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一振りの剣にまつわる挿話  作者: 井出有紀
3/14

3、4

3.


 夕方に部屋を出た魔法使いが完璧な酔っ払いと化して宿に戻った頃には、既に夜も半ばを過ぎていた。

 黒い上衣を肩に引っかけ、お客様のお戻りだぞ! と酒臭い息で叫びながら、彼は戸締りされたゲートハウスの扉を乱暴に叩いた。

 がちゃがちゃと閂を外す音がする。扉を開けた人物を見下ろし、魔法使いは怪訝な面持ちになった。

「ガキはおねんねの時間だろうが」

 月もない闇の中、燭台を手にしたハティジェが無言で厠を指す。なるほど、と魔法使いは納得した。

「そうか、小便か」

 頭に軽く手を置いて通り過ぎる。宿の使用人が降りてきた。

「どちら様で」

「客だよ、阿呆。ガキに入れてもらったんで、てめえは用無しだ」

 魔法使いの声であることを確かめると、使用人はお帰りなさいませと眠たげな声を残して扉の向こうへ消えた。普段は二つの扉に閂を掛け直し、その間にある階段を登って自室に戻るのだった。

 魔法使いは鼻歌を歌いながらいささか怪しい足取りで噴水に近付いた。水に顔を突っ込もうとしたが、思い留まる。学会で育った為、彼の衛生観念は常人のそれよりいささか発達している。彼は自分の後についてきている子どもに要求した。

「水持って来い」

 幼い少女は素直に従った。厨房へ行って木のカップに水を満たし、酔っ払いの元まで運ぶ。

「よし、いい子だ」

 だらしなく座り込んでいた魔法使いは、カップを受け取ると再び少女の頭を撫でた。一気に水を飲み干し大きく息をついて何気なくカップを渡す。渡してから相手の存在に気付き、さらに子どもがまだ傍らでしゃがみ込んでいるのに気付いた。

「まだいたのか」

「どこ行って来たの?」

「飯食って酒飲んで博打してきただけだね。俺ゃ育ちはいいんだが品は悪いんでな、こんな澄ましたところで飯を食うのは性に合わねえ。女の二、三人でも抱いてやろうかと思ったが、ろくなのが……意味分かるか?」

「ううん」

 ハティジェが無邪気に首を振る。

「だろうな。まあいい、あと五、六年……いや七、八年か、それぐらい経ったら俺様自ら教えてやる……何だよ」

 大きな鳶色の瞳が魔法使いをまじまじと見つめている。視線は左頬に集中していた。

「そんなに珍しいか」

「うん」

 ためらう様子もなくハティジェが頷く。

「きれいね」

「お褒めいただいて光栄の極みだね、お姫様」

 暑い夜である、上衣で煽ぎながら魔法使いは応えた。同時に酒気に引かれて群がってくる虫も追い払う。

「どうしてお顔にお絵かきしてるの?」

「好きで描いた訳じゃねえ。消そうと思っても消せんのさ」

「お水で洗っても?」

「ああ」

「お湯も?」

「そう」

「石鹸でも?」

「何をやっても駄目だった」

 石鹸どころではない。強い酸で溶かしても炎で焼いても、爛れた皮膚の上に紋様は浮き出てきたのだった。少年だった頃、彼は何度も無茶な手段で印を消そうと試みた。その度に激痛に襲われ叫んで暴れる少年を、学徒たちは飽くことなく数人がかりで抱え上げ治療室へ運んだのだった。一度などは頬の肉を全てむしり取る暴挙にまで及んだが、学会本部に伝えられている卓越した医療技術は彼の貌に痣ひとつ、傷痕一つ残さなかった。青と銀の鮮やかな紋様を除いて。

『何をしても無駄だ』

 杖が金属的な笑いを発した。部屋の壁に立てかけられたままだが、離れていてもお互いの思考は筒抜けである。

「黙ってやがれ」

 急に不機嫌になった魔法使いに驚き、少女が口を噤んだ。ああ、と青年は笑いかける。

「おまえに言ったんじゃない」

「誰に言ったの?」

「おまえには分からんが、嫌な奴がいつも俺にまとわりついてるのさ」

『好んで共にいるのではない』

 杖が抗議したが魔法使いは無視した。

「明日行っちゃうの?」

「分からん」

 結局、魔法使いは主人の頼みを鼻で笑い飛ばした確かに自分は学会に繋がりがあるが支部へ行く予定などなく、所詮他人事だ、そんなに娘が可愛いならば自分で確かめに行け、それで予想通りだったら子どもの為におまえが死ねばいいと言い放ったのだ。人の好意よりも悪意に触れる機会が多かった彼にしてみれば、当然の回答である。妻を亡くした今、自分が死んだら娘を育てる者がいないという主人の言葉も、魔法使いにはそれが自分の命を惜しむ口実としか受け取れなかった。自分が死んで娘が助かればそれで良し、助からなくとも主人が死ねばどちらにしろ分からないのだからそれで良いとまで口にし、魔法使いは剣士の不興を買ったのだった。

 実際こうして少女と話していても、魔法使いは頼みを引き受けてやろうという気にはならない。この子どもぐらいの年頃の記憶が、魔法使いにはない。もう少し成長するまで、彼は「生まれなかった」。四、五歳の幼児など青年にとっては胎児と同様である。

「雨の奴がどうするかだ」

 あの男のことである。捨てた筈のくだらない騎士道精神とやらを発揮して、魔法使いの代わりに主人の願いを聞きかねなかった。それならそれで自分だけさっさとカゼールを発つという訳にもいかない。彼は剣士が死ぬのを待っている。死んだらあの剣を譲渡されることになっているからだ。どんな不測の事態が起きぬとも限らない。死に目に居合わせて何が何でも剣を手にいれなければならない。

「あのおじちゃん、恐い」

 少女が遠慮がちに言う。

「おじちゃん、ね」

 魔法使いは笑みを浮かべて少女の言葉を繰り返した。

「じゃ、俺は?」

「おにいちゃん」

 酔っ払いはげらげらと笑い出した。

「よしよし、本当にいい子だ。おまえが見た化け物より恐いか」

「うん」

 魔法使いの馬鹿笑いがぴたりと止んだ。噴水のへりを枕代わりにして星空を見上げていたが、その頭をひょいと起こす。酒浸りの脳みそだったが、さすがにその答えに疑問を感じずにはいられなかった。

「化け物ってどんな形だった」

「いぬ」

「犬?」

 魔法使いは首を傾げた。では、怪物というのは野犬の類なのだろうか。この地方に狼は棲息していない筈である。

「おおっきくて、はいいろのいぬだったよ。おめめは金色」

 酔いが醒めつつあった。怪物が出没するのは新月の晩である。光る目はともかく、満月の晩でさえ、灰色という曖昧な色彩を見分けるのは困難ではないのか。

「一頭……一匹だけだったか」

「うん。お部屋から見てたの」

 ハティジェは二階を指した。

「こっち見てすぐ行っちゃった」

「本当に怖くなかったのか」

「うん」

「片目のおっさんの方が恐いか?」

「うん」

 これが子どもの感性だろうか。いくら見てくれが恐ろしげと言っても、剣士は人間である。

「他に見たのは?」

「地面になにかあったけど、よく分かんない。暗かったもの」

 少女にとっては見えず幸いだっただろう。被害者の死体に違いない。

「ふうん」

 魔法使いは左手を身体の前にかざした。中指には真鍮の指輪が嵌められている。その指輪に向かって、彼は密やかに呼びかけた。

「クロミス」

 不思議そうに見守る幼女の前で、魔法使いは真紅の柘榴石に軽く口づけた。呪文も何もあったものではない。

 宝石から白銀の煙が立ち昇る。見る間に形を整え、煙は夜目にも鮮やかな銀色の少女になった。頭から爪先まで、せいぜい子どもの肘から指先までしかない。肌は言うに及ばず緩やかに波打つ豊かな髪、それを高く束ね上げている髪飾り、透明な羽を縁取る網模様、身に着けている衣装――剣士が初めて彼女を目にした際、露出度が高過ぎると苦情を言った――、全てが銀色である。ただ、瞳だけが指輪と同じ真紅の色に輝いている。

 わあ、とハティジェが歓声をあげた。大きな瞳を瞬かせて言う。

「妖精ちゃんだ」

「いや」

 と魔法使い。

「鍛冶の精が妖精の姿を選んでるんだ。鍛冶の精。知ってるか」

「知らない」

「じゃ妖精でいいさ」

 魔法使いは人差し指と親指で円を作り銀色の少女に示した。

「これ頼む」

 頼むとは、尊大な魔法使いにしては下手であり、声に親密さがこめられている。クロミスは任せてとばかりに頷いて、空中で膝を抱え丸くなった。

 煙から生じた少女は、今度は金属製の球体になって魔法使いの掌に落下した。

「ハティジェ、それ見たことあるよ。すいしょう玉だね」

「鋼の玉だ」

 曇り一つない鋼の珠が夜を映し出す様は、確かに水晶玉に酷似している。

「いいか」

 魔法使いは、空いている右の人差し指で鋼の球体を指した。

「こいつを見ながら灰色の犬を思い出すんだ」

 手品を見せてもらっているとしか思っていないのだろう。ハティジェは至って素直に魔法使いの言葉に従った。周囲を暗く反射する球を、一心不乱に見つめる。が、同じように鋼珠を凝視し始めた魔法使いが、珠の表面に漂う歪みを認め、軽く舌打ちをした。

「他のことは考えるな」

「うん」

 灰色の犬、灰色の犬、と幼女が呟く。じきに、不透明な筈の鋼珠の中に、灰色の獣の映像が浮かび上がった。

 魔法使いが「ああ」とも「うう」ともつかない呻きを漏らす。

 そこに見えたのは、大きな灰色の犬のぬいぐるみだった。

 化け物の姿をしっかり覚えていても、子どもの語彙では犬としか言い表せないのではないか。そう考えて彼は透視を試みたのだが、この幼女は、見たものをすっかり自分にとって都合の良いものに作り替えてしまったらしい。

 それとも、と魔法使いは失望感も露わにハティジェを見やる。

 本当に犬のぬいぐるみを見たってのか、このガキ。

「なんにも見えなかったね」

 ハティジェが慰めの言葉を掛けたが、あながち間違いとも言えない。実際、彼女には何も見えていなかったのだ。魔法使いの腕前は、透視結果を他人に見せる域にまで達していない。

 考え込んだ魔法使いに、ねえ、と少女が声をかけた。

「どうして、はちまきしてるの?」

「目隠し」

 半ば上の空で魔法使いが答える。

「おめめ?」

「そう。額にもう一個目があってな、出したまんまじゃ面倒が起き……」

 魔法使いは口を噤んだ。ため息をついて少し間を置いてから再び口を開く。つい先程まで機嫌良く喋っていたというのに、今この瞬間となっては煩わしさしか感じられなかった。

「もう寝ちまえ」

「ハティジェ、眠くないし、おにいちゃんのこと、めんどうじゃないよ」

「冗談さ。目があるなんてのも嘘だ。いいから戻れ。親父が怒るぜ」

 それ以上抵抗したら襟首を掴んで有無を言わせずどこかへ投げ飛ばすか、叩きつけるつもりだった。

 幸い少女はおやすみなさいと言って大人しく魔法使いの元から去った。自分がどれだけ賢明な選択をしたのか、彼女は知る由もなかった。




4.


 細かく入り組んだ、人とすれ違うにも身体を横に向けなければならない程狭い路地の果てに、魔術師ギルドの長の家がある。

 剣士は一度も身体を傾けることなく長の家に辿り着いた。狭い路地を行き来する者は多かったのだが、進行方向からやって来る頬の削げた隻眼の傭兵を認めると皆、彼にぶつからずに済むように手前の分かれ道に逃げ込むのだった。数人の血気盛んな若者が難癖をつけに来たが、ものの数秒も経たないうちに剣の切っ先を顎に突きつけられては、この余所者を通さない訳にはいかなかった。

 何の変哲もない漆喰塗りの家である。魔術師の家故に何かおどろおどろしいものを感じるかと言えば、全くそのようなことはない。前で幼子が遊んでいるぐらいである。もっとも、その幼子たちも剣士の姿を見て我先にと逃げ去ってしまったが。

 剣士は扉を叩いた。下町に密集する家の例に漏れず、道に面した間口が極端に狭い。代わりに奥行きはある。

「お入りなされ」

 しわがれたいらえが返る。

 扉を開けると、むっとした熱気と煎じ薬の匂いが剣士の顔を叩いた。

 人の姿がない。採光の窓も開いていない暗い部屋はがらんとしており、びっしりと本の並んだ大きな書架の他には隅に何脚かの椅子が並んでいるだけだった。

 奥の台所から明かりが漏れている。そこが熱気と匂いの発生源のようだった。

「こっちじゃ」

 声に導かれて奥のかまどを覗く。

 光源はかまどの火だけだった。魚や肉の燻製に混じって、乾燥された植物の根、得体の知れない爬虫類や目玉の干物が詰まった網袋が天井からぶら下がっている。

 ローブ姿の老人がいた。黄ばんだ白髪がまばらに生えた後頭部を剣士に見せている。頭皮にも手の甲にも、びっしりと汗の粒が浮かんでいた。

「しばらく待ってもらえるかの、生憎手が離せんのじゃ。そこら辺に腰を降ろすがええ」

 かまどに向かったまま、振り返りもせずに老人が言った。

 言われた通りに剣士はテーブルの前に腰を降ろした。暑さに、どっと汗が噴き出てくる。翠の隻眼が、ところ狭しと並ぶ小瓶を眺めた。集団をなす小瓶の横では素焼きの椀が幾つも乱雑に重ねられている。

 どれほど経っただろうか。

「待たせたの……おや」

 汗を拭いながら向き直った老人は目を丸くした。

「やけに静かだと思えば他所のお人か。このようなむさ苦しい所へ何用かな」

 老人は剣士を見ても、怯むどころか警戒の色さえ見せなかった。

 剣士の疑問を察知し、老人は口を開けて笑った。歯があらかた抜けている。いささか発音が曖昧なのはこの為だ。

「一人暮らしの老人が不用心だとお思いか。なに、ここは仮の住まいでな。そこの本も薬も全てギルドのものよ。貴重な物はその箪笥の中に入っておるが、大抵の者にとっては何の価値もない物ばかりじゃ。もちろん魔術に携わる者の中にも不埒者はおるが、そちらに関しても対策は練ってあるのでな」

「ギルドの長でおられるか」

 それを聞いて、老人はまたも目を丸くした。

「なんと辛抱強い御仁じゃ。わしが長かどうかを聞く為だけに、こうも長い時間大人しく待っておられたのか。名乗るぐらいならかまどを見ながらでもできたものを、時間を無駄にされたの」

「違うのか?」

「いや、そうじゃ」

 人を食った老人である。

「怪物が現れて人を襲う事件が起きているそうだが」

「それを知りたければ、役所に行きなさるが良い。全ては叶わんじゃろうが調書を見せてくれる」

「先程参った」

「ほう。いかなる訳で剣士殿が……ああ」

 老人が合点して頷く。

「あい分かった。宿屋の主人――セルブに頼まれたか。確かに娘の命がかかっておっては手段を選んではおれんのう」

 いささか無礼な言い様ではある。年長者に対する尊敬も忍耐も持ち合わせていない魔法使いなら怒り出すだろうが、剣士は眉ひとつ動かさずに尋ねた。

「カゼールにいる召喚魔術の使い手と熟練度を知りたい」

「さて」

 魔術師ギルドの長は首を傾げた。口髭と顎髭は頭部に反して見事に胸まで流れているが、長年調合している薬の成分が染み込んだのだろう、白髭は濃く黄ばんでいる。

「調書を読まれたのならご存知であろう。同じことを役人にも聞かれたが」

 剣士はやはり表情を動かさなかった。無機質な翠の目で老人を見つめる。

「どの程度の」

 彼は繰り返した。

「調書には人数しか記載されていなかった。何を呼び出せるのか。御老体はこう答えた。『せいぜいが害を与えるといっても犬猫程度のもの』と」

 老人が驚きを表わした。

「そこまで書いてありましたかの」

「犬といえども物騒なものもいよう。狂気にとり憑かれた犬に噛まれれば、人は稀に命を失う」

 沈黙が落ちた。老人もじっと剣士を見つめている。来訪者を値踏みしながら、どう対応したものか思案している風であった。

「……ここは暑い」

 長は立ち上がった。

「屋根裏なら風が吹き抜ける。ついて来なされ。そことて心地良いとは言えんが、ここよりはましじゃ」

 隅にある階段を登り始めた。剣士も続く。

「先も言ったように、ここはギルドが所有しておりましてな」

 意外にしっかりした足取りで登りながら、老人が話し始めた。

「役所に行かれたならば、役人が魔術師をどのように見ているかもお分かりになったじゃろう。奇術師か詐欺師か、はたまた化け物扱いじゃ。治癒魔術を使わぬわしとて、風邪薬程度の調合はできる。それでも金のある者は大抵、高額な料金をふんだくる医者へ通うものじゃ」

 二階にも書架が並んでいた。床が抜けないように、余程丈夫な構造設計がなされているに違いない。

 机の前にかじりついていた男が顔を上げる。剣士よりも若い。ひょっとしたらまだ少年と呼んでも差し支えない年齢かもしれない。

「長」

 言ってから、後に続いて登って来た剣士を見て困惑顔になった。

「お客様ですか」

「よいよい。剣士殿、この者が今週の番人じゃ。アルベルトと言っての、年は若いが消魔術師としては既にここで学ぶべきことはない。そのうちサイヴァルの方へ出してやるつもりじゃ」

 紹介された青年はじろじろと胡散くさげに剣士を見つめている。

「アルベルト」

 長がたしなめた。

「人を見てくれで判断してはならんと言うておろうが」

 これまた随分な言い草ではあるが、幸い剣士は、相棒の魔法使いのおかげで無礼には免疫がついている。

「そうではありません」

 アルベルトと呼ばれた青年が口ごもった。

「そちらの客人に、異界の気を感じるのです」

「ほう」

 老人は剣士を振り返った。

「剣を使われるだけではないのか?」

「私に魔術の素養はない」

 剣士は苦笑を漏らした。

「先日、連れの魔法使いに誤って飛ばされたのだ」

「飛ばされた?」

 目玉がこぼれんばかりに、皺の奥の眼窩が見開かれた。

「異界に飛ばされたとな? どうやって戻られたのじゃ」

 アルベルトも魂消た表情で剣士を見つめている。予想外の反応に剣士の方が戸惑った。

「連れが引き戻してくれたようだが、分かりかねる。先に言ったように、私は魔術師ではない故」

「いやはや」

 感嘆のため息をつきながら、長は再び足を踏み出した。

「長」

「良い、アルベルト。おまえさんは勉強を続けなさい。剣士殿」

「?」

「連れの御方は余程に素晴らしい魔術師ですのう」

 羨望とも憧憬とも取れる声音である。おそらく両方なのだろう。


 微かな空気の流れが、剣士の頬を撫でて通り過ぎた。

 屋根裏部屋は物置きとして使われているらしい。空中の塵は風に吹き流され、剣士が思ったよりも空気は澄んでいる。微風に飛ばされるほども軽くない綿埃が、床の隅や積み上げられた箱の脇で鬼ごっこでもするかのように床を舞っている。

「ご覧のように、ここカゼールでは特にイルズィー知識神が崇拝されております。その為、ここじゃ魔術学より神学の方が盛んでしてな。総合大学もありまして、医学にしろ歴史にしろ自然科学、数学、修辞、大抵のものはそこで学べます。引き換えわしらは異端とされ、数も少ない。それでも大学にとっては目の上の瘤らしい。魔術師のギルドは圧力に対して己を守る為に作られたものです。従って、このぐらいの大都市ならば本来魔術の系統別にギルドが出来てしかるべきじゃろうが、それも適いません。第一に絶対数が少ないのでな。魔術師と呼べる者すら少ない。このわしとて魔法使いと呼ばれるのがいいところじゃ。錬金術を専門としておる故」

「御老体」

 さすがの剣士も言葉を挟んだ。放っておいたらこのままいつまでも現状について長が語り続けそうな気がしたのだ。

「私は余所者だ。ここの知的集団の権力争いに興味はない。高度な召喚魔術を使いこなす者がギルドの中にいるからといって、それだけで該当する者を事件の犯人に仕立て上げるつもりはない」

「年を取れば、多少は目が利くようになる」

 どこかで聞いた言葉だ。

「お会いしてまだ間もないが、剣士殿のお人柄はあい分かった……何がおかしいのじゃ」

 剣士の口元に皮肉な笑みが浮かんでいた。

「いや」

 思い出した。最初に泊まろうとした安宿の老婆に言われたのだ。しかも評価は正反対である。

 長が薄い冊子を持ち出してきた。

「名簿じゃ。専門分野も付記してある。上から線が引かれておるのは死んだ者じゃ」

 剣士は受け取り、長い指でページを繰った。召喚魔術師の項で動きが止まる。

「三人?」

 あまりに少ない。が、そのうちの一人の名は、役所の調書にも記載されていた。

「これで全員なのか」

「分からん。都市出身の者ならば全員登録してあるが、余所で修学した者やその途上の者もあるいはおろう。接触した人物については記録しているが、そうでなければお手上げだの」

「その余所者の名簿は?」

「そこへまとめて記してある」

 やはり三人しかいない。

「御老体はどうお考えか」

 剣士は尋ねてから愚問だったことに気付いた。役所とやり合ったギルドの長が、快く余所者に答えるとも思えない。が、老人は笑みを浮かべると繰り返した。

「先程も言うたように、剣士殿のお人柄はあい分かった。嘘はつかんよ。魔術師と呼べる程の者ともなれば、この三人の中ではナウシズだけじゃが、あの娘ではなかろう」

 老人は、剣士が役所で見つけた名を呼んだ。

「確かに森の民は争いを嫌うと聞いているが」

「……」

 ギルドの長は驚いた態で剣士を凝視したが、やがて首を振った。

「やれやれ。知らぬはこの年寄りだけのようじゃ。本人は何も言わなんだが、やはり役人共はあの娘の家へ押しかけたらしいの。調書にそうありましたか」

「長が黙っていようと、森の民は珍しい存在だ。すぐに居場所も突き止められよう」

 人間よりも自然を選び、共に暮らすのが森の民の常である。尖った耳と猫の瞳を持つ彼らは、極端に殺生を嫌う。動植物と会話を交わせる者、魔術に長じた者などが数多くいるらしい。剣士は本の知識として知っているだけである。実際に会ったことはない。

「まあ、ともかくナウシズだけは疑う必要はない」

 気を取り直して老人は口を開いた。

「あとの二人も、まだ妖精の使役にさえ手こずっておる段階じゃ。とても魔術師とは呼べん。まず第一に、そんな書物からして滅多にあるもんではないのでな。重要な物は全てここに揃っておるし、誰が何を読んだかは全て控えてある。こっそり他から手に入れる方法もあるが、買い取ることはおろか、写しを取るのさえ、原本の持ち主は嫌がるだろうて」

「何故」

「簡単じゃ。自分以外の者が己より優れた力や知識を得るのを厭う為よ」

「他にいないのか? 一つの分野だけを専門に取り扱う魔術師ばかりではなかろう」

「それも含めて全員じゃ。召喚魔術師というのは中でも高度な術での、二股をかけておっては使いこなせぬ。例外はさっき言うたナウシズだけじゃ。あの娘の専門は消魔術じゃが、流石森の民というべきか、大方の分野をかなりの所まで修めておる。他には高等神官や精霊魔術師も召喚魔術を使うと言えるがの、神の使いがよもや人殺しはせぬだろうし、風水地火の精霊はけむくじゃらのむさくるしい姿で現れはせぬ。もっとも真の高等神官など、この近隣諸国でも数えるほどしかおるまいが」

 剣士は名簿に目を落とした。

「写していかれるならペンと紙を用意させよう」

「いや、私が降りて行こう。できれば、書物を読んだ人物の控えにも目を通しておきたいのだが」

「それは構わぬが」

 二人は階段を降り始めた。

「名簿外に召喚魔術を用いる者は」

「わしの知る範囲ではしかお答えできんが……あるいはあやつなら使うかもしれん。ウォーギスと言ってな、二年前に流れてきた男じゃ。噂によればベネット・デイという参議会会員の家に居ついとるらしい」

 老人曰く、ベネット・デイは、カゼールでは名士に挙げられる者の一人である。市参議会の会員は十五名足らず、彼らと二人の市長によって都市が運営されている。

「自腹を切って、奨学制度から漏れた学生を見ておるとの評判じゃが、まあ、参議会会員ともあろう者が魔術師なんぞを住まわせていると公になれば、社会的な致命傷を追うだろうの。アルベルト」

 二階に降りると、長は本に張りついている青年に呼びかけた。

「閲覧の控えを持ってきておくれ。この御方がご覧になる。怪物が出るようになったのが半年前からということは……一年分もあれば良いかの」

「分かりました」

 アルベルトが本を閉じて奥へ消える。礼を述べた剣士に、老人が尋ねた。

「ところで、学会支部には行かれぬのか?」

「連れが」

 剣士が短い返答をする。

 昨日宿の主人の頼みを手酷く跳ねつけた魔法使いだったが、ちょいと事情が変わったと言い残し、サルジュと共に遺跡に向かった。今朝のことである。豹変の原因が剣士には全く分からない。彼の連れに限って言えば、幼い子どもに憐みを覚えたとも考えにくいのだ。それでも宿の主人に多少なりとも同情の念を抱いていた剣士としては、魔法使いの変化は好ましいものだった。

「ほほう」

 皺の刻まれた顔がにんまりと笑みを浮かべる。

「恐ろしい噂など気にせぬか。余程の報酬を約束されましたか?」

 二人の首に掛けられた賞金の総額に比べれば微々たるものである。

「連れは学会ゆかりの者故、恐れる必要はない」

「なんと」

 老人はこれで幾度目になるか分からない驚きを再三示し、

「では、おまえ様の連れは学徒だと? なにゆえ学徒が外の世界を巡っておられる」

 剣士が初めて会ったときには既に、魔法使いは旅の途上にあった。それ以降は剣士の所有する剣を目当てに彼について回っているのだが、共に旅をする羽目になった経緯を説明するのも煩わしい。剣士は仔細があったのだ、と短く答えた。長が興奮も冷めやらぬ様子で顎鬚をしごく。

「わしゃ一度、遺跡に赴いたことがある。なるほど、学会の持つ知識はわしに分かりかねるものが大半じゃったが、それは凄まじいものだった。しかし学徒は勉学の徒じゃ。科学者ではあるが魔術師ではない。それでもおまえ様のお連れは異界への扉を開け閉めできるほどの魔術師じゃ。ほんに学徒であろうの?」

「学徒ではないと本人は言っているが」

 魔法使いが魔術師であろうと科学者であろうと剣士はどうでも良いのだが、老人にとってはいたく重要な事柄らしい。

「一度お会いして話をしたいものじゃ。おまえ様のお連れならば、さぞがしできた人格の持ち主であろうの」

 人格者があちらこちらで喧嘩騒ぎを引き起こしたり、堅気の娘にちょっかいをかけたり、酔ってテーブルの上で踊り出したりするものだろうか。

「機会があれば」

 剣士は儀礼的な返事をするに留めておいた。

「持ってきました」

 アルベルトが戻ってくる。書類に隠れて顔が見えない。これだけの量である。市庁舎でも時間がかかったが、それとは比べ物にならないだろう。

 剣士はそれとは分からぬほどに小さくため息をついた。

 実のところ、読書は好むが調べ物はあまり好きではなかった。

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