エピソード ゼロ Ⅱ
「小野寺麻里奈。私に恥をかかせ続けた無礼なお前の名前だけは一生忘れないぞ」
卒業式が終わった直後の微妙な空気が漂う職員室で麻里奈を呪う言葉を独り言のように吐いていたのはこの学校の教師だった。
彼の名は横山欣也といい、麻里奈のクラスの担任だった男である。
とにかく彼は麻里奈とは非常に相性が悪かった。
もし、教師と生徒という立場でなければ、殺し合いとまではいかないものの殴り合いくらいはしていたかもしれない。
実際にあと一歩で殴り合いになりそうな場面もあった。
もっとも殴り合いという言葉のチョイスは間違いであり、そのようなことが実際に起きていれば小学生時代から習っていた護身術の成果を校内中で披露していた麻里奈が彼を一方的に殴りつけていたことは想像に難くない。
麻里奈を呪う彼の言葉は続く。
「お前たちがどのような卑怯な手段を使ったのかは知らないが、私はあの結果を絶対認めない。だから、私の負けにはならないのだ」
彼の言う結果とは、彼が麻里奈とおこなった麻里奈の友人が高校に合格するかどうかという小さな賭けについてのものであり、彼は不合格にかけていた。
当然である。
その麻里奈の友人は中学校の定期試験の成績は常に最下位。
しかも、受験したのはこの周辺では上位にランクされる名門千葉県立北総高等学校。
勝ったと思った。
教師が生徒の入学試験の合否を賭けの対象にすることなど不謹慎きわまりないことなのだが、とにかくその賭けで麻里奈が負けた場合には彼女は職員室で横山に土下座をしてこれまでの非礼を詫びることになり、勝利を確信していた彼は麻里奈が自分に対しておこなう屈辱の儀式を思い浮かべながら、指折り数えて合格者発表の日を待った。
しかし、その日発表された試験結果は驚くべきことに彼女の友人は北高に合格しており、賭けは麻里奈の勝ちであった。
「ありえん。絶対に何かの間違いだ」
彼はあの日自分がこう絶叫したことをよく覚えている。
それからの彼はこの日がやってくるまで麻里奈のあからさますぎる下品な嘲笑と生徒たちからの冷たい視線とともに聞こえてくる噂話をじっと耐え忍ばなければならなかった。
まさに屈辱の日々。
だが、それも今日で終わりである。
「これで、あの厄介者ともお別れだ」
彼がそう呟いた瞬間、職員室の扉が開いた。
「……小野寺」
そう。
ある情報に基づき彼女に恥をかかせるつもりで自分が強く推薦した卒業生代表のあいさつを完ぺきにこなし、多くの女子生徒の感涙を誘った麻里奈がその友人を連れてやってきたのである。
もちろん、彼女がここに来たのは、彼に別れの挨拶をするためでも、お礼を言うためでもない。
彼女がここにやってきた理由。
それは、その言葉を伝えるためだった。
「言い忘れていたが、例の賭けは私の勝ちだったな」
「言っておくが、あれはおまえが勝手に言っただけで、教師である私がそのようなものを受けた覚えはない」
「都合の悪い話はなかったことにする。大人らしいいい答えだ。だが、今回の件を近いうちに思い出すことになるぞ」
「ふん」
「それから一方にだけ負けの対価を要求する賭けなどこの世には存在しないことも覚えておいてください」
麻里奈はあからさまな捨て台詞を、そしてメガネをかけた地味顔の麻里奈の友人は意味深長なその言葉を残して職員室を出て行った。
「思い出す?あんなものをこれから思い出すことなどあるわけがないだろう」
彼はそう言って笑ったが、実はそうはならなかった。
彼がそれを知ることになるのは、そう遠くない未来のことである。