら我々にとってこれほど幸せなことはない」
彼女たちが属する組織。
その組織こそ悪名高き創作料理研究会であり、それを統べるのが小野寺麻里奈なのである。
今回はご褒美の話である。
「橘さん、これからは私を『まみ』と呼んでもらえますか?」
「えっ?」
恭平がまみの唐突なこの申し出に驚くのは当然である。
……もしかして、松本は俺を……。
恭平の簡素なつくりの思考回路からすれば、これも当然といえば当然の成り行きである。
しかし、世の中は恭平の思うほど単純なものではない。
わざわざ語る必要もないことではあるが、まみが好きなのは麻里奈であって恭平ではない。
それどころか、まみにとって恭平は恋敵、いわばライバルなのである。
だが、こちらも言うまでもないことではあるが、麻里奈と恭平は恋愛関係であるという事実は存在せず、それどころか恭平にとって麻里奈は多くの意味で天敵に似た存在であることは多くの事例により証明されている。
それでは、なぜまみが恭平を恋敵に思っているのか?
その理由はいくつかあるのだが、そのひとつがふたりはお互いを常にファーストネームで呼び合っていることだった。
もちろんそれは、ふたりが近所に住む幼馴染で昔からそう呼んでいたから今でもそう呼び合っているだけだという実に単純かつ恋愛とは無縁な理由からだったのだが、本物の麻里奈ラブのまみの目にはそれがお互いだけを特別に思っているように見えたのだ。
ということで、今回の「橘さん、これからは私を『まみ』と呼んでもらえますか?」宣言はまみの屈折した気持ちによって引き起こされた大いなる勘違いが原因だったわけなのだが、果たしてこれでまみの不安が解消されるのかは甚だ疑問であるうえに、恭平にとっては色々な意味で余計な副産物も産み出されることになる。
もちろん恭平自身の勘違いもそれにあたるのだが、それだけでは終わらない。
これからしばらく経ってから、浮かれた恭平が「まみ」を「まみ本人公認」という言葉とともに天下の往来で連呼し始めるのだが、それはそう呼びたくても呼べないでいる多くのライバルたちの嫉妬心を煽り、彼らから厳しいお仕置きを受けることになる。
そして、その最大の負の遺産がこれである。
「おい、橘。そういうことなら私のことも特別に『春香』と呼ばせてやる。感謝しろ」
春香もそれに乗ったのだ。
むろん、こちらも愛情や好意などという成分は一切存在せず、ただ自分だけが苗字で呼ばれるのが気に入らないからという、まったくもってどうでもいい理由からのものだった。
「いや、それは遠慮しておこう」
当然ではあるが、それはお互い様のことであり、日頃ひどい目に遭わされている春香に対してプラスの感情など爪の先ほども持ち合わせていない恭平としては、そのようなものはありがたいどころか迷惑この上ないものでしかなかった。
ここは男らしくキッパリと断りたいところではあったのだが、さすがにそれでは後が怖い。
だから、ここは余計な波風を立てぬようにとこのように謹んでご遠慮申し上げたのは恭平なりの配慮だったわけなのだが、どうやらそれはとんだ無駄足だったようである。
「この無礼者」
この罵声に続いて恭平のもとにやってきたのは、いつも以上に厳しいお仕置きだった。
「私が許可したのに受け取らぬとはどういうことか」
「○%×$☆♭♯▲!※○%×$☆♭♯▲!※○%×$☆♭♯▲!※」
「よし、今から特訓だ。私の名前を言ってみろ。やれ」
「は、は、春香○%×$☆♭♯▲!※○%×$☆♭♯▲!※」
「私はそのような名前ではない。やり直し」
「春香○%×$☆♭♯▲!※○%×$☆♭♯▲!※」
「私の名前を呼ばせてもらえる感謝の気持ちも、私に対する敬う気持ちもまったく感じられない。やり直し」
「春香」
「橘、私の名前を呼んだ後に心の中できちんと『様』は付けているか?」
「いや。○%×$☆♭♯▲!※○%×$☆♭♯▲!※」
「……それにしても貴様にこれだけ名前を連呼されるとやはり寒気がするな。殴りたくなる衝動が抑えられない」
「○%×$☆♭♯▲!※○%×$☆♭♯▲!※○%×$☆♭♯▲!※……」
そして最後はいつものように悲しいお知らせとなる。
恭平に自分を「まみ」と呼ぶようにお願いしたまみであったが、まみ本人はこの後も恭平を「橘さん」としか呼ばず、当然その先にある恭平が思い描いていたことも訪れることはなかった。
まみが恭平に一ミリグラムも愛情を持っていないのだからそれは当然のことなのだが、恭平にとってそれはまったく理解できないことであったようで、まみのいないところで恭平が何度も不満を述べていたことは多くの創作料理研究会関係者の証言によって確認されている。




