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一振りの剣にまつわる挿話  作者: 井出有紀
6/14

9、10、11

9.


 ベネット・デイ参議会会員の家は当然のことながら、先に訪れた二人の家とは大幅に様相が異なっていた。

 運河に沿って石造りの建物が並んでいる。一方は通りに面しており、反対側は川に面している。川側の玄関はそのまま船着き場になっていて、積み荷の揚げ降ろしができるようになっている。建物は商館や荷を保管する倉庫である。デイの屋敷はその中でも一際目立つ、幾棟からも構成された広いものだった。

 市参事会会員といってもそれだけで食うには事欠く肩書である。経済的に余裕がなければ政治に関わることなどできない。デイは大規模貿易商である。何人もの取引人を雇い、彼らに商品をつけて各地へ派遣する。香辛料、貴金属、異国の工芸品、絹糸に織物など、この辺りでは入手し辛い高級品と称されるものを複数手がける様は総合商社さながらであった。

 門前払いを覚悟していた剣士だったが、主人に取り次ぎ戻ってきた召し使いの言葉は予想外のものだった。

「お会いになるそうです。どうぞこちらへ」

 階段を上がり、中庭を見下ろしながら廊下の代わりであるホールを突っ切ると、一つの扉の前で召し使いは止まった。

「お連れいたしました」

「どうぞ」

 よく通る声で、中からいらえがあった。

 書斎だった。執務室も兼ねているらしい。至る所に細い紐で綴じられた帳簿が積み重ね上げられているのを見て、剣士は危うく眩暈を起こしかけた。先日、嫌という程調べ物をしたばかりである。母国でよく読書はしたが、好きで異国の知識を仕入れるのと、単調な作業を強制的にやらされるのとは全く違う。できれば目にしたくない光景だった。

「ここ数日の間に荷揚げが続きまして、帳簿の作成に追われているのです」

 帳簿の山の向こうから声がした。

「新しく考案された複式簿記に記録方式を切り替えたばかりなのですが、折り悪く会計人が新人に交替しましてな。どうも信用できず、こうして私が最終点検をする羽目に陥っております。誠に申し訳ありませんが、このような場所でお許しください」

「御多忙の折、仕事の邪魔をしたようでこちらこそ済まぬが」

 帳簿の山の上から男が顔を出した。立ち上がったらしい。初老の域に入ろうかという男の上背は剣士程もあった。ふさふさとした銀髪も生え際を後退させることもなく頭を覆っている。

 男は来客の異相を認めると一瞬目を丸くしたが、商人特有の如才なさで席を勧めた。愛想は良いが黒い瞳は笑っていない。魔術師ギルドの家に続いてここでも剣士は値踏みの通過儀礼を受けた。

「雨と申す」

「セルブの宿に泊まっておられる方ですな」

 男は頷き、帳簿の山を回って剣士の向かい側の椅子へ腰を降ろした。背筋もしゃんと伸びている。しばしば金持ちを悩ませる贅肉とは縁がないらしく、やり手の貿易商というよりは、老年にさしかかった某国の貴族といった趣であった。剣士と違って胡散くささの欠片もない。名士と呼ばれるのも頷ける姿形の紳士である。

「貴方の噂はここへも流れてきています。宿屋の娘を助けようとしておられる。私がベネット・デイです」

 笑みは営業用のものだった。やはり貴族ではない。

「ここへ参ったのは、少々尋ねたい儀があった故」

「私でお答えできることならば答えましょう。新月の怪物の件では参事会でも手を焼いております。なにぶん事件が事件だけに捜査も捗りません。他の会員は分かりかねますが、私としては解決してくれるならば誰ともこだわらない」

「ウォーギス殿はおられるか」

 黒い瞳の輝きがすっと消えた。元々人の心を察するのに疎い剣士である。こうなるともうお手上げだった。相手が何を考えているのかさっぱり分からない。

「生憎今は。午後には戻ると思いますが、お待ちになりますか」

「いや」

 剣士は小さく首を振った。

「改めて参ろう。彼が魔術に携わっているという噂を聞いたのだが」

 デイは笑みを浮かべたままである。

「失礼ですが、そのお話はどちらから?」

「誰とも言いかねる」

 剣士も無表情で応じた。

「酒場で耳にした噂に過ぎぬので」

「残念ながら、このように手広く仕事をしている以上、商売敵を作るのは避けられません」

 デイがゆっくりと膝の上で手を組んだ。間近で見る貿易商が本当はまだかなり若いことに剣士は気付いた。顔に老班はなく皺も少ない。老年と呼ばれるためには、あと十年は生きねばならないだろう。髪の色とゆったりした身振りのために、実年齢よりも老けて見えるのだ。

「ウォーギスは二年前に、経営補佐官として私が雇い入れました」

「その前は?」

「同じようなことを海峡向かい――アラクでやっておったようです。来たときには、仕事についてはよく知っておりましたからな」

「私の記憶に間違いがなければ」

 と剣士。

「貴殿のような仕事に携わる者は特に、人を雇うときには慎重だと聞いた。以前彼を雇っていた所から、推薦状などをお受け取りにならなかったのか?」

 貿易商は微笑んだままである。が、黒い瞳は射るように若者を見つめていた。

「間違っていたらとんだ失礼だが、貴族だった方にしてはよくご存じでいらっしゃる」

 デイでなくてもそれ位は推察できる。いくらどこの馬の骨とも知れないなりをしていようと、剣士から固い言葉遣いだけは一向に抜けないのだ。致し方がない。

「大した地位にもいなければ、少しは世間も見えよう」

 口ではそう答えたが、それでも魔法使いに言わせれば、彼は大層な世間知らずらしい。

「この仕事は存外人の出入りが激しいのです。多少でも野心を持っていれば、大抵の若者は仕事を覚えるとすぐに独立したいと言い出しましてな。ウォーギスが来たときもそう言って何人か出て行った後でした。人手が足りませんでしたので、身元が不確かなままでもやむなく雇いました。使ってみればまあまあ仕事をこなしましたので、結局はそのままにしてあります」

 剣士は頷いた。とりあえず頷いておくしかない。

「デイ殿は私的に学生の援助をしておられると、カゼールでは評判だが」

「美談だとお思いですか、雨殿は」

 相変わらず笑みを貼り付けたまま、デイは問いかけた。隻眼の若者はやや首を傾げる。

「貴殿のように自分の仕事の他、行政も任された者にとっては、確かに有能な人物が自分の下に集まった方が良いだろうとは思うが」

「そうです。思った通り、なかなか頭の切れるお方ですな」

 本当にそうだろうか、と剣士は思った。自分でもそう飛び抜けて頭の悪い方ではないと思っていたのだが、口汚い彼の連れがさんざん馬鹿だの阿呆だの間抜けだのクソ正直だのお人好しだの鈍いだのと罵るので、実はそうなのかもしれないと思いかけていたのだ。

「私は慈善家ではありません」

 剣士の心中を知ってか知らずか、デイは続けた。

「奨学制度を利用したいと思っている学生は大勢いますが、実際に援助を受けられる人数は毎年決まっています。それもごく僅かしかいません。それに、奨学制度に漏れた者が必ずしも通った者に比べて学力が劣るとも限りません。そのような者の面倒を見てやると、必ず見返りはあるものです。彼らは自分にできる方法で、私に恩を返してくれます。たとえそれが小さなものでも、予想外に助かるものなのですよ」

 若者に投資しているのです、とデイは締め括った。剣士が尋ねる。

「例えば、魔術によって」

「貴方はどうもそちらへ持って行きたがる」

 デイの穏やかな笑みは崩れない。何か思ったとしても、それが外に表れることはない。ポーカーフェイスでは剣士の上を行くだろう。もっとも剣士が無表情なのは意識してのことではないのだが。

「怪物は召喚されたものだと思っていらっしゃるようですな。しかし余所ではいざ知らず、ここでは魔術は異端の学問だ。私が援助した者の中に、神殿務めに就いた者はおりますが、魔術を学んでいるものはおりません」

「森の民に会われたと聞いた」

 デイの顔から一瞬笑みが消えた。

「ご本人がそう言われましたか」

 剣士は再び頷いた。デイは剣士から視線を外さない。探るような色が濃くなっている。

「彼女……ナウシズは何と?」

「特には」

「そうでしょう」

 デイも頷く。

「一度森の民に会いたいと思っていたのです。なんとも野次馬的かつ不躾な願いでしたが、彼女は快く承知してくださいました。人間と友好を深めたいという森の民にしては変わり種のご婦人ですからな。面白い話を聞かせてくださいましたよ。彼女らは世界に適応するため、二種に分化している最中だということです」

 デイが種の変化について講義するのをひとしきり聞いた後、剣士は最後の問いを発した。

「デイ殿は、怪物の正体をどう考えておられる」

「学会でしょうな」

 彼は即答した。

「魔術について私はよく知りませんが、それでも余所の土地に比べて大層水準が低いそうですから」

「では何故、海辺の遺跡へ調べの者をお遣りにならない?」

 ベネット・デイは残念そうに笑った。

「幸か不幸か、参議会会員一人では自警団を動かせないのですよ」

 礼を述べて腰を上げた剣士を、デイが呼び止めた。

「下男が玄関まで案内いたします。ウォーギスは後ほど宿に寄越しましょう……雨殿」

 剣士は貿易商を見下ろした。

「何か」

「これから先、どこへ向かわれるのですか?」

 翠の隻眼が瞬く。

「と言うと」

「カゼールを発った後です」

 剣士は理解に苦しんだ。何故そのようなことを訊くのか。

「特に行き先も定めていないが」

「何の故あって方々を彷徨っているのかお尋ねはしませんが」

 と、デイ。

「いつまでもそのような暮らしを続ける訳にも参りますまい。宜しければ、しばらくここに滞在されては如何ですか。その間の費用は全て私が負担いたします」

 デイの意図を悟ると、剣士は苦笑を漏らした。どうやら彼はデイの眼鏡に適ったらしい。

「御厚意にはいたみいるが」

 とある事情により故郷を出ざるを得なかった騎士崩れの傭兵、などと言えば使い途など知れたものである。

「お気が変わったらいついらっしゃっても構いませんよ」

 デイがそう言ったところで召し使いが現れた。


 帰り道、剣士は見覚えのある顔とすれ違った。振り向いて背の曲がった後姿を見送る。すぐに思い出した。ナウシズの元に訪れた安宿の老婆である。

 束の間思案し、彼は踝を返した。尾行するには自分は目立ち過ぎるかと瞬間留まったが、思い直す。老婆本人に気付かれなければそれで良い。

 老婆は足早に剣士の来た道程を逆に辿って行った。まさかと剣士が思っているうちに案の定、老婆はデイの屋敷の前で足を止め、厚い扉をどんどんと叩き始めた。

「開けろ、出てこんか、デイ、このやくざ者! 孫を返せ!」

 しわがれた声で叫びながら、手も折れろとばかりに扉を叩き続ける。

 すぐに扉が開き、先の召し使いが顔を出した。

「おまえなんか呼んじゃいない。デイを出せ!」

「旦那様は、今お忙しい」

「嘘をつけ」

「さあ、帰った帰った」

「いや、孫を返してもらうまでは、わしゃここを動かん」

 扉は無情にも老婆の鼻先で閉まった。

「畜生! デイの人殺し!」

 通りを行きかう人々にじろじろ見られるのも構わず、彼女は叫び続けた。

 半刻も経っただろうか。喉が枯れて満足に声も出せなくなると、ようやく老婆は諦めた。力も尽きて扉をとんとんとしか叩けなくなった手も下ろす。彼女はよろよろと館の前を離れた。一人悪態をつきながらとぼとぼとした足取りで引き返して行く。

 剣士は失意の後姿を追った。




10.


「さて」

 魔法使いは窓枠に両肘をつき中庭を見下ろした。幼い少女が宙で舞う銀色の妖精を追いかけて、くるくると走り回っている。少女はハティジェ、妖精は言うまでもなくクロミスである。

「おまえが言うことにゃ、あの信号は遺跡から独立して自由に移動している」

『そうだ』

 布に包まれた杖が応えた。

「クロミスで居場所が分かると思うか……無理だな」

『鋼珠を用いた透視は、貴方の熟練度では難しい』

「てめえにまで言われたくねえよ」

『だったら何故尋ねたのだ』

 太い眉がぴくりと痙攣した。魔法使いは壁を振り返り、そこに立てかけられた包みを睨んだ。

「殺すぞ」

『この瞬間の貴方には付き合えない。甚だ論理的でない言動だ』

「……」

 数万度目の殺意を杖にぶつけ、魔法使いは視線を中庭へ戻した。

 確かに魔法使いの透視は、人が思い浮かべたものを映しだす程度のものでしかない。人を殺傷し得る魔術の習得は驚くほど早いのだが、他のものは一向に上達しない。

 適正と願望という単語が魔法使いの脳裏に浮かんだ。ひととき彼が弟子入りしていた魔術師の言葉である。人里離れた洞窟を住処にし、近くの村人から奇人扱いされていた偏屈な老女である。奇人扱いされるだけあって、魔法使いの頬の紋様と額の目を見ても顔色一つ変えず、むしろ若者の恐るべき知識の吸収力に狂喜した。何故あのような僻地に住んでいたのかは分からずじまいだったが、老女は紛れもなく稀代の精霊魔術師だった。風水地火光などの自然の精を操る手際は、森の民を明らかに上回っていた。彼女は、自分が得たものを託す者の出現に喜んだのだ。

 しかし、年老いた女の喜びは長く続かなかった。

 理論と手順と詠詩を覚えても、魔術は使いこなせない。治癒魔術の奥義まで頭に詰め込んだ若者が軽い体力回復さえできないのを見て、魔術師は悲嘆にくれた。

 愛しい者が病を患ったとき回復して欲しいと思わないのか、という老魔術師の問いに、若者は否と答えた。そもそも彼には、愛しい者がいないのだった。

 他の魔術とて同様である。治癒魔術ほど極端ではなかったが、どの分野も、本格的に身に付き始めたと思った時点で頭打ちになってしまうのだ。ときには、ほんの初歩的な術を飛び越えて突如上級魔術を発動させてしまうこともあった。そんな偶然で発生した現象は、決まって破壊的な結果しかもたらさなかった。

 魔術師の家を発とうと杖を担いだ魔法使いに、老女は柘榴石の嵌めこまれた真鍮の指輪を投げて寄越した。餞別だった。

 おまえが決めることじゃ。

 無愛想に言って、老女は扉を閉めた。

 魔術師になるも、宝を腐らせて魔法使いのまま終わるのもな。

 別に、魔術師になりたい訳じゃねえしよ。

「向こうが現れるのを待つしかねえか」

 両腕に顎を埋めて魔法使いは中庭を見下ろした。ハティジェがこちらを見上げて手を振っている。魔法使いもおざなりに手を振り返し、大きく欠伸をした。

 雨の野郎もつくづくお人好しだな。

 赤の他人のために働いて何が楽しいのか。しかも、助けようとしている当の本人には今もって恐がられている。

「……」

 魔法使いは眉をひそめた。頭痛のためではない。

『森の民が気になるのか』

 依然として所有者に苦痛を味あわせつつ、ナルバが話しかける。彼もしくは彼女も時間を持て余しているらしい。

「雨の話を聞いただろ。その女がいちばん怪しいじゃねえか。雨は外面のいい奴に弱いからな。もし犯人だったら、真相を突き止める前にさっさとひねり潰されるぜ」

『放っておけば良い』

 杖は鍛冶の精と反対の意見を述べた。

『貴方は雨が死ぬのを待っているのだろう』

「ああ」

 剣士が死んだら、魔法使いがあの剣を譲り受ける約束になっている。持ち主の士気が如実に刀身に反映する、全く刃こぼれのしない剣。

 鍛冶の精に気に入られた鍛冶屋では、何を作るにも直すにもこれ以上の出来はないという程の仕上がりになる。名剣と言われるものを作る匠は鍛冶と火の精霊に魅入られたと見做して間違いない。しかし剣士の持っている剣には彼らの痕跡がないのだ。クロミスも気味悪がりその剣に触れようとはしない。

「アルナージルの剣」は神自らが造り出したものであると伝えられている。鍛冶と火の精に頼らず造り出されたとしても何の不思議はない。その神が現在神殿で祀られている神なのか、それとも学会で信じられている太古の神なのか、はたまたどことも知れぬ辺境で崇拝されている神なのかは分からない。どの伝承も似たような話を持っている。

 魔法使いは伝説の出所にはこだわらない。関心があるのは、剣が持つ機能である。剣は二振り存在する。如何なる光をも映さぬ青銅の大剣と、全てのものを映し出す銀色の細剣。彼が欲しているのは後者である。前者の大剣が杖のように持ち主の命を食らうのに対して、銀の剣は斬った対象からその生命力を吸収する。銀の剣があれば、杖に食われた分の気を回復できるのではないかと魔法使いは考えている。消耗さえしていなければ、杖を完全な支配下に置けるかもしれない。少なくとも、毎晩悪夢にうなされることだけはなくなるだろう。

 魔法使いは神を信じないが、この二振りの剣にまつわる伝承がどこの神話にも存在することに注目した。学会を飛び出したものの、どこかで落ち着こうとも思っていない。老魔術師の下に数ヶ月留まった後、そんなものがあれば確かに便利だろうと半信半疑ながら探索していた中、剣士と出会ったのだ。

「確かに雨が死ぬのを待っちゃいるがな」

 魔法使いは再び欠伸をして、

「俺が剣を手に入れて困るのはてめえだろうが。そのおまえが何でわざわざご忠告をくださるってんだ? 俺がいくら気を補充しても、おまえは決まった量しか食えねえんだぜ」

『……貴方の矛盾を指摘しただけだ』

「ふうん」

 ナルバの微かな躊躇いが気になったが、魔法使いはあえて知らぬ振りを通した。追求したら互いに藪蛇になるような気がしたのだ。杖もそれ以上は何も言わない。

「どれ、仕方がねえ」

 魔法使いは足をブーツに突っ込んだ。黒い上衣にも腕を通す。

「暇つぶしに手伝いでもしてやろうかね」




11.


 森の民の女は魔法使いを見た途端立ち尽くした。剣士のときと同じ反応だが、驚愕の度合いは遥かに大きい。

 が、そこに怖れの色はなかった。魔法使いが首を傾げる。

「おまえがナウシズだろう」

 尋ねながら、彼もじろじろと無遠慮に森の民の女を眺める。ナウシズが我に返った。

「そうですが……貴方は雨様のお連れの方ですね」

「察しがいいじゃねえか」

 魔法使いがにんまりと笑みを浮かべる。

「女魔術師というからには猫族か」

「原種です」

 とナウシズ。

「私の郷では、まだ分化が始まったばかりですから」

 森の民はここ五百年来で二種に分化しつつある。精霊や鉱石と意思を通じ魔術に長けた猫族と、動物と会話を交わし自らも強靭な身体と並外れた身体能力を持つ豹族である。どちらも植物と話す点は変わらず、まだ差もはっきりしている訳ではないが、時代を経れば両者の違いはさらに際立つことだろう。ナウシズがベネット・デイに、デイが剣士に語った内容である。

「お名前をお伺いしたいのですが」

いかずち

 ナウシズは微笑んだ。

「お二人とも、本当のお名前ではないのですね」

「てめえもそうだろうが。森の民は真名を使わないからな。知ってるのは本人と親だけだ。もったいぶった習慣だぜ、困った、なんて呼ばれて楽しいか」

 ナウシズは猫の瞳を見開いた。

「ルーンをご存じなのですか?」

「覚えるぐらいなら覚えるさ」

 魔法使いは肩を竦めた。彼は何人もの森の民に会ったことがある。老魔術師を慕って彼らが彼女の住処を訪れたのだ。「ナウシズ」は森の民が使う言葉では「困苦」を意味する。

「そうですか」

 ナウシズは感心して頷いた。ルーンは、習うにはこの辺りの人語より難しい言葉である。

「それで雷様、ここには?」

「決まってんだろうが」

 魔法使いが冷たい空色の目を細めた。

「雨が魔術なんぞ知らねえのをいいことに言いくるめやがって。あいつはてめえのような、いかにもいい子ちゃんにはてんで弱いからな」

「そうおっしゃられても」

 ナウシズは困惑した体で、

「何のことでしょう」

 魔法使いは苛立たしげに顔を歪めた。

「呼び出すしか能のないど素人が、どうやって召喚した怪物を送り返すんだよ、ええ? んな奴、召喚した怪物に殺されるかそれに近い目に遭ってる筈だ。一回で懲りて二度と呼び出そうとは思わんだろうよ」

 身をもって体験しているのだ。それは間違いない。ただ、魔法使い自身は何度危険な目に遭っても一向に懲りない。

「犯人が絞れねえなんて、よく言ったもんだな」

 言いながら魔法使いは森の民に詰め寄る。自分より一回り二回りも大柄な男に迫られても、ナウシズは動じる気配を見せなかった。相変わらず落ち着いた面持ちで尋ねる。

「では、何と言えば納得していただけるのでしょう」

 魔法使いは人差し指をナウシズの胸に突きつけた。

「あんたの仕業だ」

 黄色みがかった穏やかな容貌を睨みつけながら、

「さもなきゃ、他にやった奴の心当たりがあって隠してやがる」

「……」

 鳶色の猫目が、間近に迫った赤銅の貌を静かに見返した。何か言おうと口を開きかけたところで、違う声が二人の耳に届いた。

「何してる!」

 見知らぬ男が魔法使いとナウシズの間に割って入る。

「ナウシズに何の用だ」

「邪魔だ」

 魔法使いは森の民を庇うようにして立った男の胸ぐらを掴んでどけようとした。男は動かない。魔法使いが嘲笑を浮かべた。

「日頃お世話になっている魔女への恩返しか」

「カーイト」

 ナウシズが宥めるように男の背に話しかけた。

「大丈夫、何でもないのよ」

「あんたは大丈夫じゃなくてもそう言う」

「さっさと失せやがれ」

 業を煮やした魔法使いは舌打ちをすると、カーイトと呼ばれた男の腹に膝蹴りを入れた。呻く男をそのまま突き転がそうとしたが、彼は巧みに逃れて魔法使いに組みついてきた。長身を地面に押し倒す。顔の前で拳を受け止めた魔法使いは怒り心頭に達していた。

 頬に紋様を描いた若者が口の端にのぼらせた詠詩を、ナウシズは察した。一足先に黒衣の若者よりも早く別のフレーズを詠み上げる。

「!」

 魔法使いは唖然とした。詠う筈の呪文が、一瞬のうちに彼の脳裏から逃れ去ってしまったのだ。消魔術である。「忘却」の一節を詠んだに違いなかった。

 茫然とした若者の首をカーイトが絞めにかかる。

「おやめなさい!」

 厳しい声音にようやく男は手を離した。

「でもナウシズ、この男……」

 言いかけたカーイトが吹っ飛んだ。下から顎を殴りつけられたのである。魔法使いは身を起こしながら宿にいるナルバを呼んだ。かなり距離はあるが、まだ杖の能力の有効範囲内にある。

 どこでも構わん。このくそ忌々しい女を飛ばしちまえ。

『了解した』

 ナウシズの猫目が見開かれた。切り揃えた草色の髪も上衣の裾も揺れないが、強い追い風が彼女のほっそりとした身体を叩きつけている。他の者には感じとれない、いわば異なる次元に吹く風と言っても良い。大抵の者ならば一瞬のうちに吹き飛ばしてしまうほどの強風は、いつの間にか開いた異界へと通じる穴に吹きこんでいた。魔術ではない。全く異なる方法で作られた扉である。人の目には見えないが、森の民の目は穴の向こうの景色を垣間見た。いかなるものも生存不可能な、黒々とした空間が広がっている。

 思案している間にこの世から消されてしまう。異界への扉を作った力の根源を見つけると、ナウシズは再び詠じた。

 穴が消える。同時に見えない風も収まった。

『飛ばせない』

 ナルバが魔法使いに告げた。

「なんだと?」

『目が見えない』

「貴方のお友達の力を、少し弱めさせていただきました」

 魔法使いの目がナウシズを捉えた。彼女は倒れた男の具合を見ている。顎が砕けていると呟き、ナウシズは魔法使いを見返した。鳶色の瞳はこの期に及んでも穏やかな光を絶やしていなかったが、責めるような色がそこに混じり込んでいる。

「関係のない人にこのような仕打ちをして。カーイトは少し荒っぽいけれど、根はいい人なんです。先ほどなど、この人に雷槌を下そうとしましたね? そんなことをしては彼だけでなく、周囲の家まで燃えてしまうかもしれないのですよ?」

「下手な邪魔をするからだ。それより」

 魔法使いが肉食獣のような唸りを発した。

「俺に『忘却』をかけやがったな。畜生、さっきから思い出すもんっつったら、ろくでもねえ詠詩ばかりだ」

「貴方がどの程度の詩を覚えているのか知りませんが、私にとって役に立つものは残してあります」

「くそ喰らえ」

 彼にとっては役立たずである。精霊魔術の中では攻撃的な雷精火精系統の詩にしても、たいまつに火を点ける程度の些細なものしか思い出せないのだ。その癖、彼が全く使えない治癒魔術の詩は全て鮮明である。

「それより運ぶのを手伝ってください」

 ナウシズが男の身体を抱きかかえて魔法使いに要求した。

「阿呆か、てめえは」

 魔法使いが悪態をつく。

「俺はそんなことをしに来たんじゃねえ」

「手当をするのが先です」

 怒りや悪意が突き抜けてしまう空しさを、魔法使いは感じた。とても自分を殺そうとした者を相手にしているようには見えない。ここまで平静さを保ち続けられる者は、女はおろか男の中にさえそうはいないだろう。その点だけは、彼も認めざるを得なかった。仕方なく男を抱え上げ、ナウシズの家に運び入れる。

「で、誰なんだよ」

「カーイトです」

 手当の準備をしながらナウシズが答える。

「馬鹿か、あんたは」

 魔法使いは怒るよりも先に呆れた。調子が狂って仕方がない。剣士を相手にしたときに生ずるものと同じことに、彼は気付いた。

「なんで俺がこいつの名前なんか訊きたいんだ」

「貴方がお連れの方を気遣ってここまでいらしたのは分かりました」

「ただの暇つぶしだぜ」

 魔法使いが訂正する。森の民は彼に背を向けて怪我薬の調合を始めた。柔らかな草色の髪の間から、尖った耳の先が覗いている。ほっそり伸びた首筋や脚を眺めながら魔法使いは、ははあと一人頷いた。

 なるほど。そういや雨の死んだ嫁も、ガキみてえに細かったよな。

「でも、ごめんなさい。次の新月まで三日あります。もう少しだけお待ちいただけないでしょうか」

「怪物が何なのかは知ってんのか」

「……」

 知っているらしい。

「おい」

 応急処置を終えたナウシズは魔法使いを見た。

「雷様は治癒魔術は?」

 あくまで言わないつもりらしい。魔法使いが肩を竦める。

「全然」

 どんどんと外から扉が叩かれた。

「ナウシズさん、開けとくれ。ナウシズさん」

「どうぞ、開いています」

 入ってきた老婆が魔法使いを見て目を剥いた。

「おまえ」

「おう」

 魔法使いも数瞬遅れて思い出す。

「あのときの婆じゃねえか」

 彼らを追い出した安宿の老婆だった。

「おまえらのせいじゃ」

 老婆が魔法使いを睨んだ。

「おまえらが、災いを持ち込んだんじゃ」

「ギュル母さん、どうしたんですか」

 ナウシズが宥めるように尋ねる。

「大変じゃ、孫がいなくなった」

「なんですって」

 黄色味を帯びた森の民の貌から血の気が失せた。

「いつ?」

「昨晩から帰ってこんのじゃ。きっとあやつに違いない」

「分かりました。でも、少し待ってください」

 頷いたナウシズは横たわる男を見下ろした。

「カーイトをどうにかしないと」

 彼女は男の枕元に座り、砕けた顎を包むようにして両手で囲んだ。カーイトが呻く。

「大丈夫よ」

 ナウシズが優しく応えた。

「元通り治りますから」

 目を閉じる。老婆がじろりと魔法使いを見て、ひそひそと囁いた。

「なんでおまえのような奴がここにいるんじゃ」

「そっちこそ、婆が何の用なんだよ」

「さっき言うたことを聞いておらなんだのか。こっちは大変な……」

「二人とも、静かにしてくださいな」

 ナウシズが振り向く。

「私はともかく、この人の心が乱れます」

「あい済まんのう」

 老婆は謝ると、ふんぞり返っている魔法使いの襟首を掴んで追い出しにかかった。

「おまえのようなのがおっては目障りじゃ。はよう出て行け」

 魔法使いは治療に専念しているナウシズを見た。犯人に心当たりがあるとはいえ、力ずく(もっとも、今の彼には文字通り腕力しか残されていない)でも白状しそうにない。

 彼は家の扉を開けた。


いかずち

 聞き覚えのある低い声に呼び止められた。見ると、剣士が腕を組んで物陰に佇んでいる。翠の隻眼が無表情に魔法使いを見据えていた。

「どうしてお主がこのような場所にいるのだ」

 安宿の老婆と同じ質問をする。

「そりゃこっちの台詞だ」

 魔法使いも言い返した。

「そんなにあの女が気に入ったのか。顔も躰もいかにもおまえ好みだもんなあ」

「何を言っている?」

 剣士の表情は変わらない。魔法使いのからかいを無視して彼は短く説明した。

「ベネット・デイの家にあの老婆が来たので、後を追ってきたのだ。それでお主は……」

 質問を繰り返そうとする剣士を魔法使いが遮った。

「当分出て来ねえぞ。顎砕いた男に治癒魔術をかけ始めたからな。それよりあの女、犯人を知ってるぜ」

「何?」

 剣士が目を細める。悪い人相がますます険悪になった。

「だが、言おうとしねえ。新月まであと三日ある、もう少し待てだとさ」

「怪物が呼び出されるのを待つつもりなのか」

「分からん。呼び出す前に自分で犯人を捕まえるつもりかもしれん」

 剣士は眉をひそめた。

「女人一人では危険だ」

「そんなタマじゃねえぞ、ありゃ」

 魔法使いは精悍な顔をしかめ、顎を撫でた。剣士が怪訝な視線を向ける。

「あの女のせいで、俺は魔術を使えなくなった。それだけじゃねえ。あいつ、杖の力さえ封じ込めやがった」

 隻眼が無表情に魔法使いを凝視する。

「雷」

 剣士は静かに連れの通り名を呼んだ。

「何をした」

「別に」

「何もなくて魔術を封じられる筈がなかろう」

「うるせえな」

 魔法使いの眉間に皺が寄った。

「何かしようがしまいが、あの女はかすり傷一つ負っちゃいねえ。被害を受けた俺がなんで追求されなきゃならねえんだよ」

 剣士が軽くため息をつく。

「お主、関わるつもりはないと言ったではないか」

「急に暇になってな」

 剣士は不信感も露わに魔法使いを見た。

 魔法使いは肩を竦めてそれに応えた。


 魔法使いの言った通り、家の中からは誰も出て来なかった。剣士はこれからを思案する。訊いて答えぬからといって待っていても、ナウシズがわざわざ話に来るとは考え難い。自力でなんとかしようと思っているのであれば尚更である。老婆とデイも気になる。彼らもこの件に関係があるのではと、剣士は漠然と推量した。どこで繋がっているのだろうか。

 不審げに剣士を見やりながら老人が通り過ぎる。視界から消えかかったところで、その老人は呻き声を発して倒れ伏した。

 魔法使いならばこのようないかにも怪しい手に乗せられなかっただろうが、そこは剣士である。

「如何した、ご老人」

 屈みこんで老人を助け起こした彼は後頭部に一撃を食らい、自分がばったりと倒れ込む羽目に陥った。


 ナルバは怒っていた。

『見えない』

 杖の「見える」には何種類かがある。まず、複数ある自分の目でものを見る。もう一つの方法は所有者の目を通して視界を得る。さらに、布に包まれ実視界を遮られていても、杖族はかなり広範囲の事象を把握することができる。どんな感覚器官を働かせているのかまでは学会でも解明できなかったが、杖族はそれをも指し「見える」と形容する。暗闇でも視力は衰えない。そして「見える」ものに対してならば大抵、彼らは能力を行使できる。ナルバならば、異次元への通路の開閉といったものである。憑依だけは、発光する眼球を直接相手の視界に入れなければならない。

 ナルバの視力は実視界までに制限されていた。実際に自分の目で見たものしか捉えられない。魔法使いの目を通しても何も見えないという。人間には図り知れない特殊な視力も、せいぜいが宿の一部というところまで狭められていた。

 見えるものにならば力を使えるということは、逆に言えば、見えなければ能力の行使はできない。見えない空間をねじ曲げ、見えないものを消去しろと言われても、それはできない相談である。

「よくやったもんだな」

 ほとんど盲目になった杖を前にして、魔法使いは感心の唸りをあげた。

『貴方も魔術を封じられたのに、何故怒らない』

「簡単だよ」

 魔法使いがにやにや笑いながら、

「あの女は俺に魔術を忘れさせたが、てめえの手足も縛ったからだ」

 怒りの波動が魔法使いに押し寄せた。端整な顔が苦痛に歪む。が、それでも彼は笑みを浮かべたままだった。

「会話はできても、こっちの力も大分抑えられてるな。普段ほどこたえねえぞ」

 これほど怒っていれば、魔法使いは頭が割れるほどの痛みを味合わされる筈である。激痛で吐き気が誘発されるほどの苦痛である。生命力を食われている分の身体のだるさは抜けないものの、常に気に入らない所有者に加えられる、重力が何倍にも増したような圧力も半減している。

 いつの間にか指輪から出たクロミスが杖の傍らに座り、目玉の一つに自分の姿を映して話しかけている。

「クロミス、そいつは放っておけ」

 魔法使いは小さな少女をどかせ、ナルバを元通り杖に包んだ。相変わらず頭は痛むが、じきにナルバも疲れてやめるだろう。

「今まで威張り過ぎたんでな、自粛してるって訳だ。ははははは」

 クロミスでさえ初めて見る機嫌の良さで、魔法使いは部屋を出た。

「あっ、いかずち様」

 宿の主人セルブが呼び止める。今や彼は、最初に見込んだ学徒ではなく、親身になって一件を調べてくれている剣士を頼りにしているが、それでも魔法使いが客であることには変わりがない。

「もうすぐお食事の時間ですが」

「こんな所で食ってる場合じゃなくなったんだよ」

 躁状態とさえ言える魔法使いは、道の端に座っている物乞いに金をばらまきながら、踊り出しかねない足取りの軽さで盛り場へ向かった。

 と、その足が止まる。

 魔法使いは振り向いて何もいない背後の地面を見つめたが、肩を竦めると再び軽快に歩き出した。

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