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一振りの剣にまつわる挿話  作者: 井出有紀
9/14

17、18

17.


「あんな場所に何の用があるんだ」

 尋ねながら、門番がじろじろと胡散くさそうに二人の若者を眺めた。出稼ぎ街は塀の外にある。一旦都市の外に出なければならないのだが、どう転んでも、二人とも市庁舎の建築現場で働く土方には見えない。

「知り合いがいると聞いたので、様子を見に」

 剣士が答える。

「とりあえず名前だけ聞いとこうか。あんたら余所者だろ」

 二人の名前を聞いて門番はますます怪しげな目になった。

「別にどんな名前でも俺が言う筋合いはないけどさ」

 門番は若い男だった。自警団から人員が回されるからだ。所属しているのは、長男ではない未婚の男ばかりである。市民に課せられた義務の一つである。

「偽名にしろ、もうちっとましなの名乗りなよ。今は治安がいいから自由に出入りできるけど、戦でも始まったらいきなり連行されるぜ。その派手な服も何とかしねえと」

「余計な世話だ」

 魔法使いが減らず口を叩く。

「それにしても、今日は変わった客が多いよな」

 門番の言葉を聞いて魔法使いと剣士はちらりと視線を合わせた。

「我々の他にも誰かが?」

「森の民の女とじいさんの二人連れ。俺、森の民見たの初めてだわ」

 アルベルトの見つかる確率が高くなった。

「もう戻ったか」

「まだだけど」

「待つ方が良いか」

 という剣士の呟きに魔法使いが鼻を鳴らした。

「ふんじばって大人しく吐くと思うか?」

 ナウシズも長も、剣士に全てを話してはいない。

「それもそうだ」

 足早で歩き去ろうとする男二人に、おい、と門番が声をかける。

「また入るとき、通行税がいるからな。まあ」

 門番はにやりと笑って、

「俺、まだしばらくいるし、すぐに戻って来るなら特別割引にしてやらんこともないけど」

 賄賂を要求している。

「ない袖が振れるか、阿呆」

 魔法使いが言い返している横で、剣士は手持ちの金を頭の中で数え直した。入市する際に払った額に満たない。

「これで手を打ってくれ」

 銀貨を数枚投げ渡す。魔法使いは目を剥いた。門番が全て片手で受け取り確認する。彼は小躍りし、祝福の言葉で二人を送り出した。

「やり過ぎだぞ」

 小屋が建ち並ぶ一角へ向かいながら、魔法使いが文句を垂れる。

「同じ枚数の銅貨で充分だった」

「通行税より少ない」

「おまえ、もう少し金に執着しろよ」

「お主は浪費を改めるべきだ」

 矛先を向けられたので魔法使いは話題を逸らすことにした。

「で、じいさんってのは誰なんだ」

「魔術師ギルドの長だと思う」

 即席の住居の数は百ではきかない。

「こっちの方だな」

「そうだろう」

 見当をつけ、彼らは密集している小屋の間を通り抜けた。

 一件ずつ覗き込んでいては日が暮れる。二人はここへ来る前に建築現場へ行き、作業員を手当たり次第に捕まえてアルベルトの居住場所を尋ねた。すぐに役人がやって来て不審な二人連れを連行しようとしたが、いっそ鮮やかな舌先三寸で魔法使いが役人を言いくるめてあまつさえ協力を得、一刻もしないうちにアルベルトらしき青年を知っている者を探し当ててしまった。この辺り、剣士には逆立ちしても出来ない芸当である。

 奥へ入るほど、腐った残飯と屎尿の混ざったような匂いが強くなる。あまりにも建物が密集しているため風も吹きこまず、悪臭もそのまま沈殿してしまうらしい。

「くせえぞ」

 魔法使いが大仰に顔をしかめる。人より鼻が利くのか、それとも極端に衛生的な環境で育ったためなのか、そこは定かではない。

 突然、悪臭の中に異質な匂いが混ざった。ごく僅かだが、それが何なのか、剣士にも魔法使いにも判別できた。幾度となくその中に身を置いた経験がある。

「よう」

 魔法使いが連れに話しかける。

「嫌な予感がしねえか?」

 剣士は答えずに足を速めた。と、その歩みがぴたりと止まる。背後から覗き込んだ魔法使いが呻いた。

「やっぱりな」

 地面が黒ずんでいた。大きな血の染みの上に、赤いものが横たわっている。確認するまでもない。血塗れの死体である。首と四肢が奇妙な方向にねじ曲がっていた。すぐ傍ら、壁の上方が壊れ、赤く塗られている。犠牲者はそこへ叩きつけられてから地面に落ちたに違いなかった。木製の粗末な小屋とはいえ、壁を破るほどの力で人をあの高さへ投げつけるなど、人間には不可能な所業である。

 ベリスが出現したのだ。

 死体は肉付きの薄い、痩せた男のものだった。剣士は屈み込み、かっと両目を開いたままの、恐怖と苦痛に歪んだ顔をじっと見つめたが、やがて軽く首を振った。

「アルベルトじゃない」

「まだ何とか持ちこたえてるってことか、いや」

 魔法使いが腕を組む。

「分からんな。何考えてんだが知らねえが、二日も早く呼び出しちまったんだ。この手の魔術は条件や手順が大事なんだ。一項目でも外れりゃ召喚できないだけじゃない、場合によっては呼び出された存在は召喚主の制御からも逃れやすくなる」

「何故だ」

 剣士は立ち上がり、速足でさらに奥へ向かった。

「まだ新月ではないぞ」

「ベリスが何とか言って騙くらかしたんだろうよ。召喚対象に魅入られたら、大抵の奴は自分でも訳の分からんことをやらかすっていうしな」

 答えてから、魔法使いは褐色の貌が沈痛な表情を浮かべているのに気付いた。隻眼が金色に変化している。疑問を口に出したのが狼だと知ると、青年は紋様の描かれた頬を歪めた。

「なんだ、お望みどおりになったってのに嬉しくねえのか」

「被害を全く出さずに済むとは我も思っておらぬ。だからこそ、アルベルトという若者を探し、人のいない所でベリスを呼び出すつもりだったのだ」

「そうすりゃ、死ぬのは俺と雨とガキだけだもんな」

 魔法使いは冷笑を収めなかった。

「だがしくじりゃ、カゼールの連中は皆殺しだ」

「汝らは死なぬ」

「神様の遣いは予言までするのか」

 嫌味たっぷりに青年が返す。自分は学徒が保存する遺跡の文明と同質の者に造られたのだと、狼は剣士の口を借りて魔法使いに話していた。学会では遺跡の主は神と見做されており、従って狼を造った者も神になるという訳である。

 狼の主な構成要素はやはり電気信号だという。信号を形づくる意味不明な文字の羅列は暗号ではなく一つの言語である。ただ言語とはいっても、実際の会話には使用されない。何故電気信号が機械や管の外を動き回ることができるのかも狼は説明したのだが、そこまでいくと、さしもの魔法使いも完全には理解できなかった。認識論、電気学、信号学は言うまでもなく、彼の嫌いな哲学の領域にまで踏み込んで講釈をされたからだ。

 剣士もまた、自分の声で語られる内容を聞いていたが、彼に至っては、もはや別の言語で語られているようにしか思えなかった。狼を造った本人でさえ、その全てを知っている訳ではなかったらしい。彼の主が知っていたのは、極論を言えばその言語の用い方だけであった。

「我はそのようなものを持っておらぬ」

 狼は剣士の身体で肩を竦めて見せた。

「汝もこの男も、殺しても簡単に死なんように見えるだけの話だ」

 すっと瞳の色が入れ替わる。クソ犬、と魔法使いが罵った。

「調子が悪くなると逃げやがって」

 会話を聞いていた剣士は口を挟まない。知らぬ者には超然としているように見えるが、実際、剣士はそれどころではなかった。ナウシズとギルドの長が近くにいる筈なのだ。巻き添えを食らっていないとも限らない。

「この辺りの筈だが」

「あれじゃねえのか」

 一足先に角を曲がった魔法使いが顎をしゃくった。後に続いた剣士の、翠の隻眼が見開かれる。

 その一帯だけ大地震が起きたようだった。あるいは、何か巨大な生き物が歩いて行った跡のようだった。

 ある地点から小屋が破壊され、瓦礫の道が一方向へ伸びていた。

 瓦礫の向こうに見えるのは、都市の城壁である。

「ここは昼間人気がないからな」

 魔法使いが、

「好きなだけ人を殺せる場所へ移動したんだろ」

 破壊の始点ともいうべき場所に、灰緑のローブを羽織った老人が立ち尽くしている。脱力しきったその様子を見て剣士は、魔法使いの「嫌な予感」が的中したと悟らざるを得なかった。

「御老体」

 剣士が呼ぶと、ギルドの長はのろのろと振り向いた。

「剣士殿か」

 まどろっこしいほどにゆっくりと、

「間に合わなんだ……」

 呟き、最初に破壊されたらしい小屋の残骸をぼんやり眺めた。

 老人の視線を追った剣士は、ナウシズがそこに座り込んでいるのに初めて気付いた。

「ナウシズ殿」

 森の民は答えない。彼女に近付くにつれ、再び血の匂いが濃くなった。引きずり出された内臓のそれも含まれている。

 ぴくりとも動かない女の膝の傍らに、赤く濡れた岩が転がっている。

 二人の若者の呼吸が、瞬間停止した。

 人間の頭だった。

 両目があっただろう位置に、黒々とした穴がぽっかりと口を開いている。口も悲鳴をあげた瞬間のまま固定されていた。生首だと剣士も魔法使いもすぐに判別できなかったのは、鼻と両耳が削がれ、皮膚も剥がされ顔面の筋肉が露出し血に塗れていたからだ。頭皮も剥ぎ取られた首の傍に、かろうじて血の洗礼を免れた頭髪が散らばっていた。焦げ茶色のそれは、剣士も見知っている。間違いなくアルベルトのものである。

 赤く濡れたぼろ布のようなものが一箇所に積み上げられている。それが犠牲者の全身の皮膚だと認めるや否や、さすがの剣士も寒気を覚えずにはいられなかった。至る所に散らばっている肉片や骨片は、元はどの部位にあったものだと推測さえできない。

「……あの子です」

 平坦な声が足元から二人の耳に入った。

「アルベルトです」

 剣士が片膝をついた。

「大丈夫か」

 短く問う。

 鳶色の瞳が剣士を見た。が、何も見てはいない。ようやく焦点が合うと、ナウシズは己の猫目に映った相手を呼んだ。

「雨様」

 しばらく放心した体で隻眼の若者を見つめていたが、彼女は再び視線を前方へ向けた。膝の前に転がる赤い塊が彼女の視界に入る。

「……」

 声もなく両手で口を覆う森の民を、剣士は抱き上げるようにして瓦礫から連れ出した。

 その様子を後目に、魔法使いは死体の検分にかかる。杖がこの光景を見たら喜ぶだろうと彼は考えた。自分の力を封じた女が、しばらく立ち直れない程に打ちのめされているのだ。

「今まで発見された死体は、全部食い殺されたんだったな」

 戻ってきた剣士に魔法使いは確認した。

「そうだ」

「そいつらは多分、馬の仕業だ。こいつだけ徹底的に切り刻んである。ベリス自らが手を下したな。奴流の礼だろうが、可哀相にアルベルト殿、生きたまんま解体されたに違いねえ」

 剣士は瓦礫の下から箱が覗いているのを見付け、おそらく屋根だった板切れを取り除いて木箱を取り出した。蓋の上に片耳が乗っている。つまんでそれも脇へ避け、彼は赤黒い血の染み込んだ蓋を開いた。古びた赤褐色の本を取り出す。

「これか?」

「どれ」

 魔法使いが変色しかかった頁をぱらぱらとめくった。

「間違いなくベリスの召喚書だが」

 今頃見つかっても遅えんだよな、と彼はため息をついた。

「送り返すことはできんのか」

 尋ねてから剣士は付け加える。

「狼は倒すべきだと言っているが」

「無理じゃ」

 背後から返事が与えられた。

「送還は召喚と同一の者にしか行えん。召喚者から解放された対象は、何ものにも従わず自由にこの世を動き回れるんじゃ」

「そういうこった……雨」

 呼ばれた剣士が魔法使いを見上げる。

「逃げるんなら今だぜ」

 連れを見下ろす青年の表情は真剣そのものだった。

「そういうお主は」

「俺一人だったらさっさとおさらばするがな」

 今度ばかりは冗談を言っているようにも見えない。空色の瞳が、連れの腰に下げられた剣を見る。

「そいつ、貰ってもいいか」

「断る」

 言下に剣士が答えた。予想通りの返事に、魔法使いはひょいと眉を上げる。

「じゃ、仕方ねえさ……爺」

 彼はギルドの長を見てにやりと笑った。

「口止め料込みで、報酬はたんまり用意しといてくれよ」

「なんと」

 長が茫然として二人の青年を見つめた。

「二人でベリスを倒すとな? おまえさんらの腕がどんなに立つか知らんが、それとてただの人であることに変わりはない。魔神にどう対抗するんじゃ。それとも学徒殿、ベリスに対抗できる者を召喚なさるのか?」

 老人は魔法使いに初めて会うが、若者の頬を見れば彼が学会由来の者であることぐらいは容易に推察できる。

「うるせえな」

 苛々と魔法使いが、

「俺がんなこと出来る訳ねえだろうが。だが、とりあえずこいつが」

 彼は剣士を指した。

「妙な正義感に駆られてるしよ。よしんばここから逃げ出したって、カゼールを廃墟にしたベリスの野郎が俺と同じ方向へ来ねえとも限らん。ぶっ倒すかどうにかするしかねえだろうが。生憎俺も雨も「ただの人」じゃねえんだ。こいつは古代文明の化石にとり憑かれてるし、俺だって多少人よりは変わってるからな」

 額の布を首まで引き下ろし、そこだけ日に焼けていない肌を露わにする。老人の目が見開かれた。魔法使いも三つの目で長を見返す。額の目も、他と同じ空色である。縦についているのでもなく、ごく自然に、当然の如くそこにあるのだ。何かしら得体の知れない妖術を使って強引に付けたのでないことだけは明白だった。

「……学徒殿」

 茫然としていた長が、ようよう口を開く。

「以前聞いたぞ。とうとう学会が本部で申し子を造り出したと。このまま知識の断片を研究するだけでは埒が明かぬとて、いっそ全ての成果を一所に集め……」

「知らねえな。俺は学徒じゃねえんだ」

 不機嫌な顔で魔法使いが遮る。

「とにかくよ」

 三個の空色が皮肉な色を浮かべた。

「化け物退治は化け物に任せときゃいいんだよ、なあ」

 魔法使いは傍らに立つ痩身に同意を求めた。

 剣士ならば、その自嘲的な言葉に頷きもしなかっただろう。

 狼は金色の隻眼で、諧謔的な笑みを浮かべた。




18.


 踊りだ出さんばかりにして二人を送り出した門番は、崩れた城壁の陰で腰を抜かしへたり込んでいた。目の前に数体の骸が転がっている。身体に傷一つなくても首から上がひしゃげて原形を留めぬもの、胴を潰されその個所と口から血と内臓をはみ出させているものなど、どれも無残な死に方をしたものばかりである。

「中へ入ったんだな、奴は?」

 魔法使いの問いに、門番は全身を震わせながら、白茶けた顔のまま何度も小刻みに頷いた。「奴」が誰なのか尋ねようともしない。泡を吹かんばかりにして喋りはじめる。

「も、も、戻って来たら……ちょ、ちょっと離れているうちに、か、かかか隠れて……お、俺だけ……」

 単語が前後しているが状況は想像できた。持ち場を少し離れている間にベリスが現れ虐殺を始めたのだ。戻ってきた門番は慌てて身を隠し、九死に一生を得た。

「どこへ向かったか分かるか」

 と剣士。

「そいつぁ聞くまでもない」

 魔法使いが転々と転がる死体を見ながら、

「こいつを辿ってけば、嬉々として人間を殺しまくっている残虐公に出会えるだろうぜ」

「それで、どうするのだ」

「どうって」

「私たちはその魔神を殺すのか」

「息の根を止めるのは無理だろうな……おい、どっちに行くんだよ」

 死体が散らばる道を進もうとしていた剣士が、怪訝な面持ちで振り返った。

「ベリスを追うのだろう」

「おまえ、やっぱり阿呆だろ」

 呆れた魔法使いが、

「何のためにこの女がついて来たと思ってんだ」

 先ほどから彼らの背後、一心不乱に小声で詠唱を続けているナウシズを指差す。

「杖を取りに戻るんだよ。封印を解かれても、実視界に入れなけりゃ使えねえ力もナルバにはあるんだ。この際、使えるもんは全部使うしかねえだろうが」

 宿に戻ると、セルブが不安げな顔をしてカウンターで待ち構えていた。

「お帰りなさいませ。先ほどから大勢の方が前の道を通るので聞いてみたのですが」

 森の民に気付いて言葉を切る。

「これは失礼いたしました。お客様とは気付きませんで、お茶を」

「それどころじゃねえ」

 魔法使いがうるさそうに遮る。三人が固い面持のまま通り過ぎるのを見て、主人の恐れが濃くなった。

「では、本当なのですね。この真昼間に残虐公ベリスが出たというのは」

「逃げるのならそれも良いが」

 剣士が振り返り報告する。

「他の者とは違う方角へ行くがいい。ベリスは好んで人間を殺す。大勢がいる場所へ現れるに違いない」

 セルブの口があんぐりと開く。どうこの事態に対処すれば良いのか、咄嗟には思い浮かばないようだった。


 女の声が止んだ。

「ごめんなさい」

 森の民は長いため息をついた。

「よっぽど参ってるようだな」

 口調によっては相手を気遣う言葉になる。が、魔法使いのそれには面白がるような響きがこめられていた。剣士が咎めるような一瞥を青年に投げつける。

「封じたときは一瞬だったが、解くにはこんなに時間が掛かるんか」

 未だ魔法使いの脳裏に発動可能なフレーズは蘇らない。彼が聞く限りでは、詩の文法も発音も完璧である。これで発動しないとなれば、あとは精神的な動揺しかない。

「いつもならこの程度、かけるよりも早く取り消せるのですけれど」

 答えるナウシズの貌に血の気がない。

 気の毒に、と剣士は思わずにはいられなかった。あのように変わり果てた肉親同然の者の姿を目にし、なおかつ平静を保てということ自体が無理である。いや、表面上ナウシズは冷静過ぎるほどに冷静だった。アルベルトの死体を見て気を失うこともなければ、一筋の涙を流すところさえ剣士は見なかった。ぼんやりしていたのも一時的で、今は支障なく受け答えも出来る。外見に反して人並みの同情心を持ち合わせている剣士としては、それだけに見ていていたましさを感じるのだった。本来ならあの場で卒倒してもおかしくない。

「急ぐなと言いたいところだが」

「分かっています」

 言い難そうな剣士に、ナウシズが白い顔で頷いた。

「こうしている間にも何人もの人々が……」

 建物が振動した。一瞬遅れて轟音が響く。

 三人は顔を見合わせた。

 剣士が窓から振動が来た方角を見渡す。薄く煙が上がっていた。

「火炎魔法か……そういや、召喚書にもそう書いてあったな」

 額の目も出して魔法使いが呟く。彼の三つ目には、煙の上がる一帯に火精が引き寄せられている様が見て取れた。ここからだと、朱色とオレンジ色に煌めく霧が満ちているように見える。大火事でも起きない限り、通常あそこまで火精が集まることはない。

 精霊魔術の一環として魔法使いも火炎魔術を用いる。しかし使えるからといって、ベリスの魔法が彼に効かない訳ではないのだ。魔法使いが知っているフレーズの中には、熱のない炎で相手の攻撃を遮断するものもあるが、魔法使いは防御的な魔術を全く発動させることができない。が、相手は火炎系の魔法の使い手である。攻守共に炎で装備していれば、魔法使いの同系の魔術は全く効き目がない。手持ちの少ない他精の攻撃魔術で対抗するしかないが、これはいわば、盾も鎧もなしに剣だけで戦うに等しい。魔法使いが魔術師でない所以である。今まではこれで過ぎてきたが、今度ばかりはさすがに不安だった。頼みの綱はナウシズの消魔術である。

 三つ目の青年は唸った。

「雨だけ行かせる訳にもいかんしなあ」

「それで構わぬ」

 剣士は外へ歩み去ろうとする。

「待てってのに」

 魔法使いが慌てて男の腕を掴んだ。

「どうやっておまえが死んだ場所を探して剣を掘り起こせってんだ」

「お主も来れば良い」

 涼しい顔で応える剣士に、魔法使いがなんだと、と悲鳴をあげた。

「いいか、俺は魔法使いなんだぞ。頭脳労働者のこの俺に、詩を思い出すまで肉弾戦をやれってのか!」

 この体格でこの言葉である。説得力がないこと甚だしい。

「それにな」

 空色の目で、彼は再び詠い出したナウシズを見る。

「この女のことを、ベリスはガキから聞いて知ってるかもしれねえんだ。奴の魔法を封じられるのは、あのガキがいない以上この女だけだろ」

 剣士はもう一度窓の外を眺めた。煙が立っているのはナウシズの家がある方角である。椅子に座っている彼女を見ると、森の民は目を閉じたまま、詠唱を止めずに頷いた。本当はいても立ってもいられない気持ちに違いない。彼女自身は一人暮らしだが、近所の者たちとはほとんど家族同然に付き合っていたのだ。

「いつここが見つかるかもしれん。俺らがばらけるのはまずい。といって」

 魔法使いは扉の開け放たれた出入り口を潜った。

「今はやることもねえからな、一杯引っかけてくる」


 囁くような詠声は続いている。剣士の耳にはそれは、呪文というよりも祈りに近いものとして届いていた。詩は彼の知らない言葉で作られているが、しばらく聞いているうちに、同じ句を何度も繰り返しているのが彼にも分かるようになった。

 再び地響きが伝わってきた。ナウシズの声が途切れる。

 詠唱は再開されない。ずっと窓の外を見ていた剣士が振り返ると、ナウシズはテーブルに肘をつき、両手を組み合わせた上に額を乗せて沈黙していた。詠っていたときの姿勢そのままである。

 表通りのざわめきが大きくなった。すぐに遠ざかる。何家族かが集まって避難する、その途上かもしれない。

 ややあって、剣士が口を開いた。

「私が邪魔であれば……」

「あまりにも独りよがりだったのでしょうか」

 ぽつりとナウシズが漏らした。俯いているので表情は窺えない。

「怪物が出たと聞いたとき、私にはそれが残虐公だとすぐに分かりました。以前デイ会員が召喚を持ちかけて来ましたし、召喚書と同じ匂いがしましたから……アルベルトがあの方の援助を受けていると知ったのは、最近のことです。相談されたときに私が反対したので、おそらく黙っていたのでしょう。あの子のお祖母さんから聞いて、おおよその成り行きを悟りました」

 ナウシズはほとんど独り言のように話し続けた。

「ギルドの長に話したのは、昨日です。私もギルドに所属していますから、もっと早く長に助けを求めるべきだったのかもしれません。でも、長からお聞きになったかもしれませんが、イルズィー神の大学は魔術師ギルドを潰す口実を探しています。ただでさえ長は大学からの圧力を躱すのに苦労なさっているのに、これ以上悪い知らせをお耳に入れたくありませんでした。

「召喚書の持ち主は、デイ会員です。事が表に出て困るのはあの方も同様ですから、私にある程度までは協力してくれました。ただ、デイ会員は残虐公の能力に執着していましたから、事件を揉み消してアルベルトを庇ってくれても、召喚書を取り上げようとはしませんでした。

「本気であの子を止めようとしたのは、貴方があの方の屋敷を訪れてからのようです。貴方はこの都市の利害関係に無縁ですし、少しお話すれば、脅しも心付けも通らない人だと分かりますから、一度調査に乗り出した以上、全てを暴かれてしまうと恐れたのかもしれません」

 長い話を、剣士は黙って聞いていた。魔法使いの推測とほとんど一致している。

「焦って馬脚を現したのだな」

「え?」

 危うく殺されそうになったことを剣士が軽く説明したが、ナウシズは驚かなかった。

「あの方にとって社会的な立場や信用は最も大切なものですから、危険な芽は摘んでおこうと思ったのでしょう」

 摘まれる方は堪ったものではない。

「アルベルトのお祖母さんがデイ会員の館へ行った日……まだ昨日ですけれど、あの子の顔見知りの人の家へ大勢の知らない人々が訪れて、しつこく行方を尋ねたり家探しをしたりしたそうです。力ずくで召喚書を取り返そうとしたか、あるいは……」

「消そうとした」

「ええ」

 ナウシズは小さく頷いた。剣士が微かに隻眼を細める。

「では、貴方も?」

「私が人間の男性なら同じ目に遭ったでしょうけれど」

 彼女は顔を上げ、微かに笑った。

「森の民の女は、ここでは珍しいですから」

「……」

 剣士が返す言葉に詰まる。あらぬ想像が彼の脳裏を掠めた。昨晩の魔法使いの言葉を思い出したのだ。

 ベネット・デイがナウシズに対し、魔術師として以外に何の認識もしなかったとは言えない。

 それを意識の外へ追いやり、剣士は別のことを尋ねた。

「分かった時点で、貴方もアルベルトを説得したと思うのだが」

 ナウシズは頷いた。

「最初はとぼけて見せて、それから徐々に耳を貸してくれるようになったのですけれど、最後には本……残虐公に魅入られていたようです。精霊に頼んで何度も召喚書の在処を探して貰いましたが、アルベルトの消魔術は私と同じ域に達していましたから」

 結局見つからなかった。

「アルベルトのことは、あの子が赤ん坊だった頃から知っています。私は見かけよりもう少し年を重ねていますし、あの子はよく懐いてくれましたからずっと弟のように思ってきました。成長してからは一人前の人として接するよう心がけましたけれど、やはり弟であることに変わりはありません」

「だが、あの青年は」

「ええ、ええ」

 剣士が言いかけるのを、ナウシズは何度も頷いて遮った。片手で口元を覆う。

「分かっています。あの子が私をどう思っているかは知っていました。好きな女の子を見る度に顔を赤くするようなところは、子どもの頃から変わりませんでしたもの。きっと私がいつまでたっても子ども扱いをしているようにあの子は思って……いえ、事実そうかもしれません。それで無茶に走った部分もあったのでしょう。だからといって」

 森の民は声を詰まらせた。窓際に立つ剣士を見上げる。

「……私はどうすれば良かったのでしょう? あの子はあくまで私にとって……雨様」

 よもやそのようなことはあるまいと思っていた人物が、助けを求めている。

 縋るような猫の瞳に見つめられた剣士は、しばらくの間目を逸らそうともせず、答えになりそうな言葉を探し求めた。

 そんなものは、ない。

 剣士はやがて口を開いたが、その顔は無表情なままだった。

「分からん」

 馬鹿が付くほど正直に、彼は言った。本当に大切なものを失ったときには、どんな慰めの言葉をかけられても気休めにすらならない。剣士は、自分の経験からそれを熟知していた。

「私に応えられる事柄ではない。自分ならそのようなことは考えぬ……考えぬように努める。嘆くにしても、さしあたってせねばならないことを済ませてからにする」

「……そうですね」

 ゆっくりとナウシズが頷く。

「それは分かっています。先ほどから頭ではそう考えているのですけれど」

 静かに肩が震え出した。

 剣士は、最初会った日に感じた衝動に、今度は逆らわなかった。


「かーっ」

 魔法使いが酒杯を手にしたままカウンターに額をぶつける。

「なんつう、まどろっこしい奴らだ。寝るなら寝るでさっさと済ませて、早く封印を解きやがれ」

『だが、ナウシズの精神状態は安定しつつある』

 ナルバは布に包まれ上の部屋の壁に立てかけられたままである。実視界が遮られていても僅かに残っている別の視覚のおかげで、上の様子は杖を通して魔法使いに筒抜けになっていた。

「雨は汝のような品性下劣な男ではない故な」

 魔法使いはぎょっとしてカウンターの向こうに立つセルブを見た。金色の両眼が、からかうように黒ずくめの青年を見下ろしている。魔法使いは彼自身が狼のような唸り声をあげた。

「てめえ、雨ん中にいるんじゃねえのか」

「我は汝のような覗き趣味なぞ持ってはおらぬ」

「俺じゃねえ。ナルバが勝手に実況中継しやがるんだ」

『貴方が雨を気にしているからだ』

「当たり前だろうが」

 二本目の酒瓶に手を伸ばしながら魔法使いが真剣に応じる。

「奴が嫁を死なせてそろそろ一年だぞ。なのに全然女っ気がないたあ、一体どういうことだ? 男でもいいって訳でもねえし。ガキもこさえたんだから役立たずじゃねえんだからよ。俺は、あいつがやってる現場を絶対押さえてやるからな」

 セルブの身体を借りた狼は、軽蔑も露わに鼻で息をついた。狼の姿のままならば、後脚で耳の後ろでも掻いたかもしれない。

 直後、宿の主人は急にきょろきょろと辺りを見回した。瞳の色が戻っている。

「……何ですか、さっきのは」

 狐につままれたような面持ちで魔法使いに尋ねる。

「雨にとり憑いた狼さ」

 杯に注ぐのも面倒になったのか、瓶からラッパ飲みをしてから魔法使いは答えた。

「妙な感じですな……こう、自分が魂だけになって身体の中に押し込まれたというか。手足を動かそうとしても、ないんですよ。そのうち何か窮屈になってきたら、邪魔をしたと言ってそれが出て行って、元に戻りました」

 セルブは狼が潜り込むに、あまり適した人間ではないらしい。

「おまえ、逃げねえのか」

「そうも思いましたが」

 主人は首を振った。

「私は娘ともう少しここに残ります。今、人が大勢いるのは神殿や広場でしょう。まだここにいる方が安全な気がします。身を寄せる宛てもありませんし」

 存外冷静な主人の言葉である。魔法使いはにやりと笑った。

「へえ。思ったより目端の利く奴だな」

「ありがとうございます」

『詠唱が再開された』

 杖が報告する。

 途端に魔法使いは頭痛に襲われ、呻きながら頭を抱え込んだ。同時に、封じられていた一群の詩やフレーズも彼の脳裏に蘇る。

 彼は天井を見上げて、杖に向かって呪詛の言葉を吐いた。

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