閑話「太陽からの贈りもの」 ②
「……はっきり言います。この状況で待っているだけでは首相が望むような急速に感染規模が縮小するということはありません。絶対に。ただし、何かすると言ってもその特効薬がない以上できることはごくわずかです」
「はい」
「しかし、だからといって、それをただ眺めいているだけでは税金泥棒と言われても致し方ありません。特にあなたはこの国の最高権力者なのですから」
「ごもっとも」
「では、あなたが首相としてすべきこととは何か」
「……ご教授を」
「それは……」
深夜の官邸に招き入れた少女の話はそこから一時間に及んだ。
そして……。
「……しかし、そのようなことをやったら我が国の財政は破綻します」
「牟田口首相」
「……はい」
少女の瞳は彼を捕らえて離さない。
「あなたの前にいるのは誰ですか?」
「立花、立花博子さまです」
「そう。私は立花家の次期当主立花博子です。あなたはその私の言葉を信じられないのですか?」
「そのようなことは決してございません。しかし、その額はあまりにも……」
「それは何を知らない者の言葉です。しかし、首相であるあなたは知っているはずです。その債務は誰に対してのものなのかを」
「……」
「私を、そして日本という国を信じなさい」
「……わかりました。ご提言ありがとうございます」
翌日の夕方。
緊急記者会見を開いた牟田口は、まず自らのこれまでの対応のまずさがこのような事態になったと詫び、それまで小出しにしていた情報をすべて開示することを約束したうえでこれからおこなうことへの協力を呼び掛けた。
自らの対策がうまくいかなかったことを認める。
それは、傲慢でこれまで過剰に演出された自己宣伝に終始していたこの男にとって異例といえるものだった。
だが、それ以上に記者会見を見る者を驚かせたのは、その後に語られた具体的な対策内容だった。
感染防止のために政府が業務休止を要請した施設やイベントへの補償、個人、企業を問わず休業補償の類も申請すればすべて国が支払うというこれまでの常識から外れた措置からはじまり、医療関係の仕事に従事する全員に対する国からの感謝状と報奨金、果ては負担を強いている全国民を対象にした少ないとは言えない臨時見舞い金支給まで、これまで自らにしか使わなかった打ち出の小鎚を国民向けに盛大に振り回す大盤振る舞い的政策を約束したのだ。
しかも、その総額は一年間の国家予算を大きく超えるもの。
それを短期間に投入するという。
そして、牟田口はその驚きの演説をこう結んだ。
「国民の皆さん。日本という国を信じて、私と一緒に戦ってください」
「首相、不正受給をもくろむ輩は必ず出ます。そういう者に対する十分な対策を練ってから実施すべきではないでしょうか?」
「もう国民に言ってしまったことだよ」
「いいえ、大丈夫です。それについてはなんとでもなります」
「つまらん小細工はするな。この際だ。ついでに事務次官に問う。君はすべての国民を低俗な生き物だと思っていないかね」
「さすがに全部とは思ってはいませんが、能力もなく国に寄生するだけの者が多いのも事実ではないでしょうか。そのような者にまで施しをする必要などありませんし、我が国にはその余裕もないとは思っています」
「さすが官僚トップ。ハッキリ言う。だが、たとえそこに多数の悪党が含まれていようが、強者弱者を問わず大部分の国民がそれを必要としているのであれば君の言う施しをすぐに始めるべきだろう。今はそういうときなのだ」
「しかし、それにしてもこのような巨額の財政赤字をつくっては財政再建がおぼつかなくなります」
「君は本気でそれを言っているのかな」
「もちろんです。閣下」
「では、私もハッキリ言おう。本気で財政赤字を懸念しているのであれば、すでに一千兆円の借金を抱える日本はとっくの昔に財政再建などできない状況になっている。だから、ここで今回の対策に使うためにさらに五十兆円や百兆円借金が増えても、たいしたことではない。いわゆる五十歩百歩だ。しかもその程度の端金で目の前で起ころうとしている国家存亡の危機を防げるのであれば安いものだ。君は国家公務員というものはどんなときでも真っ先に身分と収入の保障がされるものと思っているようだが、このままこの事態を放置していたらそうはいかなくなると思ったほうがいいぞ。さて、話は終わりだ。もう一度言う。これは決定事項であり私の言葉は君への命令だ。直ちに実行したまえ」
「……承知しました」
「言い忘れたが申請手続きはなるべく簡素に。そして入金は速やかに頼む。それから、今回の件にやる気のない幹部はこれまでの功績に関係なくどんどん首を刎ねる。私がそれぐらいの覚悟で臨んでいることを肝に銘じて仕事をしてくれたまえ」
「はい」
「どうでしたか?」
「まったく聞き耳を持たん。総理が財政や金融に関してあれほど無知とは思わなかった。だが」
「どうかしましたか?」
「今回ばかりは国民を救おうという気持ちとそれをやり切る覚悟が見えた気がした。今までの私利私欲の塊から考えれば嘘のようだ」
「誰かに助言されたのでしょうか?」
「助言?首を縦に振ることしかできない首相の取り巻きの誰がそれをやる?そもそも我々が示した枠の中が世界のすべてだと思っているあのボンクラどもがあれだけのことを考えられるはずがないだろう?」
「そうですね。では、天啓でしょうか?」
「さあな。それに、もしそうであるならば、悪魔の囁きと言ったほうがいいだろう」
「それで、どうしますか?適当な理由をつけて風向きが変わるまでサボタージュを決め込みますか?」
「いや。とにかくこれは命令だ。やるしかないだろう。どうなろうが全部自分が責任を取ると総理が言っているのだ。こうなったら言われたとおりにやるしかないだろう。すみやかに金を吐き出す手続きを始めてくれ。気にするな。どうせ自分の金ではない。気前よく国民の皆様にお金を配りまくろうではないか」
「わかりました」
「後世の歴史家に無能な一味の最悪の一手と言われそうだが仕方がない。残念だがこれが宮仕えの悲しさだ」
「まったくです。ですが、今は生き残ることだけを考えましょう」
「そうだな。それにしても、いったい誰なのだ?首相に余計な入れ知恵をしたのは」
……どうやら本当にご存じないようですから特別に教えて差し上げます。それは、もちろん私の本当の主人であるあの方たちなのですよ。次官閣下。
……あれだけ言えば、首相もまさか私があの方たちの僕だとは思うまい。もちろん、自分だけが忠臣だと思い込んでいるこの男も。
東京の中心部にあるとは思えない緑に囲まれた広大な敷地に建つ古い洋館。
その一室で親子と思われるふたりの男が首相の記者会見の模様を流すテレビ画面を眺めていた。
「牟田口の演説を聞いておまえはどう感じた?」
「やつのものとしては最高の出来だったと言っておこう。だが」
「だが?」
「あれはすべて博子の受け売りではないか。締めくくりの言葉まで博子の言葉の盗用とは、さすが恥知らずの牟田口。やってくれるではないか」
「だが、あれだけ言えばパニック寸前だった国民を落ち着かせ国の崩壊は免れることはできるだろう。なにしろ政府の指示に従えば無制限に補償を受けられるのだからな。当然皆黙って従う。予定通り大規模な検査をおこなって感染者の発見と隔離をこれと平行しておこなえば、数週後にはこの事態はほぼ収束できる。結果的には大風呂敷を広げたものの予想されたものよりもはるかに少ない支出に抑えられるということになるだろう」
「これこそ兵力の集中投入の勝利ということか。ケチな日本人の伝統戦略『兵力の逐次投入』とは対照的なやりかたになるな。それにしても一瞬でよくこんなことを思いついたものだな。博子は」
「しかも、下に厚く上に薄い補償体制はこれまでの牟田口のやり方と真逆ではあるが心理的効果は計り知れない。多くの労働者を抱える大企業支援を優先するように求めた経団連の幹部に公の席であんたたちはまず内部留保を吐き出せと言ったのも大きい。とにかくこれでそれまでの失敗もすべて帳消しになる。やつにとって賭けは成功ということだろうな。反対派は初動の遅れを指摘するだろうが大きな声にはなるまい」
「対策の中身だけでなく反対者に対する脅し文句まで博子の献策に乗っているだけとは情けないかぎりではあるのだが。ところで金に汚いやつのことだ。巨額の金が動く今回の件を利用してまた一儲けを考えているのではないのか?」
「いや。それが今回だけは一切支援金に手をつけないつもりのようだ。しかも、自派の議員たちにもそれを厳命しているらしい」
「どういうことだ?」
「言うまでもない。今回の件は博子が深く関わっている。そこでいつものように自分たちの利権に結びつけるようなことをおこなったらどうなるかはやつ自身が一番わかっているのだろう。あれはそういうことにはめっぽう鼻が利くからな」
「なるほど。それを知らぬ他派閥は支援金に手を突っ込み、博子の怒りを買う。国民の支持が得られた上にライバルを蹴落とせる一石二鳥の好機と考えるかもしれないな」
「あとは流行が続く国からの流入をどうするかだが、やはり半鎖国だろう。実際のところやつが打てる手などそれしかないからな。だが、これはなかなか難しい。再び目先の小銭を拾おうとしてせっかく大金をかけてとり戻した国民の信頼を失う愚を牟田口が犯すのか見物だな。もっとも、博子の策に乗った瞬間にあの男の悪運は尽きてはいるのだが」
「そうだな。だが、やつはそれを知らない」
……お嬢様がこれだけ対疫病政策に精通しているとは思いませんでした。
……どこで勉強されたのですか?
……本です。過去の歴史書。似たような問題に直面した過去の偉人がどのようなことをしたのかを参考にしました。
……具体的には?
……中世ヨーロッパでのペスト流行時の行動記録と二十世紀の世界恐慌の資料でしょうか。
……しかし、本を読んだだけでできるのなら夜見子だってできることになります。ほかには何かありますか?
……常識からの解放でしょうか。
……常識からの解放ですか?
……そうです。今回で言えば、財政規律。
……「ない袖は振れぬ」ではダメで、袖を振る前提で策を考えろということですね。たしかに金がすべてのバカな一の谷にはできない発想です。
……それは晶さんでも同じでしょう。
……どちらにしても、実行したのは牟田口首相です。これで、彼もしばらくは安泰でしょう。
……しばらく?それはどういうことですか?
……私があの日彼に語ったのは物語のほんの一部です。彼はハッピーエンドで終わるあれが物語のすべてだと思っているようですが、あの話には続きがあるのです。そして、これから起こることこそがこの物語の主たる部分なのです。
魅力的なサブタイトルは目の前にあった本から。
これを書いていたのは、日本中にまだ余裕があった2020年2月。
ここまでの大胆さはなくても、これを書いた時点ではすぐにでも半分くらいの政策は出ると思っていたのですが、実際には「やる、やる」詐欺のごときいつまで経っても何も出ず。
挙句の果てには、このような場面でも登場する利権の嵐。
和牛券?マグロ券?これはもしかして少し早いエイプリルフールなのでしょうか。
こんなことなら、ボツにした過激バージョンのほうがよかったかもと後悔しています。




