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一振りの剣にまつわる挿話  作者: 井出有紀
7/14

12、13

12.


 何者かが騒いでいる。微かに聞こえるだけだが、何人もの声と足音が、頭上で響いていた。

 暗い。

 起き上がろうとした剣士は手足が動かないことに気付いた。足首から膝まで、両足が一緒でなければ動かそうにもびくりともしない。燻製もかくやというほどのぐるぐる巻きにされているのは疑いがなかった。戒めを解いてもすぐには感覚が戻らないのではと憂慮した途端、後頭部の鈍痛も蘇った。痛いといえば、全身が痛い。口は封じられていなかった。叫んでも外には聞こえないのだろう。

 ざわめきとは反対の方角から別の足音が聞こえてきた。こちらは近い。三人、と剣士は呟く。ぎい、と木の軋む音がして、天井らしき一角に平行四辺形の明かりが現れた。明かりが差し込んだので、出入り口から急な階段が続いているらしいのが剣士の目にも見て取れた。ふとした予感に駆られ、剣士は尺取虫のように這って階段から遠ざかる。

「畜生。くそ重てえ野郎だな。この身体で魔法使いだって? 本当かよ」

「知るか。おら、さっさと放り込んじまえって」

 平行四辺形に影が差した。と思う間もなく、影は無造作に蹴り落とされ階段を転げ落ちてきた。全身の痛みの原因を知り、剣士は納得した。

「しかし、なんでこんな所でやらなきゃいけねえんだよ。あのおっさんの家なら、場所なんぞあり余ってんだろうが」

「あの人は」

 粗雑な言葉遣いの中に、一人だけさほどでもない声が入った。

 バタンと天井が閉ざされる。完全に光の筋が消える寸前、銀色に煌めくものが暗闇に溶け込んだのを、剣士は見逃さなかった。

「自分の家を汚されるのが嫌なんだよ」

「仕方ねえ。明け方人がいなくなってから……」

 声と足音が遠ざかった。


いかずち

 剣士が呼びかける。返事はない。

 彼は先程自分が倒れていた所まで再び這った。移動しておいて正解である。あのままここにいたら魔法使いのクッションになっていた。自分より一回り大きい筋肉男の下敷きになるなど御免こうむる。

 魔法使いの側まで行くと剣士は起き上がり、両足で何度か蹴りを入れた。唸りはするが、魔法使いが目覚める様子はなかった。

「クロミス、いるのだろう」

 剣士が鍛冶の精を呼ぶ。

「返事を聞けぬのがやりづらいところだが」

 小さな手が剣士の額に触れた。

「どこでもいい、縄が緩んでいる箇所はないだろうか」

 周囲を動き回っている気配がしばらく続いた後で、剣士は諦めた。

「いい。手間をかけた」

 左の頬に温かなものが張りついた。銀の妖精がしばしば紋様のある頬にそうして甘えていたのを、剣士は思い出す。

「気にするな」

 珍しく慰めの言葉を口にしたところで、再び呻き声があがった。

 魔法使いは一瞬沈黙してから、今度はくぐもった声で何かを喚き始めた。男たちは疑いを抱いていたものの、魔法使いたる彼には一応猿轡を噛ませておいたらしい。

「とりあえずできることを考えねばならんのだが。どうやら私たちはしばらくしてから殺されるようだ」

 剣士の声を聞いて魔法使いが喚き声を収めた。何か言っているのだが皆目見当がつかない。

「分からんぞ」

「うう、うう」

 魔法使いが唸り始める。

 ぷはっ、と息を吐き出す音がした。

「サンキュ、クロミ……」

 げほげほと咳き込む。

「騒々しい男だな」

「……うるせえ」

 しみじみと感想を述べる剣士を、魔法使いが罵った。

「何やってんだよ。どうせ爺か婆が倒れた振りでもしたのに騙されて、後ろから殴られでもしたんだろ」

「そういうお主こそ大方、女たちに囲まれて鼻の下を伸ばしていた所へ一服盛られたのであろうが」

 お互いの図星を指し合った彼らは束の間沈黙してから、会話をもう少し建設的なものへ切り替えた。

「剣を取り上げられた。短剣もだ」

「俺も全部持ってかれた。くそ、意地汚ねえ連中だな。耳飾りまで外していきやがった。まとめて上に置いてあるらしい。どうやら、指図した奴の許可があるまでは戦利品にできんと見える」

 クロミスが収集した情報を、魔法使いが剣士に伝える。

「ここは酒場の酒蔵だと」

 ひんやりした空気と匂いで、剣士も見当はついている。

「俺は呪文を封じられているし、ナルバも能力を制限されている。天井の他に抜け道らしきものもない。さあ、どうする」

「縄の切れそうなものでも落ちていないか」

「……ないとさ。いいって、おまえのせいじゃない」

 血も涙もない魔法使いだが、鍛冶の精に対してだけはまともな反応を返す。

「とはいえ、いくら何でもこんな所で死ぬのはなあ」

「上の連中が降りてきたときに何とかするしかあるまい」

「何とかって」

 魔法使いが皮肉な声で応じる。

「この人間芋虫状態でか」

「気絶してから縛られたのでは、縄抜けもできまい。今のところは……」

 剣士が言葉を途切れさせた。口をぽかんとあけて虚空を見つめる。

「どうした」

「……」

 明るければ魔法使いは、世にも珍しい剣士の間抜け面を見られただろう。

「どうしたっつってんだろうが」

「……見えるぞ」

 声を聞いたただけでも、剣士が茫然としているのが分かる。余程のことでもない限り、彼はこんな声を出さない。

「何がだよ」

「狼が天井をすり抜けてきた」

「なんだと!」

 魔法使いも視線を彷徨わせた。が、何も見えない。彼は額の目を露わにするべく鍛冶の精に言った。

「クロミス、額の布を取ってくれ」

 三つの目で彼が見たものは、遺跡で遭遇したあの粒子の狼だった。闇の中、流れる粒子が規則的に点滅する。

「そのようなことができるのか」

 剣士が尋ねた。再び狼を取り巻く粒子が点滅する。

「では、そうして貰えるとありがたい。世話をかける」

「おい、ちょっと待て」

 魔法使いが不満も露わに割り込んだ。

「おまえ、見えるどころか話までできるのか?」

「お主には聞こえんのか」

 いとも不思議そうに尋ね返す剣士に、魔法使いが声を張り上げる。

「んな訳ねえだろうが! 砂嵐みたいな狼しか見えねえってのに」

「お主についてここまで来たと言っている」

 魔法使いは宿を出たときのあの気配を思い出した。

「ここから出してくれるそうだ」

 と剣士。

「上の一人にとり憑いて、取られた物を持ってくると」

 灰色の獣は優美とさえ言える足取りで階段を登って行った。頭から黒い天井に突っ込み、後ろ脚の先が消える。

 手足が自由なら、魔法使いは地団駄を踏んだに違いない。

「なんで俺よりおまえの方がよく見えるんだ。おまえは一つ目、俺は三つ目だぞ」

 額の目の存在は剣士も知っている。

「目の数は関係ないのではないか? ハティジェも見たと言ったのだろう」

「クロミスは俺と同じ程度にしか見えないと言っている」

 天井が開いた。右手に明かりを、左手に剣を持った男が階段を降りてくる。頭が地下室に入ったところで彼は一度燭台を置き、頭上の蓋を閉めた。息を殺して見つめる二人の若者に、男は金色の瞳で笑いかける。

「我のことはそのまま狼と呼ぶが良い。縄を切るぞ」

「……俺はいかずち

「……私は雨」

 ナイフで戒めを断ってもらいながら、二人は揃って自分の名を棒読みした。四肢を屈伸させて血の巡りを再開させる彼らに、狼は状況に相応しくないゆったりとした口調で話した。

「ここは雷がいた娼館の隣の建物でな。汝らを殺す相談をしているのは三人の男だ。お互いに名指ししないので、名は分からぬ。死体処理に、あと二、三人来るようだが」

「頭ん中は読めねえのかよ」

 最初に柘榴石の嵌めこまれた真鍮の指輪をつけ、次に首飾りの数を確認して首に掛けながら魔法使いが問う。狼が肩を竦めた。

「この男は金を掴まされて動いているだけだな。それに、我は汝の契約相手のような力押しはできぬ。したいとも思わぬがな。その代わり身体を拝借する相手には後遺症を残さぬぞ」

「何の話だ?」

 剣を刷いた剣士が尋ねた。彼は杖が行う意識走査を知らない。

「どうでもいいことだ」

 魔法使いは今度は指輪を数えていた。クロミスは大きな友人の肩に座って背を丸め、耳飾りを着けてやっている。

「これからどうする」

 と狼。

「どうするっておまえ」

 魔法使いが剣士を見る。他の指輪も全て長い指に戻っていた。

「やるこた、決まってらあな。なあ、雨」

「いかにも」

 剣士が頷いた。


 小用に立った男が戻ってきた。

「遅かったな、何をしていたんだ」

 狼が言うところの指図している男だろう、どう見ても荒事には向かない黒髪の男が、カップに酒を注ぎながら尋ねた。酔ってはいない。

「クソでもしてたんだろ」

 と、これはもう一人の男。テーブルにはカードが三人分配られていた。まだ夜半である、壁の向こうは客で溢れていた。

「今に分かる」

 男は金色の目を細めて応えた。

「きちんと二人揃っておるな」

 妙に古めかしいような、おかしな口調に男が顔を上げる。

「なんだってんだ。おまえ、変……」

 彼は仲間の背後にいる人間に気付いて絶句した。

 何か言う前に、傍らの剣に手を伸ばす。が、柄を握ったところで動きが停止した。

「動けば斬る」

 隻眼の男が無表情に言う。冴えて青みを帯びた剣先が、男の胸に突きつけられていた。

 剣士が現れたのと同時に、黒髪の男は立ち上がっていた。

「脅されたのか」

 微笑んでいる男に尋ねたが、彼の目が金色に光っているのを認め、整った容貌を強張らせた。

「乗っ取られたのさ」

 男の背後から、答えと共に魔法使いがぬっと顔を出す。黒髪の男はいつまでも驚いていなかった。魔法使いがよく知っている筈のフレーズを詠みかける。昏い気配が漂い始めた。

 魔法使いは床を蹴り、手で男の口を塞いだ。勢い余って呪文を唱えようとしていた男もろとも倒れ込む。両手足で男を押さえ込んだまま周囲を見回す彼に、狼が上着を脱いで渡した。魔法使いはそれをひったくって黒髪の男の口に押し込んだ。

「速攻だな、お見事」

 上着を渡した狼が拍手をする。

 緊迫感の欠片もなかった。


 騒ぎにならないうちに、二人は気絶させた黒髪の男を両側から支え、裏口から店を出た。酔い潰れた男が引きずられて行く様など珍しくもない。異様に目立つ風体の若者二人だったが、それでもこの時間まで飲んでいる者たちは皆、少なからず酒が回っている。視界から消えた途端に、すれ違った妙な格好の男の記憶も消えてしまうのだった。

 連れ出したはいいが、宿へ連れて行く訳にもいかない。剣士がそう言うと、魔法使いは建築途中の市庁舎を提案した。カゼールに着いてから毎晩のように夜遊びをしていた彼は、建築現場が夜間は無人になることを知っていた。

 昼間賑わっている中央広場は静まり返っていた。酒を浴びた者が暑気を避け、冷たい石畳の上で眠りこけている姿がぽつりぽつりと見られる程度である。

 市庁舎は三階の半ばまで建てられていた。出来上がりは五階建てになるのだという。アーチ構造になっている玄関を潜ると、彼らはホールを突っ切って真ん中にある大階段を登った。黒髪の男は魔法使いが担いでいる。その後を、男に憑依したままの狼がついて行った。

 二階は中規模の議会ホールと幾つかの小部屋からなっているようだった。部屋の一室に男を連れ込み、手足を縛る。場所が場所だけに、使いかけの縄がいくらでも落ちていた。

 男を壁にもたせかけた剣士が、首筋の辺りに一撃を加える。黒髪の男は呻いて目を覚ました。魔法使いが男の足を踏んで前に屈み込み、明かりをかざす。何をしでかすか分からない無気味な笑みをにたりと浮かべ、彼はのたまった。

「おはよう」

「本来ならばこのような手荒な真似は好まんのだが」

 と隻眼の男。

「先に手を出したのはそちらであるし、この際、ご容赦願いたい」

 言葉遣いは申し分ないが本当にご容赦願っているのかどうかも怪しい口調である。それ以上に黒髪の男を恐れさせたのは、その背後で成り行きを見守っている男だった。彼の手下である筈の男は、金色の瞳で興味深そうに三人を眺めている。

「言っとくがな」

 何が楽しいのか、魔法使いは相変わらずにやにやと笑いながら、

「おまえがさっき即死呪文を詠おうとしたのは分かってるんだ。次また唱えようとしてみろ。その前に、てめえの可愛いお口にこいつをぶちこんでやる」

 短い角材を手でもてあそんで見せた。口の端を裂かない限りとても入りそうにない太さのものである。

 気が進まないまま、剣士が口火を切った。

「まず、名前を伺おう」

 男は髪と同色の瞳で剣士を見、その後ろの男を見、最後に魔法使いを見てから口を開いた。

「ガシュー・サッケッティ」

「ふうん」

 魔法使いが頷く。空色の瞳はしばらくの間、瞬きもせずに男を凝視していたが、彼は男の口を封じる角材をナイフに持ち替えた。

「やるぜ」

 依然としてへらへら笑いながら魔法使いは宣言する。剣士が短く尋ねた。

「どこを」

「そうさなあ……」

 魔法使いが考え込む。

「目玉ってのはどうだ。おまえ、ちょうど一個しかねえだろ。代わりをやるよ」

 剣士は翠の隻眼で男を見つめたまま頷いた。

「色は違うが、まあ良かろう」

 常軌を逸した魔法使いの笑みが一層大きくなる。自分とは異なる端整さを備えた、麗しい貌へ切っ先を近付けた。

「悲鳴なんざ、そうそう外まで届かねえからな」

 男が魔法使いの手の下で、くぐもった叫びをあげる。魔法使いは愛想良く話しかけた。

「どうした? そんなに喜ばれると俺も嬉しいぞ」

 この男の場合、必ずしも演技しているとは言い切れないところが怖ろしい。脅される方も敏感にそれを感じ取り、恐怖を募らせる。

 魔法使いの背後で、剣士が狼と視線を交わした。この手の事柄が嫌いな彼ははやくもうんざりしていた。彼の右目は拷問により失われたからでもある。

 叫んでいる男がその様子までもを見て取り、必死に首を振った。男には剣士が、面倒くさいのでさっさと殺してしまえばいいのに、とでも考えているように思えたのである。

「なんだよ、言うのか」

 魔法使いが残念そうに手を離す。男は渋々名乗った。

「ウォーギス・セルカンビ」

 予期していたような、していなかったような名である。剣士は頷いた。

「やはり商人ではなかったのだな」

「あれだけの地位になればデイも、陰で汚い仕事をする手が必要になるさ」

 開き直りともとれる言葉だった。一旦言ってしまったので、気が楽になったのかもしれない。

 剣士が首をひねった。

「まさかお主の一存でこんなことをしているとも思えぬが、私はデイの館には二、三、尋ねに行っただけだ」

「俺だって反対したね」

 ウォーギスは忌々しげに、

「あんたらが目障りだったら、適当な罪をおっ被せて市外追放にすればいいと言ったんだ」

「俺も納得できねえな」

 魔法使いが角材をナイフで削りながら、

「怪物の件に首を突っ込んだのは雨だ。俺はこいつが事情を聞きに行った先で喧嘩を起こしただけだぜ」

「実際にそうでも、デイがどう考えるかだ」

 ウォーギスが剣士を見た。

「あの人は、そっちの騎士様を異様に気にしていたからな。あんたがデイの申し出を断った時点で、殺すと決めたそうだ。後腐れがないように、ついでに連れも消すことにした」

 剣士は心中で自問した。

 私が何をした?

「何だそりゃあ」

 さすがに魔法使いも呆れて、

「ガキじゃあるまいし、こいつが大魔神にでも見えたってのかよ。こう見えても俺より余程お人好しなんだぜ」

「デイは人物眼が鋭いんだ。敵対したら間違いなく自分を危機に陥れる人間だと思ったに違いない」

 言ってから、ウォーギスの整った容貌が白くなった。

 三人の男が、人形のような目で彼を凝視している。

 不意に魔法使いが笑みを浮かべた。

「そうだったのか」

 彼は言った。ゆっくりとした聞こえやすい口調で確認する。

「ってことは、雨に敵対するような覚えが、デイにはあるんだな」

「いや……」

 魔法使いが顎を掴んでウォーギスを上向かせる。ナイフの刃先をちらつかせた。

「そうか。目玉を雨に寄付してやってくれるか」

 しかしウォーギスは予想外の反応を見せた。

「目玉でも指でも持って行け」

 白を通り越した青い顔で吐き出す。それきり目も口も閉ざした男に業を煮やし、魔法使いはウォーギスを殴りつけた。足を踏まれているので吹き飛ばされはしなかったが、男は後ろへ引っくり返った。

「いい加減にしろ」

 苛々とした面持ちで、

「これでも俺としちゃ、忍耐強くお相手してる方なんだ。酒蔵からこっち野郎の相手ばかりさせられてよ。なんで俺が男なんか担いで来なきゃいけねえんだ。いつまでもむさい相手にお喋りしたくねえんだよ」

 まくしたてて、彼は酒場から持ち出した酒壺を呷った。

 剣士にはそうも思えない。今や彼は、本当にこの尋問を切り上げたい気持ちしかなかったので、半ば上の空でぼそっと口を滑らせた。

「以前はよく私の寝込みを襲ったではないか」

 ぶっ、と魔法使いが酒を噴き出した。

 口を拭いながら、茫然とした顔で剣士を振り返る。

 狼も金色の瞳を真ん丸に見開き、両者を見つめていた。

 ウォーギスに至っては目も口も開いたまま、鼻血も流したままで間抜け面を晒している。

 部屋の空気が固まっていた。

 予想だにしなかった発言に対する反応を誰も用意していなかったかのようである。

「……な」

 硬直した空気をぶち壊したのは、やはり魔法使いだった。

「何のことだ、そりゃ!」

 彼は絶叫した。

「一体、いつ、俺がんなことしたっ? 大体俺にそんな趣味……」

 語尾が弱々しくなる。

「趣……味……」

 魔法使いはちらりとウォーギスを見下ろした。線の細い貌には魔法使いと同じぐらいの驚愕と、さらに強い嫌悪感が見え隠れしている。

 魔法使いの精悍な顔がだらしなく緩んだ。彼はいかにも好色な視線で、捕えた男を上から下まで舐めるように改めて眺めた。

「あったっけなあ……」

「ひ」

 ウォーギスが両手を縛られたまま後ずさった。予想通りの反応に、魔法使いがほくそ笑む。

「そういやおまえ、よく見りゃ可愛い面してんじゃねえか。どれ」

 ウォーギスの上衣の裾をまくり上げ、鼻血を拭い取る。

「まあ、俺程じゃねえが二枚目には違いない。おい」

 魔法使いは剣士に、

「もうおまえ、こんな面倒にはうんざりだろう」

「全く」

 剣士が心底応える。返事を聞いた魔法使いは這って逃げようとしているウォーギスを捕まえると、両手で顔を挟んで振り向かせた。舌なめずりせんばかりに男を見つめたまま、彼はこう言った。

「雨。狼。おまえら出てって構わんぜ。あとは俺に任せろ。なに、殺しはしねえよ」

 わざと下卑た含み笑いを漏らす。

「心配すんな。最初は痛いがすぐ慣れる」

「頼んだぞ」

 剣士はそそくさと扉のない出入り口を潜った。後を振り返りもしない。狼は一、二度振り返ったが、魔法使いに促されて剣士に続いた。

「よし」

 嬉々として魔法使いは黒衣を脱ぎ始めた。

「これで邪魔する奴はいねえ」

 ウォーギスはというと、刃物に対する恐れとこの種の行為に対する恐れは、彼の中では全く別のものであるらしい。顔を恐怖と嫌悪に引き攣らせて自分も部屋の外へ逃げようとしている。

「おいおい、どこへ行くんだよ」

 魔法使いはげらげら笑いながら縄を掴んで男を引き寄せた。

「これからがいい所だろうが」

 逞しい上半身がウォーギスは抱きすくめる。ひ、と彼は喉から情けない悲鳴を漏らした。

「そ、それだけは勘弁してくれ!」

「聞こえねえなあ」

「しょ、召喚書だっ!」

 男は迫る若者から出来る限り顔を遠ざけて叫んだ。

「知らんな」

 魔法使いが鼻先で笑い飛ばす。

「俺は最初から、怪物になんぞ興味はねえんだ」

 服の中に手を突っ込んで男の躰をまさぐった。

「わあっ!」

 全身に鳥肌をたてたウォーギスが、先の魔法使いに勝るとも劣らぬ叫びを発する。

「やめてくれっ! 召喚書っ! べリスの召喚書をあのガキが持って逃げたんだっ!」

 魔法使いの全身を、緊張がよぎる。

「べリスだと?」

 彼はウォーギスを揺さぶった。

「誰が持って逃げたって?」

「……」

 我に返ったウォーギスが再び貝になる。

「畜生、誰だっつってんだよ」

 怒りに任せて手を上げた魔法使いは、思い直して男の服を裂き始めた。相手は違えど、この二、三日同じことを繰り返しているような気がしないでもない。

「さっきのが芝居だと思ったら大間違いだ、ウォーギス」

 魔法使いはもう笑っていなかった。

「俺に突っ込まれたくなかったら、さっさと言え。誰だ、召喚書を持ち逃げしたのは」

「ア……」

 手をウォーギスのズボンにかけ、引き摺り下ろそうとする。

「アルベルトだっ!」

 一言叫んで男は失神した。




13.


「誰だ、そいつ」

 魔法使いは雨や狼と共に市庁舎の階段を降りていた。上着に腕を通しながら尋ねる。

「魔術師ギルドに籍を置いている」

 剣士が、

「ナウシズ殿が可愛がっているらしい。ギルドの長によれば、消魔術師としてはもうここで学ぶこともないので、サイヴァルへ出すと」

「あの女の弟子ならそうだろうよ」

 魔法使いはナウシズの鮮やかな手並みを思い返した。

「そういうことか。あの婆はガキの肉親だ。そのアルベルトってガキ、大方大学の単位も取得した秀才なんだろ。安宿を経営するだけの親にそんな学費は払えん。おまえの話によれば市から奨学金を分捕るのも難しいらしいし、金を出すって言ったところからは遠慮なく頂いたんだろう」

「援助したのがベネット・デイか」

「そのデイが、何の拍子でかは知らんが召喚書を手に入れた。専門外とはいえ、アルベルトは魔術師だ。野次馬根性でガキに召喚させてみようぐらいは考えたんじゃねえの」

「そうかもしれん」

 剣士が頷く。

「デイ会員はナウシズ殿にわざわざ会ったぐらい好奇心が強いようだ」

「ナウシズに?」

 魔法使いはおうむ返しに言って、唇の端を歪めた。

「はっ。良心の呵責ってやつだな」

「どういう意味だ」

 二人は外に出た。月のない夜道を素面の男たちが歩いて行く。色気もくそもねえ、と魔法使いは呟いてから、

「べリスっていやあ、下級魔神の中じゃ相当手強い奴だ。あの女も呼び出すにゃ二の足踏んだんだろうよ。ついでにデイがくだらねえことでも言いだしやがったのかもしれん」

「くだらない……?」

「相変わらず鈍いぞ、おまえ」

 魔法使いは隣を歩く男を呆れて見やった。

「あの女を気に入っているのはおまえだけじゃねえ。おまえの話によりゃアルベルトってガキも相当イカれてるようだし、俺があの女と話してるときに護衛気取りで割り込んできた妙な奴もいた。デイが何の関心も示さなかったとは限らねえだろ」

 剣士はナウシズの曖昧な返事を思い出した。

 ええ、まあ。

「……」

「まあ、とにかくナウシズに蹴られたんで、デイは格下げしてアルベルトに任せたんだ。そいつもパトロンの言葉には逆らえなかった」

「それでナウシズ殿が責任を感じたのか」

「事が表に出ねえうちに、やめさせようとしてたんだろ」

「それが何故、召喚書の持ち逃げになるのだ」

 剣士には理解できない。

「アルベルトはそのような無分別者には見えなかったし、あれだけ敬愛するナウシズ殿に言い聞かせられれば……」

「ナウシズが最近になってやっと知ったのかもしれん」

 魔法使いが遮った。

「それにな。俺は知識欲の真っただ中にいたから分かるんだが」

 彼は束の間沈黙した。

「……勉強馬鹿ってのは、新しく発見したものや手に入れたものがどれだけ害になるのか分かっていても、知識として取り入れてしまう。いつか役に立つかもしれないなんてのは口実だ。見馴れない『知』であればとにかく我がものにしたい。自分が興味のある分野に限られちゃいるがな。人より多くを知れば優位に立てるのは間違いじゃないが、連中の場合、それが信念を通り越して妄執の域にまで達してやがる。学徒だろうが魔術師だろうが関係ないぜ。神官は信仰を最優先するから、ちょいと違うがな」

「そんなものなのか」

 剣士としてはそう相槌を打つしかない。常にそうである。たまに平静な声と面持ちで魔法使いがまともな話をすれば、剣士はそうかもしれないと納得してしまう。

「多分な」

 魔法使いは瞳の色と同じぐらいに静まり返っていた。時折この青年はこのような一面を垣間見せる。雲一筋ない、深みがあるのかないのか、果てがあるのかないのか全く図り知れない、得体のしれない、それでいて静謐な青を思い起こさせる。ひょっとしたら青という色を当て嵌めるのは間違っているのかもしれない。ただ、こんなときの魔法使いを前にした剣士の心中に思い浮かぶのは、青という一色だった。

「ところで、ベリスとは何者だ?」

 意識を切り替えて剣士が問う。

「おや」

 魔法使いが意地の悪い笑みを取り戻した。

「読書家の騎士様でも知らないことがあるのか」

「朱の兵士」

 二人の背後で男が呟いた。

「そうだ」

 魔法使いが頷く。

「狼は一度見てんだよな」

「二度」

 金の瞳で狼は応える。

「全身を赤い甲冑で固めた兵士の姿をしている。馬も赤い」

「過去と未来を見通すことができると言われている魔神だ。南大陸の東方神話に登場する」

 魔法使いが付け加えた。

 東方といっても、海峡のあちら側の東である。地続きになっているトゥールス山脈の向こうのサイヴァルでは剣士の使っている言葉もまだ通じるが、南大陸の東方地域では言語や生活形態が、彼の慣れ親しんだものとは全く異なるという。

「確か、呼び出す条件の中に新月が入るんだ。錬金術の秘法にも通じていると言われてんだが、血が大好きな野蛮人さ……人じゃねえけどよ。おまけに口が上手い。ガキなんざひとたまりもねえぜ」

「まるで誰かのようだな」

 後ろから狼が茶々を入れる。

「なんだと」

 魔法使いは狼に憑依された男の胸ぐらを掴んで揺さぶった。

「てめえ、さっさとそこから出やがれ。ぶっ飛ばしてやる」

「出たらぶっ飛ばせぬぞ」

 揶揄するように狼が応えた。

「なら、そいつもろとも全身の骨をへし折ってやる」

「汝も分からぬ男だ」

 狼は悠然とした態度を崩さない。

「骨が折れるのはこの男だけだと言うのに」

「二人ともいい加減にしないか」

 子どものような喧嘩を剣士が仲裁した。

「ナウシズ殿は、アルベルトの居場所を知っているのだろうか」

「いや」

 魔法使いは男の襟から手を離して首を横に振った。

「俺があの家にいた時点じゃ、まだ知らなかった。婆が駆け込んできて青くなったところだったからな。とにかく新月まではまだ三日、いや、二日ある。ベリスを出したくねえんなら、それまでにガキを探して本を取り上げるしかねえ」

「ああ」

 剣士も同意見だった。役所の調書によれば、一件ごとの被害者数が、回を重ねる度に増加しているのだ。アルベルトがまがりなりにもベリスに対抗する力を持っているのであれば、そのような結果にはならない。毎回かろうじて送り返しているものの、実際はベリスの影響力が徐々にアルベルトを圧迫しているのが実情だろう。ベリスが野放しになったらどうなるのか、剣士には想像もつかなかった。

「それでは意味がない」

 二人は金色の目をした男を振り返った。

「何故だ」

 剣士が問う。

「その怪物の出現を未然に防げれば、それで良いのではないか?」

 男は頷かなかった。

「汝ら、召喚書を取り上げて焼いてしまえばそれで終わり、と思うているのか」

「ははあ」

 魔法使いが狼の意図を察して軽く笑った。向き直って歩みを再開する。

「おまえはきっと俺たちの何百倍も生きているだろうからな。召喚書を葬った後、何千年も経ってから、また誰かが怪物を呼び出す方法を見つけるかもしれん、と言いたい訳だ。それに、召喚書はまだ他にもあるかもしれん。ひょっとしたら、そっくりそのまま書き写した奴がいるかもしれんしな」

「では、どうすれば」

 剣士は尋ねかけて沈黙した。そして平坦な声で自答した。

「ベリスが呼び出されるのを待って倒せと言うのか」

「俺はそんな話には乗らねえぞ」

 魔法使いが、

「人間、よほど長生きをしても百年がいいとこだろうが。俺は、自分が生きてる間だけこの世が続いてりゃいいんだ。ベリスぐらいの格になれば、写本だってまずはできやしねえ」

 写そうとすると、その対象に敵対するものが異界から、写し手に何らかの力を及ぼす。ペンがなくなったり、途中まで書き写したものが突然燃えたりする。呼び出すものの存在が大きいほど、その力も強い。書き手が突然死することさえある。

「そう考えるのも結構だが」

 狼は立ち止まり、しばらく虚空を見つめてから再び歩き出した。

「雷。汝は、己がこれから何千年も生き続けるという可能性がないと言い切れるのか」

 またも剣士には理解できない話が出てきた。おとぎ話ならいざ知らず、実際に何千年も生きている人間がいる筈もない。

 しかし狼の言葉を聞いたもう一人の青年は、紋様の描かれた頬をびくりと動かした。

「俺は、もう、学会とは、縁を、切ったんだよ」

 食いしばった歯の間から、言葉を押し出す。

「万が一、いいか、万が一だぜ。馬鹿みてえに長生きする羽目になったって、そうなりゃ俺はもう俺じゃないんだ。どちらにしろ関係ねえんだよ」

「……雨」

 狼が呼びかける。

「汝はそのように長く生きることはないだろうが、これから世に生まれ出る子孫のために、災いを取り除いておこうと考えぬか」

「馬鹿野郎」

 魔法使いが狼を罵る。

「今のこいつが、そんなこと思うもんか」

「生憎だが狼」

 剣士は無表情である。

「妻子は死んだ。子孫はもとより、自分が次にどこかへ定住するかどうかさえ、私には想像できん」

「……」

 狼は沈黙した。そして、しばらくしてから口を開いた。

「済まぬ、雨」

「気にするな」

「そうだ」

 魔法使いが呻いた。ぴたりと立ち止まる。

「忘れてた」

 狼を睨む。

「ついて来るな、おまえ」

 男に憑依した狼も立ち止まった。

「怒っておるのか」

「そうじゃねえ。そもそもセルブとかいうあの主人は、娘を助けて欲しいがために俺らみたいな胡散くさいのを泊めてるんだろうが。我が子に危険がないとなりゃ、即お払い箱だ」

「他の宿に移るより仕方があるまい」

 剣士が応える。

「……」

 魔法使いが愛想笑いを連れに向けた。微かな星明かりの下だがそれでも伝わってくるほどの愛想の良さである。やけに明るい笑顔のその下に、剣士は不吉なものを感じ取った。言われたくない答えを、彼は先取りした。

「また賭けに使ったのだな」

「あははははは」

 虚ろな笑い声が夜道に響く。博打にいささかも興味が持てない剣士は、一つしかない目を閉じた。抑揚のない声で、

「それで」

 これも聞きたくないが、聞いておかねばならない。

「幾らすったのだ」

「全部」

 剣士はため息をついた。これまでにも何度かあったことだ。足早に歩き出す。

「仕方がない。お主の分も私が払う」

「あのな」

「なんだ」

 もう振り向きもせずに剣士が応える。その背に向かって魔法使いが、依然としてやけに陽気な口振りで話しかけた。

「『全部』使っちまったんだよ」

「だから私が……」

 言いかけた剣士が、ぎょっとして振り向いた。

「まさかお主」

「そう、全、部」

 魔法使いが駄目を押す。

「自分の金はもうなくなっちまってたからな。おまえ、かさばるっつって、とりあえず要る分しか持ち歩いてなかっただろ、カゼールに来てから」

「残りはセルブに預けてある」

「んなこと知ってら」

 魔法使いがにんまりと笑った。

「ガキが俺に懐いてんだよな。で、後で返そうと思って、そいつ元手にして大穴狙いで一発勝負に出たんだけどさ、結局借りた分も全部」

 両の手の平を上へ向ける。

「なくなっちまった」

 僅かな遠慮も申し訳なさも、その仕種から感じ取れない。

「……」

 剣士は何も言わずに魔法使いを凝視していた。

 相変わらず無表情に。

「だからな、あそこを引き払う訳にゃいかねえんだよ。娘を救ったって話になりゃ、宿賃ぐらいは大目に見てくれ……」

 傍若無人と厚顔無恥を極める男が言葉を途切らせた。げっ、と呻き声をあげる。

 隻眼の男は剣を抜き放っていた。僅かに反った刀身が冴えわたり、夜を映し出している。

 本気だった。

 魔法使いの百倍の強度を誇る剣士の堪忍袋の緒も、ついにぷっつりと切れたようだった。魔法使いは愛想笑いを浮かべたまま、話し合いを試みる。

「ちょ、落ち着け、雨殿?」

 剣士は応えない。例によって表情のないまま無言で構える。

 魔法を使えない魔法使いは笑顔で後ずさった。


「では……?」

「ああ」

 魔法使いは投げやりに頷いた。スプーンで朝食の粥をかき混ぜながら、

「てめえのガキが襲われる心配ってのは、他の奴らと同じ程度でしかないってことだな」

「……」

「信用しねえんなら、それでいいけどよ」

 と疲れた顔で彼は述べた。疲労の原因は徹夜だけではない。杖の嫌がらせが減ったにも関わらずこのような状態になるとは魔法使い自身予想していなかった。

 剣士は黙ってスープを飲んでいる。宿の主人が眺めているのに気付くと視線を上げ、ひょいと片方の眉を持ち上げた。

「信用するしかないでしょう」

 怯んだセルブが答える。

 鮮やかな翠がそこにはなかった。

 金色の隻眼が、魔法使いにも向けられる。

「ここに娘を連れて来るが良い」

 面白そうに剣士が口を開いた。声は本人のものだが、よりゆっくりとした抑揚のある口調は、長い時を生きた者だけが持つ響きを伴っていた。

「束の間この男から出て娘に会おうではないか。もしかしたらこの男のように、新月の晩以外でも我の姿を見ることができるやもしれぬ。なに、案ずることはない。こうして身体を借りる以外、人に対しては噛みつきさえできぬ」

「本当でしょうな」

 主人は懸念を拭いきれない。

 すっと隻眼が、金色から翠に戻る。

「出たぜ」

 外から子どもの笑い声が飛び込んだ。主人が窓に駆け寄ると、眼下では幼い少女が見えない何かに向かって話しかけている。手を出しては怪訝な顔をする動作を繰り返していた。

「……なんてことだ」

 剣士が後ろから覗き込んだ。解説を加える。

「触れないのが不思議らしい」

「ハティジェ!」

 少女が父親を見上げた。

「そこに何がいる?」

 屈託のない、甲高い返事がかえされる。

「いぬ!」

「そうだろうよ」

 どうでも良さそうに魔法使いが同意する。

「あの娘にとっちゃ、目に見えるもんが全部ぬいぐるみなんだ。いいよな、ガキってのは幸せで」

 宿の主人はそれどころではない。

「ハティジェ、前に見た犬かい?」

「うん。おっきな、はいいろのいぬがいるよ、とうさま。しゃべるの」

「呼び戻してくれ」

 主人が唸った。

「事情を知らない人に見られたら狂人扱いされる」

 主人の言葉が聞こえたらしい。狼は立ち上がって宿の中へ入った。少女がその後を追う。

 狼は部屋へ駆け戻ってくると、勢いもそのままに頭から剣士に突っ込んだ。もちろん、魔法使いと宿の主人にその様子は見えない。瞳の色が変わったのを見て、魔法使いが眉間に皺を寄せた。

「出ろ」

「雨に通訳させるより、この方が手っ取り早いであろう。幸い相性も驚くほど良いし、この男も嫌がっておらん。無我も大切だ、雷よ。主人も、もう分かっておるとは思うが外見だけで人を判断してはならんぞ」

「おっしゃる通りで」

 セルブが頭を下げる。

「聞けば、ベリスとは恐ろしい魔神だというじゃありませんか。そんなものが好き勝手にうろつくようになれば、このカゼールもどうなるか分かったもんじゃない。もし宜しければ、事件が解決するまでここへご滞在くださいませ。無論」

 意味ありげな笑みを彼は魔法使いに向ける。

「宿泊代をいただこうとは思っておりませんで」

「……へ?」

 拍子抜けして魔法使いが聞き返す。

「知ってたのか」

「知ってるもなにも、ハティジェが嬉しそうに私に話しましたもので。いかずち様は娘に、お連れ様に言わないようにとおっしゃっただけだそうですから」

 魔法使いはテーブルに突っ伏した。

 そういえば、誰にも言うなとは言わなかった覚えがある。彼はのろのろと身を起こした。

「それがどうして、俺みたいなのを置いとこうと思った」

「それはもう」

 宿屋の主人はしたり顔で

「お役所でさえどうにもできない事件を解決なさった方々がここにご滞在とあらば、宿の名声も上がるというものです」

「あっそう」

 怒る気も起きない。魔法使いはワインをカップへ注ぎ足した。

「ところで雷様」

「馴れ馴れしいぞ、てめえ」

「申し訳ございません。さしあたって娘に危険がないと分かりましたものですから、どうも口が」

 元は陽気な男らしい。魔法使いは唸った。黙れと言ってぶん殴る気力も残っていない。

「で、なんだよ」

「その」

 宿の主人が言い難そうに、

「雷様は雨様の路銀を無断で拝借されたのでしょう」

「主人よ」

 剣士が口を開いた。瞳はまだ金色である。

「心配せずとも良い」

 常の剣士よりもよほど豊かな笑みと共に、

「己の監督不行き届きを気に病んでおるようだが、我はこの男が何を考えているのか大方分かる。この者、汝のことはいささかも怒っておらぬぞ。それよりも、幼子を言いくるめて人の金を持ち出した連れに対して、腹のわたが煮えくり返っておる」

「うへえ」

 胸を撫で下ろす主人の横で魔法使いが呻く。

「まだ怒ってんのかよ」

「相当寛大な男だが、汝、この者が大変な生真面目だということを忘れておったようだな。過去の怒りも降り積もっておるし、この件を片付けたらさっさと別れるべきかと考えておるようだ」

 一瞬、皿をかき回す魔法使いの手が止まった。が、すぐに動き出す。

「馬鹿言え」

 そう言う男の鼻の頭に浅い切り傷がついている。黒衣もあちらこちらに切れ目が入り、部位によってはぶら下がっているような状態だ。魔法使いは最初の一撃を紙一重で躱した後、三刻にも及んで青い刃から逃げ回る羽目になった。説得を試みながら剣士から長時間逃げ回るなどという芸当は、この男でなければできなかっただろう。

 しばらくの間狼は面白がってその様子を見ていたが、もうその位で許してやったらどうだという彼(狼は雄らしい)の言葉に耳も貸さない剣士に、さすがに不安を覚えた。狩り狂った男が止めと思われる一撃を振り上げたところで、狼は酒場で乗っ取った男から飛び出した。代わりに飛び込んだ場所はしかし、二人の間ではなかった。

 狼は剣士を気に入ってしまったらしく、出て来ようとしない。

「こんなお人好しが一人でほっつき回ってみろ。あっという間に野垂れ死にだ」

「これはまた妙な」

 剣士、いや、狼が人の悪い笑みを浮かべた。

「汝、この男の死を待っておるのだろう」

「……」

 魔法使いが額に青筋を立てた。と思う間もない。粥の入った皿を剣士へ投げつけた。

 剣士に憑依した狼がひょいと首を曲げてそれを躱す。派手な音が部屋に響き、褐色の抽象画が壁に描かれた。

 宿の主人はため息をついた。

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