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一振りの剣にまつわる挿話  作者: 井出有紀
8/14

14、15、16

14.


 一刻程の仮眠から目覚めた剣士が見たのは、いとも安らかに寝息をたてている青年の姿だった。

「良く寝ている」

 剣士は熟睡している魔法使いを珍しそうに眺めた。

 床に蹲っていた狼が頭をもたげる。銀色といっても良い。艶やかな灰色の体毛を持った狼の姿が剣士には見えていた。比較的大きいとされる森林のものよりも、さらに一際立派な、大きな身体をしている。金色の目はどの老人よりも長い年月を経た古い光を宿しているが、同時にまた、時間に色褪せ擦り切れることのない豊かな感情も含まれていた。

『それほど珍しいのか』

「お主には分かるかもしれん。私には全く声が聞こえぬが、雷はそこの杖……ナルバと折り合いが悪いのだ」

 剣士は、前の開いていない上着を頭からすっぽりと被って腕を通し裾をズボンの中へ押し込みながら、肘で壁際の布の包みを指した。

「雷は怒りに任せて杖を踏んだり投げ飛ばしたりするし、杖は杖でその男に不快な思いをさせているらしい。夜も眠りを妨げられると言って、私だけが眠っていると腹が立つのだろうが、時折、夜中に突然起こされる」

 大声で喚いたり、小突いたり、蹴飛ばしたりするのである。確かに「寝込みを襲う」と言えなくもない。

『先程から直接話を聞いておるが……』

 狼は呆れたような風で杖を見、視線を剣士に戻した。

『いやはや、相当険悪なようだ。毎日互いに罵り合っているそうではないか』

「今は杖の力が弱められているので、それでよく眠っているのだろう。夜も充分に休めないのであれば、いささか常軌を逸した素行に走るのも致し方ない」

『汝はつくづく寛大な男だな。暴れるだけ暴れたら、さっぱり怒りも流れてしまったようだ』

 剣士が滅多にない、気まり悪げな顔になる。

「普段はあのような乱行に及ばぬのだが」

 狼の目元が緩やかに細められた。金色はおかしそうな表情を浮かべている。

『情にも義理にも薄く、金にも女にもだらしのない男だ。いっそどこかで置き去りにしようと思わぬか』

 褐色の貌に微かな苦笑が表れた。

「簡単にそうもさせてくれまい。それよりも何故あのようなことを言ったのだ?」

 剣士が怒っていてカゼールを発つ際には魔法使いと別れようと考えていると、狼が語った件についてである。

 身体を明け渡している間も、剣士は視覚と聴覚は失わなかった。ただ、何か透明な壁を通してものを見たり聞いたりしているような、妙な感覚ではある。

『少しは薬になるやもと思ったのだが、あやつ、一向に気にした様子がない』

「この男は、私の剣が欲しいのでついて回っているそうだが」

 口を開いてベッドに引っくり返っている魔法使いを、剣士は横目で見る。

 理由も聞いていた。彼が賜ったのは「アルナージルの剣」だというのだ。アルナージルとは、はっきりしないがどうも神の使いとでもいうような意味らしい。剣士の生まれた国は西、この最果てよりもさらに西の海に浮かぶ国の一つだが、一対の剣が出てくるような神話など伝えられていない。もしこれがその剣ならば伝承の一つでもある筈だと言って、彼は全く本気にしなかった。斬ったものの活力が吸い込まれ、剣士に流れ込んだこともない。

 といって、魔法使いに簡単にくれてやる気にもなれない。伝説の剣ではなくとも名剣であるのには間違いがないし、たとえこれが魔法使いの言う通り命を吸い取る剣であったとしても、根は悪人ではないだろうこの自分と同い年の青年が、生命力を得るために人を斬り殺し続けるようになるのを好ましくないと、剣士は考えている。魔法使いが杖に苦痛をもたらされているとしてもだ。彼がどれほどの苦痛を味合わされているのか剣士には見当がつかないが、彼はそれでも賛成できない。命を危険に晒され人を斬るのと、ただ気を補充するためだけに人を斬る、その二つの間には大きな溝がある。

「まあ」

 剣士は考えるのをやめた。

「そのうちに飽きて消えるのも良いし、ついて来るならばそれでも良い。どちらでも構わぬが……狼」

 剣士が昨晩からの疑問を口にした。

「学徒は何千年も生きるのか。昨晩、妙なことを尋ねたな」

 金色の瞳が束の間翠の隻眼を見つめてから狼は首を曲げ、眠りこける男に視線を移した。

『そやつは別だ』

「?」

『申し子だ。学会がそやつを生み出した』

「学会の子どもだということか」

『いや』

 それきり狼が黙り込んだので、剣士は身支度を整え、剣を手に部屋を出ようとした。行く先を告げる。

「セルブが言っていた……」

『知識の入れ物と言えば良いか』

 扉に手を掛けた剣士の動作が止まった。黒い髪が揺れる。翠の隻眼が床の獣を注視した。

「なに?」

『ここ百年、旧文明の解明は行き詰まっておる。今のように成果があちらこちらに散らばっておっては、復元など何万年先のことになるやもしれぬ。といって、研究成果や課題を全て一所に集め千人がかりで取り組んだとて、それも煩雑を極める。原則的に、人は同時に一人としか意見を交換できぬからな。何百人も集め会議を開いたとしても、同時に何百人が発言してその全ての意見を皆が同時に聞き入れ理解することはできぬ』

 学会の話をしているのは剣士にも分かった。方向転換しテーブル脇の椅子に腰を降ろす。狼は、魔法使いが眠っているのを確かめてから続けた。

『役所を思い出すが良い。これはここの担当、それはそこの担当と決まっておって、何か許可を貰うにも時間がかかる。規模が大きくなるほど、仕事の処理は遅くなる』

「そうだが……」

 生国の首都を思い出して剣士が頷く。

『学会はそれを全て一人の人間ができるようにと、長きに渡って研究してきた。情報の受け渡しが少ないだけでも処理速度は上がる。それに加え、全ての事項を関連付けて思考ができるとなれば、研究は飛躍的に進むに違いないと考えられた。

『そして百年ほど前になると、論理的には可能な装置が造られた。何人もの学徒が志願して実験台になったが、何の効果もないか、心に異状をきたすかのどちらかだった。酷い場合は狂い死んだ』

「もともと無理な試みのような気がするが」

 剣士が感想を述べた。

「そもそも役所にしても、千の人手が必要だからこそ、それだけの人手を使っているのだろう。切り詰めて七百人で組織を動かすとしても、一人は無理だ」

『雨』

 狼が問いかけた。

『人はどこでものを考える?』

 剣士の国では、頭と胸の二説で議論が交わされていた。頭が優勢だったのを思い返し、彼は答えた。

『そう』

 狼は頷いた。

『頭だ。頭蓋の中にある脳という器官でものを考える。先に汝が言うたことは正しい、雨。一人で何百人分もの思考を抱えきれるか?』

「いや、大抵の者にはできまい」

『大抵の者というよりは、普通に生まれ普通に育った人間ならば不可能だ。多少風変わりな生活をしている学徒もそこは変わらぬ』

 金の両目が虚空を眺めた。何かを思うときの癖らしい。

『そこで学会は学徒が生んだ子どもの中から何人かを選抜して、特殊な教育を施し、成長してからその装置にかけた。だがやはり、結果は捗々しくなかった』

「装置に欠陥があったのではないか?」

『これ以上は無理だという限界まで装置は改善されていた。問題はハードではなくソフトなのだ。いや、情報の器という点ではその人間もハードではある』

 訳の分からない顔をしている剣士に気付き、彼は視線を戻した。

『とにかく、問題は人間ということになった。特殊な生育をしても駄目ならば、特殊な人間を生み出すしかないという結論に、学会は辿り着いた』

 まさか。

 剣士が、眠っている魔法使いをしげしげと見つめる。

『まず間違いなかろう』

 狼は再び頷いた。実際に頭を下げた訳ではなかったが、金色の目が一度瞬いた。

『汝も知っておろうが、顔の紋様は学会の象徴だ。商標とでもいったところか』

「頭は特に大きくないが」

『問題は大きさではない。情報をいかに効率的に脳に収納し、随意に引き出せるかなのだ。情報とは知識だけではない。汝が見るもの、聞くもの、触れるもの、考えるもの、その全てが納められ、頭の中で遣り取りされる。これは説明しても学徒でさえ理解しづらいことでな。

『今まで失敗が続いたのは、装置が詰め込む膨大な情報の負荷に、装置に入った人間の脳が耐えられなかったからだ。通常、人の脳は半分も使われておらぬが、前もって通り道を広げておけば、負荷も減少する。

『そやつの額の目も、少なからず関係しておるだろうよ。人間はそと環境を認識する際、かなりの割合で視覚に頼る。一つ多ければ、流れ込む情報量も相当増すに違いない。あるいは、こやつの五感は人の数十倍も鋭いかもしれぬ。思考は自らの意志で止められるが、感覚はそういう訳にもいくまい。嫌でも脳に大量の情報が流れ込む』

 剣士にはついて行くのがやっとの講義である。情報という概念について、彼と狼の間には甚だしい差があるようなのだ。

「……何故お主がそのようなことを知っているのだ」

『ずっと以前、学会に興味を持ってな。我も旧文明の産物である。それを復興しようとする者たちがどのような道を辿るのかと、しばらくの間方々の支部を渡り歩いた』

 時間もあり余っている故、と狼は付け加える。

『我についてはおいおい話すとしよう。とにかく、雷がその最初の成功例なのだ……いや、それはまだ分からぬか。学会の研究過程が我の予想からさほど外れていなければ、そやつには父も母もおらぬだろうよ。もっとも最初で最後かもしれぬ。そこの支部で聞いた限りでは、本部を滅茶苦茶に破壊して逃げ出したらしい』

「それほど学会に留まるのが嫌だったのだな」

『こころは頭に宿る』

 狼は繰り返した。

『察するところ、脳の全てを知識で満たし学会のために働かせるとなれば、通常の心が入る隙間はないに違いない。学会の予想では、そやつを知識の器にすれば、今ある記憶や人格、感情もほぼ失われるだろうということだ。組み入れられる情報の中には、理想的な指導者たる人格の情報も入っている。学会を率いるに最も適した人物像のな』

「それでは」

 剣士は思わず腰を浮かせた。半分立ち上がりかけてから、思い直して再び椅子に座る。

「それでは、雷は」

『身体は少しも変わらぬ。だが、精神は死を迎えると言っても過言ではなかろう』

 逃げ出したくなるのも、もっともな話である。

『失われると分かっている人格など、重くは見られぬ。そのような場で一体どのように育てられたのか……木偶人形のように育てるのが、おそらく学会にとって便利であったろうな。それを考えると、このような無茶な自我でも、むしろあるだけ奇跡と言える』

「……」

 何かしら教育を受けたとしても、学会に都合の良いことしか教えられてはいまい。己が失われる日を心待ちにしていたとしても、何ら不思議ではないのだ。それを、逃げ出そうと思うまでの意思を持つに至るまで、どのような過程を経たのだろうか。剣士には全く想像のつかない世界だった。

「……私は」

 彼はようやく口を開いた。

「てっきりこの男は、額にも目があるため幼い頃から虐げられ、それであのようないささか歪んだ人格を持つに至ったのだとばかり思っていた」

『それで良いのだ』

「これほど舌の回る男が話さないということは、言っても私が信じないと思ったのだろうか」

『いや、己が過去を全て否定したいのだろうよ』

 魔法使いを見る狼の目に宿っているのは憐憫ではなく、心を読むに疎い剣士が感じたのが間違いでなければ、それは敬意に類するものだった。

 不意に剣士は鋭い翠眼を狼に向けた。そこには咎めの色が浮かんでいる。

「ならば、何故そのようなことを私に話したのだ。雷は己の出生も生い立ちも捨てたいのだろう。私が知っては意味がない」

『知らぬ顔をすれば良い』

 理解しがたい様子で剣士は狼を凝視した。

「……私に何をしろと?」

『何も』

 狼が答える。

『ただ、何も知らずにいるのと、知っていて知らぬ振りをするのとは、違う』

「それが何か、雷の役に立つのか」

『汝のように明快で安定した心の持ち主には分かるまい。だからこそ助けになる』

 褒めているのかけなしているのか分からないことを言うと、狼は剣士の中へ潜り込んだ。

『またしばらくいさせて貰いたい。雷めと意思の疎通をするにはこれが便利なのでな』

「それは構わぬが」

 訳が分からないままに剣士が頷く。まあ良い、と彼は気にするのをやめた。少なくとも、狼が彼らに害を加えようと考えていないことだけは確かである。

「……う」

 魔法使いが寝返りを打つ。何かぶつぶつと呟いていたがじきに止んだ。ゆっくりと瞼が開く。のっそり起き上がり、声を出して大欠伸をし、両腕を挙げて背伸びをする。大型の猫科動物が昼寝から覚める様を思わせた。

「気持ちがいい」

 腕を降ろし、魔法使いは寝惚け眼で呟いた。頭をばりばりと掻きながら、

「こんなに寝覚めがいいのは契約以来だな、ナルバの嫌がらせがここまで軽減するとは思わなかった。いっそナウシズに徹底的に封じ込めさせてから、このまんま魔法使いやめて俺も傭兵に転職するか……う」

 言ってから顔をしかめる。激しい頭痛が襲ったらしい。彼は杖を睨んだ。

「畜生。てめえ、絶対そうしてやる」

「厳密に言えば私は傭兵ではない」

 魔法使いは訂正する剣士の身なりを見て、

「で、どこ行くんだ。いや、分かる」

 顔をしかめたまま彼は服を着た。

「出稼ぎ街だろ」

 新市庁舎建築のため、他所から多数の労働者が流入している。急ごしらえの寝床を備えた簡易宿泊所や神殿、市庁舎の空室などが割り当てられるが、到底それで間に合うものでもない。あぶれた者たちは、空いた土地に掘っ建て小屋を作り、そこを仮の住まいにする。今のカゼールではそこが身を潜めるには最も適していると、セルブが話した。情報通である宿の主人が言ったことである。行ってみる価値はありそうだった。

「俺も行く」

「……」

 先の話がまだ剣士の頭に焼き付いていたのだが、魔法使いは誤解したらしい。奇妙な顔でこちらを見ている連れに、彼は煩わしそうに説明した。

「虐殺が大好きな魔神だぜ? 見た人間を全て殺さずにはいられねえんだ。魔術も使えるなんて言ってみろ。カゼールなんざ一瞬で火の海だ。向こうに見つからんようにこそこそ逃げ出すより、こっちが奴を出て来ねえようにする方が、よっぽど合理的だろうが」

 脱ぎ捨てたままの黒衣を広げる。ずたずたになっているのを見てため息をついたが、そのまま腕を通した。

「似合うぞ」

 剣士が珍しく皮肉下に言う。ついぞ聞いたことのない連れの嫌味を聞いて、魔法使いは空色の瞳をぱちくりと瞬きさせた。




15.


 狼は、剣士に話している間もナルバに対しての注意を怠らなかった。杖は両者の会話に聞き耳を立てていた。不快感が強まっている。

 今のナルバが力を行使できるのは魔法使いに対してだけである。彼に対する攻撃が妨げられている上に、狼が剣士に余計な話をしたのが気に入らないのだ。

『何故邪魔をする』

『汝は我によって気分を害しているのにも関わらず、いかずちを攻撃している。それは筋が通らないであろう。封じられて気が立っているのは分かるが、冷静になることだ』

 他方で剣士に話を続けながら、狼は尋ねた。

『それが杖族本来の資質であろう?』

『……貴方の言うことは正しい。しかし何故、雨にそのような話をしている』

『雷は汝のものではない。汝はこの男を支配下に置こうとするあまり、既にそうなったものと一部勘違いをしている。雷の過去は汝のものではないぞ』

 杖は渋々と認めた。

『雷の過去は雷が有している。私のものではないが、貴方のものでもない。やはり貴方が話すのは間違っている』

『そうだ。しかしナルバよ。これから先、性格破綻者と不毛な闘争を続けるか、汝の所有者に相応しい者と妥協していくかと問われたらどちらを選ぶ』

 差し出された選択肢を、杖は検討し始めた。

『雷の自我の強さは汝も熟知しているであろう。我はどのような環境でそやつが育ったか知らぬ。が、歪みによりどこかが脆くなっているにしても、全てを抑え込むのはいかに汝とて至難の業ぞ。相手はただの人間ではない。汝は圧力をかけて雷の精神が衰弱するのを待っているようだが、が、こやつを負い込むには相当汝も消耗せねばならぬ。しかし汝は決まった量の命を食うしかできぬ。所有者を支配せぬ限り』

 狼は長く語り続ける。ちょうど、それでは雷はと驚愕も露わに剣士が腰を浮かしかけた瞬間だった。

『どちらが先に倒れるか。我が見たところ、雷はこのままでもあと三十年は耐えうるだろう。いよいよ負けるとなればただの傀儡になるよりはと自ら命を断つやも知れぬ。そうなれば汝は糧を失うな。大方、そのバッテリーは空であろう』

 杖は答えない。狼がしばらく剣士と会話を交わしながら様子を見ていると、しばらくしてから返答があった。

『雷の人格が改善されるのならば、所有者と認めるにもやぶさかではない……』

 狼は、杖にも察せぬ心の奥底でそっと笑みを浮かべた。

『汝の怒りはもっともだ。いくら契約を結んだとはいえ、雷は汝の所有者と呼ぶには相応しくない。しかし、気に入らぬからと言ってむやみに圧力をかけたところで、雷も意固地になるだけではないのか。しばらく共にいたのだ、この男の気性ぐらいは把握していよう』

 杖が不満げな波長を発した。

『雷に屈せよと言うのか』

『そのようなことは言っておらぬ』

 これでは反抗期の子どもである。宥めるような口調にならないよう、狼は努力しなければならなかった。狼に言わせれば、意固地になっているのはナルバも同様である。ある面でお互いの気質が驚くほど似ていることを、この両者は自覚していないに違いない。指摘しても受け入れないだろう。

『雷と同じ土俵に立ってものを考えるのは止した方が良いと言っているのだ。どうやらしばらく共にいたために、この男の強烈な自我の影響を受けたようだな』

『……』

 杖の疑念が伝わってきた。狼が自分の問題に口を挟む、その理由を図りかねているのだ。

『訝しむのも無理はないが』

 このような性質だと説明する他にない。初期設定に従って生きてきた結果、お節介者になってしまったのである。人間に影響されたのかもしれない。

 ベリスの件にしても、一月前に現場へ立ち寄ったところでかの魔神と出くわし首を突っ込む羽目になった。生まれつき彼が持っている性格の一つに、強い好奇心がある。まだ見ぬものを求めてこの地上を駆け巡ったが、もっとも興味を引かれるのは人間だった。知能と知性を持つこの特殊な生き物の中でも、黒衣の若者はさらに際立っている。あらゆる意味において。

『しばらく我に任せてくれぬだろうか。決して汝の悪いようにはせぬ』

『……考えておこう』

 狼は心の奥深くで安堵の息をついた。

『感謝する』

 魔法使いが目覚めようとしている。

 狼は剣士の中へ潜り込んだ。四肢を折り畳んで身体を丸め、濡れた鼻先を銀色の体毛に埋める。

 冷ややかな風が吹き、毛並みを揺らした。

 いい気持ちだという、剣士の声が聞こえた。

 ここも同様である。剣士は、ほとんど揺らぎのない秋の森林だった。珍しい程に安定した精神の持ち主なのだ。しかも、狼を受け入れてなお、広い余裕がある。

 狼は瞳を閉じた。

 杖は自分に好意らしきものを抱いてくれたようだ。狼を構成するのは、基本的には論理ロジックである。物理的に言えば電子の流れである。長年存在を続けて人間臭くはなったが、それでも杖にとっては実の人間よりは付き合いやすい相手だろう。

 自分と他の二頭の仲間が何の為に造られたのか、狼ははっきりとは知らない。幾らかの方向付けをされただけで、彼らは地上へ送り出された。自分の構造を鑑みるに、造り主の気紛れという線も捨てきれない。

 それでも特に拘らぬ、と昨晩、剣士の口を借りた狼は意味ありげに言った。大切なのは理由ではない、存在それ自体なのだと。説教嫌いの魔法使いが冷笑で応えたのは言うまでもない。

 本物の狼はもっと血生臭い生き物だということを、彼は知っている。この星へ降りて間もなく、実物たちが繰り広げる狩りを目の当たりにした。自分を造った人間は、狼の正確な生態を知らない可能性が高い。

 生まれたその日に一度会っただけだったが、狼は自分の創造主を鮮明に覚えている。長身の若者二人よりもさらに背の高い、青い目をした男だった。魔法使いの空色とは異なる、海の色をしていた。狼がその目で見た、赤道付近の豊かな青である。

 あの男は、自分のこのような成長を予見しただろうか。狼は五千年以上かけて人の中へ入り込む術を覚えた。無論その人間に害を与えはしない。人の精神世界は、外環境に類似した光景として狼に伝えられる。彼は実際には視覚を除いて疑似的な五感しか備えていないが、人のうちに入れば、それは鮮明なものとして伝えられた。本物の狼はこう感じているのだろうと思わせる感触だった。しかし視覚は人間と同等かそれ以上のものを持っているので、彼は本物の狼と違い、目で風景を楽しむことができた。

 魔法使いの中へは間違っても入りたくないと、狼はまどろみながら改めて思った。活火山の噴火口や豪雪の吹きすさぶ雪原ツンドラ、酷暑の不毛な砂漠、戦が終わって灰燼と化した廃墟、果ては絶対零度の宇宙空間から何ものも存在し得ぬ虚無までが代わる代わる現れる、目まぐるしいがその癖、人なら決して住めぬ荒涼とした世界であるに違いない。

 狼の創造主はどうだっただろう。狼は何千億回も繰り返した想像を今一度再現した。今では辺境の民にディーグ神などと崇められているが、狼の記憶によれば、特に変わったところも窺えない人間の男だった。精々頑張れよ、と言って彼を送り出した男は、とらえどころのない、だが屈託もない笑みを狼に向けた。

 初夏の海、と狼は変わらない結論を導き出した。男の目と同じ色の海が念頭に浮かぶ。答えが合っているかどうか確かめられないのが残念である。

 何故なら五千年以上も前に、彼の生みの親はこの世を去っている筈だから。




16.


 あらゆる生活臭が一帯にたちこめていた。

 城壁のすぐ外側、ほとんど無秩序に並ぶ掘っ建て小屋の一つに、アルベルトは二日前から住み着いていた。短期間働きに来た者が取り壊さずそのまま残して行ったものである。

 近くに誰もいないのは分かっていた。

 ここに小屋を建てた者たちは昼間、病で臥せってでもいない限り、残らず市庁舎の建築現場で働いている。彼らが戻ってくるのは早くても夕方、ベリスを召喚するならばこの時間帯しかない。

 狭い、薄暗い空間で、アルベルトは一冊の本を取り出した。丁寧に装丁されているものの、一見したところは何の変哲もない古書である。表紙に使われている赤褐色の皮革は張られたばかりの頃、古の時代には血のような朱色をしていたに違いない。

 新月は明後日である。今からでもベリスを呼び出せるかどうか、彼は自問した。召喚条件の中に新月が入るのは、人とベリスの持っている生体波がそのときだけ完全に一致するためである。前後三日の内に召喚するのも不可能ではないが、使役はできない。呼び出せるのがベリスの魂の一部に過ぎないからだ。馬に跨った魔神はそんな意味の言葉を漏らした後、要らぬことを言ってしまったといわんばかりに、いかつい顔を苦々しげに歪めた。肉体を伴わなければ、ベリスは人を殺せないからだ。先月の召喚中の出来事である。

 アルベルトは、魔神がただひたすら殺戮のためだけに人界へ出現したがっていることを熟知していた。青年は無論、これ以上罪のない人々が殺されることなど望んでいない。困難であっても、今、召喚を試みた方が安全ではないか。相手の精神だけを呼び出せるのだから。

 まだ幼さの抜けきらぬ顔が苦しげに歪められた。

 最初から知っていれば、何人もの人を死なさずに済んだのに。

 それならば何故ナウシズの説得に従って召喚を止めないのか、若い魔術師は自分でも説明できなかった。最初彼に召喚を強いたデイも、ベリスが人の手に負えない存在だと悟った時点で中止を命じたのにである。

 そう、最初召喚した時点でアルベルトは朱の兵士魔神ベリスに心を捕らわれてしまった。

 ちなみにベネット・デイはアルベルトより先に、ナウシズへベリスの召喚を打診していた。過去と未来を見通すというベリスの能力を、デイは利用したかったらしい。アルベルトは、このやり手の貿易商が違う意味で彼女に興味を抱いていることも知っていた。彼が囲っている女たちの中に森の民はいない。

 ナウシズがたやすくデイの言いなりになるとも思えないが、アルベルト自身が貿易商から援助を受けている。万が一、デイが自分のことを持ち出してナウシズに言い寄ったらと思うと、アルベルトは気が気ではなかった。恋い慕う女性に想像するような形で庇われてしまったら、彼としては身の置きどころがない。悲しいことにアルベルトが成長したところで、ナウシズにとって彼は依然として保護するべき存在でしかないのだ。これだけの力を持っているとナウシズに証明したい欲求、ベネット・デイに対する負い目や嫉妬、そういったものが、青年をこのような行動に駆り立てた一因かもしれない。アルベルトは必ずベリスを支配下に置くと宣言し、召喚書を手放さなかった。

 一昨日にあの男が訪ねてきてから、彼は召喚書を持って出稼ぎ労働者の中へ紛れ込んだ。何もかもを見透かしてしまいそうな翠の隻眼が、アルベルトに危機感を与えたのだ。彼がベリスの召喚主だということは、ナウシズにはとっくに知れている。彼女は何度も説得を試みたが、アルベルトは聞き入れなかった。あの隻眼の男に打ち明けて助けを求める可能性もあるが、ナウシズはまだ何も話していないだろう、と推測していた。

 あの人は、何でも一人でしようとするんだ。

 いつまでも自分は頼りにされない。助けになれることだってあるだろうに。もちろん出来ることはしているが、それにしても、あの優しい魔術の師はもっとアルベルトを頼ってくれてもいいのだ。

 ここにも長くはいられない。貧しい育ちではあるが、彼は、力仕事をするにしては物腰も体つきも相応しくない。屈強な男たちの間では浮き上がってしまうのだ。ナウシズや剣士がこの辺りへ来れば、すぐに居場所など知られてしまうだろう。

 カゼールを出ようかともアルベルトは考えたが、行く当てがない。ナウシズの紹介状なしでサイヴァルを訪れるなど、言語道断である。

 自分はもう、何人もの人々を死に追いやっている。ナウシズが言った通り、召喚書を返そう。返すか、それとも燃やしてしまうか。

 ナウシズが言う通り……。

 焦げ茶色の瞳が赤い本へ吸い寄せられた。

 逃げられない。

 アルベルトは魔神に魅入られ、くすんだ赤の表紙を凝視し続ける。

 

 良心が魔神に負かされたアルベルトは、小屋の中いっぱいに大きな召喚陣を描き始めた。

 複雑な幾何学模様は、すっかり彼の脳裏に記憶されていた。

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