エピソード ゼロ Ⅲ
それは、ひとりの少女のこの一言から始まった。
「まりんさん、何か記念になるものをください。たとえば、その……ボタン。できれば第二……」
「これ?」
「……はい」
「ずるいよ、自分だけ」
「そうだよ。ずるいよ」
「こういうのは言ったもの勝ちでしょう。あなたたちは別のボタンにすればいいでしょう」
「あっ、そうか」
「いやいやいやいや、そうはいかない」
「そうだよ。こういうときは年功序列でしょう。そのボタンを貰う権利を先輩である私に譲りなさい」
「いいえ。こういう時は先輩も後輩も関係ありません」
「生意気な」
「とにかく私は欲しいです」
「私だって欲しいよ」
「私も」
「私も」
「ここはやっぱり早い者勝ちだよね」
「そういうことなら私だって負けないから。一番いいものをゲットするから。勝負よ」
「その勝負、受けて立ちましょう」
「み、みんな落ち着いて。ヒロリン。なんとかしてしてよ」
このままでは暴動が起きて身ぐるみ剥がされる危険を感じて慌てた麻里奈は輪の外で待っていた地味顔の小柄なメガネ少女に救援を求めた。
「……わかりました」
麻里奈にヒロリンと呼ばれたその少女は読んでいた本を閉じると静かに口を開いた。
「皆さんは記念品が欲しいなどというそのような小さな欲望のためにまりんさんの衣服を毟り取って下品で野蛮な男子の前で神聖不可侵なまりんさんを裸にするつもりなのですか?」
彼女が言った言葉はたったそれだけである。
だが、彼女のその一言は彼女たちの混乱を一気に収拾に向かわせた。
「そのようなことは許されません」
「神聖不可侵なまりんさんの裸身を男子のいやらしい視線に晒すなど万死に値します」
「まったくです」
「もう少しで大罪を犯すところでした」
「まりんさん。申しわけありませんでした」
彼女たちの落ち着きを取り戻し口々に反省の言葉を口にしたところで、その少女は言葉を続けた。
「ですが、卒業に際しまりんさんが身に着けていた何かが欲しいという皆さんの気持ちもよくわかります。では、こうしましょう。希望する人はこのノートに名前と住所を書いてください。男子の下品でいやらしい視線がありますからこの場ではできませんので名前を書いた人にはまりんさんの制服のどこかをまりんさんのメッセージ付きで郵送することにします。それでいいですか?」
もちろん、それは歓喜の声で承認される。
……こうなることを予想して準備していたとはさすがヒロリン。でも、その郵送などといういかにも面倒な作業をやるのは私自身だよね。仕方がない。恭平に手伝わせるか。どうせ暇だろうし、バレンタインデーのこともあるから断れまい。ついでに恭平の妹たちも動員してすばやくやろう。
……それにしても、神聖不可侵とはなんじゃ。あんたは私を得体のしれない何かにしたいのかい。
麻里奈の微妙な心の声は脇に置くとして、そうして出来上がったこの学校に在籍する女子生徒のほぼ全員が並ぶ長い行列を仕切っていたその少女はそこで見知った顔を見つけ、その人物に声をかけた。
「まみたんもまりんさんの制服の切れ端が欲しいのですか?四月からも一緒の学校に行くのに?」
「もちろんです」
彼女が声をかけた人物。
それは、現在はこの学校で一番のモテモテJCで、おそらく一か月後にはその高校で一番のモテモテJKになるはずの、四月から麻里奈と同じ北高に通う予定の松本まみだった。
「だって私はまりんさんラブですから」
……それから三時間後。
「助かったよ、ヒロリン。やっと学校を出られた」
「いえいえ、たいしたことではないです」
「まあ、とりあえず卒業おめでとう。まみたんも」
「まりんさんもおめでとうございます。それから卒業式でのスピーチはよかったです」
「ありがとう」
「そういえば、まりんさん。このおもしろい噂を知っていますか?」
「へえ、まみたんにしては珍しいゴシップネタ?なんとか先生と卒業生の誰かが……」
「いいえ、違います。まりんさんがやった卒業生代表のスピーチは実は別の人がやることになっていたという話です」
「つまり、誰かは知らんが、そのヘタレは怖くなって逃げて、それで私にあの面倒な役が回ってきたということか?よし、今から戻ってそのヘタレに代役料を請求しよう。というか、断れるのなら私も断ればよかった」
「いえいえ、その人はやりたかったようです。実はその人は片山君なのですが、片山君がやりたかったその大役を召し上げたのは校長先生で、それが原因で校長先生はPTA会長である片山君のお父さんと一戦交えたとか。結構噂になっていましたよ」
「私としてはその片山とかいうヘタレの親父にがんばってもらいたかったな。……ところでその片山というのは、もしかしてあのセクハラ片山のこと?」
「今年の三年生で片山という人はひとりしかいませんから、まみたんの言うその片山君とはまりんさんにボコられて顔が三倍に腫れあがった同じクラスのかわいそうな恭君のことです。ちなみに恭君は生徒会長様でしたから、本来恭君がやるはずだったという話は本当だと思います」
「チョット待った。たしかに、あのときにあのゲス野郎を殴りつけたのは私だ。でも、残り三人の上級生を見るも無残な姿にしたのはヒロリンじゃないの。それなのに私だけが暴力を振るっていたかのように言われるのは心外じゃ。まあ、それはそれとして、それで珍しくまみたんが好意的な言い方をしなかったわけか」
「……はい」
「でも、何かされる前に終わったわけだから気にしない方がいいよ。三年も昔のことだし」
「そうです。気にする必要などまったくないです」
「……わかりました」
「それで、ヒロリン」
「何でしょうか?」
「いったい何をした?」
「と、言いますと」
「あのセクハラ男がやりたかったその役を降ろされるようなこととはいったい何かと聞いている」
「善良で地味でおとなしい一中学生であるこの私が他人の幸福をぶち壊すような悪逆非道な陰謀など知るはずがありません」
「陰謀の権化が善良とは聞いて呆れるよ。この学校でそのようなことをやれる人間はふたりしかいない。私でなければヒロリン以外に考えられないだろうが」
「えっ、ヒロリンが何かをしたのですか?」
「いいえ。ただ少し前に少々貴重な写真を見つけたので、校長先生に謹んで進呈しただけです。少々のメッセージ付で」
「あ~~そういうことか」
「どうしたのですか?まりんさん」
麻里奈にはその写真に心当たりがあった。
だが、それはまみの前で口にするのは少々憚らなければならないものだった。
「いや、何でもない。それで、あの変態がスピーチ役をクビになったところまではとりあえずいいとして、なぜ私がその代わりに面倒なスピーチをしなければならなかったのかな?ヒロリン」
「それも言ったほうがいいのですか?」
「もちろん。最大の被害者である私には聞く権利がある」
「最大の被害者は恭君のような気もしますがわかりました。では、言います。私はただ『まりんさんは、大勢の前で喋るのが大嫌いだし大の苦手です。卒業式で卒業生総代として答辞を述べる役などをやらせられたら、しどろもどろになって大恥をかくこと請け合いです』と先生たちの耳元で囁いただけです。まあ、囁く相手は少しだけチョイスしましたが。……たとえば、横山先生とか」
「これだよ」
「……でも、まりんさんのスピーチは本当に素敵でしたよ」
「当然だ。あんなものは好きではないが苦手でも何でもない。それに決まってからは毎日練習したし。要するにヒロリンはあのセクハラ男の代わりに私が卒業生代表としてあいさつすることになるように、今回の件の一から十まで仕組んだということだ。これで天下の大悪党とは私ではなくヒロリンのことを指すものだということがはっきりしたな」
「でも、男子はともかく女子はみなさん大満足なのですから、それでいいのではないですか。終わりよければすべてよし、みたいな。まみたんだってよかったでしょう?」
「それは……はい」
「そういえば、北高では入学試験で一番いい成績を取った人が新入生代表としてあいさつするそうですね」
「そうだよ。まあ、ヒロリン頑張ってよ」
「はい、残念。それをやるのもまりんさんでした」