妖精ファーム 妖精少女と黒き魔王
気が付いたときには、すでに独りぼっちだった。それまで何をしていたのか、どこからやって来たのか、そしてここはどこなのか。一切が、分からなかった。
ただ、目の前には、小さな畑があった。よく耕された、何も植わっていないそれを、畑と認識することが出来る。ちょこん、と畑の前で首を傾げてみるが、ポカポカした陽気と涼しい風が、吹き抜けていくばかりである。
てくてくと、畑の中へ入ってみる。サクサクと、むき出しの土が素足に触れた。
靴は、どうしたのだろう。頭の中に浮かんだ疑問に、再び首を傾げる。それから、ふと自分の身体を見た。
子供のような小さな身体に、ワンピースだけを身に着けている。手足も短く、けれども黒い髪だけは長く腰の辺りまで真っ直ぐに伸びていた。
「わたし、だれ……?」
呟く声は幼く、舌っ足らずである。ふわりと違和感が訪れたが、深く考えることは、出来なかった。考えることに、飽きてしまったのだ。
「ま、いっか」
ひとりごちて、足元の畑に目を戻す。作物の植わっていない、黒々とした土がある。まるで何かを植えられることを、いまかいまかと待ち受けている。土から、そんなことを感じた。
「はじめは、麦、かな?」
頭の中に浮かんだ、黄金色の穂を持つ作物の名を口にする。すると、目の前の畑の土に、異変が起きた。
サクッという軽快な音とともに、いきなり畑の土に一本の麦の苗が出現したのである。
「ほえ? おもしろい!」
目を輝かせて見つめると、苗はすくすくと伸びていく。成長は約一分ほど続き、終わる頃には見上げるほどの麦が重たげに穂をゆらゆらさせていた。
「すごい、すごい!」
興奮して、麦へと手を伸ばす。小さな手の中へ、麦は吸い寄せられるように収まった。
「んーと、これを……」
黄金色の穂を、今度は畑の土へ向ける。すると、手の中にあった麦がフッと消えて、畑の中に二本の麦の苗が現れる。
「ほえ、やっぱりふえた!」
はしゃいだ声を上げる目の前で、麦が成長する。収穫すれば、それは四本の麦になった。
「よぉし、畑、いっぱいにしちゃおう!」
ぐっと拳を握りしめ、四本の麦を植える。畑には、あと五本の麦が植えられそうだ。
「ほえほえー。おっきくなあれ、おっきくなあれー」
麦畑の前でくねくねと身体を揺すり、踊るのは豊作の舞である。それは麦が八本となり、十六本を収穫するまで続いた。そこまでで、躍りに飽きてしまったためである。収穫したものを畑に植え、ほどなく黄金の穂を揺らす一面の景色に目を細める。足元には、植えきれなかった麦が幾本かを、纏めて置いた。作物を、入れる蔵が必要だ。そう、考えた時である。
「ほえ?」
声をあげたのは、畑のすぐそばの空間に突如、黒い扉が現れたからだ。重厚でどこか禍々しさを感じさせるその扉は、見る間に外側へと開かれてゆく。扉の向こうにはもやもやとしたものがあり、反対側は見えない。
もやもやから始めに出てきたものは、腕だった。尖った爪と真っ白な肌感の、それはヒトの腕である。そこからズルズルと、続いて来るのは襤褸を身体に巻き付けただけの、酷く痩せたヒトの全身だ。
ぽかん、と大口を開けて見つめる先で、出てきたヒトががくりと膝をつき、四つん這いになる。白髪の頭部の両脇から、山羊のような角が突き出ているところを見れば、それは人間ではないのだろう。
四つん這いのヒトの顔が、がばりと上がる。その視線の先にあるのは、重たげに穂を揺らす麦である。
「あ、く、食い物……」
ヒトの口から、掠れた男の声が漏れる。あっと思う間もなく、男の体がバネのように跳ねる。麦へ飛び掛かった男はそのまま、口を大きく開けて穂先へ食らいつき、バリバリ音立てて咀嚼する。
「ひゃあ! 草の味だ! 麦の実だ! がふっ、う、うおおおうえええ!」
歓喜の奇声を上げ、口の回りを草だらけにして男がえづく。どうやら男は、とても空腹らしい。畑でのたうちまわる男を見つめているうちに、開いた口が塞がった。
「これでは、いけませんね」
このままでは、男に畑の麦が荒らされてしまう。しかも、消化に悪い生麦では、男の空腹は満たせない。どうすれば、と考える頭の中で、幾つかのイメージが膨らんだ。果たしてそれが可能であるか、とは考えない。ここでは、イメージが全てだ。何故なら、自分は妖精なのだから。
力強くうなずいて、小さな手を伸ばす。場所は、畑の隣だ。離れすぎていると、効率が落ちるのだ。
「ほえ……効率って、なんだっけ?」
首を傾げる尖った耳に、男の苦しそうな呻きが届いてくる。今は、余計なことを考えている暇はない。思い直し、手のひらの先、何もない手付かずの土地へイメージを飛ばす。
ぽん、と軽い音と共に、畑の隣へ出現したのは風車小屋である。足元の麦を拾い上げ、一本を残して風車小屋の中へと放り込む。すると、がたん、ごとん、と風もないのに風車が回り始める。
「ほえ! 出来た!」
ぐるぐると回る風車の羽根に歓声を上げ、しばし見惚れる。小屋の戸が開き、出てくるのは袋詰めされた小麦粉の袋が三袋である。一本の麦から、一抱えもあるほどの袋が三つ。明らかに物理法則がおかしなことになっているが、気には留めない。ここから、さらなる工程があるのだ。
風車小屋の隣へ、手のひらを向ける。頭の中のイメージを、的確にそこへ飛ばす。ぽん、と軽い音を立てて出来上がったのは、一軒のパン屋だった。小麦粉の袋を一つ担ぎ上げ、えっちらおっちらとパン屋へ運ぶ。
「ほえ、ほえ、ほえっと!」
袋を中へと投げ入れれば、パン屋の煙突から白い煙がもくもく上がる。芳ばしい匂いが、辺りに流れてゆく。
「ぐ、ぐいものぉ……」
畑で懸命に麦を咀嚼していた男が、匂いに釣られて首を廻らせる。
「ほえ。もうすぐ、焼き上がるからね」
ズルズル体を引き摺るように畑から出てきた男に、妖精は笑顔で告げる。そのまま男と入れ替わりに畑へ入り、食い散らかされた麦を補填しておく。
待つこと、しばし。パン屋の軒先に、焼きたての丸いパンが並べられた。ヒトの顔ほどもある、大きなパンだ。
「うおおおお!」
男が、早速パンにかぶりつく。
「うま、うまっ! んぐ、がふ、んんぐぐぐ!」
一気に半分ほども食べた男が、喉に詰まらせじたばたともがき始めた。
「大変です。パンが詰まって、死んでしまいますね? 慌てて、噛まずに食べてはいけません。食べ物は、よく噛んで、しっかり味わって、美味しく戴きましょうね」
「ンガーググゥ!」
噛んで含めるような注意に、男が宙を掻きつつ呻きを上げる。何とかしろ、と言っているのだろうか。こくんとうなずき、パン屋の隣へ手のひらを向ける。
「ほえ、小さな井戸!」
掛け声一発、パン屋の隣に滑車のついた井戸が現れた。井戸の傍らには、防災、と書かれたブリキのバケツも置かれている。それは、消火用の井戸だった。
「ほえ、ゆっくり飲むんですよ」
差し出したバケツを引ったくるようにして受け取った男が、頭から浴びるように水を飲む。
「ほえ、ゆっくり飲まないと、鼻に入ってしまいますよ?」
声をかけた直後、男がバケツを放り出し激しく噎せた。男の後ろへ回り、痩せた大きな背中を撫でてやる。かさかさと荒れた素肌が、撫でるたびに手のひらへ引っ掛かる。
「……すまない、もう、大丈夫だ」
ほどなく、落ち着いた男が言って妖精へ向き直る。
「ほえ、どうぞ」
放り出されていた食べかけのパンを差し出すと、男はうなずいてそれを口にする。今度は、静かな所作であった。
「それでは、私も戴きます」
ふかふかのパンを手に取れば、指が沈み込むほどに柔らかい。両手に余るほどのパンの端から、少しずつ口をつけていく。香ばしさと自然な甘味が、口いっぱいに拡がった。
「おいひいれふれ」
「んぐ、んあい」
男と並んでパンを食べる、長閑な時間が過ぎて行く。妖精が一つのパンを食べる間に、男は残りの三つを平らげていた。
「ほえ、もっと、いりますか?」
「いや、今はこれで満足だ」
首を振り、男は腹をさする。頬のこけた男の横顔には、満足そうな色があった。
「お腹が、空いていたので?」
「ああ。空腹だった、というよりは、餓えていた。ここのところ、土以外のものは口にしていなかったのでな」
「土、食べるのですか?」
「気分の問題、というものだな。何かを口に入れておきたかっただけかも知れない。土からは、魔素はごくわずかしか、摂取出来ないのだ」
「食べるものが、無かったのです?」
「そうだ。余だけでなく、皆が餓えていた。自分の喰うものまで、皆に回してしまったお陰で、魔力を使い切ったら倒れそうになるほどに、腹が減った。だから、余はお前を召喚したのだ」
「しょうかん、したのです? 私を?」
「その顔は、召喚ということが、どういうことかが解っていないな。まあ、良い。お前は余の、この魔王の為に食糧を量産すべく、この世界に喚ばれた存在だ。つまりは、余の為に、この美味いパンを作り続けろ、ということだが……理解は出来ているか?」
「難しいことは、解りません。考えているうちに、飽きてしまいますので」
「そうか。それが、妖精というものだったな。ならば」
男が、パン屋の横へ手を伸ばす。ぶつぶつと男の口から、呪文のような呟きが漏れる。黒い光線が、男の手から空き地へと放たれた。どじゃあん、と重厚な音が鳴り、建てられたのは一棟の食糧庫である。
「まおーさんも、建設をされるのです?」
「簡単なものならば。とはいえ、お前ほどの自由はないがな。ともあれ、召喚の成果は確認出来た。今日のところは、これで立ち去る。次に余が来るまでに、あのパンで食糧庫を一杯にしておくのだ。出来るな?」
「たやすい願いです。きっと叶えましょう」
一方的な男の命令に、にっこり笑顔で答える。実のところ、目標が欲しかったのかも知れない。同じような能力を見せたということもあり、男に反感などは覚えなかった。
「期待している。次は、三日後に来る」
そう言って男は、畑の前に出現したままの黒い扉の中へと消える。男がいなくなった後、扉も消えた。
「のるまは、五十個くらいでしょうか」
よいしょ、と腕捲りをして、食糧庫の容積を計算する。この地に建てられたものであれば、それは容易なことだった。畑には、麦の穂先が重たげに揺れている。ごとん、ごとん、と風車が回り、パン屋の煙突からはもくもくと白い煙が立ち上る。
「ほえ、ほえ、ほえーん」
歌う鼻歌も軽やかに、作業はしばし、順調に進んでいった。
問題が起こったのは、それから数十分後のことだ。
「……パン、飽きてきましたね。困りましたね?」
麦を風車小屋に放り込み、出来た小麦粉をパン屋へ運びパンにする。軒先に並んだパンを、食糧庫へ運び込む。九回ほども繰り返せば、最高率の動きが見えて、飽きがきてしまったのだ。
妖精が作業の手を止めれば、風車とパン屋も動きを止める。これらの施設は、よくも悪くも、一蓮托生なのである。
「ほえ。ブレイクスルー、しましょうか」
小さな手が、畑へ向く。ゆらゆら揺れる麦が刈り尽くされ、黒い地肌の畑が顔を出す。
「レベルアップ、いたしました。作柄が、追加されましたが……トウモロコシに、トマトですか。平凡ですね?」
扱える作物で、飽きのこなさそうなものを、考えてみる。だが、どれもいけなかった。
「根本的抜本的、たましいにうったえるものが、足りません。合格ラインには、とどきませんね」
うんうんと、少しの間頭を回転させる。そうして思考に飽きる直前、頭上に豆電球がピコンと点った。
「そうです、ゴハンといえば、やはりアレなのです!」
畑に向かい、イメージを固めてゆく。少し時間はかかりそうだったが、何とかなりそうな手応えが感じられた。
「げんかんあけたらー、ほえ、煮込んでゴハンー」
奇妙な節をつけて、妖精は歌う。うっすらと、畑が光を放ち始める。緩やかだが確実に、変化は起こり始めていた。
三日後、畑の前の空間に黒い扉が現れた。中から出てくるのは、魔王である。身に纏うのは立派な黒いマントで、ために妖精はそれが三日前に来た男であるとは直ぐに気付くことが出来なかった。
「ほえ? どちら様です?」
「余の顔を見忘れたか?」
問い返され、まじまじとその顔を見つめてからポンと手を鳴らす。
「ほえ……まおーさん、ですね? 今日は、シックなものをお召しですね。第一印象は、とてもよろしいでしょう」
「先日は、魔力が枯渇していたのだ。普段は、これくらいの服は着る……む、妖精! 畑が、大変なことになっているではないか!」
「ほえ、男子三日会わざれば、ですね? 畑は、無くなりました。それが、ご覧の通りの、結論です」
「どうなっているのだ……全部、水浸しではないか! 実の付いた草のようなものは生えているが」
「ぱんぱかぱーん、です。畑は、水田へクラスチェンジを果たしましたー」
目を丸くする魔王は、水没した畑にしか見えないものを前に立ち尽くす。
「スイデン? 何だ、それは? 麦と、パンはどうしたのだ」
「五十個のパンは、完成しましたです。形を変えて。ほえ? まおーさん、背中に、何か刺さってます?」
しゃがみこみ、視線を合わせてくる魔王の肩越しに、何かが見えた。
「ああ、これは人間どもから受けた、矢だな。まだ、残っていたか」
魔王が言いながら器用に背中へ手を回し、矢を引き抜く。青黒い血液が、僅かに傷口から噴き出したが、すぐにおさまった。
「お怪我を、されていますか? 痛いですか?」
「この程度、何ほどのことでもない。それより、パンとスイデンとやらの話だ、妖精よ」
「ほえ、それならこちらへ」
パン屋へ向けて、妖精は歩き出す。乱れのない足取りで、魔王がそれに続く。
「ちょうど、焼き上がったところです。おひとつどーぞ、召し上がれ」
手渡したパンを、魔王が手に取り目を凝らす。
「色は変わらぬようだが……柔らかい中に、妙な弾力があるな」
「食べればわかりますよ?」
促され、うなずいた魔王はパンを両手で持ってかぶりつく。
「む、むおお……」
三分の一ほどが、一気に魔王の口へと消え、そこからは猛然とパンをむさぼり始める。目を細めて眺めていた妖精も、焼き立てのパンをひとつ、手にとって食べ始めた。
「むっちりとした食感と、微かな甘みがあって、美味い。これが、スイデンとやらを使ったパンか」
「水田からとれた、お米を使ったものですね? お米は、美味しいのです」
パンを食べ終えた魔王の問いに、かじる手を止めて答える。水田を見やれば、育ちきった稲の穂がゆらゆらと揺れている。
「お米? あの、変わったむぎのようなものが、このパンになったのか」
「百聞は一見にしかず、実際に、やってみた、というところをお見せしますです。お手元のパンを召し上がりつつ、ご覧のあれー」
稲穂の群れの中へ、足を踏み入れる。穂が実れば水田は、乾いた土になる。収穫は、スムーズに行われる。収穫した十八本の稲のうち、九本を土へと植える。畑に水が張られ、等間隔に植えられた稲の苗が水に揺れる。
残りの稲を持って向かうのは、風車小屋である。ぽんぽん、と稲を投げ入れて、小屋の前に置かれた袋を一つ、持ち上げる。
「こちらが、出来上がったお米の粉、米粉になります」
てくてく歩き、パン屋へ戻ってそれを投げ入れれば、パン屋の煙突から白い煙が立ち上る。芳ばしくも切ない感じの芳香が、辺りへと拡がってゆく。
「そうして出来上がったのが、こちらです。一本の稲から五袋の米粉で、米粉一袋で十個のパンになるのです。お得ですね?」
「これほど美味いものが、倍以上出来る。そういうことか。それでは、食糧庫には」
「ほえ。米粉のパンは、おおよそ二千個くらいは、ありますでしょうか。途中で数えるのに飽きてしまったゆえ、正確な数は私にもわかりませんです」
「二千個以上……だと? 食糧庫には、それほど入らぬ筈だが」
膨大な数を聞き愕然とした魔王が、食糧庫を見やる。三日前とそれは、変わらぬ佇まいを見せるばかりで増設された様子も見えない。
「アップグレード、いたしました。理論上では、一万くらいの容量になりますね? 省エネと、整理整頓断捨離理論が、役に立ったですよ」
「よくわからんが、凄まじいな。本当にそれだけの食糧があれば、半年近くは飢えずに済む、ということになる」
「まだまだ増えますが?」
「あ、うむ。そうなのか。しかし……作業は大変になるのでは、ないのか? 休憩は、しっかり取れているのか?」
「ほえ、基本的には不眠不休ですね? 眠るのにも、飽きますゆえ」
「それはいかんな。少しくらいは、遊んでいても構わないのだぞ」
「やりたいことを、やっているのです。それでまおーさんが、助かるというのであれば、うぃんうぃん、というものです」
「そ、そうか……お前を召喚したのは余だが、どこから来たのかは、わからん。お前の元いた世界は、余程ゆとりのない世界だったのかも知れんな」
「ゆとりを謳う、ゆとりのない世界です? まあ、記憶にはございませんね? 妖精は、昨日の事は忘れる種族ですので。染まって、ゆくのです」
「そうか。それが、良いのかも知れんな」
しばらく、魔王と妖精はのんびりとパンを食べ、ぼんやりと時を過ごす。それから食糧庫の検分を終えて、パンを運び出してから、魔王は去っていった。三千個近くあったパンが無くなり、がらんとした庫内を前に妖精は腕捲りをする。
「ほえ。あらたな課題を、見つけました」
脳裏に浮かぶのは、矢の刺さっていた魔王の背中だ。血はとまっていたものの、痛々しい傷口は、帰る直前までその背にあった。何度も、こっそりと確認したので、それは間違いない。
「おくすりを、つくるのです」
稲の収穫と植え直しをした際に、四つ分のスペースを空けた。水田の水は、隣のスペースには、流れ込みはしない。だから、作付けは自由に出来るのだ。
「おくすり、おくすりー」
手のひらを畑へ向けて、イメージを送る。ひょっこりと、ヨモギが芽を出した。
「ほえ。おくすりといえば、ヨモギですね?」
よし、とばかりにうなずいて、今度は空き地へ手を向ける。風車小屋にパン屋に井戸に食糧庫と、幾分か手狭になってきた畑の周囲から、少し距離をとる。ぽん、と軽い音をたてて現れるのは、赤い十字架のついた薬局である。
「ほえ、備えあればうれしいな、ですね? あとは……」
水田で育つ、稲の葉を見る。米粉のパンは美味しいが、何かが違う。妖精の中には、そんな思いが渦巻いていた。
「ほえ……まだまだ、つくるのです」
妖精は小さな手のひらを、空き地へ向けて楽しげな声音で言った。
それから一ヶ月後になって、畑の前に黒い扉が現れた。
「ほえー、ワイルドですね?」
中から出てきた魔王を一目見て、そんな言葉をかける。魔王の黒マントはあちこちが焼け焦げ、白く痩せた肌がちらほらと覗いている。
「……井戸を、借りるぞ」
妖精の返事を待たず、魔王は井戸端へと歩いてゆく。その背を見送り、薬局へ向かう。魔王は、火傷を負っているように見えた。薬が、必要になるだろう。そう、考えてのことだった。
「RPGなんて、大っ嫌いだ、バーカ!」
井戸端から、そんあ奇声が届いてくる。
「ほえ? もしかして、頭が危ないですか」
薬局から、火傷の薬の他に精神安定剤も持ち出しておく。念のために、色々作っておいたのだ。
「まおーさん、大丈夫です? ほえ、井戸に頭を入れると、落ちると危ないのです」
「ああ、大丈夫だ。体は、頑丈に出来ているのでな。爆風を少し受けた程度では、びくともせんよ」
「頭がゆれて、おかしなことに、なっているのでは?」
「……たまに、ああして叫びたくなることも、あるのだ。聞き流せ」
「ほえ。忘れるのは、得意です」
「ならば、良い。ここは、良い所だな、妖精よ。いつ来ても、長閑で……お前の変わらぬ顔を見れば、心の洗われる、そんな思いがするぞ」
「おきに召していただき、光栄ですね? お気に入りなら、ここに住まわれますか」
「それは、出来ない。余には、余の領土がある。ここで余が現を抜かせば、そこはたちまちに人間どもに侵されることになる。そうすれば、この扉を通り、人間どもが押し寄せて来るのだ」
「それはあまり、しあわせな出来事ではありませんね? 私は、静かに暮らしていたいのです」
「全力を、尽くす。余と、お前の為にも、だ。それはそれとして……また、様変わりしているな、農園が。先に来た時には無かったものが、増えているようだ」
「ほえ、頑張りましたゆえ。まずは、まおーさんに、食べていただきたいものが、あるですよ?」
「ほう、新作の、パンか?」
「それより良きものであると、自信をもってオススメできるものです。まうは、こちらへー」
魔王を伴い、畑へ入る。米と、緑の低木と、そしてヨモギの三色に分けられた、色鮮やかな畑である。三種の作物から、稲を刈り取り植え直す。手には、三本の稲穂が残る。それを持って、妖精は新しい建物へと向かう。
「屋根に、丸いものが乗っているな。ここは、何をする所なのだ、妖精?」
「ほえ。ここは、精米所です。ここへお米を入れることで、お米は百パーセントの力を発揮できるのですね」
言いながら、稲穂を建物へと投げ入れる。がたんごとん、と揺れ始める建物の前に置かれた米俵を、妖精は持ち上げる。
「ほえ。出来上がったものが、こちらになります」
「一本の植物が、一抱えもありそうなものに、なるのだな」
「今さらですね? 一本で十俵にはなりますが、あまり深く考えず、ファジーに受け止めることが肝要です」
「……そうだな。今さら、だ。それで、これをどうする。見たところ、そのまま食べられそうにはなさそうだが」
「ほえ、そこは抜かりなく準備していますので、ご安心を? お次は、こちらになります」
精米所の隣にある建物へ、魔王を案内する。
「屋根の上にあるのは……大きな、蓋のついた鍋だな」
「お釜ですね? こちらは、炊飯所になりますから、トレードマークが、そうなります。ここへ、この米俵を入れると……あら、不思議なことに」
米俵を受け入れた炊飯所が、グツグツと音をたてる。ふんわりと、暖かな空気が周囲に漂ってゆく。ぐう、と魔王の腹が鳴った。
「ほえ、ぺこぺこですか?」
「ここへ来る予定だったので、今日はパンを抜いてきた。お陰で妙な爆発物を、食らうことになったが……腹は減っている」
「そうですか。では、まおーさんのご期待に、応えなければいけませんね? はじーめちょーろちょーろ、なーかぱっぱー」
「何だ、その、気の抜けそうな歌は」
「お米を炊くときの、極意なのですが。歌があれば、三倍くらいのペースで炊けます」
そう言った目の前で、木のお櫃がごとんと落ちた。
「これは、入れ物か」
「ほえ、ご名答です。あとは、これを」
お櫃の蓋をぱかりと開ければ、炊きたてご飯の香りがフワリと昇る。一緒に出てきたしゃもじで、小さな手にご飯をよそう。
「あちち、手が焼けるようですね?」
「ならば、冷ますか手袋でもした方が、良いのではないか?」
「これは、全力のご飯の美味しさを、さらに高める仕方のない犠牲というものです。いわゆる、コラ……なんとかダメージというやつですね?」
「よくはわからんが、お前が言うのであれば、そうなのだろうな」
「ほえ。ご理解いただけたところで、お米をにぎにぎします。優しく、粒を壊さないよう、でもしっかりと固まるように。力加減が、ミソですね。あ、味噌は、ただいま鋭意制作中ですので、ご期待いただければ、幸いですね?」
「ふむ、期待をしよう。しかし、器用に握るのだな。瞬く間に、お米が三角になったぞ。艶々として、白くて綺麗なものなのだな、お米とは」
「心をこめて、握りましたもの。それではどーぞ、召し上がれー」
湯気を立てるおにぎりを、魔王へ手渡す。米の熱さにびっくりしないだろうかと、妖精は心配する。だが魔王は何事もなく、おにぎりを受け取り少し眺めた後に、口へと入れた。考えてみれば、先ほどは火傷を負いながらも平然としていた。つまりは、そういうことなのだと思い直した。
「ふう、ふむ! これは……美味いな! お米のほんのりとした甘みと、微かな塩味。いくらでも、食べられそうだ」
溌剌と言う魔王の手から、おにぎりはあっという間に消えた。小さな手で出来るだけ大きく握ってみたものの、魔王にとってそれは一口サイズであったのだ。
「まだまだ、にぎりますから、どんどん食べてくださいな、です」
手際よくおにぎりを量産しつつ、魔王の顔をじっと見つめる。美味しい、と舌鼓を打つ表情が、胸のなかに拡がってゆく。それだけで、飽きることなくおにぎりを作り続けられた。
十個のお櫃が、空になった。それで魔王は、満足したようで、腹をさすり目を細めている。そこへ、湯飲みを差し出した。
「これは……」
「ほえ。食後には、お茶が一番ですね?」
「ふむ。良い香りだが……うむ、落ち着いた、深みのある味わいだ」
「おにぎりには、お茶が一番合います」
「ああ……良いものだ」
しみじみと言う魔王の横顔を見つめるうちに、ここで一緒に暮らしては、という言葉が込み上げてくる。だが、それを口に出すことは、出来ない。魔王には、帰るべき現世が、あるのだ。ぐっと言葉を呑み込むと、胸の内に切ないものが、そっと訪れた。
あちこちと農園を見て回り、食糧庫から物資を持ち出せば、魔王の帰る時間となっていた。
「お前の働きには、深く感謝するぞ、妖精よ。これだけのものがあれば、今の情勢を覆すことも、不可能ではない。そうなれば、余は、お前と……いや、これ以上は、まだ口にすべきでは、ないな。全ては、結果を出してからだ。必ず人間どもを打ち倒し、余はここへまた、来る。そのときに、伝えたいことを、聞いてくれ。では、さらばだ」
黒い扉をくぐり、魔王は去っていった。しばらく、妖精は身じろぎもせず、扉の消えた空間をじっと、見つめていた。
「どうして、ヒトはフラグを立ててしまうのでしょうね。わかりませんね?」
呟きは、もう魔王には、届かない。ぶんぶんと、激しく首を振り、沸き上がる不吉な予感をかき消した。
「ほえ、課題は、たくさんたくさん、あります。まずは、おにぎりの具材を、つくりましょうね」
畑へ向かう足が、ふと止まる。こてん、と首を傾げれば、見える景色も傾いた。
「ツナマヨ、おかか、昆布海苔……ほえ、どうやって、つくればいいんでしたっけ」
しばし固まり、頭を巡らせる。ぼんやりと、美味しい味は浮かんでくるが、原材料については、靄がかかったようで解らない。
「……何事も、チャレンジですね?」
思考に飽きた妖精は、とりあえず畑へ手を伸ばすのであった。
しばらくの、長い時が過ぎていった。どれほどの時間が流れたのか、わからない。たった数日のことかも知れないし、数年が過ぎている、そう言われればそうだと納得をしてしまう。感覚が、麻痺をしているのだ。
畑から離れた地区に、果樹をまとめて植えた。梅干しの樹にツナマヨの実る樹木、そして鰹節を削り出せる木だ。やってみれば、出来てしまった。畑では大豆と、そして昆布を育てている。こちらも順調で、醤油も作って佃煮屋も建てた。醸造所では、味噌も作られる。アップグレードを繰り返した食糧庫は三棟にまで増えており、それぞれの中身は一杯になっていた。
「ほえ……いつ来ても、大丈夫なのですよ?」
畑の前に座り込み、誰へともなしに言葉が漏れる。果樹園のほうへは、あまり足を運ばなくなった。黒い扉が現れるのは、畑の前だ。それだけで、この場から動くことが、出来なくなっていた。
一杯になった作物や製品が、施設の軒先へ溢れている。それらは放置されたままだったが、気には留めない。どうせ、腐ったり痛んだり、することはないのだ。
膝を抱えたまま、妖精はただじっとしている。黒い扉が現れて、そこから魔王の出てくる、幻を追って視線はさまよう。
「もう、来ないのでしょうか……」
ぽつり、とこぼれ落ちた自分の声に、身体中の、力が抜けた。丸くなり、視界が闇に染められる。目を、閉じたのだ。そう気付いた時には、意識がふっと、飛んでいた。
『妖精、妖精……起きろ』
「ほえー、まおー、さん」
懐かしい、声が聞こえた。顔を上げて、目をぱちりと開く。眼前には、彩りのある畑が、広がるばかりだった。
「夢、でしょうか……」
呟く妖精の目の前に、黒いものが広がる。今度は、目を閉じたわけでは、ない。待ち望んでいたものが、すぐそばに出現したのだ。黒い扉が開かれ、靄の中から、魔王が姿を見せる。
「ほえ。いめちぇん、ですきゃっ」
様変わりした魔王の姿に声をかけると、いきなり魔王の手が伸びて妖精を強く抱き締める。短く刈り上げられた白髪が、頬に当たってちくちくとした。黒いマント姿ではなく、粗末なチュニックを身に付けた、少し痩せた身体が、密着する。変貌はしていたが、それは間違いなく魔王だった。
「……領土の、九割九分は、くれてやった」
「ほえ」
「屈辱的な、条約にも、調印した」
「負けて、しまわれたのです?」
「余と共にあった部下たちも、皆、散っていった……」
「おかわいそうに、つらい、できごとでしたね」
「だが、それでも……ここは、ここだけは、守り通した。尊厳を踏みにじられようとも、余は」
「まおーさん。泣いていますか」
「現は、余を、魔族という種を、受け入れは、しなかったのだ……」
「運命は、ときにざんこくですね? まおーさん、もし、よろしければ、提案が」
「余を、いや、私を、受け入れてくれるか、妖精?」
「ここで、ずっと一緒にいてくれるですか? きっと、たのしいみらいを、つくれます」
「ああ、これからは、共にいよう。それで、お前が喜んでくれるならば」
「ほえ。ちょくせつ脳味噌をお見せ出来ないのが残念なくらいには、嬉しいですが?」
言って、妖精は魔王の頬に口付ける。まばらに生えた無精髭が、少し痛い。だがそれは、嬉しい痛みであった。
「そうか。ならば……」
ふっと、魔王の手から力が抜けた。
「ほえ?」
「また、案内してくれるか? 来る度に、様変わりしてゆく、お前の農園を」
「ほえ、おやすいごようですね? すみずみまで、ごあんない、ツアーですね?」
ぴょんぴょんと跳び跳ねる妖精に、魔王は微笑みを見せる。歩き出した二人の背後で、黒い扉が静かに消えた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今作も、お楽しみいただけましたら、幸いです。