7、8
7.
魔法使いは書架から五百十一冊目の本を取り出した。
表紙を開き、バラバラと中紙を左から右へ移動させる。傍目には字面を眺めているだけの動作だが、内容は完全に理解できる。この程度のことなら全ての目を開かずとも容易いし、第一、わざわざ一言一句を追っていては、何日ここに留まらねばならないのか見当もつかない。
紙を束にしただけの厚い論文集や本を両手に抱えたエニサが、ちらりと紋様のある横顔を見て通り過ぎた。魔法使いとウシュブが読み散らかした後を片付けているのだ。資料管理が彼女本来が担当している仕事であり、最初に魔法使いを案内したのは、単に彼女の手が空いていたからに過ぎなかった。
直接ではないにしろエニサも杖族の性質を熟知している。人の心を見透かす杖を欺いて契約を結び何百もの人間を殺した男と、ここで本を読み耽る背の高い青年が、彼女の中で合致しないことに、彼女は少なからず戸惑っていた。現に今、杖に操られたウシュブ学師が目の前にいるにも関わらず。
育ち損ねた学会の申し子という言葉からエニサが思い浮かべていたのは、どこか歯車が狂った凶悪な目つきの、ひょろりと痩せた若者だった。ところが実際に現れたのは、学会の申し子はおろか、頬の紋様がなければ学会に関係があるとは思えないような青年だった。日に焼けた肌と逞しい体躯は、建物の内に閉じこもりがちな学徒とは無縁のものであり、それが為にかえってエニサの周囲の学徒よりも健全に見える。
確かに言動は荒れているが理性は充分に伺えるし、極端に常識から外れているようにも見えない。ウシュブ学師を杖の支配下に置いたのは、幼少の頃より人をそのように使役するよう教育されてきたからなのだろう。人々を殺してまで本部を出てきたのは、やはり彼女には想像の及ばない事情があったのではないか。
魔法使いは畜生と唸って五百十二冊目の本を放り出し、首をぐるりと回した。途中でその動きが止まる。空色の瞳でエニサを見て、彼は皮肉な笑みを浮かべた。
「学徒を何百人も消した奴が、町に出る怪物の退治をするのはおかしいか」
「いえ……」
「おかしいに決まってら。顔に書いてある」
「ハデューン様」
エニサは一旦逸らした視線を再び魔法使いに当てた。
「その怪物に、なにかハデューン様のお気を引くものがあるのですか?」
「おまえらには興味がないことだろ。学会の外で起きたんだぜ」
「何かお役に立てましたらと存じまして」
「ふうん」
意地悪く魔法使いが頷く。五百十三冊目の本を取ったものの思い直して棚に置き、書架にもたれかかって腕を組んだ。ナルバは作業を止めない。ウシュブを使って魔法使いと同じように書物のページを繰っている。こちらは魔法使いより速度が速い。
「もう消えていいと言ったが、おまえ、学会の申し子がどんな生き物なのか余程興味があるようだな。じゃなければ大抵の奴は、尻を蹴っ飛ばされるのが嫌で命じられれば仕方なく従うがな、わざわざ俺に近付こうなんて物好きはいない。それはどこに行っても同じだった。本部でもな。いやに物分かりの良さそうな顔をするその癖、俺の言うことなんぞその実聞いちゃいねえ。どうせ時が来れば消される人格だ、今だけ我慢すりゃ数年後には立派な導師様が誕生するってな。何をほざこうと構わないが、それでも噂に聞く本部の申し子がどんな奴なのか、たいそう好奇心をそそられるらしい。これの下が気になるんだろ」
魔法使いは額を覆う布を指した。
「本当に目玉が三個あるのか? こいつ本当に自分より頭がいいのか? 違いはそれだけか? 手も三本あるんじゃないか? 何食って生きてるんだ?」
「そのようなこと」
「ございません、か」
エニサの言葉尻をひったくって魔法使いが鼻を鳴らす。が、彼女は怯まなかった。魔法使いの勘に触った台詞を、そうとも知らずに繰り返す。
「私はただ、本当にハデューン様のお役に立てればそれで良いとだけ」
それを聞いた魔法使いは、嫌な笑みをますます深めた。大きな手を伸ばして女の腕を掴み、手荒に引き寄せる。頤を掴むようにしてエニサの貌を仰向かせ、乱暴に唇を重ねてから彼は尋ねた。
「こんな風にお役に立てと言われたらどうする、ええ?」
言った男の指に力がこもる。エニサの腕に痛みが走った。もう片方の腕も掴まれ、彼女は躰を書架に押し付けられた。
「ほら、どうして抵抗しない。犬に噛まれたとでも思って諦めるか」
魔法使いは嘲笑のようなものを浮かべたまま、びりびりと音をたててエニサの服を破り始めた。
「運悪く俺に出くわしたら、できるだけ刺激しないようにしろとでも本部から言われている筈だしな。また貴重な人材を消されちゃ適わんってところだろ」
「それがお望みなれば」
エニサは目を伏せて小さく答えた。
「導師の御子を授かる栄光に預かれるかもしれません」
服を破る手が止まった。
恐る恐る彼女が目を上げる。
「……」
嘲笑めいたものが無表情に取って代わっていた。
「ガキか」
平坦な声でエニサに問う。空色の瞳から窺えるのは無感動な虚無のみだった。冷たささえ、ない。
ガラスのような瞳をまともに見つめてしまったエニサの全身が総毛立つ。こんな視線を向けられるなら、まだ苛立ちをぶつけられる方が安心できる。
水色の瞳が一度瞬いた。嘲りの色が戻る。
「いたぜ」
魔法使いはエニサから手を離し、一歩後ずさった。
「いた。そういう馬鹿な女が、何人もいた。おまえもその口か」
エニサには訳が分からない。しかし魔法使いは一人で合点して続けた。
「お偉い様の母親になりたいんだな。だったら今の導師の前に行って股でもおっ広げてろ。別に怒られやしない。気が向けば相手してくれるだろ、研究の邪魔さえしなけりゃな。それとも何か、三つ目のガキが欲しいのか。確かに観察対象が手元にありゃ大助かりだろうな。だが生憎だが」
両目が細められる。
「無理な相談だね。俺のガキが万が一にもできる可能性なんてありゃしない。おまえが与えらえるのは辱めだけだ。いいや、そのつもりなら別に恥ずかしくもねえな。分かった」
魔法使いはエニサの腕を掴み直し、扉に向かった。
「来い。おまえの望み通り、育たねえが種付けの真似事だけはしてやるよ。ただし皆の前でな。連中も観察したいだろう、三つ目は性交も自分たちとおなじようにするのか?」
「おやめください」
ここで初めてエニサが抗った。青年が本気だと悟ると、身をよじって逃れようとする。
「違います。私はただ」
青年は嗤いを収めなかった。逃げ出そうとする女の躰を抱え込むようにして引き摺って行く。
「役に立ちたいんだろうが。俺も手伝ってやるって言ってるんだぜ。ただしおまえの仲間の為だがな。ここの連中の研究対象になってやれよ。ついでにせいぜい色っぽく善がり声でもあげて、野郎共を喜ばせてやれ」
暴れるエニサを無理矢理肩に担ぎ上げ、魔法使いは部屋を出た。
不意に、エニサの躰を締め付ける力が弱まった。
と思う間もない。彼女は自分の足がすとんと床に着地するのを感じ取った。
夢中でその場から逃れ破れた服で身体を覆い、壁に背を貼り付かせる。蒼い顔で魔法使いを見上げたエニサは、しかし、予想外の表情にぶつかった。
不審と驚愕が入り混じったそれだった。
魔法使いは前方を見つめていた。エニサも視線を追う。だが、そこには何もいない。
「……ハデューン様?」
「分かるか」
魔法使いが呟いた。目には見えないが、確かにそこにいる。
「え?」
杖への問いだとは分からないエニサが聞き返す。
『信号らしきものを感知した。動物を象っているようだが、詳細は不明』
「信号だと?」
方々の遺跡で発掘されている、解読不明な文字列を指しているのだろうか。
魔法使いは額に指をやり、覆っている布を取り去った。一瞬視界がぼやけ、すぐにはっきりと戻る。
曲がり角の向こうが見える。透けて見える訳でもないのに同時に視界に入るのだ。そこらに賽でも転がっていれば、六面全てが同時に見られる。机ならば、天板の表裏が同時に見える。角度によっては透けて見えるものもある。つい先ほどまでは見えなかった存在までもが姿を現す。大小の球体が宙を漂っている。光の精だ。他にも何なのか見当がつかない粒子が流れ、無秩序に点滅している。魔法使いでなければ正気を失う光景だろう。
突如賑やかになった視界の中に、魔法使いは全く見たことのないものを見つけた。
細かく点滅する粒子が、腰の高さにまで集積していた。集まってはいるものの、その中でも粒子は目まぐるしく流れ、明るさを規則的に変化させている。
魔法使いは目を凝らした。徐々に輪郭が定まってくる。粒子の上に半透明の映像が重なる。
「……お」
狼が魔法使いを見つめていた。粒子と重なっている為色は判然としないが、灰色っぽい毛並みの、大柄な骨格を持った見事な狼である。群れていれば確実に仲間を率いる立場だろう。王者の風格があるとさえ言える。
金色の瞳が魔法使いを見上げている。獣の瞳だが、あきらかな知性が宿っているのが魔法使いの目にも明らかだった。
「おまえ……」
魔法使いが我知らず口を開く。
「おまえがカゼールの化け物なのか」
粒子が規則性を伴って点滅した。返事だろうか。魔法使いには分からない。
「新月の晩に人間を食い殺す、おい」
魔法使いは声をあげた。
粒子をまとった狼は身を翻した。廊下の角を右に曲がって駆けて行く姿が見える。次の角も曲がった。
狼は洞窟の奥の方角にある出入口から遺跡の外へ出た。立ち尽くすエニサに、もう魔法使いは目もくれなかった。
狼と同じ方向へ走る。が、立ち止まった。
先に伸びている暗闇の中に、灰色の獣の姿はなかった。
『信号はこの近辺から消失した』
杖が確認し、魔法使いに告げた。
「信号っつったな」
資料室に戻った魔法使いは、画面――学徒は窓と呼んでいる――だけが独立して浮いている操作卓の前に座り込んだ。行儀悪く片足を、もう片脚の膝の上に乗せる。
『然り』
「やっぱりな」
呟きながら彼は蔵書一覧を窓に呼び出した。古文書の欄を目で追う。
「どうなさったのですか」
背後で女の声がした。
「信号だ」
無意識に魔法使いが答える。
「信号の狼が出た。宿のガキの話からしてひょっとしたらと思ってたんだが、カゼールにいる魔術師が呼び出すような代物じゃない。普通の目では普段捉えられない、パルスで構成された狼だ」
「……それと古文書に何の関係が?」
「古文書に二種類あるのは知ってるだろう。解読すれば意味が分かるものと、しても全く分からん暗号のようなクソ長いものだ。そのクソ長い方を決まった機械に入力すれば、電気の流れによって決まった働きをする。狼はそいつで成り立っていた。昔の学徒がここで造ったのかもしれんし、もしかしたら古代の産物かもしれん。ここの学徒が造ったんなら記録が……」
魔法使いが話を中断して振り向く。
相手をたっぷり見つめた後、彼は尋ねた。
「まだいたのか?」
エニサは頷いた。
「俺はおまえをさんざんからかったんだぞ。何故傍から消えない?」
「分かりません。ただ」
女は言い淀む。魔法使いは何故かその先の言葉が想像できた。
私、貴方のお役に立ちたいだけなのです。
「私、本当に何かハデューン様のお役に立てたらと願うだけなのです」
遠慮がちに口を開いたエニサは、魔法使いの予想とほぼ同じことを告げた。
「貴方様は、本当は周囲の人々が怖れるほどに悪い御方ではないと」
「存じ上げる相手を間違えてんじゃねえか?」
魔法使いは虚ろな顔をしたウシュブを指した。
「あの男をあんな様にしたのは、この俺だぞ」
「存じております。でも」
エニサがひたむきな瞳を魔法使いに向けた。
「私はハデューン様を信じております。今のままの貴方様を」
魔法使いは、半ば茫然として自分と同年代の女を見返した。
冷たいものが、背筋を這い上ってきていた。
「ナルバ」
鋭い声で杖を呼ぶ。
「この女を消せ」
魔法使いの命令を聞いたエニサの目が見開かれる。
「ハデューンさ……」
全てを言い終える前に彼女は杖にこの世から消去された。
魔法使いがため息をつく。
「なんだったんだ、ありゃ」
『彼女は貴方に好意を寄せていた』
「馬鹿野郎。顔つき合わせて時間も経ってないのに、なんでそんなことになるんだ。あの女、俺がやろうとしたことを冗談とでも思ったのか?」
真似だけではなかった。魔法使いは確かに、女を学徒たちの目の前で犯してやるつもりだったのだ。
『彼女は本気に受け取り怯えていた』
「だろうが」
魔法使いは頷いて検索を続ける。
「それを憎むならいざ知らず、好意を抱くってのはどういう意味だ。どっか頭がおかしかったんだよ、あいつは」
『おかしいのは貴方かもしれない』
「てめえもだ」
求めていた文献が表示された。妙な女を意識から追い払い、魔法使いは立ち上がった。
彼は二度と、エニサという名の女を思い出すことはなかった。
8.
遺跡から戻ってきた魔法使いは不機嫌だった。ぶっきらぼうに剣士に成果を報告する。
「で、こいつ」
と布に包まれている杖を差し、
「にも手伝わせて片っ端から調べたんだが、結局それに関連した記録はなかった。抹消されてりゃお手上げだが、その痕跡はなかったし遺跡中家探しもしたしな」
天井を睨んだまま話を締めくくった。例によってブーツも上着も脱ぎ捨てただらしない恰好で、ベッドに四肢を放り出して転がっている。
銀色の妖精が彼の鼻先を掠めて飛んだ。魔法使いが指輪の中から出して、自由にさせてるのだ。
あれから彼は、ウシュブの他に十何人もの学徒の意識をも杖に探らせたが、結局実になりそうなものは得られなかった。
「信号で作られた狼というのが分からんが」
剣士が考え込んだ。彼は、連れが遺跡で女を消し去り、十数人の学徒を廃人に追いやったことを知らない。話す必要がないからだと魔法使いは片付けたが、杖がそれに疑問を呈していた。
『雨に知られたくないのではないか?』
魔法使いはナルバを無視した。剣士が口を開く。
「それは学会でなければできないものなのか」
「多分。なんだ」
魔法使いは剣士の納得しかねる顔に気付いた。
「異論がありそうだな」
「私が聞いた話では、化け物はやはり呼び出された生物らしい」
魔法使いが身を起こす。
「お互い反対の情報を持ち帰ったって訳か」
今度は剣士が事後報告をする。話が森の民の女に及ぶと、魔法使いは唸り声をあげた。
「おまえな」
剣士を睨みつける。
「ちったあ要領を考えろ。てめえは親切にも怪物を退治してやるつもりなんだろ。そしたらなんでその女を引っ張って来なかったんだよ。怪物を感じ取れるんだろ、犯人じゃなくても探知に使えるだろうが」
「それはそうだが、四六時中拘束する訳にもいくまい」
「いざってときに傍にいなけりゃどうにもならんだろうが」
魔法使いは言って、再びベッドにひっくり返った。
「お主は怪物をどうにかするつもりではなかったのか」
「俺はここのガキの話に興味が湧いただけでな」
クロミスが魔法使いの鼻先まで飛んできた。剣士には聞こえない声で何事か言う。音量が小さいのではない。物の精と話せる者でなければ、彼女の声を聞くことができない。
「そうだ」
魔法使いが頷いた。
「ハティジェのことさ。いいか」
と剣士に向かって、
「怪物は新月の夜に出るんだぞ。なのにあのガキは、灰色の犬を見たと言った。なんで月のない夜に、ましてや灰色なんて曖昧な色を見分けられたんだと思う」
剣士は数秒考え込んだ。そしてあっさり言った。
「分からん」
「実体がないからだ。実体がないと、闇の中でも姿が見えるものが多い。幽霊の類もそれに当てはまる。もっとも、クロミスのようなのはこの原則から外れちゃいるが」
風水地火光の他にも、ものの精は存在する。それどころか、五大元素よりも余程自我を持つ傾向があるのだという。どんな姿を取るのかは特に定まっていない。概して、精霊の性格的資質と気に入られた人間の望みが妥協し合った結果が現れるらしい。クロミスが露出度の高い衣装を着けた少女の姿であるのは、従って、魔法使いの好みも入っていると考えて良い。素っ裸よりはましかもしれないのだから。
魔法使いの言葉を信じるならば――別に疑う理由もないので剣士はそのまま信じている――この小さな少女は鍛冶の精が妖精の姿を形取ったものらしい。剣士が初めて魔法使いに会ったときには既に、彼女は指輪の柘榴石の中に収まっていた。
「だが」
剣士が反論する。
「実体がなければ人に害を与えることもない筈だ」
「大抵はな」
魔法使いが同意する。そこへ剣士が付け加えた。
「死体は本当に残っていた」
「導き出される答えが二つある」
「原則から外れた存在だから、学会が造り出した生物だと思ったのか」
「それが一つ。もう一つは」
「……怪物は二頭いる」
剣士の答えを聞いて、魔法使いがにやりと笑った。
「分かってんじゃねえか。ま、実際に互いが違う結果を持って帰ったんだからな。結局は両方の答えが混ざったような形になったが……多分、信号の獣は現場に居合わせただけだろうよ。俺が見たところ、人間を食い散らかすような阿呆面もしちゃいなかった」
剣士が不思議そうな面持ちになった。魔法使い以外の者には無表情にしか見えないだろう。
「何故そのような場所に、学会が造り出したかもしれない者が居合わせたのだ」
「俺が知るか」
部屋を飛び回っていた銀色の妖精が魔法使いの胸に着地する。大きな友人の顔を覗き込んで、また何か喋った。はあ? と魔法使いが唸る。
「んな訳ねえだろ」
「何と言っているのだ」
好奇心に駆られて剣士が尋ねた。魔法使いが寝転がったまま嫌そうに答える。
「おまえを手伝わないかっつってんだが、俺が興味あるのは狼の方なんでな。それよりクロミス、何度も言ってるがもう少し大きくなるつもりはないか? ついでにその邪魔な服も脱いじまえ」
品のない要求をした魔法使いだったが、いてえ! という大袈裟な悲鳴をあげる。
部屋を出ようとした剣士が振り返ると、銀色の妖精が、これでもかとばかりに魔法使いの脇腹をつねり上げていた。